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起業家・先輩から学ぶ
270件のまとめ

人を動かす。 かのデール・カーネギーの名著のタイトルでもあるこの課題は、チームを運営する上で避けては通れない最大の関門といっても過言ではないでしょう。 今回お話を伺ったのは、アメリカンフットボール(以下アメフト)の攻撃の要「クォーターバック(以下QB)」の育成スクール、「QB道場」の代表・新生剛士さん。

2018年6月14日

テレビ局の仕事を辞め、フリーの映像ディレクターという仕事を選び、東日本大震災後の福島を描いたドキュメンタリー映画「Life 生きてゆく」を5年半の長い撮影を経て完成させた笠井千晶さん。その作品は口コミで広がり、全国で有志が主催する上映会も行われている。クラウドファンディングでもたくさんの支援者が集まった。 ドキュメンタリー映画「Life 生きてゆく」は、東日本大震災後の福島県で、家族を亡くした男性と、その妻、そして震災後に生まれた娘との生活を5年半密着取材して生まれた。 山本美香記念国際ジャーナリスト賞を2018年5月に受賞。 マスメディアが報道できない映像を、個人の力が集まって、伝えている。大手テレビ局の仕事を辞め、フリーの映像ディレクターの道を選んだ笠井千晶さんの活動について、話を伺った。

2018年6月7日

PLOFILE
西浦明子さん(48歳)
軒先(株)/東京都千代田区
大学卒業後、ソニーに入社。1994年からソニーチリに駐在。 その後、All About、ソニーコンピュータエンタテインメントなどを経て、 出産を機に退職。2008年4月に軒先ビジネスをオープン。 駐車場をシェアする「軒先パーキング」も展開。

2018年6月6日

1日の終わり、忙しかった今日を思い出しながら湯船に浸かると「あ“ぁ~」と声にならない声が漏れる。思うに、日本人の8割は風呂好きではないだろうか。 どの家にもほぼ湯船があるし、近所に1つはスーパー銭湯などの公衆浴場があるはずだ。公衆浴場や温泉には、小さなおこさまからご老人まで老若男女が足を運んでいる。 シャワー中心の海外と比べると、この状況はかなり特殊なものと言える。

2018年6月5日

「串打ち3年 裂き8年 焼き一生」 うなぎ屋の世界では、こんな言葉をよく聞きます。何事も、極めるには長い年月がかかるという意味です。 今回お話を伺ったのは、デザイナー/絵本作家の塚本ユージさん。 塚本さんは、今年行われた第10回「be絵本大賞」において、絵本大賞を受賞されました。

2018年5月29日

アナタには「本当にやりたいこと」がありますか? 独立・起業をするなら、アナタにとっての「本当にやりたいこと」を見つけてほしい、と、今回お話を伺った勝屋久さんは語ります。 勝屋さんは48歳にして、25年間勤めた会社からリストラ勧告を受けます。 しかしその後、奥さま(祐子さん)の支えもあり、自分の「本当にやりたいこと」を見つけ、プロフェッショナル・コネクター/LOVEコネクター、画家をはじめ、様々な領域で活躍し、「株式会社アカツキ」の上場にも貢献されました。 そんなご自身の経験、プロフェッショナル・コネクター/LOVEコネクターとして数多くの経営者をサポートされた経験を踏まえると、成功する人とは、唯一無二の「自分らしさ」を持っている割合が高いそうです。 勝屋さんの半生と共に、その理由を伺いました。
<プロフィール> 勝屋久(かつや・ひさし)さん 56歳 プロフェッショナル・コネクター/LOVEコネクター/画家 勝屋久 事務所代表/株式会社アカツキ 社外取締役/株式会社マクアケ 非常勤役員/株式会社エーゼロ 非常勤役員/株式会社クエステトラ 社外取締役/総務省 地域情報化アドバイザー/ビジネス・ブレークスルー大学 客員教授/福岡県Ruby・コンテンツビジネス振興会議理事/ビジネスプロデューサー etc. 大学卒業後、日本IBM株式会社に25年間務める。2000年には、IBM Venture Capital日本代表に就任。 しかし40歳半ばに前妻と離婚、48歳の時には日本IBM株式会社から、リストラ勧告を受け、人生のどん底に立たされる。 しかし現妻の支えや、自ら「プロフェッショナル・コネクター」を名乗り、活動し始めたことで、自分が「本当にやりたいと思える仕事」ができるようになる。 自身が社外取締役を務める「株式会社アカツキ」は一部上場し、その他にもスタートアップ企業の経営を支援。 画家や、大学の客員教授も務めるなど、活動領域は多岐に亘る。

25年働いた会社からリストラ勧告。48歳にして「自分の生き方」を職業にするまで

ー現在のような活動をされるようになった経緯を教えてください。
勝屋さん 私が若かった頃はまだ、年功序列・終身雇用制度が一般的な時代でした。 今のように、転職や独立が盛んに行われていたわけではありません。 そういった時代の背景から「いい大学に入って大企業に入社し、その会社で定年まで勤め上げれば、一生安泰」といった価値観が、未だ根強い世の中でした。 しかし、その価値観で言うならば、私は比較的順調なキャリアを歩んできたのかもしれません。 大学を卒業後、日本IBM株式会社に就職し、そこから25年間ずっと働いていましたから。
ーそうですね。日本IBM株式会社といえば、大企業ですよね。
勝屋さん 私も例に漏れず、小さい頃から「有名な大学に進学し、安定した大企業に入った方が良い」と、ずっと思っていたので、それを叶えるために努力してきました。 日本IBM株式会社に入社したのも、その会社での仕事をやりたくて入った、というよりは、どちらかといえば生活が安定するから、という理由が大きかったですね。 しかし働いてる中で、いくつか転機が訪れました。
ーそれはなんでしょうか?
勝屋さん 最初の転機は37歳の時でした。 会社から、自社の製品を売り込む営業の仕事を任されました。 その営業先で出会った人(スタートアップ経営者や投資家)の目に、衝撃を覚えたんです。 彼らは、私が知っている誰よりも、目を輝かせながら仕事をしていました。「自分の仕事に誇りを持って、めちゃくちゃ楽しんでいる」という感じがとても伝わってきたんです。
ー「仕事を楽しむ」という感覚が、当時の勝屋さんにとっては新鮮だったんですね。
勝屋さん そうですね。 この時から自分の働き方に、ふと疑問を持ち始めました。 「自分は、今の仕事を楽しんでいるのか」「このままこの仕事を続けていいのか」と。 でも、答えが見つかりませんでした。自分が本当にやりたいことが、よくわかっていなかったんです。
ー自分のやりたいことを探すって、難しいことですよね。どのようにしてその状況を抜け出したのでしょう。
勝屋さん きっかけは、現在の妻と出会ったことです。妻は私の価値観を大きく変えてくれました。 人間にとって「幸せ」とは、どこの企業に勤めているのか、どれだけお金を持っているのかで決まるものではない。 心理学に精通していた彼女は、私に「幸せ」について話してくれました。 これまで勝ち負けの世界、競争社会の中で生きてきた私にとって、それは目からウロコな考え方でした。 そんな時に、もう1つの転機が訪れます。
ーリストラのお話ですね?
勝屋さん はい。 会社からリストラ勧告をされ、いくつか次の転職先を勧められたのですが、やはり自分がやりたいと思える仕事はありませんでした。 妻から、「肩書きや収入・財産がなくなってもなんとかなるよ! 何なら私が働くし」と、こんな私の存在もOKと言ってくれたことがとても支えになり、そのことが原動力となって自分の心と向き合って、本気でやりたいと思える仕事を探そうと思ったんです。
ーそこで探したものが、今の勝屋さんの活動に繋がっているんですね。
勝屋さん そうですね。 自分のやりたい仕事を探そうと、自問自答していた時のことです。 友人から「勝屋さんは人と人を繋げるのが得意だから『プロフェッショナル・コネクター』っていう職業を作ってみるのはどう?」と言われました。
ープロフェッショナル・コネクターとは何ですか?
勝屋さん 「心でつながる場を創り、人が輝くお手伝い」と定義しているんですが、簡単に言うと、私が仲介して人と人(人や企業)を繋げています。 友人いわく私は昔から、誰かと誰か(もしくは何か)を繋げるのが得意だったそうです。 ある人に、心の底から喜べる人や企業との出合い、そしてその人にとっての「本当にやりたいこと」を提供する。 それをそのまま職業にしてしまったらどうか、という提案でした。

「自分らしさ」こそ、他者との差別化を図る、最強の武器になる。

ー勝屋さんは、プロフェッショナル・コネクター以外にも、様々なお仕事をされているとお伺いしました。現在の仕事を詳しく教えてください。
勝屋さん 私が携わっている仕事は、大きく3種類に分けることができます。 まず1つめが「LOVEコンサル事業」。 企業や自治体で働く人や経営者がより輝くために、どうするべきかを一緒に考えていきます。 昨年上場を果たした「株式会社アカツキ」は、私がこのプロフェッショナル・コネクターとしての活動を始めた頃から、社外取締役としてお手伝いさせていただいておりました。 2つめは「LOVEコミュニティ事業」。 BBT大学(ビジネス・ブレイクスルー大学:http://bbt.ac/)では客員教授として、自己エネルギー創造講義というユニークな講義をしています。 また、私と妻が主宰する「KATSUYA学院」では「新しいスタイルの生き方」をテーマとして、自分らしく生きるきっかけを生み出す場作りをしています。 そして3つめが「アート事業」。 私は50歳を過ぎてから、画家として活動を始めました。自分の絵を販売したり、個展を開いたり、ラベルやロゴのデザインなどもやっていますね。
ー画家としても活躍されているのですね…! しかし、なぜ画家の活動も始められたのでしょうか?
勝屋さん もともと絵が好きで、幼少の頃は、できれば画家として活動してみたいと思っていました。 しかし私は色弱だったということもあり、どこか自分で「無理だ」と決めつけて、絵を描くことをずっと諦めていたんです。 そして先のリストラ勧告の時、本当に自分のやりたいことを見つめ直した結果、やはり画家としても活動したいという思いがわきあがったのです。
ーそういった経緯があったんですね。
勝屋さん はい。その旨を妻に相談したら「いいじゃん、やってみなよ!」と後押ししてくれたんです。 自分が本当にやりたいと思っていることなら、たとえうまくいかなくても、とにかく挑戦してみようと思ったんです。 それで意を決して挑戦してみたら、絵でも収益を立てることができました。まさか、個展を開くまでに至るとは思っていませんでしたが(笑)。
ー本当に、すごいことだと思います。年齢関係なく、新しいことに挑戦し続ける勝屋さんの姿に、勇気づけられる人は多いのではないでしょうか。
勝屋さん そうだと嬉しいですね(笑)。 これまでの私の経歴から見て分かる通り、私はどちらかというと「挑戦」から縁の遠い人間でした。 挑戦よりも安定、独立よりも企業にいる道を選んできました。 しかしそういった生き方は窮屈ですし、何よりこれからの時代に適合できないと私は個人的に思うんですよね。
ーこれからの時代に適合できない、と言いますと?
勝屋さん 上の絵を見てください。 よく私が講演などで使う絵なんですが、仕事を含めた人間の活動を表すにあたり、縦の軸(自分軸)と横の軸(他人軸)があると、私は思っています。 先程お話した、他人からの評価というのは、この図で言うと横の軸に当てはまります。 しかしこれからの時代、重要視されるのは縦の軸、すなわち「自分らしさ」なんです。 なぜなら「自分らしさ」こそが、自分と他者の違いを明確にし、差別化できるポイントだからです。
ーどういうことでしょう?
勝屋さん これだけ大量の情報が簡単に手に入る世の中では、目的を達成させる手段や方法は、きちんと調べればいくらでも存在します。 それはつまり、手段や方法で他者と差別化を図ることは難しい、ということです。 一方で「自分らしさ」とは、自分が興味を持っている「こと」や「もの」、純粋な欲求です。 種類が他人と似ていることはあるにせよ、100%同じ価値観を他者は持ち得ません。 自分にしか持ち得ないところにこそ、差別化のポイントが埋まっているのです。
ーそれは、独立・起業を考えている方にとっても、とても重要なキーポイントだと思います。
勝屋さん そうですね。 私も今の職業柄「これから起業したい」と思っている方の相談に乗ることが多いのですが、 この「自分らしさ」の重要性については、必ず皆さんにお話します。 なぜなら、この「自分らしさ」が揺るぎない人ほど、独立・起業を成功に導く可能性が高いと思っているからです。

手段や方法をいくら磨いても、「答え」は自分の中にしかない。

ー「自分らしい」生き方・働き方を実践してブレイクスルーをされている、勝屋さんだからこそ、重みのある言葉、考え方ですね。それでは、勝屋さんの今後の目標を聞かせてください。
勝屋さん 「究極のKachaman」になることが、私の目標です。 「Kachaman」とは私の愛称ですが、生き方であり働き方でもあります。 プロフェッショナル・コネクター/LOVEコネクター/画家などの肩書きよりも今ここの愛で全てのつながりを創る存在そのもの、あり方そのものを重視して、より自分らしさを前面に出して活動していきたいですね。 この活動を始めてもうすぐ8年になりますが、まだまだ私は、自分が思い描く「想定内」に留まっていると思っています。 もっと、どうなるか想像もつかないような「想定外」の世界に、行ってみたいですね。
ー最後に、独立・起業を考える人へ、アドバイスをいただけますか?
勝屋さん 人と人や、人と企業を繋げること。絵を描くこと。 「自分の本当にやりたいことは?」と考えた結果生まれた、私なりの答えです。 もし皆さんが独立・起業を考えるなら、この問いに対する自分なりの答えが、必要になってくると思います。 そしてその答えは、外(手段や方法)には存在せず、自分の中にしかないのです。 皆さんなりの「本当にやりたいこと」が見つかることを、心から願っています。

2018年5月23日

仕事内容にも環境にも慣れた30代。 そろそろ新しい世界へ飛び込み、新しいことにチャレンジしたいと思う半面、働き方を抜本的に変えることは、なかなか難しいものですよね。 今回お話を伺ったのは、今年の4月まで日本フットサルリーグ(Fリーグ)のバルドラール浦安に所属し、現在も日本代表選手として活躍している星翔太さん(2018年シーズンから名古屋オーシャンズに移籍)。 星さんは、30歳を迎えた時にプロデュースカンパニーでインターンを始め、現在では株式会社アスラボの代表としてもご活躍されています。 今回は、現役のプロアスリートでありながら会社を立ち上げるまでに至った経緯、そして新しい領域へ挑戦するにあたって必要な心構えを伺いました。

2018年5月18日

自分の大切なモノを修理する。 何かを修理に出そうと思った時、できる限り信頼のおける人に依頼したいものです。中でも楽器のような、高価で愛着のあるものの手入れをするなら、なおさらですよね。 今回お話を伺ったのは、楽器リペアマン・石川哲也さん。 石川さんの工房は、個人開業のため、決して大規模なリペアショップではありません。けれども石川さんの工房には、多くのお客さまが集まり、着実にリピーターを増やし続けています。 なぜ石川さんのリペアショップは人気であり続けるのか。 「ギターの修理だけを提供するのではなく、お客さまに楽しんでもらえる環境を作ることが大切なんです」と話す石川さん。 リペアマンとしての強いこだわりをお聞きしました。
<プロフィール> 石川哲也(いしかわ・てつや)32歳 弦楽器工房「Path」代表 大学卒業後、地元の栃木県で管理業務を行う一般企業に就職するも、不規則な勤務時間に苦労し、再就職を決意。 専門学校に入学し、楽器のリペアを学習後、自身の工房を立ち上げる。 立ち上げ時はアパートの一室に工房を構え、地道にリペアの経験を重ねる。 自身もギタリストとして活動しながら、その経験を活かしてギターのリペアを1人で請け負っている。お客さま1人1人への手厚い接客は評判が高く、リピーターが多数。 「お客さまに寄り添う」ことを第1に、リペアだけではない豊富なサービスを提供する。

待っていても自分に「箔」は付かない。自分の価値を高めたいなら、行動あるのみ!

ー石川さんのこれまでの経歴を教えてください。
石川さん 小学生の頃から両親の影響で音楽を聞き始め、高校生の時に母の勧めで、ゴスペルを始めました。 その後大学に進学してからもゴスペルを続けようと思って、ジャズ研に入ったんです。
ー大学生になるまではギターではなく歌うことがメインだったのですね。
石川さん そうですね。 ジャズ研に入ってコピーバンドを結成した時に、初めてギターと出合いました。 ギターを弾く楽しさに、すぐのめり込み、大学生の間はずっとギターを弾いてましたね(笑)。
ー大学卒業後はどのような道を進んだのですか?
石川さん 音楽とは離れて、一般企業に就職しました。 私は栃木県出身なんですが、その会社の事業所が栃木にあったので、地元に帰って働きました。 しかしその仕事がとても大変だったんです。 私はもともと喘息持ちで体が弱かったので、しばしば体調を崩していました。このままではまずいと思い、1年半ほどでその仕事を辞めて次の仕事を探し始めました。 前職の辛い経験の後ということもあって、次は自分が好きなことを仕事にしようと思いました。
ーそこで音楽を仕事にしようと思ったのですね。
石川さん はい。自分の好きなギターを仕事にしようと思ったんです。 弾くのももちろん好きなんですが、ギターをいろいろいじることも好きだったので、リペアを仕事にしようと思い、渋谷にある「代官山音楽院」(現、島村楽器テクニカルアカデミー:http://academy.shimamura.co.jp/)という専門学校で2年間学びました。 そこで本格的に、楽器のリペアについて勉強したんです。 専門2年目の時、ギターのリペアの仕事を求めて就活を始めました。 普通であればリペアマンは、まず大手の店舗で販売職を経験してから、工房に入ってリペアの仕事を始めます。 もしくは、自分の師となる人を見つけて、その人に弟子入りしてから独立することが一般的です。 しかし当時の私は26歳で、年齢的に余裕がある訳ではなかったので、焦っていました。 「自分に箔が付いてないと、誰もリペアを依頼してくれない」と思っていたので、最初は有名な工房に弟子入りを考えました。 しかし、そもそも弟子入りできる工房が少ない上に、実務経験の少ない私は門前払いされることが多いので、途方に暮れていましたね。
ーリペアマンになる道は、簡単ではないということですね。その状況をどう乗り越えたのでしょうか?
石川さん 専門学校の先生方や、リペアマンとして実際に働いている方に「自分はどうするべきか?」を聞いて回りました。 すると共通して「自分に箔が付かないといけないって思って迷っている間は、箔は付かない。ゼロからでも、自分で始めてしまった方が良いのでは?」とアドバイスされました。 かなり悩みましたが、弟子入りできる目処が立っていませんでしたし、遅かれ早かれ独立して工房を立ち上げるなら、と、アドバイスを活かして自分のギターリペアショップを立ち上げました。 上手くいく勝算があったわけではないのですが、まずは工房を立ち上げてみて、そこから考えてみようと思ったんです。 とはいえ最初は、資金も場所もなかったので、自室として借りていた小さなアパートの一室を工房としてスタートさせました。
ー自分の価値は自分の行動力で高めるのが大事、ということですね。最初はどのように利益を得たのでしょうか。
石川さん 最初はとにかく知り合いに頼んで、安い値段でも楽器を直させてもらいました。地道に実績を重ねていくうちに、口コミで段々とリペアを頼んでくれる人が増えていきました。 そして、27才の頃転機が訪れました。 私は自分の工房を経営する傍ら、音楽のスタジオでアルバイトをしていたのですが、偶然にもロックバンドの「THE NOVEMBERS」(http://the-novembers.com/)のメンバーさんと知り会いました。 そこで「THE NOVEMBERS」の皆さんにリペアを頼まれたんです。
ー「THE NOVEMBERS」といえば、人気のロックバンドですよね?
石川さん はい。私もびっくりしたのですが、誠心誠意仕事をさせてもらいました。 すると気に入っていただけたのか、その後も定期的に私にリペアを依頼してくれるようになったんです。 この出来事をきっかけに、さらに口コミも広まり、私にリペアを依頼してくれる人が急増しました。 このあたりから、リペアの仕事だけで安定した収入を得ることができるようになりました。
ー石川さんが根気強く行動した結果、チャンスを掴み取ることができたのですね。
石川さん そうかもしれません(笑)。 あの時に思い切って独立して良かったと思っています。 自分から行動し続けたことで、自分の仕事に自信を持てるようになりましたし、「THE NOVEMBERS」さんと出会えたことで、今までよりさらに”出会い”を大事にするようにもなりました。

リペアだけでは終わらない。個人経営だからこそできる、リピーターを増やす方法

ー現在はどのようにお店を経営されているのでしょうか?
石川さん お客さまからリペアの依頼を受けて、実際に楽器に手を加えるまで、私が1人で行っています。
ー従業員は雇わないのですか?
石川さん はい。これからも私1人で経営も実務もやっていこうと思っています。
ーそれはどうしてでしょうか。
石川さん お客さまのニーズに応えることができるからです。 私のような個人にリペアを依頼するお客さまの多くは「こちらの要望を正確に汲み取って、リペアしてほしい」という思いを抱えていらっしゃいます。 大手のリペアショップだと、お客さまが要望を伝えた相手と、実際にリペアする人が違う場合が多いです。 そうなると伝達が上手くいかずに、お客さまの要望通りにリペアされないこともあります。 その点、私はヒヤリングからリペアまで、全て1人で行うので、お客さまと十分に話し合ったうえで、要望を正確に把握することができます。 細かい要望にも柔軟に対応できるので、それこそが私の強みであり、私に依頼してくれる意味であると思っています。
ーそれはかかりつけのお医者さんと似ていますね。ギターの専門医みたいな。
石川さん まさに、そんな感じですね。 実際にカルテのようなものを作っていますよ。 「どんな問題点があったか」「どのようにリペアしたか」などを記録しておけば、またリペアを依頼されてもすぐに対応できますし、お客さまにとっても安心ですから。
ーしかし、全てお1人でやられると、リペアできる数が限られるのではないでしょうか?
石川さん そうですね。だから、どうしても1回のリペア代は高くなってしまいます。 価格が高くなってしまう分、お客さまに「この人なら要望通りにリペアしてくれる」と満足度を提供できるよう、1人1人のお客さまに全力で対応するようにしています。
ー石川さんは、あくまでお客さまに寄り添うことを大事にしているのですね。
石川さん そうですね。 お客さまとは、仕事以外でも関係を継続しています。例えば、私はリペアを依頼していただいたお客さまのライブに積極的に足を運ぶようにしています。
ーなぜですか?
石川さん 仕事だけの関係になってしまうと、お客さまの本当の要望を掴みづらくなってしまうからです。 なにより自分が手掛けたギターが、ステージでちゃんといい音を出しているかを確認したいですから。 しっかり演奏されているのを確認して、ようやく私の仕事が完了したなと確認できるというか(笑)。
ーそこまでされると、お客さまもまた石川さんにリペアを頼みたくなるでしょうね。
石川さん 私のような個人のリペアマンにとって、お客さまには要望以上のことを提供するのが大切だと思っています。 だから、お客さまからリペアを依頼されていない箇所でも、手を加えた方が良い箇所があれば手を加えますし、若干不調でもあえて修理せずにそのままの音を維持することもあります。 そのギターを使って、どのような音や音楽を作るか、という点が私とお客さまとの間でしっかりと握れているかどうかがキーポイントになってくるのです。

修理だけがリペアマンの仕事ではない。お客さまに楽しんでもらう環境作りの大事さ

ー石川さんの工房に足を運ぶのは、どういった層のお客さまが多いのでしょうか。
石川さん プロのミュージシャンの方から学生まで、幅広くリペアを依頼してくださいます。 中には、進路相談をしたいという大学生もいますよ(笑) 一般企業に就職した方が良いのか、音楽を諦めずに続けた方が良いのか、という相談が多いです。 私も経験したことなので、親身になって相談に乗るようにしています。
ー修理に関わること以外の相談にも乗っているのですね?
石川さん そうですね。 お客さまに「また来たい」と思っていただくためには、修理をすることが全てではないと思っています。 先程のライブに足を運ぶこともそうですし、進路の相談に乗ること、ここにある大量のゲームソフトで一緒に遊ぶことなど、お客さまにとって居心地がいい環境を作ることが大切だと思っています。
ーお客さまとゲームで遊ぶのですか(笑)?
石川さん はい(笑)。 リピーターの方だと、ゲームだけしに来ることもあるくらいです(笑)。 もはやギターの修理には何も関係ありませんが、そうやってお客さまが「また来たい」「楽しい」と思っていただける環境を作ることが、結果として仕事にもつながりますから。
ーその点も、個人経営ならではですね。最後に、これからの展望を教えてください。
石川さん 今後も、高い満足度をお客さまに提供できるよう、丁寧な仕事をしていきたいですね。 また今後はリペアだけじゃなく、ギターそのものを作り、それを販売してみたいです。 近年、ギターに使われる木材が減少し、価格が高騰しています。一方で、少子高齢化の影響で使われなくなった空き家が増えています。 そこで家の柱などで使われた良い木材を、ギターの材料として再利用するのです。 お客さまの思い出の家や家具がなくなっても、ギターとしてまた一緒に同じ時間を過ごすことができる。 そんな素敵なお手伝いができたら、嬉しいですね。

2018年5月17日

会社員として働きながら、世界一周。 会社勤めの方からすれば、「そんなことできるわけない」と、思ってしまっても不思議ではありません。 ですが、今回お話を伺った広告代理店で働く東松寛文さんは、2016年に趣味でもある海外旅行を週末ごとに実施するという方法を取り、3カ月で世界一周を達成されました。

2018年5月14日

文房具クリエイター阿部ダイキさんは、中小かばんメーカーから独立し、たった1人で文房具メーカーとして創業。文房具ブランドBeahouse(ベアハウス)を世の中に送り出している。 企画も製造も営業も流通も出荷もすべて阿部さん1人で行うベアハウスの商品は、ロフトや東急ハンズなど、全国で取り扱われているとのこと。 たった1人でもメーカーとして成り立つ、ユニークで新しい仕事のスタイルを生み出した、文房具クリエイター阿部ダイキさんに、1人文房具メーカーの創業から現在に至る経緯と阿部さん自身の思いを伺った。

2018年5月9日

PLOFILE
西村和弘さん(44歳)
(有)エニシング/東京都小金井市
大学卒業後、江崎グリコに入社。2000年11月に脱サラ。Tシャツの企画販売を手がける。 前掛けの産地である愛知県豊橋市の職人と出会ったのを機に、2005年、前掛け専門店に業態変更。 欧州でも前掛けは人気。ジブリや広島東洋カープなど企業とのコラボも多数。

2018年5月8日

株式会社タウンキッチン/東京都小金井市 代表取締役

北池智一郎さん(40歳)

1976年、大阪府生まれ。大学卒業後、コンサルティングファームやベンチャー人材支援企業において人事制度・組織設計、教育研修などに従事。2009年、任意団体「TOWN KITCHEN」(10年法人化)設立。食で地域をつなげる店を開いたのを皮切りに、現在は、創業支援を軸とする地域づくりに力を注ぐ。シェアキッチン「学園坂タウンキッチン」「8K」、東小金井事業創造センター「KO-TO」など、8つの拠点を展開しながら起業家たちと並走、多面的な支援を行っている。

2018年5月2日

PLOFILE
近正宏光さん(46歳)
越後ファーム(株)/新潟県阿賀町
大学卒業後、不動産会社に就職。社長の指示を受け、2006年に越後ファームを創業。 途中、不動産会社の社長にも就任するが、14年に独立、越後ファーム1本に。 16年にはJALの国際線ファーストクラスの機内食に「雪蔵今摺り米」が採用された。

2018年5月1日

おそらく誰しもが一度は考えたことがあるであろう、自分の夢。 夢を叶えるために経験を積み、努力し、失敗し、そして成功する。 読者の皆さんの中には、自分の夢を叶える手段として、独立・起業を考えている方も多いのではないでしょうか? 今回お話を伺ったモデルのAoiさんは「パリ・コレクション」のランウェイを歩くという夢を叶え、現役モデルでありながら起業家、マナー講師としても活躍されています。 そんなAoiさんですが、自身のことを決して特別ではない、普通の人だ、と語ります。 そう述べる理由はなぜでしょうか? モデルとして夢を叶えるまで、そして叶えた後の人生について伺いました。
<プロフィール> 井畑 “Aoi” 博康 株式会社AOSTA・代表取締役社長 モデル・マナー講師 2009年に文化服装学院、デザイン科卒業。 同年から、モデルの仕事を始める。 2013年に、パリ・コレクションデビュー。 現在、日本、パリ、シンガポール、香港、ソウルのモデル事務所に所属。 その一方で、2014年にイメージコンサルタント事業aostaを立ち上げ、2016年5月に株式会社AOSTA設立。 企業や学校で、マナーや印象作りの講師を行うほか、 ハイブランドを含むイベントの運営を行っている。

自分の“得意”を仕事にする。職業・モデルを活かした新たな稼ぎ方

―Aoiさんはどのような経緯でモデルになられたのでしょうか?
Aoiさん ウェディングデザイナーになるために、服飾系の専門学校に入学したのですが、リーマンショックの影響で、内定が白紙になってしまいまして…(笑)。 その後、社会人になってどうやって生活していこうか考えた時に、おばあちゃんから「モデルをやらないのかい?」と言われたことがきっかけで、モデルを志しました。
―Aoiさんのモデルとしてのキャリアを見出したのは、おばあさまだったのですね!
Aoiさん そうなりますね(笑)。 小さい頃から私はおばあちゃん子で、おばあちゃんにだけは「芸能人になりたい」とか「有名人になりたい」と打ち明けていたんです。 それが大人になるにつれて、自分の中で「なんとなく無理だろうな」と思い、普通に就活をしたんです。 しかしまさかの内定白紙になってしまい、さらにおばあちゃんからの後押しもあったので、思い切ってモデル事務所に履歴書を送ってみたんです。 すると、事務所から返事があって、晴れてモデルとして事務所に所属することができました。
―おばあさまはAoiさんの才能を的確に見抜いていたんですね。その後はモデル1本で活動していたのでしょうか?
Aoiさん いえ、さすがに最初はモデルだけでは生活できなかったので、事務所と関連のある、ハイブランドのドアマンやバー、服飾ブランドショップなど、いくつかのアルバイトを掛け持ちしていました。
―しばらくはモデルとアルバイトを両立させて暮らしていたのでしょうか?
Aoiさん そうですね。 そんなある時、知り合いの先輩から、化粧品の発表会イベントの案内係を頼まれたことがありました。 現場で人手が足りずに困っていたイベント制作会社の方に、私と同じようにモデルとして活動しながら、ブランドショップで働いていた同僚を紹介したらとても喜んでくれて。 同僚は仕事が増えて嬉しい、先輩は人手を増やすことができて嬉しいという、お互いにとって良い関係が生まれたんですよね。 その出来事がきっかけで、モデルとアルバイトのほかに、イベント業界で紹介業もするようになりました。
―自分の職業の特性を活かして、新たな収益ポイントを作ったんですね。
Aoiさん はい。モデルという職業柄、また有名ブランドでアルバイトをしていた経験から、ルックスが良く美しい所作ができる知り合いがいました。 イベントのお誘いがあるごとに、そのイベントの特性に合った人を紹介して、紹介料をいただいくようにしたんです。 そしてモデルの仕事とイベントでの紹介業を合わせて、それなりに生活できるようになりました。

求められたことに対して全力で取り組む。行動力と縁で掴んだ、パリコレの舞台

―イベントでのモデル紹介業の傍ら、自身も着実にモデルとしてのキャリアを積んでいったAoiさん。パリ・コレクション(パリコレ)に出場された経験もあるそうですが、どのような経緯でパリコレに出場したのですか?
Aoiさん モデルを始めた当初から、目標は海外で仕事をすることでした。 活動を始めて3年が経った頃、そろそろ海外へ挑戦しようと思い、それまでお世話になっていた事務所を退所し、ファッションの本場、フランス・パリやイタリア・ミラノへと渡りました。
―現地に何かコネクションのようなものはあったのでしょうか?
Aoiさん 特別なコネクションなどはありませんでしたね(笑)。 ただ、パリに渡る前、おばあちゃんと韓国へ旅行に出かけました。 そのついでに、韓国でモデルの仕事を受けていたんです。 また、当時在籍していた同じ韓国の事務所にフランス人モデルがいて、その人がパリでショーに出ていたと聞きました。 「パリのショーに出る人と同じ事務所に所属しているなら、私にもチャンスがあるんじゃないか」と思い、何のツテもなかったのですが飛び込みで行ってみたんです。
―その後、パリへ向かわれてどうされたのですか?
Aoiさん とりあえず手当たり次第、現地で事務所探しから始めました。 パリに到着し数日が経った頃、新卒時代からイベント設営でお世話になっていた方と、現地でお食事に行く機会がありました。 そこでご一緒させていただいたデザイナーさんに偶然、翌日のショーのモデルに欠員が出たという連絡が入ったんです。
―そして、その場にAoiさんがいるということは…?
Aoiさん はい、その場ですぐ「もし人が足りなくてお困りなら、私にやらせていただけないでしょうか?」と聞いてみました。 そして翌日に行われたショーに出ることになったんです。
―若い頃から、人とのご縁を大切にされてきたAoiさんだからこそ、掴んだチャンスだったんですね。
Aoiさん そう言われると照れてしまいますけどね(笑)。 でも、このお話をいただけたのは、若い頃から「人から求められたことを一生懸命やってきたから」なんじゃないかなと思っています。 モデルもイベント業も、その積み重ねができていたからこそ、素敵なご縁にも恵まれた。 きっとモデルだけでも、イベント業だけでも、このご縁をいただくことはできなかったんじゃないかと思います。

おごらずに歩き続ける。「特別でない人」が夢を叶える方法

―Aoiさんは現在、モデル業の傍ら、株式会社AOSTA・代表取締役としてイベントを運営、マナー講師もされているとお聞きしました。モデル業からなぜ、起業という選択をされたのでしょうか?
Aoiさん パリを経験後にシンガポールや香港でも仕事をする機会があり、モデルとしての夢、すなわち「海外で仕事する」という夢を達成してしまいました。 その後、モデルだけでなく新たな領域に挑戦してみたいなと思い、自分には何ができるのかを考えてみたんです。
―そして行き着いた答えが、ビジネスマナーの講師という職業だったんですね。
Aoiさん はい。もともと幼い頃からおばあちゃんに、マナーを厳しくしつけられてきたので、大人になって人から所作を褒められることが多かったんです。 そしてイベントで人を紹介するにあたり、その人にマナーをレクチャーする機会も多かった。 そこで接客接遇検定など、ビジネスマナーに関する資格をいくつか取得し、マナー講師の研修課程をパスしました。 現在は、私の母校である専門学校を中心に、マナーに関する講義を受け持っています。
―現役モデルで起業家、マナー講師という人はなかなかめずらしいですよね?
Aoiさん そうですね。 この事業を立ち上げるにあたり、私の過去のキャリアを活かしながら、マナーを教えることで付加価値が加わるなと思ったんです。 私がこれまで感覚知として実践してきたことを、資格の勉強などを通して、誰にでも分かりやすくロジカルに説明できるようになりました。 会社としては、モデル時代に行っていた紹介業の延長で、企業さまのイベントのお手伝い(企画、運営、スタッフ派遣など)をさせていただいておりますが、弊社から派遣するスタッフ(モデルと兼業の人がほとんど)にも、もちろん一通りのマナーを教えています。
―モデル・紹介業・マナー講師。Aoiさんの過去の全てのキャリアや経験が、今につながっているんですね。
Aoiさん 私は、自分のことを「特別な人」だなんて、思っていません。 モデルをやるにあたり、身長など体型面では恵まれていたかもしれませんが、勉強やスポーツ、仕事も、誰もが驚く突出した才能に恵まれていたわけではありません。 そんな、いわゆる「普通の人」がなぜパリコレに出て、起業できたのか。 自分で言うのも恥ずかしいですが、おそらく人から求められたことを一生懸命やって、目の前の仕事に懸命に取り組んできたからなんじゃないかと思います。 「自分は何がしたくて、何ができるのか?」 その問いに向き合い続けるのは簡単なことではないですが、そこから目を背けずに自分ができることもできないことも、客観的に受け止める。 そして自分の目標に向けて、おごらずに地道に歩き続ける。これができたから、目標が達成できたんじゃないかなと思います。

大きすぎる夢は、小さい目標達成の連続

―Aoiさんの夢を叶える方法、とても参考になりました。独立・起業を考える読者にとっても、勇気づけられる内容だと思います。
Aoiさん そうだと嬉しいです(笑)。 私の体験談から皆さんの夢を叶えるために、まず今すぐ行動できることを落とし込むと、 ・人に求められたことを全力でやる ・できることを増やす ・やりたいことと求められることは別と認識する この3つになるかなと思います。 自分の向かう方向によって差異はありますが、大抵の場合はこれを徹底的にできれば夢に近づくのではないかなと思います。
―これから何かを目指す方へ、メッセージをいただけますか?
Aoiさん 「夢」と聞くと、とても大きなものに思えてしまい、自然と自分の中で「なかなか達成できないもの」と認識してしまいますよね。 私自身、モデルになった時に「絶対パリコレに出てやる」という夢を明確に掲げていたら、おそらく理想と現実とのギャップに、メンタルをやられていたんじゃないかなと思います(笑)。 そこで「夢」をもっと、実現可能なレベルの「目標」にまで落とし込むと良いのではないかなと思います。 私自身「海外で仕事をしたい」というぼんやりとした夢に向けて、日々の仕事に向き合い、モデルの傍ら紹介業も並行して仕事をしてきました。 その結果、モデルとしては海外で仕事ができるようになり、紹介業での経験を活かして起業、マナー講師になることができました。 「夢」は持ちつつも、求められることを真剣に、1つずつしっかりと達成していく。 その先に、大きな「夢」があるのではないでしょうか。

2018年4月24日

PLOFILE
在賀耕平さん(42歳)
GOLDEN GREEN/長野県佐久穂町
大学卒業後、都内のITベンチャーに就職。 2007年頃、消費至上主義的な世界に限界を感じ、農家に転身。 今では年間60品目の野菜を栽培、北八ヶ岳の畑から都心に「旬の野菜セット定期便」を届ける。

2018年4月18日

近年、政府が推し進める「働き方改革」達成の有効的な手段として話題の、複業(副業)。 今働いている会社に在籍しながらも、就業前後や休日を使って、新たに会社とは別の仕事を始める方も増えています。 今回お話を伺ったのは、柳谷智宣さん。 柳谷さんは20代から手に職をつけようと、ライターとしてのキャリアを積む一方、都内に4店舗構える飲食店「原価BAR」の経営者としての顔も持っています。 さらに、海底熟成ウイスキー販売、飲食店人材育成サービス、NPOでの活動など、合計5足のわらじを履いているのです。 なぜ、柳谷さんは数多くの事業をされているのでしょうか? 今回は、柳谷さんのキャリアを振り返るとともに、複業(副業)で稼ぐためのポイントについて、教えていただきました。
<プロフィール> 柳谷智宣さん ライター・編集者/株式会社ハイテンション・共同創業者 ITやビジネスといったカテゴリーで執筆しているライター。キャリアは20年目。 雑誌やムック、単行本、新聞といった紙媒体から、Web記事、メールマガジン、プレスリリースなども手掛ける。 現在は、執筆だけでなく、企画提案から編集までを行う。 2011年に株式会社ハイテンションを起業し、専務取締役に就任。「原価BAR」の1号店を五反田に出店。 ライター/「原価BAR」の経営の他に、飲食店人材育成サービス・株式会社レベリング、海底熟成ウィスキー販売を扱う・株式会社トゥールビヨン、高齢者のデジタルリテラシー向上を支援する団体・「DLIS(ドリス)」を立ち上げるなど、その活動領域は多岐に亘る。

手に職をつけて、ストック型ビジネスを実践。柳谷さんがライターという職を選んだ理由

―現在に至るまでの経緯を教えてください。
柳谷さん 20代前半はふらふらしていたのですが、それでも食えるだけの生計は立てられていたので、特に生活に困っていませんでした。 しかし、20代も後半となり、そろそろ何かしら手に職をつけて、一生続けていける職業を探そうと思ったんです。
―そこで選んだ職業が、ライター業だったのですね。
柳谷さん そうです。 自分が「どんな職業でならがんばれるかな?」と考えてみたところ、消去法でクリエイターになるしかないと思ったんです。
―なぜでしょう?
柳谷さん もともと文字を書くことが好きだったこと、手に職をつけて実力の世界で勝負してみたいと思ったからです。 とはいえ、どうやってライターになったらいいのかはまったく知りません。 そこで編集プロダクションの求人に応募し、業務委託としてジョインしてライターとしてのキャリアをスタートさせました。
―始めてみていかがでしたか?
柳谷さん 文章を書くことは好きだったので、苦ではありませんでしたが、当然仕事としては未経験だったため、最初はとにかく必死でしたね。 そして入社して3ヶ月ほど経った時に、転機が訪れました。 IT系週刊誌の雄、「週刊アスキー」(http://weekly.ascii.jp/)の6ページ分の特集に挑戦してみないかと、上司から声をかけられたんです。 まだキャリアも短く、右も左も分からないままでしたが、いろいろとアドバイスを受け、書き上げました。 何日も徹夜して苦労しましたが、それでもなんとか無事出版され、雑誌に載っている自分の名前を見て、衝撃を覚えました。
―苦労して作り上げたものが世に出るのを見ると、感動しますよね。
柳谷さん そうなんです。 あの衝撃は今でも忘れられないくらいのものでした。その成功体験があったからこそ、20年間ライター・編集者としての腕を磨いてこれたんです。
―その後ライター・編集者としてどのようなお仕事をされたのでしょう?
柳谷さん 記事作りから雑用まで、基本的に任された仕事は全て行ってきましたね。 当時はインターネットの黎明期だったので、Webサイトやフリーソフトなどに関する内容を中心とした特集を多く扱っていました。 仕事をしていく内に、自然とインターネットに関する知見が身についていたこと、たまたま編集プロダクションで働いていたことから、単行本を出させていただくチャンスもいただきました。
―まさに先程おっしゃっていた、ライターとして「手に職をつける」形になったのですね。
柳谷さん 当時はどの仕事もかなり大変でしたけどね(笑)。 「手に職をつける」とはすなわち、ストック型のビジネスです。 例えば有名企業に就職して、その中でトッププレイヤーになったとしても、その会社内じゃないと、その人がどれくらいすごいのかって、なかなか伝わらないですよね? それよりも「本屋に行けば、僕の本が5冊置いてあります」みたいな方が、手っ取り早く自分がどんな仕事をしているのかをアピールできると思ったんです。 (もちろん、今の時代なら前者の人でもメディアやインターネット、SNSを通じてアピールできますが) 僕の時代は、なかなか自分で発信できるものがなかったので、ストック型ビジネスとなるライターという職業はまさに僕の理想にピッタリだったんです。

原価の秘密は「入場料」にあり! 3方良しのビジネスモデル

―前職での実績が、会社をやめられてからも「ITライター・柳谷智宣」として活躍される布石になったわけですね。「原価BAR」を出店することになった経緯を教えてください。
柳谷さん もともとお酒がとても好きだったことから「質がよくておいしいお酒を、安価で飲めるお店」をずっと探してきました。 僕は普段から本当にたくさんのお酒を飲むので、少しいいお酒を飲むと、1人で会計が数万円になってしまうこともザラにあります。 かといって飲み放題のお店に行くと、安かろう悪かろうなお酒が出てくるケースが多く、悩んでいたんですよね。
―そこで思いついたのが、「原価BAR」の構想だったんですね。
柳谷さん そうですね。 2007年頃から自分でお店を持ちたいと思いはじめて、現場に立ってくれる相棒を探していました。 その後、通っていたバーのマスターと意気投合して、彼を代表として株式会社ハイテンションを起業。 バーのマスターと合同出資(一部銀行から借入)という形で、「原価BAR」1号店を五反田にオープンさせました。
(原価BAR・五反田店) ―なぜ相棒が必要だったのですか?
柳谷さん 僕はお酒は好きですし、お店も持ちたいと思っていましたが、自分がマスターとして現場に立つことは考えていなかったんです。 ライターの仕事は今後も続けていこうと考えていたので。 起業とともにお世話になっていた会社を退職し、フリーライターと「原価BAR」の経営者、2足のわらじを履き始めました。
―「原価BAR」のビジネスモデルについて教えてください。
柳谷さん 先程お話した通り「質がよくておいしいお酒を、安価で飲めるお店」を作ることをコンセプトとしていました。 酒の質だけを求めるとどうしても高価になってしまいますし、安価だけを求めると酒の質を下げる、ないしは卸業者に無理な交渉をせざるを得ません。 そこで思いついたのが、入場料制というシステムです。
―入場料制とは?
柳谷さん 入店する段階でお客さまからお金をいただき(1,600円〜)、お酒やフードは全て原価で提供する、という仕組みです。 このシステムを使うと、お酒は原価のみお支払いいただくので比較的安価で飲めますし、入場料でお金をいただいているので、場所代や人件費もきちんと回収できるというわけです。 お客さまもお店も卸業者も、3方良しのビジネスモデルと言えます。
―1号店を出店してから、業績はいかがでしょうか?
柳谷さん 五反田店は開店後、すぐに大行列となり人気を博しました。 その後すぐにその上のフロアも借りて、五反田2号店をオープン。その翌年に赤坂、銀座、ウランバートルと、着実に店舗を増やしています。

アウトプットに対する責任を持つこと。複業をする際に心がけるべきポイント

―先程柳谷さんは、ライターの仕事をされながら、「原価BAR」の経営の2足のわらじを履かれているとおっしゃいました。どのように両立されているのでしょう?
柳谷さん ライターの仕事の比率が多く、「原価BAR」の事業は、現代表と現場のスタッフたちが回しているので、今はあえて深くコミットしていません。 もちろん、「原価BAR」を立ち上げる時はかなり時間も労力も費やしましたし、今でも経営には参画していますが。 「質がよくておいしいお酒を、安価で飲めるお店」を作ることは僕の悲願だったので、今後は店舗数を少しずつでも増やして、成長させていきたいですね。
―ほかにも事業を起こされているとお聞きしましたが…?
柳谷さん はい。ほかには大きく3つの事業を起こしています。 1つ目は、海底で熟成したウイスキーの制作・販売事業。 ウイスキーを海底で熟成させると、よりおいしくなるんですよ。その製造は前から行っていたので、それを流通させる事業を行っています。 2つ目は、ITライターとして培ってきたの知見を活かして、IT企業を起業しました。 内容は、ITに関するリテラシーが低い人へ向けた、ゲームを応用したEラーニングを作る事業です。「原価BAR」などの飲食店で働くスタッフへの社員教育に、利用しています。 3つ目は、デジタルリテラシーの低い高齢者を狙った犯罪を防ぐための活動を、NPO法人として立ち上げています。 いずれも「ITライター」としてのスキルや「お酒」といった趣味がこうじて、始めたものばかりですね。
―立ち上げるのは大変だったのではないですか?
柳谷さん それなりには大変でしたけど、起業に関しては1度「原価BAR」を作る際に会社を立ち上げていたので、手続きにそこまで手間取ることはありませんでした。 もちろん立ち上げ期から落ち着いてからも、ライターを中心とした別の仕事も並行して行っているので、限られた時間・リソースの中で仕事をするのは大変ですけどね。
―そこまで数多くの事業を回すためのモチベーションはどこにあるのでしょう?
柳谷さん 全ての事業が自分の得意な領域の仕事であり、何より好きだからだと思います。 複業として仕事を始めると、どうしてもどっちつかずになって言い訳をしてしまいがちになります。 「本業で稼げているから、2つ目(もしくはそれ以降)の複業では赤字を出さない程度に稼げていればいい」。そういった意識でいると、自然と時間にも成果にもこだわらなくなってしまう。
―だからこそ、得意な領域であり、好きな仕事を複業として選ぶべき、ということですね?
柳谷さん そうですね。 その複業を趣味としてではなく、事業として、ビジネスとして始めるなら、プロとして仕事をするべきだと思います。 お客さまからお金をいただいているのですから。 アウトプットに対する責任をきちんと果たしつつ、仕事を楽しむことができれば、2つと言わずに3つ4つと、複業できるようになると思います。
―これから複業(ないしは副業)を始めようとする方にとって、とても重要な心構えですね。最後に読者の方へ、メッセージはありますか?
柳谷さん きちんとお客さまからお金をいただくシステムを作れば、自分もしっかり仕事をしなきゃいけないなと背筋が伸びます。 中途半端に「儲からなくてもいいや」と思うのではなく、まずはきちんとお金を稼ぐという認識を持つことはとても大切だと思います。 そして、本業がある中で仕事を始めるなら、必然的に時間の制約が厳しくなります。 その制約の中で仕事をずっと続けていくためには、やはり自分の好きなことじゃないと続かないと思っています。 自分の得意な領域、好きな仕事をきちんとよく見定めて、複業に挑戦してみると良いのではないでしょうか。

2018年4月17日

PLOFILE
松井知敬さん(39歳)
(株)オヤノミカタ/滋賀県大津市
大学卒業後、広告代理店、フリーランサーを経て3人のこどもを育てる専業主夫に。 半年で育児のストレスに音をあげ、「親の味方」の必要性を痛感した。 現在はECサイト「オヤノミカタSTORE」や、「オヤノミカタ交流会」などのイベントを展開する。

2018年4月13日

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