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起業家・先輩から学ぶ
138件のまとめ

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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズン。開業までのプロセスや想いを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリー。
菊地美由起さんプロフィール 岩手県の保育専門学校を卒業後、すぐに結婚。家事をこなしつつ、ファストフード店やコンピューター関連の仕事に従事。数年後、離婚を機に埼玉県へ移住した。1年ほどファストフード店と服飾店で経理として働いた後、総合病院に就職。9年後に退職し、乳幼児専門の保育園に正社員として就職。3年後、次女の結婚を機に、鎌倉に引っ越す。2017年3月末で保育園を退職し、翌月7日に鎌倉市内にフランチャイズの託児所をオープンした。

――先日取材でお伺いした時は、まだ備品が揃っていないとおっしゃっていましたが、オープンまでに室内の準備は整いましたか?

4月6日に食事用のハイテーブルや本棚、おもちゃ箱が届き、予定どおり窓際に配置しました。 それからウォーターサーバーも置くことにしたので、少しレイアウトを変更してカラーボックスを買い足し、排煙口の下にこどもたちのお昼寝用のサークルを置いてスペースを確保しました。 なんとか翌日7日のグランドオープンまでに間に合ったのでよかったです。 カラーボックスを遊び場と食事スペースの間仕切りにしようとしたのですが、”これくらいだろう”とサイズも図らず安易に買ってしまい、結果、ベビーゲートが入らないことが発覚したので、そちらは再度発注からやり直すんです。

――開業第1号の利用者はどんな方でしたか?また初めてご自身の託児所でお子さんを預かったわけですが、どんな気分でしたか?

前の日からドキドキワクワクして落ち着きませんでした。 フランチャイズ本部のホームページから予約をしてくださった遠方の方で、お子さんは5歳の女の子。 4月と5月の2回予約を入れてくださったのですが、初めて利用された時、お子さんが帰り際に「ママ、もっと遊びたい」とお母さんにお願いしているのを聞き、本当に嬉しかったですね。 2回目にいらした時も「楽しみにして来ました」とおっしゃってくださったんです。

――そうなんですね。ゴールデンウイーク中、鎌倉市内は観光客で混雑したと思いますが、託児所はいかがでしたか?

街はかなり混雑していました。 でも残念ながら観光客のお子さんの預かりはなく、まだまだ私の託児所が認知されていないと実感しました。 でもゴールデンウイーク前に、娘と話し合って“おむつ替えスペースの無料開放”をやろうということになり、SNSと店頭の看板で告知をしたら、何人かおむつ替えスペースを利用してくださったんですよ。 来てくれたママたちから「鶴岡八幡宮まで行ったけど、ベビーカーで上宮まで上がることができなかったので断念しました。この託児所を知っていたらこどもを預けて行ったのに…」とか「鎌倉の街はおむつ替えできる場所があまりないので助かりました」と声をかけてもらえたので、やはり皆さんに知ってもらうことから始めなくてはと思いました。

――知名度を上げる方法や対策など、何か考えていらっしゃいますか?

はい。地元の人に向けてスペースの開放日を設けようと思っています。 利用者の方には全員、会員登録をしていただき、初回登録保険料金をいただいているのですが、5月、6月は“母の日のプレゼント”をイメージして、お子さんのパパやおじいちゃん、おばあちゃんを対象に、登録料金を半額にします。 そしてその方々には、期間中の平日10時から16時まで、親子で遊べるスペースとして無料開放することにしました。 まずは家の近くにこういう場所があるということを知ってもらい、口コミで広げてもらうというのが目的です。

――ほかにはどういった販促活動をされていますか?

市役所や観光案内所などには既にあいさつに行き、フランチャイズ本部のチラシを置いてもらっています。 また場所柄、結婚式も多いのでブライダルサロンにも行く予定です。 「結婚式に参列する間、こどもを預けたい」というお問い合わせを何件かいただいたので、着付けや準備をしている時間に預かるサービスはどうかと思いました。 迷っているのは観光協会なんです。 おむつ替えのスペースがあるという告知はお願いできているのですが、チラシを置いてもらうとなると月にいくらかお支払いしなくてはいけないようなので検討中です。 ほかにも住所と電話、料金など最低限の情報がわかり、財布や手帳などにサッと入れられるようなコンパクトサイズのチラシも作りたいと考えているところです。

――まだ開店したばかりではありますが、いつ頃の黒字化を目指していますか?

5月の地点では、売上げ目標の3~4割というところなんです。 今のところ、想定内ではありますが、7月くらいには黒字になってほしいと思っています。

――最後に、開業してよかったと思う瞬間はどんな時でしょう。

まず、自分の大好きな鎌倉という場所に毎日通い、鶴岡八幡宮を見るだけで元気がでます。 そこに自分のお店を持てたというのは本当に嬉しい。 そしてこどもたちと密に関わり、楽しそうに遊んでいる様子を見るだけで幸せな気持ちになります。

「-Season2-長期密着取材! 独立開業への道365日」シリーズ 次回の更新は、2017年6月2日(金)。 Uターンした山梨県で開業準備中の橋爪ご夫妻編(第6回)予定。 条件に合うような購入物件に出合えたのか!?お楽しみに!

更新日:2017/5/26
文:堀家かよ 撮影:吉原朱美

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「あなたの好きなことはなんですか? 好きなことを仕事にしていますか?」 今回インタビューしたのは、矢萩邦彦さん。矢萩さんは20年間、教育・アート・ジャーナリズムの3領域を中心にパラレルキャリアを歩んできました。 前編では、20年の時間をかけて培われたパラレルキャリアの価値について伺いました。 後編では、具体的にどのようにパラレルキャリアを動かしていくのか、パラレルキャリアに向く職業、そして何から始めるべきなのかをお聞きします。 「大人だからこそ、自分の気持ちに正直でいてほしい。」毎日の仕事に追われ、本当にやりたいことを見失っている人へ。矢萩邦彦さんインタビュー後編、スタートです。
プロフィール:矢萩邦彦さん 教育ジャーナリスト/知窓学舎塾長/株式会社スタディオアフタモード代表取締役CEO 教育・アート・ジャーナリズムの現場で活動し、1つの専門分野では得にくい視点と技術の越境統合を目指す日本初のアルスコンビネーター(松岡正剛より拝命)。 横浜に「受験指導×探究型学習」をコンセプトにした統合型学習塾『知窓学舎』を開校、プロデュース、講義の他、教育コンサルタントとして受験指南・講師研修・企業研修等も手がけている。 代表取締役を務める株式会社スタディオアフタモードでは、ジャーナリスト育成や大学との共同研究に従事、ロンドン・ソチパラリンピックには公式記者として派遣。 ネット媒体では、Yahoo!ニュースを中心にオーサーとして取材・撮影、記事・コメント等を執筆。主宰する教養の未来研究所では戦略PRコンサルタント・クリエイティブディレクターとして企業の未来戦略やブランディングを手がけている。 知窓学舎 http://chisou-gakusha.jp/ Yahoo!ニュース https://news.yahoo.co.jp/byline/yahagikunihiko/

パラレルではなく”スパイラル化”させることで、もっとキャリアはおもしろくなる。

―矢萩さんは現在、教育・アート・ジャーナリズムの主に3つの領域を中心にさまざまなお仕事をされていますが、多数の仕事を同時にこなすコツなどはありますか?
矢萩邦彦さん(以下、矢萩さん) 仕事の切り口を揃えることだと思います。そうすることでキャリアがパラレルではなく、スパイラル化するんです。 どういうことか簡単に説明しましょう。 僕の場合、教育にせよアートにせよジャーナリズムにせよ、全て「伝える」という切り口で統合しています。 たとえば、僕は2012ロンドン・2014ソチパラリンピックをジャーナリストとして取材しました。 現地で選手たちの活躍を追うことはもちろん、国際大会で起こるさまざまな問題や開催国の現状を目の当たりにしたのですが、それをネットメディアや紙媒体で記事として執筆・配信することはもちろん、テレビ番組や講演などでもお話しさせて戴きました。 また塾や予備校では社会科の授業の一環として、イギリスやロシアを題材に歴史や時事と結びつけた講義やワークショップをしたり、さらに撮影した写真を作品として発表したり、現地で得たインスピレーションを元に作詞作曲をしたり、俳句の素材として使用したり。 はたまた町づくりのアイディアに活かしたりしたりと他領域でも活かしています。 またメディアの技法を授業に持ち込んだり、逆に教育の手法をメディアに持ち込んだり相互に乗り入れる事でスパイラル化が加速していきます。 さまざまな領域で仕事をしているというと、一見普通の人の何倍もの仕事量をやっているように見えるかもしれませんが、実は活用法やアウトプットあるいは見え方が違うだけで、仕事自体は共通している部分も多いんです。
―なるほど、パラレルキャリアをする上で仕事を結合することはとても重要になるんですね。
矢萩さん その通りです。結合が上手に出来て回せるようになれば、パラレルキャリアはどんどんおもしろくなるし可能性も広がります。 また、例えば同じ現場でも教育者として取材するのとジャーナリストとして取材するのでは見え方がまるで違ってきます。 さまざまなフィルターを使い分けてインプットし、多様な切り口でアウトプットをする。 それを目的や場に合わせて使いこなすことこそ越境者ならではの価値ではないかなと思います。 ただ、反対に編集や結合が苦手な人、仕事を「切ったり貼ったり」することが苦手な人にはパラレルキャリアは向かないと思います。
―例えばどんな人ですか?
矢萩さん 1つのことでないと集中できない人だったり「この仕事が終わるまでは次に進めない、他のことはできない」といったように、仕事が秩序立っていないと気がすまない人にはあまりおすすめできません。 仕事を結合するためには、編集的に頭を使う必要があります。 「これとこれをくっつけたらおもしろいんじゃないか? もっと価値を生み出せるんじゃないか?」といった問いが常に自分の中にある人、常識や先入観に縛られず、その場に応じて臨機応変に動ける人は向いていると思います。 ただし前編でもお話しましたが、どちらの人がいいとか悪いとかではありません。 この記事を読んでくださっている皆さんには、自分の向き不向き、そして何より自分がどうしたいのかという目的に合わせてキャリアを選んでもらえればと思います。

自分の経験と知見を、教育の場で活かす。講師業がパラレルキャリアに向く2つの理由

―20年以上もパラレルキャリアを実践されている矢萩さんから見て、パラレルキャリアにしやすい仕事ってなんだと思いますか?
矢萩さん パラレルキャリアにしやすい仕事という点では、まず講師業でしょうか。 というのも、パラレルキャリアにとって重要なポイントは、2つあると考えています。1つは、それら複数の仕事を遂行することが物理的に可能かということ。そしてもう1つは「それら複数の仕事を両立することにどんな意味があるのか」を自分で説明できることです。 その2点を満たしやすい職業として講師業が挙げられると思います。
―1点目から解説していただけますでしょうか?
矢萩さん まず物理的に仕事の両立が可能かという点は非常に重要です。 時間帯という観点で見れば、講師業のメインとなる時間帯は夕方から夜にかけて。塾は学校が終わってから行くものですし、一般的な社会人のアフター5と重なります。 学習塾に限らず、社会人向けのセミナーや教室なども17時以降に設定されているものが多いですね。なので、副業規定などの制約がなければ、サラリーマンでも可能です。
―仕事と仕事の時間がかぶってしまうと両立は難しいですもんね。
矢萩さん そしてもう1点は、なぜ複数の仕事を両立しているのか、そのメリットは何なのかを自分の口で話せるということ。 昔に比べてパラレルキャリアという言葉を聞くようになってきたものの、まだまだ一般に浸透している働き方とは言えません。 それどころか、ほかの働き方と比べて社会的な外圧が強いんです。スペシャリストがみなプロフェッショナルであるかどうかは甚だ疑問ですが、一般的には専業の方が信用を得やすいものです。 色々な事をやっているというと、それだけで厳しい目を向けられることもあります。その外圧を跳ね返すためには、まず自分の中でちゃんと理由付けができないといけない。 そして、パラレルキャリアの自分だからこそできる仕事だということをクライアントに納得して貰えなければ、専業にはかないません。 そのためには、それぞれの仕事を続けてキャリアを積む事が必要です。それができるようになるまでは、「周りが何と言っても、自分はこの働き方を実践していくんだ」という意志が必要なんです。
―たしかにまだまだ一般的ではありませんよね。
矢萩さん だから講師業はパラレルキャリアに向いていると僕は思うんです。 教えるのと同時に、自分がしている仕事や自分がやってきた経験も伝えることができる。 例えば現代において、家族と先生以外の社会人と学生が触れ合う機会ってあまりないんですよね。 特に日本は教育以外の仕事を経験している教員は5%にも満たない。多くの場合、社会経験が狭い大人が進路指導を担当してしまっているんです。 だからこそ、パラレルキャリアの講師には社会的な意義があると考えます。 自分も普段社会に揉まれながら、何かしらの勉強をしながら講師として教壇にも立つ。そうしたインプットとアウトプットのバランスが上手な先生は、やっぱり魅力的ですしいい仕事をします。
―つまり、そこに自分の働き方の意義を見い出せるんですね。
矢萩さん はい。自分の経験や知見を教育の現場で活かすことは、立派な社会貢献でもあると思います。 もしあなたがパラレルキャリアを実践するとして、何が社会に還元できるか。 つまり、あなたが2つ以上の仕事を持っていることが「それは社会的に意味があるよね」とみんなが納得した時に初めて、パラレルキャリアというものが受け入れられるようになると思うんです。 講師業以外の職をパラレルキャリアに選ぶ場合も、何かしらの意義付けができるとブレずにいられるのではないでしょうか。

大人だからこそ、自分の「想像と実感」にもっと正直に生きてほしい。

―では、これからパラレルキャリアを始めようとする方は、何から手を付ければいいのでしょうか?
矢萩さん まずは個人の趣味をたくさんやる、くらいでいいと思いますよ。パラレルキャリアというのは、自分の好きなことを始めるところからでいいんですから。 先程お話した2つのポイントはとても大事なことではありますが、最初から重く考え過ぎてしまうと一向に前に進みません。 自分の好きなことで現状できていないもの、それをまずは実行に移してみてください。
―自分の好きなことを仕事にするということが、ピンときていない会社員の方も多くいらっしゃるかと思います。そうした方が自分の好きなことを見つけるにはどうしたらよいのでしょうか?
矢萩さん 自分の好きなことを見つけるためには、2つのパターンに大別できると考えています。 1つ目が知識や過去の経験などから「自分はこういうことが好きなんじゃないか」という想像をすること、そしてもう1つはたまたま実際に経験してみて「あ、これは好きだな」と実感すること。 つまり「必然的想像」と「偶然的実感」でしか、自分の好きなことを見つけることはできないんです。 例えば僕の塾にも「うちの子の好きなことが何なのか分からないから、見つけてほしい」という保護者さんが多数いらっしゃいます。 では教育の現場において、子どもたちに好きなことを見つけてもらうために何ができるかというと、とにかく好奇心のタネを蒔き続けることなんです。 とにかく「これは好き? これはどう?」といったように、子どもたちに対して常にさまざまなキーワードを投げかけていきます。その中で「この子はこういうことが好きそうだ」という手応えを感じたら、そのキーワードに付随する情報を持ってきて触れさせてみる。 そうした地道な作業を繰り返して、子どもの興味の幅を徐々に広げていきます。結局のところ、知らなければ興味の持ちようがないので。
―しかし、大人はなかなか塾に通う機会がありませんよね。
矢萩さん はい、この問題が厄介なところはまさにそこだと思います。子どものうちは学校であれ塾であれ、教育というフェーズで多くのことを学ぶチャンスがあるのですが、大人になるとそもそも教育の場に行くまでが大変なんですよね。 生活のパターンや日々の問題解決のアルゴリズムがある程度完成されていて、そのループの中で「自分の好きなことはなんだろう」と考えても堂々巡りになってしまうのは当然だと思います。
―どうすればいいのでしょうか?
矢萩さん 自分で意識してインプットの量を増やすことですね。あとは偶然の確率を上げる。どちらにしても活動を増やすことです。 自力で自分の好きなことを探すには想像と実感しかありません。 とりあえず手探りでも今まで手にとったことのないテーマの本を読んでみるとか、イベントに足を運んでみるとか課外活動を増やしてみるとか、自分の好きなことを想像してみる機会を増やす。 そして自分自身でやってみて、実際に好きかどうか確認する。 子どもと違って社会人の難しいところは、自分の好きなことを見つけてくれる”大人”が、周りにいないこと。 であれば自分がその”大人”になって、自分の好きなことを見つけてあげればいいんです。
―最後に、これからパラレルキャリアを始めようとする人に何かアドバイスをください。
矢萩さん 先程の話にも関係してくるのですが、パラレルキャリアという生き方を選ぶなら、自分の好きなことでないとなかなか続きません。なので自分の内側に対して常にアンテナを張っていてほしいと思います。 「あ、これおもしろいかも!」「興味あるな」みたいな、自分の些細な心の変化に気付けるようになると、見える世界が変わってくるかもしれません。
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パラレルキャリア。 古くは、かのドラッカーが提唱した考え方ですが、平均寿命も延びさらに加速する現代社会の生き方として近年話題となっているキーワードです。 今回お話を伺った矢萩邦彦さんは、そんなパラレルキャリアを20年以上も前から実践していました。矢萩さんは、塾での講師業、ジャーナリズム活動、音楽活動、まちづくりや企業研修などさまざまな領域で20年以上活躍されています。 矢萩さんは、さまざまな仕事を経験することよりも、一度関わった仕事を続けることがパラレルキャリアの価値を生むと考えています。そこには、20年という時間がもたらす説得力がありました。
プロフィール:矢萩邦彦さん 教育ジャーナリスト/知窓学舎塾長/株式会社スタディオアフタモード代表取締役CEO 教育・アート・ジャーナリズムの現場で活動し、1つの専門分野では得にくい視点と技術の越境統合を目指す日本初のアルスコンビネーター(松岡正剛より拝命)。 横浜に「受験指導×探究型学習」をコンセプトにした統合型学習塾『知窓学舎』を開校、プロデュース、講義の他、教育コンサルタントとして受験指南・講師研修・企業研修等も手がけている。 代表取締役を務める株式会社スタディオアフタモードでは、ジャーナリスト育成や大学との共同研究に従事、ロンドン・ソチパラリンピックには公式記者として派遣。 ネット媒体では、Yahoo!ニュースを中心にオーサーとして取材・撮影、記事・コメント等を執筆。主宰する教養の未来研究所では戦略PRコンサルタント・クリエイティブディレクターとして企業の未来戦略やブランディングを手がけている。 知窓学舎 http://chisou-gakusha.jp/ Yahoo!ニュース https://news.yahoo.co.jp/byline/yahagikunihiko/

さまざまな分野・立場を行き来する「越境者」として歩んだ20年

―矢萩さんはずいぶん前からパラレルキャリアの道を歩んできたとお聞きしました。具体的にどんな仕事をされているのでしょうか?
矢萩邦彦さん(以下、矢萩さん) 10代の頃から塾の講師業、ジャーナリズム活動、音楽活動をしているので、パラレルキャリアという道を選んでから、かれこれ20年ほどになります。
―そのうちのどれかが本業、というわけではないのでしょうか?
矢萩さん そうですね、どれかが本業になってしまわないようにバランスを取っていますね。活動の共通点を挙げるなら、人に何かを「伝える」ということが1つの根幹になっています。 会話であれ文章であれ、はたまた音楽であれ。人に伝えるためならあらゆる手段を使います。
―矢萩さんの活動をカテゴライズしようとするとなかなか難しいのですが、ひとことで言うと矢萩さんはどんな人なのでしょうか?
矢萩さん ひとことで言うと「職人的ジェネラリスト」ですね。 いろいろな立場でさまざまな現場に関わっています。多様な分野を「越境する」こと自体が価値になるように、知見やスキルを結合したり再編集したりしています。 また、越境するのは分野など横の関係だけではありません。 僕はプレイングマネージャーであることが大切だと思っているので、自分が現場で仕事をするプレーヤーでありながらマネージャーもやっている、すなわち縦の関係も越境するようにしています。そこが職業プロデューサーや編集者と大きく違うところです。 そうすることでさまざまな分野はもちろん、それぞれの立場を知っていることで、ヒト・モノ・コトを繋げやすくなるんです。
―お話を聞いていると、ますます矢萩さんが何者なのかよくわからなくなってきました(笑)。矢萩さんのように、多方面でプロとして活躍されている方って、あまり多くありませんよね。
矢萩さん そうですね。本業は1人1つといった、スペシャリストとしてのプロが一般的ですからね。 近代化の流れの中で分業による合理化が当たり前になり、そうした「プロフェッショナル=スペシャリスト」的な価値観が一般的になってしまいましたが、中には僕みたいにさまざまな現場や立場を知るジェネラリストもいたほうがいい。 ジェネラリストもプロフェッショナルに成り得るし、そういうスキルを持つ人もスペシャリストだという認識が広まって欲しいですね。 もちろん、どちらがいいとか悪いとかではなくて、偏りすぎるのはよくないと考えています。専門家には専門家の役割が、越境者には越境者の役割がありますので。 そうした多様性が認められる社会になればいいなと思っています。

お金のためだけに働くなら、パラレルキャリアなんていらない

―20年パラレルキャリアを実践する、越境者・矢萩さんから見て、パラレルキャリアのメリットとはなんでしょう。
矢萩さん パラレルキャリアのメリットはやっぱり自分がやりたいと思うことにチャレンジしやすいことですね。 自分が興味のあることがいくつかあったとして、そのどれかを選ぶのではなく、全部を選んでしまおうという考え方。それを自然にできるようになるのが、パラレルキャリアのいいところだと思うんです。
―自分の好きな生き方を選択できるから、好きなことを1つに絞る必要がないんですね。
矢萩さん はい。ですが今の社会の雰囲気というか圧力みたいなものがあって、なかなか複数のことを選択するという判断ができない人が多いように感じます。 例えば、僕はずっとロックバンドをやってきたのですが、メンバーが就職を理由にバンドをやめると言い出した時にまさにこの圧力を感じましたね。 「自分は音楽しかない、音楽が命だ」と言っていた割に、「就職するから音楽をやめます!」という感覚に強く違和感を覚えました。 命なんだったら就職しても音楽を続ければいいじゃないか、どうして両方取るという選択をしないのかなと疑問に思ったんです。 両方やっていくことの時間的・精神的・労力的なコストがかかるのはわかりますが、なんとかならないものではないはずです。音楽は、お金をかけずにやろうと思えばいくらでもやれるものですし。 1日5分、10分の練習時間でもいいし、ライブなんて1年に1回でもいい。とにかく音楽に関わり続けることならできるはずですよね。
―たしかにどちらか1つを選びなさい、みたいな雰囲気はありますね。
矢萩さん そうなんです。で、その理由は、みんな仕事や職業を「お金」ベースで考え過ぎているんじゃないか、と思ったんです。 音楽という仕事で食えないなら、他で食わなければいけない。だから音楽はやめる。つまり仕事や職業は、最初からお金を稼ぐためだけのものとして考えているんです。 今は稼げないけれど、未知のヒトやモノやコトに繋がっているかも知れないという感覚を持てていないんですね。財産はお金だけじゃないですから。 パラレルキャリアにも同じような問題点があります。お金のためだけにパラレルキャリアを選択するようじゃダメなんですよ。お金を稼ぐための仕事がしたいなら、パラレルキャリアではなく、仕事を1つに選んでその道でスペシャリストになったほうがいい。 だけど、やりたいことへのモチベーションがお金よりも上回るのであれば、パラレルキャリアを選択するべきだと思うんです。

たくさんの仕事を経験することよりも、たくさんの仕事を続けること。それがパラレルキャリアの価値につながる

―自分の好きなことへチャレンジしやすいというメリット以外では、どんなところにパラレルキャリアの利点があると思いますか?
矢萩さん さまざまな現場に行くことで得られる経験や知見を元に、越境してものごとを考えることができるので、他の仕事と他の仕事を結びつけたり、方法を転用し合ったりといった相互作用がありますね。 また、仕事や職業への参入障壁が低くなるので、出入りしやすくなります。おもしろそうだなと思ったら、とりあえず関わってみて、楽しくて続けられそうなら続ければいいし、ダメそうならやめるなり、他の関わり方を考えればいいんです。 1つの職業しかやっていないと、そういう判断は難しいかもしれませんね。仕事をやめるというのは、収入がなくなってしまうことはもちろん、社会的な居場所もなくなってしまいますから。 その点パラレルキャリアは、いろんなところに自分の居場所を作っておくことができるので、やってみて合わなかったらやめる、という判断がしやすくなります。 もっとも、パラレルキャリアは複数の仕事を「続ける」ことが一番大事なので、むやみやたらにやめるのはおすすめしません(笑)。 だからこそ「この仕事を続けよう!」と覚悟が決まるまでは、いろいろな仕事をしてみるのも大切です。現場に出なければ分からないことばかりですからね。 近年、新卒のサラリーマンを中心に「会社をやめたくてもやめられない」といった声をよく聞きますが、パラレルキャリア的な価値観を持てば、そういう悩みからも解放されるかもしれません。
―逆に、パラレルキャリアのデメリットみたいなものはありますか?
矢萩さん まだまだ日本においてパラレルキャリアは一般的ではないので、周りに認めてもらえるまでには時間がかかりますね。 普通の会社(スペシャリスト的職業)なら5年、10年でだんだん上司的な立場や管理職になっていって社会的信用を得るのが一般的ですが、パラレルキャリアだとそもそも特定の組織に属していないケースも多いですし、「結局、何をしている人なの?」と、疑問を持たれることも少なくないです。 でも逆にいえば、そうした周りからの目も気にせずに自分の信じた道を突き進めば、必ずその人なりの形で成功すると思いますし、何より時間をかけて築き上げてきたキャリアや人間関係はそう簡単には壊れないんです。 そういう意味では、パラレルキャリアこそ時間をかけて地道に作り上げていかなければいけないと思います。 もしパラレルキャリアとして駆け出しの人が、ぽっと出で有名になったとしたら多分辛い。なぜならその人はただ器用なだけで、キャリアと呼べるような時間を伴う経験がないから。 大切なのは、仕事をたくさん経験するのではなく、たくさんの仕事をやめないで続けること。それが、パラレルキャリアが本当の意味で評価される価値、ポイントだと思っています。
―ありがとうございました。後編では、「これからパラレルキャリアを具体的にどう動かしていくのか」、「パラレルキャリアに向く人・向かない人」、「パラレルキャリア初心者は何から始めるべきか」をお伺いします!
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複合的なアウトドアショップへの夢が広がった前回。社長と面識があるというカヤックメーカーへアウトドアショップ出店についての問い合わせを試みるなど、アクションを起こした林原さん。一方で、そもそも独立開業するうえで視野に入れていたカーリペアのフランチャイズにも再度問い合わせを行うなど、まだ自身の中でも進路を迷っている印象がありましたが、決定的な動きはあったのでしょうか。
林原雄大(仮名)さんプロフィール 大学卒業後、車・旅行ガイドなどを刊行する出版社に入社。現在57歳で、2年後に定年を迎えるが、2人のこどもがまだ中学生と高校生なので、現在勤務している会社の嘱託などを視野に入れつつも、起業を優先に検討している。自身の経歴と趣味を生かし、カーリペアのフランチャイズ加盟を検討していたが、お父さまが経営していた表装業や、趣味だったカヤックを取り扱うアウトドアショップも視野に、働きながら情報収集中。

――大阪のカヤックメーカーにショップ開業の問い合わせメールをしたと前回お話しされていましたが、どんな回答がありましたか?

まだ返信がありません。具体的な内容じゃなかったからかもしれません。

――問い合わせをしてから、かなりの時間が経っていますが、催促した方がいいのではないでしょうか? 以前、接触していたカーリペアのフランチャイズにも再度問い合わせをしたと伺いましたが、こちらは反応がありましたか?

4月にフランチャイズの担当者にお会いして話を聞きました。「シートの張替えはB to Cのビジネスだが、カーリペアはB to B。個人を相手にするより需要があるので、がんばれば月商100万円くらいにはなる」と言われました。

――その言葉に対して林原さんはどんな感想を持ちましたか?

需要はあるのかなと感じましたので、やってみたいという方向に気持ちは動いています。

――ほかにも加盟を考えているフランチャイズの企業はありますか?

先日お話を伺ったカーリペアのフランチャイズ説明会では「技術を習得するのが難しいので、あまりオススメではない」と言われたのですが、ボディリペアを扱う別のフランチャイズも視野に入れています。

――「オススメしない」と言われても気になっているのはなぜですか?

ボディのへこみを直す場合、板金を頼むとかなりの値段になってしまいます。ユーザーの視点から考えると、比較的コストが安いデントリペアの需要もあると思うのです。4月に説明を聞いたフランチャイズとボディリペアも扱うフランチャイズの2社を検討しています。

――前回は完全にアウトドアショップでの開業に気持ちが傾いているように感じましたが、今回の話を聞いていると、またお気持ちが変わったようにも見えますね。

そうですね。現在、開業希望の1番目がカーリペア、2番目がアウトドアショップ、3番目は表装業ですね。

――そういえば、表装業という選択肢もありましたね。なにか進捗はあったのですか?

今のところありません。

――ほかに独立開業に関することでなにかアップデート情報はありますか?

特にないですね。ただ投資系の本には興味があるので、読んでみたいと思っています。

――次回取材までにやりたいと思っていることを教えてください。

フランチャイズ企業が集まるイベントが5月にあることをFacebookで知ったので、出向いてほかのフランチャイズも比較検討してみたいと思っています。

「-Season2-長期密着取材! 独立開業への道365日」シリーズ 次回の更新は、2017年5月26日(金)。 鎌倉市に理想の託児所を開業した菊地さん編(第6回)予定。 オープンから1カ月。運営は好調なのか!?お楽しみに!

更新日:2017/5/19
文:磯部正和 撮影:吉原朱美 撮影協力:STORY STORY

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唯一無二の存在として多くのコアファンを持つ、高級イヤホン・ヘッドホンのブランド「final」。 その企画・制作から販売までの全ての工程を担うS’NEXTの代表取締役社長・細尾満氏は、もともと工務店の現場監督、フリーランス、コンサルティングなど、今の業界とはまったく異なる畑で仕事をされていました。 アントレnet Magazine編集部では、細尾氏を2回にわたってインタビュー。 前編では、過去を振り返りながら今の細尾さんが形作られたルーツを探索。 後編となる今回は、同社の設立当初から世界に注目されるブランドに至るまでのストーリーとともに、finalの技術が結集された45万円もするイヤホンはどのようにして完成し、なぜ多くの人が求めるのか、その秘密に迫ります。
プロフィール:細尾満 S'NEXT株式会社 代表取締役社長 大学卒業後、建築系上場企業に入社し、現場監督の責任者として勤務。 退職後、フリーランスとしてデザイン設計やコンサルティングなどを行う。紆余曲折しながら、S'NEXT設立のメンバーとして参加。前社長の故高井金盛氏の後任として同社代表取締役に就任。

やりがいを求めて、優秀な人材がfinalに集まるワケ

--- final前社長の高井さんから、S'NEXT設立のお話がきたときは、どのような心境でしたか?
細尾さん 正直ビックリしましたね。S'NEXTは、もともとiPhoneのコネクターなどを製造するアメリカのメーカーで、その分野では世界で2番目に大きい会社でした。その子会社として設立されたのです。 しかし、一方で自社の新事業がうまくいかず、社内では苦労をされていたようです。 高井は親会社とは関わりなかったのですが、その新事業の立て直しに専門家として経営陣に加わりました。「デザイン経験」があって、「プロダクツの製造」を熟知し、なおかつ「コスト管理」に理解がある、その条件に当てはまるということで私が高井に呼ばれました(笑)。
---高井さんにとって、まさに細尾さんが理想の人物だったというわけですね。S'NEXTを日本で設立してから、最初はどのような事業をされていたのですか?
細尾さん 最初はテレビのスピーカーを製造するビジネスを行っていました。 もともとその技術があったので、大手の家電メーカーに納品していたのですが、テレビ業界の不振や納品から支払いまでの期間が長いということから、別のビジネスを模索していたんです。
---そこでイヤホン・ヘッドホンビジネスに行き着くんですね。
細尾さん はい。最初は大手メーカーのイヤホンやヘッドホンの製作を受託する事業として始めました。しかし、この業界はスピーカー(テレビ)業界と比べてビジネス規模が小さく、単価も安いので苦労の連続だったんです。 そのとき「じゃあ自社で高品質・高価格のブランドをつくって、地位を築いたほうがいいんじゃないか」という話になり、その案が通って内製するようになりました。
---自社製造となると、設備や人材で苦労をされるイメージがありますが、中でも人材はどのように獲得していったのですか?
細尾さん 独立独歩のやり方で進めていったら、自然と人材が集まるようになりました。 というのも、イヤホンやヘッドホンを制作する会社の多くは、中国などの海外へ製造を丸投げしてしまうことが多いのですが、我々はコアな部分を自分たちでつくります。このコアの部分というのは、技術的な面で一番やりがいのあるところです。 その独自の方向性が「S'NEXTという会社は、なにやらおもしろいことをやってるみたいだぞ」という噂が業界内で徐々に知れ渡って、大手企業の技術者がやりがいを求めて次々に弊社へ来るようになりました。 さらにイヤホン、ヘッドホン業界とは違う畑で仕事をされていた能力が高くかつ個性的な人が集まるようになりました。もっともつくりがいのあるコアな部分を自社で製造しようと舵をきったことで、優秀な人材に恵まれていったのだと思っています。

自分なりの論理的思考が、クリエイティビティを開花させる

---能力が高くて個性的な人を束ねて製品づくりを進めるにあたって、会社ではどのような風土をつくりあげたのでしょうか?
細尾さん 基本的には社員の主体性に任せています。 社長である私もそうですが、自分自身で試行錯誤して、能動的に仕事をするようにしています。 成功した前例をそのまま再利用するのではなく、「これは前のものと同じでよいのか?」と常に自問自答を繰り返しています。 なので弊社では「前の担当の人がやっていたからその慣習に従ってやる」といったことはありません。 「行動の一つひとつに対して、自分なりの論理を持って動く」という風土づくりをしています。
---finalの製品はほかの製品とは一線を画す、圧倒的なライブ感のある音が特徴だと思うのですが、それらを生み出すクリエイティビティは自分なりの論理に沿った思考からきているのでしょうか。
細尾さん その通りです。さらにいえば、弊社でクリエイティビティが求められるのは、製作サイドだけではありません。 クリエイティビティというのは、膨大な量の情報を管理し、それを基に分析をして論理立てていけば、どんな製品や仕事でも生み出すことができると私は思っています。 たとえば、スーパーのレジ打ちでも、効率的にさばく方法を考えたり、ミスをしないように仕組みをつくったりなど、作業的な仕事にもクリエイティビティを取り入れることができる。全てのクリエイティビティは、そうした情報の分析によって生まれるのです。 だから我々は制作におけるクリエイティビティの向上はもちろんのこと、製造過程や営業など直接製作に関係ないと思われる現場にも、クリエイティビティの思考を求めています。

「そろばんをはじく前に、”おもしろい”かどうかが重要」。斬新なアイテム発想の真髄はここにあり!

---45万円のイヤホンという今までにない高価格帯の製品は、何がきっかけで誕生したのですか?
細尾さん 弊社の商品は、原理的に正しいことを徹底的に追求することをコンセプトにしています。 それを前提に、さらに”おもしろい”ということが社員や協力者をひきつけるのに重要であると思っています。
---なぜおもしろさを求めるのでしょうか?
細尾さん せっかく仕事をしているのですから、おもしろいことをやりたいじゃないですか(笑)。 おもしろいことは、何もないところからつくっていくもの。苦労もともないますが、だからこそやりがいがあるんです。 例えば45万円のイヤホン『LAB Ⅱ』は、じつは3Dレーザーでカットしたり、表面の凹凸を削るのに少々危険な薬剤を使用したりと、かなり手間がかかる製造工程を経てつくられます。 そうやってできあがった製品のクオリティの高さに「これは素晴らしい! おもしろい!」と思ったわけですが、その製造を快く受け入れてくれる工場がありませんでした。 そりゃ危険なことはやりたくないですからね(笑)。逆にいえば、だからこそ他社では真似がしづらく、『LAB Ⅱ』は唯一無二の商品になり得たのです。
---なるほど。45万円となると、やはり富裕層がメインターゲットなんですか?
細尾さん よくいわれますが、日本では富裕層というよりイヤホン・ヘッドホンのマニアに好評です。ニッチな分野には必ずその分野にとても詳しいマニアが存在すると思うので、そこにうまく刺さったのだと感じています。 また感度の高い外国人からもご購入いただいています。特にフランスで受け入れられたことには驚きました。
---最後になりますが、今後はどのようなビジネスを展開したいですか?
細尾さん 直営店を持ちたいですね。やはりブランド作りの一貫として店を運営することは大切だと思うので。 また、おもしろいコンテンツはあるけれど、きちんとしたバックヤードが整っていない会社が多いので、彼らを支える仕組みをパッケージとして提供することにも興味があります。 会社としては、私がいなくてもうまく機能して維持できるような組織にしたいですね。社員全員が自ら考えて自分たちで行動する、いわゆる今のドーナッツ型組織をより強固なものにしていきたい。 そのうえでfinalを確固たる世界基準のオーディオブランドに昇華させたいと思っています。
---壮大なビジョンがあるんですね。今回はありがとうございました!
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45万円のイヤホン。いったいどんな音が出るか想像できますか? これを製造販売する「final」は、高級イヤホン・ヘッドホンブランドとして不動の地位を築き、国内外で注目を浴びている日本のオーディオメーカーです。 今回取材したのは、同社の代表取締役社長 細尾満氏。イヤホン・ヘッドホンといった音響業界ひと筋で働かれていると思いきや、このfinalの社長になるまでは、まったく別の畑でお仕事をされていました。 なぜ、細尾氏はfinalの経営者に就任したのか。経営者になるまでの経緯から、その源流を探ります。
プロフィール:細尾満 S'NEXT株式会社 代表取締役社長 大学卒業後、建築系上場企業に入社し、現場監督の責任者として勤務。 退職後、フリーランスとしてデザイン設計やコンサルティングなどを行う。紆余曲折しながら、S'NEXT設立のメンバーとして参加。前社長の故高井金盛氏の後任として同社代表取締役に就任。

仕事における信頼とは「最後までやり抜くこと」

---学生時代や社会人なりたての時期はどんなことをされていたのですか?
細尾さん 学生時代はバックパッカーでいろんなところを巡って過ごしていました。大学を卒業してからは某工務店にアルバイトとして就職。現場監督の仕事をしていました。 入社して短い期間で責任者に就任したので、正社員の登用も早く、自分でも驚いていました(笑)。仕事の量はアルバイトも正社員も変わらず多く、毎日長時間働いていたんですが、仕事をこなしても次々に仕事が降ってくるんです。 あまりにも仕事量が多すぎて、あるとき『なんでこんなに仕事が途切れずに受注できるのか』と疑問に思ったんです。 そしてじっと先輩社員たちの仕事を見ていたらだんだん分かってきました。 先輩社員たちは『いただいた仕事は最後までやりきる』という姿勢で仕事をしていました。 この積み重ねが信頼を築いて、営業をしなくても次々に仕事の依頼が来るのだとわかったんです。ここで学ばせてくれた先輩たちはみんな、今でも私の師匠です。

徹底的に分析して、納期は必ず守る。フリーランスで信頼を勝ち取るために必要な2つのポイント

---工務店のアルバイトから社員、責任者へとステップアップされた細尾さんですが、その後フリーランスとして活動されたんですよね?その経緯はなんだったのでしょう。
細尾さん 工務店で働いているときに、社外の人から独立の声がかかったんです。 それを機に退職して、フリーランスとして広告代理店へ企画を提案する会社のゴーストライターをやったり、キッチン関係の仕事の責任者を任されたりと、さまざまなジャンルの仕事をするようになりました。
---工務店の責任者からフリーランスを経て、どんどん異なる業種のお仕事をされていたんですね。
細尾さん そうですね。他にも雑貨屋の家電製品の企画とか、アニメーションの製作などもやりましたし、本当にいろいろな仕事をしてきましたね(笑)。
---なぜ、そうした経験したことのないような仕事を受けようと思ったのですか?
細尾さん 仕事を受ける、というよりも目の前の仕事をやっていたら発注元の方に「あれもできる? これもお願いしていい?」といろいろ頼まれるようになりまして…。 それをどんどん受けていったら、結果的にいろいろな仕事をするようになっていったんです。
---同じ発注元の方にさまざまなお仕事をお願いされるのは、簡単なことではないと思います。
細尾さん たしかに、クライアントとの信頼関係は築けていましたね。 その信頼関係を勝ち取るために、気をつけたポイントが2つあります。 まず1つめは、とにかく締め切りまでに必ず仕事を間に合わせるということ。会社の肩書きがないフリーランスでは、とにかく仕事の納期とクオリティの高さが必須です。 これは後から聞いた話ですが、お世話になっていたクライアントや先輩たちから、「細尾は必ず納期を守るからすごいよな」と言っていただいたことがあります。 そうした信頼が次の仕事、その次の仕事を生むんだと思います。
---なるほど。納期をとにかく守ることは信頼を勝ち取る上でとても重要なんですね。続いて2つめのポイントはなんでしょう。
細尾さん 2つめのポイントは、分析の重要性です。 さまざまなお仕事をすることが増えていったときに、あることに気づきました。それはどんな仕事でも、細かく分析する工程ややり方は一緒だと気づいたんです。 それから、受けた仕事はまず分析をすることから始めます。 「この仕事で達成すべきことはなんなのか?」 「クライアントは私に何を求めているのか?」 「どうしたら期待以上の成果を上げることができるのか?」 こうした分析を徹底的に行い、自分なりの法則を見つけ、あとは必ず締め切りに間に合わせるように仕事を進めていきました。 正直、私は自分のことをそこまで賢い人間だとは思っていません。 それでもこの2点を押さえて仕事をしていったら、次から次へと仕事をお願いされるようになった。自分なりのやり方でも、一生懸命にやればできるようになるし、人から評価されるようになるんだなと感じました。 そして仕事をやればやるほど、徐々に周辺の人たちに認知され、口コミでさらにその周囲の人へ伝わっていきました。このフリーランスのときに、オーディオ関連の仕事もさせていただいたので、この時の経験が今に生かされているのかもしれませんね。

赤字会社の立て直しを依頼され、過去の経験と分析力でV字回復を果たす

---信頼を勝ち取るための2つポイントをおさえつつ、フリーランス時代で特に成果をあげた大きな仕事はありますか?
細尾さん ある日、以前に勤めていた会社の社長から『とある会社の経営を手伝ってくれないか』と相談を受けました。その会社は100年以上もの歴史があり、システムキッチンをオーダーメイドするハイエンドのインテリアメーカーです。 当時は業績が不振で、赤字経営の状態でなんとか立て直してほしいとのことでした。最初は断りましたが、納得のいく報酬がもらえるということでOKしてしまったんです(笑)。 この会社では、主にコンサルタントとして仕事をしました。
---さまざまな仕事で培ってきた経験を活かして、コンサルタントとして参画したんですね。具体的にはどういった内容の業務をしていたんですか?
細尾さん 営業マンがお客さんと対等な立ち位置で話せるように、マニュアルとなる「営業トーク」を作成したり、外で営業する優秀な社員をショールームに待機させ、集めたお客さんを彼らが接客するようにしたりなど、コンサルティングを務めた内容はかなり多岐に亘ります。 そのほか、プラン作成のプロフェッショナルが若い社員に付いて助言をしてもらうなど、新人のフォロ―などもしました。 そうした努力の甲斐あって、業績の底上げを図り、黒字に転換して成果をあげることができました。正直、このときはうれしかったですね。 その会社のコンサルタントを務めている時に、finalの元社長である高井氏から今の会社の「S'NEXT」の新事業立ち上げのお声がけをいただきました。finalへ入社するきっかけはこの高井元社長の鶴の一声だったんです。
---ありがとうございます。後編は、細尾氏がS'NEXTに参画して、国内外から注目を浴びるように成長するまでの現在のお話を伺います。45万円のイヤホンの秘話もお楽しみに!
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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズン。開業までのプロセスや想いを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリー。
山本晋也さんプロフィール 大学卒業後、学生時代にアルバイトをしていた大手の学習塾に入社。退職後、フランチャイズの学習塾を開業。雑誌の取材を受けるなど経営は順調だったものの、理想とする塾のスタイルと違うと感じ塾を閉める。その後、大手の個別指導塾に入社し、個別指導の運営方法などを勉強。退職後、日本政策金融公庫で創業融資を受け、2017年3月、神奈川県に子別指導塾らぼという塾を開校した。

――開校して1カ月が経とうとしていますが、どんな毎日を送っていらっしゃいますか?

月曜日から金曜日まで、13時ごろに出社して事務作業をしています。作業が終わったら、その日に来る生徒さんたちの授業の準備をします。こどもたちは15時20分ごろから来校し始めるので、それまでに雑務は終わらせるようにしています。

――生徒さんの数も順調に増えていますか?

開校したばかりなので順調かどうかまだ分かりませんが、ありがたいことに体験授業を受けた子は全員入会してくださいました。 “楽しかった”“分かりやすかった”と体験後の感想を聞いた時はうれしかったです。雰囲気も気に入ってくれたようで、入会後に“この塾を自慢したいから友達を連れて来てもいいですか?”と言ってくれる子もいたんですよ。 何もかもイチから準備をした自分の塾に入会してもらえるというのは、フランチャイズで開校した時の嬉しさと比べても格別です。

――開校前に配布したチラシの効果はありましたか?

多少はありましたが配布した枚数も少ないため、チラシを見て来校したというよりも通りがかりの方や、塾の隣にある音楽教室の生徒さんからの問い合わせの方が多いという印象です。割合でいえば、来校した子どもたちの2割程度かと思います。 自由にチラシを手に取れるように教室の前に置いているのですが、そちらは結構減っているのでチラシ自体はとても役に立っていると思いました。 入会前に行うカウンセリングも、以前勤めていた塾では、チラシを見て電話予約をしてくださる方が多かったのに対し、今回は飛び込みでお越しになる方が多いです。 理由は正確には分かりませんが、それだけ教室や看板が目立っているということかもしれませんね。

――では、実際に授業を始めてみて、ほかの塾との違いや強みは何だと思われますか?

体験授業で来てくれたこどもたちには、最初のカウンセリングでその子のレベルや性格などを把握して、入会後の指導につなげるようにしています。 うちは“個別”ではなく“子別”指導とうたっているので、こどもの能力や性格などに合わせて、一人一人教え方を変えているんです。 予習や復習のやり方、苦手を克服するためにやった方がいいこととそのやり方も教えます。家での学習方法も指導します。 やる気を出す方法も人それぞれなので、その子に合ったやり方を教えてあげるんです。授業のない日でも自習という形で来てもらうこともありますよ。

――それは生徒たちにとってメリットがたくさんありますね。これからの販促活動や黒字化できそうな時期などについて教えてください。

地道に口コミで広げていくのが一番だと思います。 開校時にやっていた、いろいろな事務作業も落ち着いてきたのでポスティングの販促活動を再開する予定です。 配布は前と同じ業者にお願いして、前回同様でこの塾から半径1キロくらいのエリアを中心に、塾からは少し離れているけれど通塾可能という範囲で以前とは違うエリアでもやってみようと思っているんです。今回は時間があれば、自分でも配ってみるつもりです。 チラシは開校時に作ったものとはデザインを少し変えて、写真も変更しようかと考えています。 黒字化については、今のところ夏ごろをめどにできればいいなと思っていますね。

――そうなんですね。起業後、経営者になったと感じることはありますか?

はい。それはいつも感じています。 全てにおいて制約がないこと、裁量権は常に自分にありますから。 自分1人で全てを決めなければならないということになりますが、それをプラスに感じる人にとってはフランチャイズよりも魅力的だと思います。 1つ例をあげるとすると、チラシのデザインや記載内容の決定から、何枚をいつどこにどのような方法で配るかといったことまで、全部自分の考えで決められます。私はこのスタイルの方がやりがいを感じるので好きです。

――最後に、今、悩みはありますか?

経理の仕事が大変だなと思い始めたので、税理士さんにお願いしようと考えています。 以前フランチャイズで開校した時は、パソコンの会計ソフトを使ってやっていたのですが、結構時間がかかったので、今回は外注にしようかと。経理に割く時間の分だけ、本業に集中できればと思います。

「-Season2-長期密着取材! 独立開業への道365日」シリーズ
次回の更新は、2017年5月19日(金)です。
託児所をオープンした菊地さん編をお楽しみに!

更新日:2017/5/12
文:堀家かよ 撮影:中村公泰

独立開業への道 365日 アンケート2

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「そろそろ、フリーランスとして独立しようかな。」 そんな風に、脱サラしてフリーランスになる、という選択肢はそうめずらしいものではなくなってきました。しかし、新卒でフリーランス、その後サラリーマンになるという例ってあまり聞いたことがありませんよね。 今回インタビューしたのは、トレンダーズ株式会社の霜田明寛さん。 霜田さんは、トレンダーズの自社メディア『永遠のオトナ童貞のための文化系WEBマガジン・チェリー』(http://social-trend.jp/category/cherry/)の編集長でありながら、映画ライター、就活アドバイザー、ミスキャンパス評論家に司会者……と、幅広く活躍されています。 しかし霜田さんは、もともとは新卒でフリーランスとして活動されてから、27歳で初めて就職の道を選んだという珍しい経歴の持ち主。そして現在も会社員としての業務に尽力しながらパラレルワークとして社外の仕事にも積極的に取り組んでいます。 そもそもなぜ、フリーランスから会社員になったのか。そしてなぜ、会社員になった今でもパラレルワークをするのか。ご自身のキャリアと、働き方の目的についてお話を伺いました。

フリーランスから会社員へ。就活アドバイザーとして感じたキャリアの必要性

―まずは霜田さんの簡単なご経歴から教えてください。
霜田明寛さん(以下、霜田さん) 僕はもともと“ジャニヲタ男子”と自称するほどジャニーズ好きだったんです。好きすぎて自らジャニーズのオーディションを受けるほどでした(笑)。 就活生の時「ジャニーズになれない今、就職活動という選択肢の中で選べる最も近い職業だ」という理由でアナウンサーを目指して、テレビ局を50社ほど受けていました。
―だいぶ下心があるような気がしますが…(笑)。
霜田さん そうですね(笑)。しかし結果はというと、大学2008年卒の“就職氷河期時代”前という就職活動で有利な世代にも関わらず、どの会社からも内定をもらうことはできませんでした。 ただテレビ局で試験を受け続けたこともあり、マスコミ系新卒採用の事情にはとても詳しくなってしまったんです。その経験をもとに、大学5年生の夏に「出版甲子園」にエントリーして就職活動に関する本を書くことになりました。 そして大学卒業直後に『テレビ局就活の極意 パンチラ見せれば通るわよっ!』(www.amazon.co.jp/dp/4904500032)を出版しました。
―では、大学卒業後はライター1本でやられていたのですか?
霜田さん いえ、最初は「本も出したしライター業でいけるかな」と思っていたんですが、そう現実は甘くありませんでしたね。 出版した本を片手に雑誌社へ売り込みに行き、ライター業を始めてはみたんですが、担当の雑誌編集者の方に「うちの原稿料だけではお前を十分食べさせてやれないよ。他に食いぶちがあるなら、それはやめないほうがいい」と言われてしまったんです。まあ、優しさなんですけどね。 そこからは雑誌のライターもやりながら、並行してほかの仕事も行うようになったんです。
―具体的にどんなお仕事を?
霜田さん 大学在籍時から中学受験の塾講師をやっていたので、そのまま続けていました。それに加えて、本の出版から派生した就活に関する講演活動なんかもしていましたね(笑)。 最初はライターだけでは生活を賄えなかったので、食べていくために意図せずにですが、フリーランスという形で、パラレルキャリアの道を歩んでいったというわけです。
―なるほど。現在働いていらっしゃるトレンダーズ株式会社にはどういった経緯で入社されたのでしょうか?
霜田さん 入社の経緯の前に、就職を目指すきっかけについてお話します。新卒からずっとフリーランスでやってきたのですが、会社に入っていた方がキャリア的に人に信頼されるなと思ったからなんです。 というのも、就活に関する講演活動で就職のアドバイスをすることが増えていくにつれて「就職本を書いているのに何で就職していないのですか?」と、突っ込まれることが多くなりまして。 正直、講演の対象としている学生の場合、しっかりとした就活テクニックを教えてあげられれば、僕のキャリアはそこまで重要視されません。 ただ、会社員として働いている大人の方から「就職をしたことがない若者が何をいっているんだ」という、些末な意見を言われるようになったんです。 会社員になることで、僕の話の中身が急に変わるわけではないのですが、外からの見え方を変えることで、信憑性が変わるなら、一旦変えてみようと。 今後も就活アドバイザーとしての活動は行っていきたいと思っていましたし、話の信憑性を高めるためにも一度就職しようと決めたんです。 ターゲットである就活生には信頼してもらえるようになったので、今度はガワからうるさいことを言ってくる大人たちに黙ってもらおう、と。 もちろん、それだけが会社員になった理由ではなく、多くある理由のうちのひとつですけどね。 その時にちょうど雑誌の企画で、東京ビッグサイトで行われている就活イベントで、女子大生をインタビューする仕事をしていたんです。 取材が早く終わったついでに、イベントも見て回っていました。そこでたまたまトレンダーズのブースが目に留まって、企業の説明を受けたんです。
―取材中に偶然見つけたんですね。なぜトレンダーズが目に留まり、入社に至ったのでしょう?
霜田さん たくさん理由はありますが、ひとつ挙げるとすれば、なんとなく会社員=縛りが多いといったイメージがあった中で、トレンダーズを見ていると、そうしたイメージがなかったということですね。 当時はまだはあちゅうさんなんかも在籍していて、活躍されていたので。 僕にとって、就職をすることで怖かったことのひとつが、SNSの自由を奪われることだったんです。フリーランスだったので、それまで縛りなく、SNSは活用してきていました。 僕の場合、個人の就活セミナーの集客もそこからおこなっていますし、本の宣伝や、もちろん人とのコミュニケーションにおいても重要なツールですよね。 だから、そこの腰が重くなったり、「これは所属企業ではなく個人の見解です」とかいちいち言わなきゃいけない不便さは避けたかったんです。 トレンダーズにはそういった制約はなかった、というのが理由のひとつではありましたね。

安心してパラレルワークができるのは、しっかりとした土台があってこそ

―仕事内容より、パラレルワークやそれに付随する活動を認めてくれる会社を探していたということですね。では、現在トレンダーズで『チェリー』というメディアの編集長をされているということですが、入社直後からメディア事業に携わっていたのですか?
霜田さん いえ。最初は『チェリー』も立ち上げていませんでしたし、まずメディアを任されるとは思ってもいませんでした。入社してから半年くらいは、ライター実績を見込まれてプレスリリースを書く仕事をしていましたから。 それからまた半年経った頃、チェリーの前身となった『Social Trend News(ソーシャルトレンドニュース)』というメディアの立ち上げに携わらせて頂いたんです。 そこの編集長として2年ほど運営していたのですが、少し言い方は悪いですが、売り上げが上がれば上がるほど、コンセプトが薄くなりつつあったんですよね。 そこで「トレンダーズがメディア運営の会社という面を色濃くしていく上で、そうじゃないタイプのメディアがあってもいいんじゃない?」という意見が出て、コンセプトがしっかりした色のあるメディアを作ろうという話になりました。 そこから誕生したメディアのうちの1つが『チェリー』というわけです。
―なるほど。『チェリー』とは具体的にどういったメディアなのか解説して頂けますか?
霜田さん はい。『チェリー』は“永遠のオトナ童貞のための文化系マガジン”と標榜しておりまして、青春時代を引きずっているオトナたちに向けて、文化系情報をお届けするメディアです。 最近は俳優や映画監督さんへのインタビュー記事も多いです。基本的に自分が、苦しい青春をおくっていた時期に映画などのカルチャーに助けられてきたので、同じような経験を経た人たちを想定して、それらを紹介するようにしています。 人気記事としては、過去の仮面ライダーシリーズ俳優へのインタビュー記事はよく読まれていますね。個人的に平成仮面ライダーを見て高校時代を過ごしていたので、自然と深堀りした記事になるのだと思います(笑)。 「幼少期に仮面ライダーを見ていたけど、大学生になった今、俳優さんのインタビュー記事を見つけて、裏側の思いを知った」なんて言われると嬉しいです。
―『チェリー』編集長兼映画ライターとして活動されているわけですね。
霜田さん そういうことですね。映画ライターの活動の延長で、その映画のトークイベントの司会を務めさせて頂くこともあります。 また同様に就活講演の延長でも、大学生の実態を知る専門家として多くの学生向けイベントに登壇しています。
―霜田さん個人の仕事によるつながりが会社の仕事にも結びついていると。
霜田さん はい。いい意味で仕事と個人の活動とのバランスが取れていると思います。社外のイベントで僕を知って、トレンダーズに入社することを決めた学生もいました。 だからこそ会社にも僕が自由に動くことをメリットだと感じてもらっている、という部分は大きいですね。 大学卒業直後、不安定だったからこそ、多くに手を出して始めたパラレルキャリアの質が上がっているというか、それぞれの枝が太くなっていって、今は会社という土台もあるというのはありがたいことだなと思います。

独立するなら会社員のうちから準備を!収入がある時にビジネスを育てることが大切

―さて、パラレルワークを実践し続けてきた霜田さんですが、ご自身で経験されて実感したパラレルキャリアのメリットとデメリットを教えてください。
霜田さん まずデメリットから言うと、パラレルワークをしながら会社に勤めていると、どこでもアウェーに感じます。 やはり、「この会社で骨を埋めます」というスタンスの方からすれば、こちらがどの仕事にも本気で取り組んでいたとしても、中途半端に見える部分はあると思います。 もちろん、高いクオリティの仕事をすることで、その誤解は解けていくと思いますが、どんな場所でも踏み込んだ最初の第1歩はアウェーだと覚悟しておいたほうがいいですね。 メリットで言うと、デメリットと逆説的ではありますが、ひとつの人間関係だけに縛られなくていいということでしょうか。 どうしてもソリの合わない人や組織があった場合、そことは仕事をしないという選択肢も生まれるわけで、そういう危機のときに逃げ場がなくて困る、ということがなくなります。 あとは、フリーランスと会社員どちらも経験してきているので、両方の方の気持ちが分かる、ということが挙げられます。 つまり、会社員一筋の方と比べ、フリーの方とのコミュニケーションは取りやすいというのはありますね。
―具体的にフリーランスと会社員との接し方にどういった違いがあるのですか?
霜田さん 例えば、経験則ですが、大手の会社員の方は、とりあえず打ち合わせをしたがる傾向にあります。 ですが、あまり実がない打ち合わせの数を増やされるというのは、フリー側にとっては収入を減らされているようなものなんです。 細かい話ですが、交通費も重んでいきますし、何より、何も生み出さない会議は時間がもったいない。その時間、他の仕事をしていれば、それが収入につながっていきますからね。 そういったフリーの方が本当は止めてほしいことを僕のようなフリー出身者は感覚としてもっているので、外部発注の際は相手に負担にならないようなコミュニケーションを取れるように配慮はしています。
―両方の観点から見られるというのは武器ですね。では、そういったことを踏まえて、どういった人がパラレルキャリアに向いてる、もしくは向かないと思いますか?
霜田さん 今いる1つの会社の中でだけ偉くなりたい人は向かないと思います。 その会社で出世したいとか、1つの世界の中で命をかけて生きていきたい、と既に人生プランが決まっている方はその仕事、その中での人間関係などに全ての時間を注いだ方がいいのではないでしょうか。 逆にまだ自分に何が向いているかわからない上に、今いる身のまわりの人から褒められなくてもいい、という人は向いていると思います。 結果的に10人に褒められるのであれば、同じ会社の10人ではなく、10コの会社のひとりひとりに褒められたいという人。様々な価値観の人たちと接したいという人。 様々な仕事場、人と接することで物事を複眼的に捉えられると、ひとつの価値観に染まらずにすみますよね。 だから僕は、外に出ていろんな場所に顔を出すようにしています。
―独立・起業を考えていて、その前段階としてパラレルキャリアを踏もうとしている初心者は、まず何から手を付けた方がいいですか?
霜田さん まず、最初からお金がもらえると思って仕事を始めない方がいいのでは、という提案はできますね。 僕の場合、就職本を出してイベント講演は行っていたものの、そこで知り合った就活生に単独でお願いされる就活相談は全てタダで受けていた時期がありました。 その中からキー局のアナウンサーが出たり、実績が出はじめてから、講座を提案してくれる企業などが出てきて、お金をもらえるようになりました。そこまでに約2年かかりましたけどね。 なので、固定の収入がある会社員であるうちに、タダでもいいから何か活動をやり始めることをお勧めします。 そうした活動を何年か経て、いよいよ独立しようと思った時に、あなたの仕事が社会から必要とされるものになっていて、金銭化することができるそういうステップアップが理想的なんじゃないかと思います。
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柏井 慶一さん(58歳)
(株)モンマス/東京都渋谷区
2004年にタバコ会社を退職。ロンドンのモンマス通りで見かけた店をヒントに、千駄ヶ谷にアイスミルクティー専門店「モンマスティー」を開業。「おいしい物を作り、人を幸せにする」が店のコンセプト。静岡にも店舗が。音楽活動も行っている。

VOL.172
人も街も盛り上げる 千駄ヶ谷のシンボル的店

街の真ん中、 ブレないでいるだけだよ

は7時から、夜は24時まで。いつも人が集まってる? 距離感がいいのかな。あんまり縮めないようにしてる。外の空気を吸いに出てきた会社員が、軽く天気の話でもして、なぜか元気になって帰ってく、みたいなさ。名前も働いてるところも聞かない。でも顔は覚えてるし、小さい子が来たら試飲用の紅茶に黙ってホイップをつけてやる。そういう距離感。  大きい会社に20年勤めながら「こんなんでいいのかな」と思ってた。成績さえあげれば寝ててもいい、そういう世界だったからさ。病院に行ったら看護師さんたちが一生懸命働いてる。それを見て、俺は何やってるんだ、血の汗が出るぐらい働かないとダメと思った。振り返ると20代、渋谷の紅茶屋で働いてた頃が一番苦しくて、だけど楽しかった。だから紅茶屋を開いたわけだ。  おいしい紅茶を飲んでもらいたい。けどちょっとだけ「幸せになってもらいたい」という気持ちのほうが上かな。うまく言えないけど、カップの渡し方1つ、こうじゃなきゃ、というのがある。言葉じゃないよ。俺はブレずに毎日、死ぬほど働くってだけ。それを見て、ああ俺もって、頑張るやつらがいるんだよな。


更新日:2017/5/8
取材・文/東 雄介 撮影/刑部友康、阪巻正志
アントレ2017.冬号 「これが私を生かす道 ライフワークで食べていく!」より
2村木さん切り抜き

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村木真紀さん(42歳)
(特非)虹色ダイバーシティ/大阪市北区
大手製造業、外資系コンサルティング会社などを経て、2012年に虹色ダイバーシティを設立。LGBT(性的マイノリティ)をテーマとした調査・講演・コンサルティング活動を行う。ちなみに「虹色」は多様性を意味しており、LGBTのシンボル。

VOL.171
性的マイノリティが、いきいき働く職場づくり

自分を隠さず働けるって、 素晴らしい

は5回転職しています。自分の性格のせいだと思い込んでいたんですが、LGBT対策に取り組んでいる会社が海外にあることを知ってようやく「レズビアンだからだ」と思い当たりました。  そういえばどの職場でも何となく居心地が悪かった。飲み会で「彼氏はいるの」と聞かれて女性が好きだとは言いにくい。また日本企業には職場の禁止規定に性的指向についての内容が盛り込まれていないので、差別的発言に傷つけられても訴えられません。  同じ悩みを持つLGBTがたくさんいることも分かりました。こうした問題をまとめて「LGBTがいきいき働く職場づくり」をテーマに講演するようになったのが、虹色ダイバーシティの始まり。老舗日本企業での経験、外資系コンサルでのプロジェクトマネジメントの経験、うつで休職した経験、全部をつぎ込める仕事なんです。もう隠していることもない。  ここ数年で多くのメディアに取り上げてもらいましたが、本当は裏方のほうが好き。できれば私よりしゃべれてルックスのいい人に前に立ってもらいたいんですが…日本企業の文化に精通していて、管理職を説得できる人間となると、私かー、みたいな(笑)。


更新日:2017/5/02
取材・文/東 雄介 撮影/刑部友康、阪巻正志
アントレ2017.冬号 「これが私を生かす道 ライフワークで食べていく!」より
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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズン。開業までのプロセスや想いを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリー。
橋爪さんご夫妻プロフィール ご主人さまは、山梨県出身の33歳。東京の大学を卒業後、都内の新聞社に就職。その後、保育園の管理事務職に就く。体調を崩した祖父を想い山梨県へUターンするも、勤めていた保育園から、新規園の立ち上げスタッフにと声がかかり再度、東京へ。新規園が軌道に乗ったのを見届けたのち退職。2016年に山梨県へ移住し地元企業に勤めるが2017年3月末に退職し、現在は開業準備に専念。奥さまは神奈川県出身の44歳。大学卒業後は、大手学習塾、塾経営など教育業界や企業に勤務し、保育園管理事務職に。現在は山梨県内の企業で働く。ご夫婦で山梨県産のフルーツを用いたゼリーを主力商品とした6次産業での開業を予定している。

――開業時に主力商品にしたいとおっしゃっていたフルーツゼリーの開発は、その後いかがでしょうか?

ゼリーの甘さについては、99%は決まったという感じです。使用するフルーツによっては、色がゼリーに移ったり、固まり方が違ったりしてくるので、素材ごとに品質の調整をすれば完成です。 旬のフルーツを使ったゼリーの販売を考えているので、これまで開発してきた枯露柿(ころがき)・キウイ・イチゴのゼリーなどは、シーズンが過ぎてしまい、販売には間に合わなかったのが残念です。 ただ、ゼリーのベースはできているので、今後は、さくらんぼや桃などのハウス栽培によって通常より早く育ったフルーツを使用し、より完成品に近づけていこうと思っています。フルーツがハウス栽培ではなく普通に外で育てる露地栽培に移行する時期、いわゆる旬の時期までには販売できる状態にしていきたいと思っています。
露地栽培が始まる時期は、その年の気候により若干違ってくるので、どのエリアでいつ始まるのかを地元紙で常にチェックしています。 あとは、旬のフルーツを使用したゼリーと並行して、通年販売できる商品も開発をしていきたいですね。フルーツゼリーだけにこだわらず、でも同じように地元、山梨県産のものを使うなど、地域活性化につなげられたら良いなと思っています。

――前回、商品を入れる容器のサンプルを取り寄せたところだと伺いましたが、実物はいかがでした?

サンプルを使用してみたのですが、自分たちらしさが欠けていると感じたので、足つきタイプにこだわらず、ほかのタイプも検討してみようと思いました。 製菓材料を販売しているお店で偶然見つけた容器がイメージにピッタリだったので、これと同じだと思われる容器のサンプルと見積もりを業者にお願いしているところです。 容器が決まれば、これに合う蓋も探したいと思っています。

――納得のいくものに出合えたようで良かったですね。難航していた物件探しはどのような状況ですか。

それが実は、最近は売り物件を見ているのです。 賃貸は、希望より広すぎたり、高かったり、そうかと思えば安いけれど古くてあれこれ工事が必要だったりしたので、借りた後に工事費などがかかるのであれば、購入してもよいのではないかと思い始めたからです。 金額は3年~5年分の賃料と同じくらいの価格帯で考えています。場所は、以前と変わらず、地元の北杜市内で探しています。
購入物件を探し始めて知ったのですが、一定の坪数以上でないと土地の売買が禁止されているエリアがあったり、別荘地だと商売禁止のところもあるようなんです。そういう規定をクリアしていても、物件によっては購入後に木を切る必要がありそうだったり、下水を引き込むなどの工事が発生するような土地もあるので、賃貸物件探しにはなかったポイントを確認しながら探しています。

――そうなんですね!購入物件探しは不動産屋さんに相談されたのですか?

基本的にはインターネットで検索して、良さそうな物件を見つけたら不動産屋に問い合わせたり、その近くを通るときに2人で寄ってみたりしています。出店に向いていそうな土地に「売地」という看板が立っているのを見かけたときには、その看板にある電話番号にかけてみたりしています。 購入を検討し始めたので、保健所に設備面での開業条件を聞きにも行ってきたんですよ。 菓子製造業で開業された方の開業準備ブログなんかを読んでいたのですが、実際に聞いてみようと思って。購入してから開業条件に満たない物件だったということでは困りますしね。 保健所では「ログハウス調の店舗の場合、どのような条件がありますか」と聞いてみたのですが、屋内の壁に木の凸凹があるのはNGということや、天井やお手洗などについても聞けました。 最近では、テレビのお店紹介などを見ては「こういう物件や設備で開業しているのか」と思ったりするようになりましたね。

――そうだったのですね。賃貸物件探しのときは知人の方や開業相談をしている銀行・商工会の方々とも探していらっしゃいましたが、購入物件もみなさんとご一緒に探されているのですか?

はい。賃貸物件の時と同様に、みなさん良い物件がありそうなときは連絡をくださるので有難いですね。 銀行の方には、物件が決まったら助成金の申請などすぐ動けるように事業計画を見ていただいたりもしています。 商工会については、北杜市の商工会の開催している創業塾というものを受講する予定です。早ければ5月下旬からスタートとのことなので、どんなことが学べるのか楽しみにしています。

「-Season2-長期密着取材! 独立開業への道365日」シリーズ 次回の更新は、2017年5月12日(金)予定。お楽しみに!

更新日:2017/4/28
文:樋口代史子 撮影:中村公泰

独立開業への道 365日 アンケート2

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多様な働き方が普及しつつある今。さまざまな仕事を同時進行する“パラレルキャリア”を選択する人が増えてきています。 今回インタビューをさせていただいた、カルロス矢吹さんは、ライター・ラジオディレクター・日本ボクシングコミッション役員・タレント・渋谷ロフトナインのブッキング担当・フォトグラファー・美術展の仕切りなど、パラレルキャリアという言葉では括りきれないほど広い領域でさまざまな仕事をしています。 1つの本業に絞らず、さまざまな仕事を同時に行う「複業」。まさに矢吹さんの働き方を表現するのにふさわしい言葉ですが、彼は今、ライターという職業をあえて自分の「本業」に決めたそうです。 なぜ、複業で活躍されていた矢吹さんが、自分の「本業」を決めたのか。そこには、あらゆる仕事をしてきた矢吹さんならではの考えがありました。
プロフィール:カルロス矢吹 1985年宮崎県生まれ。ライター、(株)フードコマ代表。 大学在学中より、グラストンベリーなど海外音楽フェスティバルでスタッフとして働き始める。以降、日本と海外を往復しながら、音楽・映画・スポーツ・ファッションなど世界各地のポップカルチャーを中心に執筆業を開始。 コンサート運営、コンピレーション編集、美術展プロデュースなど、アーティストのサポートも行う。2012年より、日本ボクシングコミッション試合役員に就任。山中慎介や内山高志ら、日本人世界チャンピオンのタイトルマッチを数多く担当。 トークライブハウスShibuya LOFT9のブッキングも担当している。著書に「のんびりイビサ」(スペースシャワーブックス)、「北朝鮮ポップスの世界」(花伝社、髙英起との共著)、「アムステルダム〜芸術の街を歩く〜」(大和書房)「NEW LONDON-イースト・ロンドン ガイドブック-」(DU BOOKS)がある。

何をやるにも“一石三鳥”を常に考える。パラレルキャリアで稼ぎ口をつかみとる方法

―矢吹さんはさまざまな仕事を幅広くこなされていますが、現在は主にライターとして活躍されていますよね。ライターという職種に出会うまでの経緯を教えてください。
カルロス矢吹さん(以下、矢吹さん) 大学生のとき治験(新薬の開発)のバイトをさせてもらっていたのですが、わりと暇な時間が多かったんです。その間はマンガを読んだり、ベッドでゴロゴロして時間を潰していました。そうやって過ごしているうちに、「この空き時間もったいないなぁ」と思うようになったんです。 そこでその空いた時間を使って副業で収入を増やそうと、テープ起こしのバイトを始めました。 軽い気持ちで始めたのですが、仕事をいただいた会社から、テープ起こしの文章が「読みやすい!」と評価してもらって。 そこで「何か記事の企画考えてみない?」と、声をかけていただきました。
―それからライターとして活動するようになったわけですね。
矢吹さん はい。ほかにも大学時代に、「イギリスの音楽フェスで、売り子が足りないから手伝ってくれないか」と、知り合いに頼まれたことがありました。 それで大学を休学してイギリスへ渡り、売り子の仕事をしていました。しかし、ただ売り子としてロンドンにいるのはさすがにもったいないなと。 そこで、当時契約していたWebメディアにイギリスの音楽フェスに関する企画を提出してみたんです。それがおもしろいということで、連載を2本やらせていただけるようになりました。 また、仕事の合間にフェスのライブも見るようにしていたので、売り子とライターと合わせて、同時に3つのことをやっていました。
―1つのことから2つ、そして3つとできることを膨らませていったんですね。
矢吹さん はい。こうした体験が根っこにあるので、何かやるときはほかにその仕事に関連することを3つは紐付けてやるようにしていました。まさに“一石三鳥”をモットーにしていたんです。
―さまざまな仕事をする、矢吹さんならではの考え方ですね。そんな大学時代を経て、卒業後もライターとして活動されていたんですか?
矢吹さん そうですね。ただ、最初はさすがに就職活動はしました。最初からフリーのライターになるなんて思っていなかったので。 それまでライターの仕事をずっとやっていたので、就職活動では出版社しか受けなかったのですが、やはり大手の出版社は厳しく合格できなかった。 そして就職活動に失敗した時に「これしかやれることがないからライターをやってみようかな」と思ったんです。
―なるほど。そこからフリーランスの道に進んでいったんですね?
矢吹さん はい。ただ、当時はまだライターの仕事だけでは生活を賄えなかったので、イギリスで貯めたお金を元手に執筆業務と並行してラジオ番組の制作もお手伝いしていました。 ほかにもコンサート運営や美術の展示会の仕切り、日本ボクシングコミッションの役員などなど、数えればキリがないのですが、とにかくいろいろな仕事をこなしていました。 当時はライターというより「何でも屋」という感じでしたね。

いくつもの仕事の中から、ライターを本業として選んだ理由

―もう二足のわらじどころではありませんね(笑)。矢吹さんは本も出版されていますが、どういった経緯で出版されたのでしょう?
矢吹さん ライター業を中心にさまざまな仕事をやっていた頃、偶然本を出版するチャンスにめぐりあいました。 この機会に本を出してきちんと売れたら、継続して本を出すことにつながるかもしれない。そんな期待を胸に仕事に挑みました。 こうして2014年に僕の処女作である『のんびりIBIZA(イビサ)』というイビサ島のガイドブックが出版されたんです。 ちなみに、2013年の9月に3週間現地(イビサ島)で取材をしたのですが、その間、ほかの仕事はすべて断っていました。それくらい『のんびりIBIZA』に懸けていたので。
―そこから本の執筆も増えていったんですね。
矢吹さん はい。それからおかげさまで何冊か出版させていただいて。今でも変わらず、ライターの仕事のほかにさまざまな仕事をしていますが、徐々に本を書く、出版の仕事が増えてきました。
―その頃くらいから自分の本業を「ライター」にしていったのでしょうか?
矢吹さん いえ、2015年くらいまでは、自分の本業はそれこそ「何でも屋」くらいのイメージでいました。 しかし2016年からテレビ番組「やりすぎ都市伝説」やTBSラジオ「たまむすび」といった番組に出演させていただいたんですが、その時に自分はライターとして、出版の世界の人として呼ばれていることに気づいたんです。 なら今後、テレビやラジオといったメディアでしゃべる仕事を増やしていくためには、逆に「書く仕事(すなわち本業)」をしっかりやることが必要だと思いました。 それならちゃんとライターを本業にして、ライターとしての仕事に1番力を入れていく。そうすることで、結果として他の仕事を増やすことにもつながっていくと思ったんです。

自分の“本業”をはっきりさせる。パラレルキャリアで成功するために欠かせない事前準備

―今、パラレルキャリアという働き方を選ぶ人が増えています。とても早い時期からパラレルキャリアを選択していた矢吹さんから見て、これからそうした働き方を実践しようとしている人に対して何かアドバイスはありますか?
矢吹さん パラレルキャリアを実践するうえで大切なのは、「自分の本業は◯◯だ!」とはっきり言えるくらい本業を確立させることが大事です。 僕の周りでもパラレルキャリアを選択しようとしている方を数多く見てきました。 ただし中にはさまざまな仕事に手を出すことで、ひとつひとつの業務が中途半端になってしまっている人も少なくありません。結果的に仕事を継続できず、収入を増やすどころか逆に収入が不安定な生活を送ることになってしまった人もいます。 そうした人たちに共通しているのがあきらかな“準備不足”です。 パラレルキャリアを実践する前に、まずは自分の本業において絶対的な武器を見つけておくこと。それがパラレルキャリアで成功する1番の事前準備だと、僕は思います。
―確かに収入の安定した柱となる職がないと、さまざまな仕事をしたとしても単なる副業の寄せ集めで終わってしまいそうですからね。
矢吹さん まさにその通りです。今振り返ると、僕の場合はライターであったり、ブレない柱があった。だからこそ、何でも屋というパラレルワークが実践できていたんだと思いますね。 ただ、覚えておいてほしいのは、自分の価値、本業は他人が決めるということ。先程もお話しましたが、テレビやラジオは僕のことをライターとして、出版の人間として番組に呼んでいました。 僕自身そんな経験をしてきたので、やはり本業をきちんと明確にすることは大切だと思います。
―最後に今後の目標をお聞かせください。
矢吹さん 今後はとにかくライターとしてもっと売れたいですね。加えて、まだ本の重版をかけたことがないので、重版できるくらいのヒット作を出したい。 また、ライターという軸がありつつもこれまで通り自分が興味のある仕事は積極的にやっていきたいですね。そのためにもまず、ライターという仕事に力を入れていかなければ、と思っています。
1酒井さん

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酒井 裕司さん(41歳)
(同)南信州米俵保存会/長野県飯島町
大学卒業後、建設資材卸会社、食肉店などに勤務。2013年、長野県飯島町のご当地マラソン「米俵マラソン」の発起人に。15年、南信州米俵保存会を設立し、脱サラ。米俵マラソンに使用する米俵のほか、猫つぐらなどを製作する。

VOL.170
地元の米づくりを応援する米俵マラソンの発起人

米俵担いでマラソンを走る。 そんな町ほかにないでしょ

野県飯島町は「25年後に消滅する可能性のある町」の上位。こどもが13人しかいない学年もあります。でも地域の人は「町の宝」と言ってうちの子をいつも気に掛けてくれた。その恩返しがしたかったんです。僕は11年前に隣町から越してきた「よそもの」ですけど、こどもが生まれ育った故郷が消えるなんて、嫌だ。  目をつけたのが米とマラソンです。飯島は古くから米づくりが盛ん。マラソンは僕の趣味です。今どき地域おこしのマラソンは珍しくないですが、1~5㎏の米俵をかついで走ったら、世界に飯島町だけのマラソンになる。さんざん走った後のランナーには炊きたてピカピカの新米を腹いっぱい食べてもらいます。これ以上ない飯島のPRになるじゃないですか。  「米俵マラソン」は2016年で4回目を迎えて、参加者800名、協賛企業は100社超です。でも4年前、ゼロから立ち上げた時は何をどうしたらいいのかさっぱりでした。稲作の衰退で米俵をつくれる人もいなくなっていた。やっと見つけた職人さんに弟子入りして、1年目は50個全部、1人で夜なべしてつくりましたよ。  15年に「南信州米俵保存会」という会社を設立したのは、その米俵をつくる体制を整えるため、というのが理由です。でも会社にするからには、ちゃんと飯島のためになることがしたい。今はわら細工の技術を継承して、地元のお母さん方と一緒に米俵や猫用の「つぐら」を手づくりしています。これなら町の雇用創出につながりますし、わら細工を産業にできたら、稲作農家さんのことも支えられるはず。


更新日:2017/4/26
取材・文/東 雄介 撮影/刑部友康、阪巻正志
アントレ2017.冬号 「これが私を生かす道 ライフワークで食べていく!」より
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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズン。開業までのプロセスや想いを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリー。
菊地美由起さんプロフィール 岩手県の保育専門学校を卒業後、すぐに結婚。家事をこなしつつ、ファストフード店やコンピューター関連の仕事に従事。数年後、離婚を機に埼玉県へ移住した。1年ほどファストフード店と服飾店で経理として働いた後、総合病院に就職。9年後に退職し、乳幼児専門の保育園に正社員として就職。3年後、次女の結婚を機に、鎌倉に引っ越す。2017年3月末で保育園を退職し、4月7日に鎌倉市内にフランチャイズの託児所をオープンした。

――今日プレオープンということで、初めてお邪魔しました。グランドオープンまであと2日ですが、準備は万端ですか?

なんとか形になってきましたが、今までいろいろあったんです。3月末まで保育園で働いていたのですが、ちょうど年度末ということもあり、仕事が山積みでした。結局、最終出社日まで残業をすることになって、開業準備にとりかかる余裕がまったくありませんでした。そんなわけで、やらなくてはいけないこと、やりたいことがほとんどできずイライラすることもありました。

――それは大変でしたね。具体的には、どんなことがあったんですか?

実は3月30日に電話がつながるようになる予定だったのですが、回線が部屋まで引き込まれていないことが発覚し、急きょ工事をすることになったんです。年度替りで引っ越しをする人が増える時期とあたってしまったので、工事のスケジュールをおさえられず、プレオープンに間に合わない!と、パニックになりました。 投げ出したくなってしまって、フランチャイズの社長に、もうやめたいと言ってしまったほどでしたね。働きながらの開業準備は本当に大変だと痛感しました。

――そうだったんですか。でもなんとかここまでこぎつけたんですね。

はい、そうですね。娘が内装工事を依頼した業者さんと連絡をとってくれたり、手配をテキパキこなしてくれたので、私も気持ちを切り替えて、なんとかやりとおすことができました。 これから開業を考えていらっしゃる方は、フランチャイズの担当者や開業準備を依頼した業者さんたちと密に連絡をとると、オープンまでスムーズに進められるのではないかと思いますよ。

――内装工事はどんなことをどれくらいの期間で完成させたんですか?

3月22日から内装工事を始め、壁・床の張替とともに、トイレとバックヤードを新たに作ってもらいました。最初はこどもたちの寝るところと遊ぶ場所くらいの広さしかないかも?と思っていたのですが、意外とスペースに余裕があったので食事をする場所も確保できました。 毎日工事が入っていたわけではないのですが、10日間くらいで出来上がったと思います。

――内装でこだわった部分はどんなところでしょう。

入り口側のガラス張り部分に目隠しシートを貼るのは、何か違うと思い、花の絵を描くことにしました。絵が得意な長女にデザインを頼んでみたのですが、仕事が忙しいということで描いてもらえなかったんです。でも、今まで開業の相談にのってくれていた隣のお店で芸大生のお客さんと偶然出会ったので、お願いしてみました。 快く引き受けてもらえたので、4月1日に打ち合わせをしたのですが、画材なども準備してくれて、打ち合わせの翌々日には、とってもかわいい花柄の目隠しを作ってくれました。今は春なので、チューリップなどを散りばめたデザインにしてもらったのですが、夏になったら夏らしい雰囲気の絵に変えてもらう予定です。全部おまかせでお願いしたのですが、気に入っています。 ほかにも受付スペースに荷物入れを用意しているのですが、教室は白をベースに明るい雰囲気を出したいと思っていたので、ピンクやオレンジのバケツ形のボックスを用意しました。間口が広くて使いやすいし、こどもたちもきっと喜んでくれると思います。

――それでは現時点でやらなくてはいけないこと、やりたいことはどんなことでしょう。

壁にある排煙口の掃除がまだ終わっていないので、まずそこをキレイにしたいと思っています。 本棚も準備できていないので、早めに買って窓際に置きたいですね。あと、こどもたちが食事をするときに使うハイテーブルも。 予約が入ってくるのはこれからだと思うので、スタッフの募集などはおいおい考えていこうと思います。

――最後に。開業を迎え、経営者としての意識は芽生えましたか?

まだまだ準備に追われているので、そこまで考える余裕がないのですが、買い物をして領収書をもらうときに、あ、自分の会社なんだなって思うことがあります。きっとこれからいろいろな場面で感じることがあるんでしょうね。

次回の更新は、2017年4月28日(金)予定。お楽しみに!

更新日:2017/4/21
文:堀家かよ 撮影:吉原朱美

独立開業への道 365日 アンケート2

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3月25日にアントレ主催で開催された「春の開業準備祭り」。独立・起業を考えている方からすでに経営者として着々と準備を進めている方まで、多くの方々が経営におけるヒントを少しでも得ようと集まっていました。 このイベントで登壇された「カレーハウスCoCo壱番屋」の創業者・宗次德二氏は、自身の経験から経営において必要なことや、事業を成功につなげる秘訣を包み隠さず熱弁。その講演模様をお伝えします。 ※前編はコチラ
宗次德二さん・プロフィール 1948年石川県生まれ。1974年喫茶店「バッカス」開業後、1978年に「カレーハウスCoCo壱番屋」を創業。ゼロから東証一部上場企業、国内1200店舗超のカレーチェーンを創り上げる。 2002年に53歳で会長職を退き、現在は創業者特別顧問。03年、NPO法人イエロー・エンジェルを設立し理事長に就任。07年、クラシックホール「宗次ホール」をオープンし代表就任。13年、NPO法人クラシックファンクラブ設立し、代表となる。

経営者として成功したいなら知っておくべき「3つのリストラ」

宗次徳二さん(以下、宗次さん) 創業・起業で成功する条件として、経営をする上で切り捨てなければいけない「3つのリストラ」という考え方を私は実践しています。 まずは「趣味のリストラ」。経営者はその性質上、趣味は持てません。経営が安定し始めたことで多趣味になり、以前の必死さがなくなったかと思った途端、徐々に崩壊していった経営者を私は何人も見てきました。 ちなみに私にとって趣味といえるものといえば経営と寄付、そして街の掃除です。 だから私は10年間、毎朝3時55分に起きて90分は掃除の時間に充てています。雨が降ろうが体調が悪かろうが必ずやります。 よく「そんな人生でいいんですか?」と周りからは呆れられますが、経営者なんですから、経営がうまくいけばそれ以上に嬉しいことはないじゃないですか。 2つ目は「友人のリストラ」。 言い方はあまりよくないですが、友人付き合いにランクを付けてみましょう。Aランクは経営・家族にプラスになる人で「優人」、Bランクは一般的に付き合う人で「友人」、そしてCランクは仕事の足を引っ張るマイナスになる人で「遊人」。 友人と会う際によく考えて、Aランクの人とだけ付き合えるようにするといいでしょう。友人が多い、人脈づくりがすごいからといって自慢にはなりませんし、経営にはプラスもマイナスもあるのでしょうが、マイナスとなることが多いのです。 むしろ多すぎる友人は、あなたの大切な時間をじわりじわりと奪っていきます。もっとも、本人は楽しんでいれば、気づかないでしょう。 3つ目は「時間のリストラ」。 趣味や遊びに使う時間があるなら、仕事に有効な時間へと費やすべきですね。時間・体力・お金と、人生には限りがありますから。 私がなぜここまで経営に一生懸命になれるのか。それは仕事以上におもしろいものはないと思っているからです。仕事を通じて、多くの人に喜んでいただける。我が身を捧げる経営とはそういうものなのです。 前編でもお話しましたが、経営はとても大変です。しかし経営はたとえ初めは赤字が続くような苦しいスタートだったとしても、一生懸命コツコツと努力を積み重ねれば、必ずといっていいほど成功の見通しが立っていきます。 それに、経営者として成功すれば納税も増えて、地域貢献もできます。 世の中にはがんばって働いても資金が足りない経営者、奨学金が必要な学生など、お金に困っている人は山ほどいます。経営者はそういった多くの人たちの支えになれるので、本当にやりがいのある仕事だと思うんです。 経営者は人に喜ばれることだけをする。もうそれ以外に何もいらないと、私は思います。

お客さま1人ひとりに感謝の心を。人に喜ばれることが仕事の活力になる

宗次さん 冒頭で1974年に喫茶店を開業したとお話ししましたが、初めはまったくうまくいかず、お客さまも来ないのでめちゃくちゃ暇だったんです。 お店を出したのが名古屋だったのですが、愛知県には昔からコーヒーを頼むと必ずといっていいほど小分けになったバターピーナッツやあられが付いてくる“モーニングサービス”という喫茶文化が存在します。全国的には「コメダ珈琲店」が有名ですよね。 私の店では、物のサービスではなく、笑顔であふれた店にしたかった。ピーナッツに30円と別料金でいただきましたし、モーニングサービスというパンや卵も付けない。当初、本当にお客さまは少なかった。でもそのうちお客さまが来店され、繁盛店となっていきました。 朝1番にお客さまが店頭に見えたら、気づかぬうちにお客さまに向かって拍手していました。それほど来店していただくお客さま1人ひとりがありがたくてしょうがなかったんです。 そのときに経営者人生で初めてできた標語があるんです。それが「お客さまを笑顔で迎え、心で拍手」。 営業中はお客さまがまばらに見えているので実際に手を叩くことができませんが、「心の中で1人ひとりを拍手喝采でお迎えしようね」と紙に書いてできたのがこの言葉でした。誰が何といおうと、私の中ではこれが日本一の標語だと思っています。 苦労したり、失敗したり、悔しい思いをたくさんしてきましたが、人に喜ばれたり期待に応えることで全てが報われる。 だからこそ苦労や我慢することは平気ですし、自分のことなんかどうでもいいと思える。お客さまの喜ぶ顔を見るために、68歳を迎えた今でも創業当時の心は忘れずに仕事に向き合っています。私にとってのお客さまとは、私や会社、店に関わる全ての人のことを言います。

社長業を必ず成功させる方法は、経営目標を持ち続け、必達すること。

宗次さん 最後に、経営者として絶対に失ってほしくないものについてお話します。それは「目標」です。目標さえ持ち続けることができれば、よそ見をして成功の道筋から逸れることはありません。 1番気をつけなければいけないのは、経営が安定し始めた頃。自社の2年後、3年後の見通しが立ってくると、8割~9割の経営者が順調だと勘違いし、力を抜いてしまうんです。 私からしたら「何でその段階で次の目標設定をしなかったんですか?」って突っ込んでしまいますが…。 見通しが立つまで右肩上がり経営をしているんですから、1年の目標でいいからつくるべきです。一生懸命やればその目標は達成します。1年後には必達です。 私はそれを28年間繰り返しただけなんです。だから、誰がやったって経営は必ず成功すると言えるのです。なぜなら、私のような素人の自己流経営でも出来たからです。 「経営者として成功したい!」と考えている方は、経営目標を達成する度に新たな目標を設定して、追い続けてください。すると経営の進むべき道が明確になりますし、明確なビジョンを共有することで、社員がやる気になってくれます。 どんな分野にも努力を重ねている人はたくさんいますが、どの業界と比較しても、努力に努力を重ねてやり続ければ“社長業ほど成功率の高い職種はない”と、私は確信しています。
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去る3月25日、独立・開業・起業に関するさまざまな情報を提供する『アントレ』が「春の開業準備祭り」を開催。独立・開業に必要な資金調達の方法や事業計画の作り方、起業家の成功失敗事例など数々の起業支援セミナーを通して、参加者は“今やるべきこと”を体系的に学べる充実したコンテンツが用意されました。 その中でも多くの聴講者を集めたのが「カレーハウスCoCo壱番屋」(通称:ココイチ)の創業者・宗次德二氏の講演。「経営とは本気でやり続けること以外に成功なし」と、自身の経験を熱く語ったメッセージは、独立を考え、起業に向けて日々奮闘している方々に間違いなく響いたはず。今回はその講演内容の一部を紹介します。
宗次德二さん・プロフィール 1948年石川県生まれ。1974年喫茶店「バッカス」開業後、1978年に「カレーハウスCoCo壱番屋」を創業。ゼロから東証一部上場企業、国内1200店舗超のカレーチェーンを創り上げる。 2002年に53歳で会長職を退き、現在は創業者特別顧問。03年、NPO法人イエロー・エンジェルを設立し理事長に就任。07年、クラシックホール「宗次ホール」をオープンし代表就任。13年、NPO法人クラシックファンクラブ設立し、代表となる。

経営を成功させるコツは”行き当たりばったり”。どんなに会社が大きくなっても徹底した「現場主義」

宗次徳二さん(以下、宗次さん) 私はよく起業セミナーなどで、どうしたら「ココイチ」のような大企業を作り上げられるのですか? と聞かれるのですが、ここまで大きくなったのは本当に幸運だと私は思っています。 「ココイチ」の前身は、名古屋市郊外の三流立地でスタートした喫茶店。そのメニューの1つとして提供していたカレーライスが人気を博したことで、3年後には喫茶店からカレー店に形を変えました。 当然、カレー屋のノウハウがあったわけでもない。だから最初の1〜2年はパンの耳を食べるような生活でした。でも最初からうまくいかないほうがいいんです。だからこそ一生懸命、必死でやりますから。 そんな何もないところから始まって、会社はだんだん大きくなっていきました。会社が大きくなっても、私は経営コンサルタントの方に経営を教わったことは一度もないんです。これまでの経営者人生は、全て自己流でやってきました。 ではどんな経営をしてきたのか。 最初は全てが行き当たりばったりで、その都度考えてきました。ただし超が付く程の「現場主義」「お客さま第一主義」そして「率先垂範」。この3つにこだわり、本気で貫いてきました。 何か問題が起こったとき、何かに悩んでいるとき。現場には解決のヒントや成功の糸口、そして新たなビジネスの種が必ず落ちています。現場には経営につながる何かがあるんです。 そういった現場で得たヒントから、お客さまに喜ばれる売り方は何なのか、価格帯はどうしようか、メニューは何がいいかなど、ひたすら考えました。 徹底的な現場主義。これは起業を始めようと思っている人に肝に銘じておいて欲しい、ポイントですね。

長期ビジョンはいらない!右肩上がり経営には「今」の苦しさに耐える精神が必要

宗次さん 私は経営をしていて、長期的なビジョンや未来のことなど考えたこともありません。なぜなら今を精一杯やっていて、生じてくる問題に全力で取り組んでいたら必ず未来は見えてくるからです。 喫茶店時代は、名古屋では当たり前の厚切りトーストが付くモーニングサービスも一切なし。他店ではタダで付いてくるピーナッツなども、30円で別料金をいただきました。物のサービスはしたくないという思いからでした。接客にこだわり、次第に繁盛店となりました。 その後、喫茶店で人気メニューであったカレーの専門店。「ココイチ」を創業した年、スタート時の月商は70万円余り。創業から1〜2年はひどいものでした。 起業はそんな苦労がずっと続いていきます。 だから起業支援セミナーで講演をする際の第1声は「起業するなんてやめなさい」と、まず否定から入ります。自分1人で苦労をするならいいですが、家族を巻き込んでまで苦労を味わう必要はありませんから。 それでも起業をする人というのは、どんなに苦しくても耐えて、明確な目標に向かって、絶対に仕事への情熱を失わない人、そして諦めずにやり続けることができる人でしょう。 起業を始めること自体はとても簡単です。しかしそこから店を守り、育てていくことがとても大変なんです。現状に満足せず、目標を達成したら気を緩めることなく、そこからまた次の目標を定める。新しいことへ挑戦する強い気持ちを絶やさないことが、右肩上がり経営の秘訣です。 経営とは苦労を買うようなもの。その苦労が自分を鍛えてくれるのです。

右肩上がり成長さえ続けていれば、経営のほとんどの問題が解決する

宗次さん 先程もお話したとおり、「ココイチ」を創業したばかりのときは本当に辛かったのですが、毎年の目標必達の繰り返しで、徐々に会社を大きくしていきました。私は創業社長として経営をしてきましたが、53歳のときに引退しました。 今の社長にタスキを渡してから早15年経ちますが、その間もずっと増収増益を継続。仕組みが構築されているならば、確実な経営のためには、経営能力もさることながら、一番重要なのは人間性が優れていること。浜島にはそれが備わっていたのです。 こういうと、ほかの経営者の方によく「社員教育はどうやったんですか?」「どのように後継者を育てたのですか?」等々聞かれるのですが、私はこう言います。 「社長が誰よりも一生懸命やり続けて、右肩上がり成長を続けてくださいよ」と。経営が右肩上がり成長さえしていれば、企業における問題や課題のほとんどが解決しますから。 経営もうまくいかず、この先どうなるかわからない不安要素がたくさんあるような会社で、誰が力を発揮できると思いますか? 口では社員も「会社のためにがんばります!」といってくれるでしょうが、内心は「給料分以上は当てにしないでくださいよ」と思っている人もおそらくたくさんいます。 しかし、社長が誰よりも一生懸命仕事をする姿を見せて、右肩上がり成長を継続していけば、優秀な人材の5人に1人は社長に近い思い、行動でついてきてくれるようになります。 そうして走り続けた結果、私は優秀な後任の社長に経営を引き継ぐことができました。 おかげさまで経営者を辞めてから15年間、一度も会社にストレスを感じたことはありません。長い経営者人生の中で、これが最大の喜びだと思っています。 後継者問題で頭を抱えている経営者の方がたくさんいらっしゃいますが、まずは自分が一生懸命仕事を全うすることが第一です。その背中を見てきた人の中から、優秀な後継者が生まれてくるでしょう。
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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズン。開業までのプロセスや想いを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリー。前回、若いころから親しんでいたリバーカヤックやカヌー関連のアウトドアショップへの興味を示した林原さん。単なるショップ経営だけではなく、カヤックスクールとの連動や、カヤック好きがコミュニケーションできる場所の提供など、夢は大きく広がっていましたが、進捗はあったのでしょうか…。
林原雄大(仮名)さんプロフィール 大学卒業後、車・旅行ガイドなどを刊行する出版社に入社。現在57歳で、2年後に定年を迎えるが、2人のこどもがまだ中学生なので、現在勤務している会社の嘱託などを視野に入れつつも、起業を優先に検討。当初、カーリペアのフランチャイズを検討していたが、お父さまが経営していた表装業や、趣味だったカヤックを取り扱うアウトドアショップの検討も開始。

――カヤックの老舗メーカーがアウトドアショップ経営へのアドバイスをされているとおっしゃっていましたが、問い合わせはしてみたのでしょうか?

大阪に古くからあるカヤックのメーカーがあって、そこが主催のスクールで以前、ボランティアのコーチをしていたのです。社長さんとも面識があったので、私の中にある構想をメールで問い合わせてみました。

――具体的にはどんな内容のメールを送ったのでしょうか?

カヤック好きが集まるような場、例えば喫茶店みたいな機能を兼ねたアウトドアショップはどうなんだろうという内容です。

――返信はあったのでしょうか?

まだレスポンスはないです。

――まずは回答次第だと思いますが、アウトドアショップの現状について教えていただけませんか?

メールを送ったのは大阪のメーカーなのですが、以前は関東にも直営の販売店を持っていたのです。いまは撤退してしまっているんですね。業界的にも、大手だとモンベルさん、あとは都内にカヌーショップが1、2店舗あるぐらいですね。

――カーリペアの独立を考えているときも市場が気になるとお話されていましたが、林原さん自身は、カヤックやカヌーの市場をどうお考えなのでしょうか?

具体的に調べたわけではありませんが、リオオリンピックで羽根田卓也選手がカヌーで銅メダルをとりましたよね。でも、カヤックやカヌーを楽しむ人が増えたという印象はないですね。

――単純な販売ショップでは難しいという印象ですか?

そうですね。複合型じゃないと厳しいと思います。スクールと連動したり、喫茶店でコミュニティーを作ってもらえる場にして、それに付随してグッズや商品を買ってもらうみたいな広がりですね。

――そうした複合的な形だと開業のイメージはわくのでしょうか?

いまの若い子は競技としてではなく、例えば旅行先でのレジャーの1つとしてカヌーをやるという接し方だと思うんです。そういう人の窓口となって、面白さを知ってもらい、最終的には商品につなげていったりするのがいいのかなって思っています。

――旅行会社と組んで、カヌースクールの代理店みたいなやり方もあるのでしょうか?

そうですね、そういう発想もあると思います。

――メーカーの問い合わせ以外に具体的に何かアウトドアショップに向けて行動されていることはありますか?

いえ、まだ全然です。

――先が見えていない部分があると、具体的に行動に移すのは難しいですか?

そうですね。定年までまだ2年あるというのが、気持ちのどこかにあるんです。そこに甘えちゃっている部分も否定できません。

――お話を聞いていると、アウトドアショップについて語っている林原さんは生き生きしているように見えますが。

もともと20代のときから自然に関わる仕事をしてみたいという思いがあったので、いろいろ考えていても楽しいですね。

――では、お気持ちはアウトドアショップでの独立開業で固まってきた感じですか?

実はカーリペアの方も、以前問い合わせをしていたフランチャイズに、検討を再開したいとメールをしているんです。

――再開しようと思ったのはなぜですか?

アウトドアショップの話は、ある意味まだ見えてこない部分が多いですし、先ほど話したような広がりだと、かなり壮大な感じになってくると思うんです。カーリペアの方は、業界的にもなじみはありますし、フランチャイズの方が話も進みやすいですからね。

――具体的にはどんなメールを?

業界の将来性について、しっかり話してほしいと問い合わせしました。フランチャイズがこうした部分に対してどういった回答をしてくるかしっかり確認したいと思います。

――現状、いくつか選択肢を持っていらっしゃいますが、ご自身の中ではどのような気持ちの配分なのでしょうか?

アウトドアショップ40%、カーリペア40%、表装業20%ぐらいです。

――絞りきれていないということは、まだご家族にお話しするタイミングではないと?

そうですね。方向性を決めてからですね。

――早く前に進めるといいですね。

はい。でも、こうした定期取材を受けることによってお尻を叩いていただけているのかなと思っています。

次回の更新は、2017年4月21日(金)予定。お楽しみに!

更新日:2017/4/14
文:磯部正和 撮影:吉原朱美 撮影協力:STORY STORY

独立開業への道 365日 アンケート2

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あなたが人生をかけて達成したい目標はなんですか? この問いに即答できる人は、大人でもそう多くないと思います。 「僕、小さい頃から”英雄”になりたかったんですよ。」 インタビューの冒頭、株式会社ワールドスケープ代表取締役CEO・海保けんたろーさんは、その問いに子どものような笑顔で答えていました。 海保さんが経営する株式会社ワールドスケープは、アーティスト支援サービス「Frekul(フリクル)」の運営、人の好みをAIが理解して、未知の音楽を聴かせてくれる「Lumit(ルミット)」など、音楽に関する様々なサービスを展開しています。 実は海保さんは元々プロのミュージシャンで、現在もドラマーとして活躍しています。経営者でありながら現役ドラマー。まさに二足のわらじを履いて活躍する海保さんに今回、自身のパラレルキャリアについて、そして今の世の中に対して感じることをお聞きしました。 全ては英雄になるため。その目的のためにドラマーと経営者を選択している海保さんは、一体何を見つめているのでしょうか。
プロフィール:海保けんたろー ドラマー / 株式会社ワールドスケープ代表取締役 1981年生まれ東京出身。 高校入学とともにドラムを始め、22歳からプロとしての活動を開始。 「キマグレン」「ハシグチカナデリヤ」「SONALIO」など数々のアーティストのサポートドラマーやバンドメンバーとして活躍する。 2011年には、音楽業界を変革するためのIT企業・株式会社ワールドスケープを設立。 音楽活動支援サービス「Frekul」や、音楽発見アプリ「Lumit」の開発運営を行っている。 現在は音楽活動と会社経営を並行しつつ活動中。 将来の夢は英雄になること。

ビジネス経験ゼロのバンドマンが起業!?プロの世界でぶつかった、音楽業界の壁

―プロとして活躍するバンドマンだった海保さんですが、現在は経営者としても活躍していらっしゃいます。どのような経緯で現在の立ち位置になったのか、まずは海保さんの経歴について簡単に教えてください。
海保けんたろーさん(以下、海保さん) はい、たしかにキャリアが飛びすぎていて何がどうなって今のキャリアになったのか謎ですよね(笑)。簡単に説明します。 僕は小さい頃から有名人になりたい、ビッグになりたいという夢がありました。この夢は今現在も「英雄になりたい」という形であるんですが。 さて、そんなことを漠然と考えていた学生時代、好きだった女の子がドラムを叩いていたんです。その影響でドラムを叩き始めたんですが、だんだん上手になってくると「このドラムというスキルを使って、有名になれるんじゃないか?」と思ったわけです。 それで高校卒業後、ずっとドラマーとして活動していました。自分のバンドもやりつつ他のバンドのサポートやアルバイトもして生計を立てていました。そして2009年、念願叶ってデビューを果したんです。
―有名になりたい、という思いを実現するためにデビューするという選択をしたんですね。
海保さん はい、まさにその通りです。僕の場合「プロのドラマーになる」「バンドで飯を食ってく」という考えよりも「英雄になりたい」という思いが先にあったんです。 だからデビューは、そのための足がかりになると思いました。 しかし事務所に入ったものの、CDが売れなかったんですよ。テレビのタイアップを取ってCDが売れたとしても、契約上アーティスト側に入ってくる取り分があまりにも少なすぎる。 自分の周りのミュージシャン仲間に話を聞いてみたら、やっぱりみんな給与をまともにもらえていない人たちが多かった。その時に思ったんです。「ああ、この音楽業界のビジネスモデルそのものに無理があるんだな」って。 お金をきちんと稼げない状況をどうにかしようと、メンバーと話し合ったんです。ちょうど、事務所に入ってから2年程経った頃でした。 そこで「ミュージシャンがもっとお金を稼げる、こんな機能があるサービスがあったらいいのに」ってアイデアが出て、そんなサービスを探してみたんですがどこにもなかった。 「ならいっそのこと、自分たちで作ってしまおう!」と自分たちで作り上げたのが”Frekul”であり、弊社”ワールドスケープ”なんです。

ドラマーでいることも経営者でいることも、全ては「英雄になる」という目標のため。

―バンドからいきなり起業とは、また大胆な方向転換ですね…!それまでにビジネス経験があって、そこから起業した、というわけではないんですよね?
海保さん はい。アルバイトはやっていましたけど、それまでは本当にバンドしかやってこなかったですし当然、ビジネス経験ゼロからのスタートでしたね。
―ビジネス経験がある方でも起業はいろいろ試行錯誤をして、満を持して起業する、という方が多いと思います。なぜそんなすぐに起業をしようと思ったのでしょうか?
海保さん 逆にビジネス経験がなかったからすぐに起業できたということもあるかもしれませんが、むしろ僕にとってこの起業は、めちゃくちゃチャンスだと思っていたんですよ。 デビューしても”有名になる”という目標を達成するどころか、日々の暮らしでさえ怪しくなってきている現状で、この起業のアイデアを形にして成功させれば、お金や集客に困っているミュージシャンを助けることができるじゃないですか。 その時僕は「これはめちゃくちゃ英雄感出てるぞ…!イケるぞ!」とワクワクしていましたね。
―やはり「英雄になる」という目標が第1にあったんですね。
海保さん そうですね。だから僕の行動の全ては、英雄になるために起こしていると言っても過言ではありません。先程も言いましたが、英雄になるためにドラマーになりましたし。 それが今度は「サービスを立ち上げて会社を経営すること」に変わっただけなんです。いずれにせよ「英雄になるために」という目的からはズレていないですし、一貫しています。
―経営者になった今でも、ドラマーとしての活動は続けているんですよね。それはなぜなんでしょうか?
海保さん 単純にドラムが好きで音楽が好きという理由もありますが、今の会社ではミュージシャンをターゲットにしたサービスを展開しています。 なので、まずは僕自身がミュージシャンであり続けて「このサービスってほんとに使えるのかな? 役に立つのかな?」と自問自答するようにしています。 ミュージシャンでありながら経営者をやることは、一見してかけ離れているように見えるかもしれませんが、実はとても密接に関わり合っているんですよね。

起業のリスクは想像以上に低い!「収入の安定」と「やりがいの安定」、どちらを選ぶ?

―さて昨今、パラレルキャリアについてメディアなどで大きく取り上げられていますが、これからパラレルキャリアを選択していこうという人たちに対して、何かアドバイスをいただけますか?
海保さん パラレルキャリアを選択することは手段に過ぎません。結局のところ、自分がどういう人生を送っていきたいのか、どういう人になりたいのか。この問いにどのように答えるのかは人それぞれだと思うんですよね。 僕の場合、その問いの答えは「英雄になること」だった。英雄になるために、ドラマーになって経営者にもなった。目的を達成させるためには、2本のプロジェクトを同時に走らせていた方がいいと考えたんです。 だから結果として、パラレルキャリアという道を選びました。 もし、パラレルキャリアを選択すること自体を目的としている人がいるなら、一旦立ち止まってよく考えた方がいいと思います。
―たしかに、ただ漠然とパラレルキャリアを選択するというのは危険かもしれませんね。
海保さん そうですね。逆に自分の目的がしっかりと定まっていてブレない人は、どんどん挑戦するべきだと思っています。 実際はパラレルキャリアだったり起業だったりを選んだ方が幸せになる人って多いんじゃないかなと。 僕が普段からとても感じているのは、起業することって実はめちゃくちゃリスクが低いということです。 僕はビジネス経験ゼロで起業して、かれこれ7年経ちます。この7年で感じたのは、経営がうまくいかなくなっても、変な終わらせ方さえしなければ実際なんとかなります。 それにたとえ起業に失敗したとしても、今の日本においてそう簡単に餓死ってしないと思うんです。体さえ元気であればいつだって働くことができる。 そうした金銭的に自分のことを守ってくれる安全な鎖がたくさんあるのに、みんな「収入の安定」をとても重視するなあと感じています。
―起業に失敗しても、命が取られるわけじゃないですからね。
海保さん その通りです。人間はそう簡単に死なないと思うんです。 なら、もっと自分の本当にやりたいことをやる人が増えていってもいいんじゃないかなと思うんです。自分のやりたいことを仕事にするということは、たしかに最初は金銭的には我慢をすることになるかもしません。 しかし「やりがいの安定」は必ずあります。仕事自体が大変でも、自分を押し殺したりする必要がないから精神的には安定してくると思うんです。
―「収入の安定」と「やりがいの安定」のどちらを選ぶか、ということですね。
海保さん はい。今の世の中、どうしても収入だけの観点で「安定か」「不安定か」という2択を選ぶような風潮になってしまっているんじゃないかと感じています。 だからもっと「やりがいの安定」を選ぶ人たちが増えていってほしいなと、思っています。 そして「やりがいの安定」を選びつつも「収入の安定」も最低限は欲しい。そういう方にとって、どちらも実現できる可能性が高い選択肢の1つとして、パラレルキャリアがあると思うんです。
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玉川 長雄さん(90歳)
(株)アクアテック/大阪府大東市

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70歳で起業しポンプを製造。松下OBによるシニアベンチャー

「やらまいか!」の精神が 運命の扉を開いてくれました

 当社のチューブポンプは、リングでチューブを圧迫する仕組み。ローラーでしごく従来のポンプに比べて、チューブにかかる負担を軽減するものです。開発のきっかけは胃カメラの洗浄装置を開発する話をもらったこと。小型のポンプが必要になったのですが、ちょうどいいのが見当たらず、「ないものは自分で作ろう」と。  松下電器で50年、サラリーマンをしました。担当はオーディオ。「テクニクス」というブランドが売れに売れた時代のことです。無我夢中になって働いて、気がついたら定年。その後、中小企業の技術顧問をしているうちに、チューブポンプを開発したわけです。まさか自分が起業するとは思いませんでしたけどね。でもあちこちから引き合いがあって、さてどうしようかとなりました。  そこは「やらまいか」ですねえ。私の出身地、浜松の方言で「何でもやってやろう」という意味なんですが、おかげで運命の神様が扉を開いてくれたように思います。やったら何でもできるやんか、オーディオ屋もチューブ屋になれるんや、そう思いました。社員にも言うんです。考えてもできないというのはおかしい、とことん考えれば必ずできる、できないのは考えてないからやと。 ものづくりの楽しさ、満足は会社員時代と同じ。それをずっと当たり前に続けているだけで、苦労などありません。考え続けるというのが、健康長寿にも一番いいと思いますよ。ただ今は社長でもあるので、会社ぐるみで楽しまんといかんなとは、考えているところです。それから何より、お客さま本位のもの作りを守らないといけない。お客さまが「あったらいいな」と思っているのに、世にないもの「は」自分で作る。ないもの「を」を作ろうとすると間違いが起こりますよ。独善的で、こんなすごい技術ができたぞと自慢するようなものをやったら、売れない。「を」より「は」が大事です。


更新日:2017/4/12
取材・文/東 雄介 撮影/太田未来子、刑部友康、阪巻正志
アントレ2016.秋号 「定年無用!独立老師が語る退かない人生」より
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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズン。開業までのプロセスや想いを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリー。
山本晋也さんプロフィール 大学卒業後、学生時代にアルバイトをしていた大手の学習塾に入社。退職後、フランチャイズの学習塾を開業。雑誌の取材を受けるなど経営は順調だったものの、理想とする塾のスタイルと違うと感じ塾を閉める。その後、大手の個別指導塾に入社し、個別指導の運営方法などを勉強。退職後、日本政策金融公庫で創業融資を受け、2017年3月に神奈川県に子別指導塾らぼという塾を立ち上げる。体験入学をスタートさせたばかり。

――とても明るい雰囲気の塾になりましたね。思ったとおりの内装に出来上がりましたか?

はい。うまくいったと思います。内装は爽やか且つシンプルに。塾というより、カフェに来たような、優しく落ち着いた雰囲気にしたかったので、壁紙や床のカーペットの色、素材にこだわりました。 毎日のようにここに通い、カーペットは全部自分で貼ったんですよ。 壁にある棚は物件についていたものです。参考書を中心に置いていますが、図鑑や地球儀など、こどもたちが勉強に興味を持つきっかけとなるようなインテリアをセレクトしました。 半年くらい前から、開校したら使えるものはないかと考えながら生活していたので、ホームセンターに行ったときなども、気になる素材やインテリアグッズを見つけたら、携帯で写真を撮って常に記録しておいたんです。

――それではこれで開校準備は完了したわけですか?

あとはエントランス部分がガラス張りなので、外から中が丸見えにならないように、シートで目隠しをしたり、面談用の席を勉強スペースとパーテーションで区切ったりすれば完成です。そのほかのものは必要になればその都度用意しようと思っています。

――すでに入校希望の問い合わせがあったと聞きましたが…。

毎日14時以降は教室にいるので、通りがかりの小学生がガラス越しに教室を覗いてくれて、そのこどもたちと顔見知りになりました。 すでに体験入学をはじめているのですが、自宅付近で塾を探していた方から問い合わせがあって体験に来られたり、説明を聞きにいらしたり…。申し込みをしてくださった方もいるんですよ。理由を聞いてみると、“工事中から気になっていて、雰囲気もよかった。なによりこどもが行ってみたいと思っている”ということで、決めてくださったようです。 過去にフランチャイズでも塾を開業しましたが、自分1人でイチから作った塾に入ってくれるというこの嬉しい気持ちは、今まで経験したことがないものでした。

――それは幸先がいいですね。販促活動はこれから本格的に始める予定ですか?

最初は自分でチラシのポスティングをするつもりだったのですが、外注することにしました。教室のマニュアル作成をはじめ、出勤簿、面談票や生徒用の入会規則、授業料のシステム紹介など、作成しなくてはいけない書類など、事務作業が多すぎて、販促まで手が回らなくなったんです。 たまたま近所でポスティング作業をしていた人を見かけたので、その人に会社を紹介してもらいました。 住所でチラシを配る範囲を指定するのですが、塾から徒歩1km圏内のエリアで依頼しました。以前フランチャイズで開校したときは、たしか開校2カ月くらいの間で何回かに分けて計10万部のチラシを新聞折り込みでいれましたが、今回は1部4円で1万部のポスティングを予定しています。 それからこの塾の隣がピアノの音楽教室なのですが、挨拶をしにきてくれて、チラシを置いてくれると言ってくださったので、お互いチラシを置きあうことにしたんですよ。

――フランチャイズで開業したときと違うと感じる点は何かありますか?

宣伝などは大変ですが、なんでも自分の思うとおりにできるのでやりがいがあります。料金のシステムをみてもそうなんです。 授業料や諸経費は学年が上がるにつれて高くなるという、よくある塾の料金体系がずっと気になっていたので、この塾では、学年に関係なく一律にしました。 もちろん大手よりは安い設定にしています。

――そうなんですね。すでに講師の先生も働きはじめているのですか?

大学時代の同級生の男性と、フランチャイズで開校したときにお願いしていたベテランの女性の2人を確保しました。男性スタッフはすでに開校準備でいろいろ手伝ってくれています。 ただ、今後、生徒が増えてから新たに講師を探すのでは間に合わないので、生徒の入塾状況を見ながら募集していく予定です。

――今後の予定をお聞かせください。

夏休みにむけて、生徒も先生も増やしていきたいので、今回の開校チラシの反響をみて、夏用のポスティングを考えています。まずは4月の状況をしっかり把握したいですね。

次回の更新は、2017年4月14日(金)予定。お楽しみに!

更新日:2017/4/7
文:堀家かよ 撮影:中村公泰

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原健介(はら・けんすけ)

1970年生まれ。日本体育大学卒業後、専門学校へ進学、各種国家資格を取得。2009年に横浜青葉区にて開業。2016年に三軒茶屋と渋谷を結ぶ国道246沿い三宿交差点近くに〈ハラハリ はら鍼治療院〉を移転オープン。原さん考案の体幹トレーニングBCTの導入によって日本体育大学 駅伝部は2013年の箱根駅伝で30年ぶりの優勝を果たした。

大学卒業後、15年の修行を経て開業。「癒やし」と「体づくり」の両面からケアする独自メニューで注目される小さな診療所には、近所のおばあちゃんからセミプロレベルのアスリートまでが訪れているとか。独立にあたっては自分の名前で勝負することに強いこだわりがあったと語るオーナーにお話を伺いました。

患者さんのON(体づくり)と OFF(癒やし)を巧みにスィッチ。

――半分は診療室、もう半分は体を動かすジムのようなユニークなつくりですね。治療院という感じではありませんね。

原:当院では鍼やマッサージによる治療と同時にアスリートとしてのポテンシャルを高める個別トレーニング指導も行っています。こちらの診療室で体を整えたら、こちらでトレーニングという流れにするため、あえて分割した作りになっているんですよ。

――なるほど。工夫されていますね。スペースごとに色を変えているのも何か狙いが?

原:診療室はぬくもりを感じるアースカラー。一方のトレーニングスペースはアクティブな印象にしています。おいでになった患者さんが、心のスィッチを切り替えられるようにしています。

――さきほど話題に出た、BCTとはなんでしょうか?

原:BCT(Base Control Training)は私が考案したトレーニングの手法です。人が本来持っている能力を最大限に引き出し、自在に動ける体を作ろうと言うのがコンセプトのトレーニングです。それをアスリートレベルのものにしたのが、このBCTです。

――だとすると、患者さんはアスリートの方が多いのでしょうか?

原:いえいえ、そんなことはありませんよ(笑)。市民ランナーの方からギックリ腰でお困りのご近所の方まで、幅広い世代の方に通院いただいています。あくまでここは治療院ですからね。ある特定の方だけを診療することはありませんよ。手狭な診療所ですから、診療はほぼマンツーマン。じっくり患者さんと向き合いながら取り組んでいます。

移転のきっかけは患者さんからのラブコール。 よりよい医療提供のため、西から東へ。

――渋谷駅からバスで数分。有名人も多いこの「三宿」に移転オープンしたのが昨年の5月だそうですね。それ以前も診療所をされていたのですか?

原:はい。それまでは横浜で平屋の一軒家を改造した治療院を運営していました。その時に使っていた器具やインテリアもこちらに持ってきていますので、それほど大きく雰囲気は変わってはいないですね。

――あえて東京に移転したのには理由があるのですか?

原:横浜の診療所では、通常の診療に加えて、私の母校である日本体育大学 駅伝部の専属トレーナーとして選手の治療やフォローも行っていました。そういったアスリートの方を多く診ていたからでしょうか、営業しているうちに東京からも患者さんがおいでになるようになってきました。そんな患者さん達から「横浜だと通院に時間がかかる。もっと東京の方に来てください」との声をいただいたのがきっかけでした。

――この場所で再オープンしたのにも理由が?

原:全くの偶然ですね(笑)。横浜方面から東京に向かうエリアで物件探しをスタートさせました。ちょっとずつ東京に近づいていく中で、偶然こちらのビルのオーナーとの良いご縁があったのです。確かな治療を提供することができれば、必ず人は来てくれる。それを信じていたので、それほど場所にこだわりはなかったです。

――独立時のことや治療院を開業するまでのご苦労をお聞かせください。

原:私は大学時代から学生トレーナーとして活動していて、将来はその方面に進みたいと思っていました。大学卒業後はスポーツ鍼の第一人者だった小林尚寿という先生のもとで修行しました。「無給でいいから側に置いて欲しい」という人が後を絶たないほどの有名な先生でしたので、修行の場としてはとても厳しかったわけですが15年間必死にがんばりました。

―― 一番弟子のような存在になられたのでは?

原:結果的にそうなりましたね。15年の歳月を経て、私にもそれなりの技術と自信がついたと同時に先生もご自身の引退を考えはじめられました。独立を意識しはじめたのはちょうどその頃でしょうか。

―― 先生の意思と技術の後継者というわけですね。

原:いえ、そこには私なりのこだわりがありました。もちろん小林先生の分院という形での開業も薦められましたけれど、やはり「原」の名前のついた診療所で勝負したかったんですね。絶対に先生のネームバリューに甘えない。患者さんを元気にするもしないも自分の技術ひとつ、15年で築いた経験を自分の名前で提供したいと思ったわけです。

さらなる体の進化をアスリートのために。 心まで解きほぐす、よりよい治療を地域のために。

―― 今後の目標はどんなものでしょうか?

原:2つの目標を持っています。まず1つはBCTの普及です。少し時間的な余裕がある時は、定期的に実業団やランニングチームに対してBCTの指導を行っていますが、この治療院はその活動の大切な拠点になっています。これからもその活動には力を入れていきたいですね。 もう1つは、もっと地域に親しまれる治療院になることです。今は、スポーツジムのような感覚で利用される方も少なくありませんが、当院の本質であり、私がこの世界に足を踏み入れたのはやはり「人を治療して癒やすこと」に他なりません。その原点を大切にしつつ、体の不調にお困りの多くの方をサポートしたいと考えています。

―― 目指すは地域のゴッドハンドですね。

原:そんなとんでもない!(笑)。確かにたまにそんな風におっしゃる方もいますけれど、かなり照れくさいですよ。私は1人の技術者として治療の技術を学び、それを患者さんのために役立てているだけなのですから。正直に、真面目に、真剣に患者さんと向き合うことをこれからも大事にしたいですね。

取材・文/池ノ内契忠 撮影/難波宏

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NPO法人サービスグラント/東京都渋谷区 代表理事

楠 めぐみさん(33歳)

1982年、埼玉県生まれ。立教大学観光学部を卒業後、06年から5年間、訪日外国人旅行者向けウェブサイト「japan-guide.com」にて旅行会社、公的機関等のインバウンドプロモーションに関わる企画・提案に携わる。11年に退職後、食を通じた「ホームビジット」の事業を構想し、大手料理教室の講師を務めつつ、NAGOMI VISITの運営をスタート。13年にNPO法人化し、本格的に事業を展開。国内外のメディアでも多数取り上げられ、現在までに57か国3900人の海外旅行者と日本の家庭とをマッチングした実績を持つ。

文化の違う人同士が互いに認め、尊敬し合える“つながり”を作る。個々人の小さな変化が世界を動かす“てこ”になる

━ 活動を始めたのは、ご自身の個人的な体験からだそうですね。

  海外旅行者のための情報サイトの仕事をしていた時から、旅行者にエキサイティングなアクティビティを提供できないかと思っていました。そこで、自分が旅行者だった時に一番、エキサイティングだったことは何かと振り返ると、真っ先に思い浮かんだのが、私のパートナーのデンマーク人の実家を訪ねた時のことでした。 初めての欧州旅行で一般家庭に入って暮らしぶりを見たり、ごはんを食べる体験は、驚きと感動の連続でした。この体験を日本に来る旅行者にも、味わってもらいたいと思ったのがきっかけでしたね。

━ 事業としては、どんな形でスタートを切ったのでしょうか?

 最初は前職を辞めた時期に、「ちょっとやってみた」という感じでした。知人の家庭にホストになってもらい、一方でご縁のあった旅行社にゲストを紹介してもらって、試験的に4組のホームビジットをセットしたんです。ゲスト側は大喜びでしたが、気がかりだったのはホスト側の反応。実施後にヒアリングしたところ、意外にも「視野が広がった」とか「外国に対する見方が変わった」など、人間的な成長につながったとの声をいただけたんです。 実は私が「ホームビジット」に込めた期待もそこにあったので、これを自分の事業にしたいと思うようになりました。

━ 期待とはどんなことですか?

 日本の、特に地方では、外国人に遭遇すると、見てはいけないものを見たような反応をしたり、子供は「ガイジンだ!」と騒いだりします。見た目の違いによる偏見や特別視する光景を見る度、寂しさを感じていました。 職場の外国人社員から「なぜ日本人は外国人に過剰反応するのか」と聞かれることも多かったんです。考えてみると、日本人はただ外国人に不慣れなだけなんですよね。だから外国人と関わりを持たない一般の人に、直接、海外の人と触れ合うことで、異文化に対する見方を変えてもらいたいと思っていました。

━ そこからの事業展開は?

 まず「ホームビジット」の仕組みとルールを作り、実績を積んでいきました。当初は全て手作業で、1組のリクエストが入ると、数人のホストにプロフィールや日程のメールを送り、誰かが手を挙げてくれたらゲストにメールして、という具合ですね。その後、前職で同僚だった女性がメンバーに加わったことで、13年にNPO法人を設立。 幸いメディアにも多く取り上げられ、次第にゲストもホストも増えていきました。規模が増えるにしたがって少しずつシステムを導入し、ようやく決済やマッチングをシステム上でほぼ完結できるところまできました。

━ ゲストとホストが長い付き合いになることも多いそうですね。

 「同じ釜の飯を食う」とはよく言ったもので、たった数時間でも、食卓を囲めば心が通い合うんです。旅行者が再び同じホストを訪ねたり、反対にホスト側が海外のゲストの家に行くといった交流が生まれています。それも、対等な関係で付き合える仕組みにしているからでしょう。 サービスを受ける側と提供する側に分けないために、ゲストは低料金で参加でき、ホストはその中から食材費をまかなう形にしたのはそういう理由です。

━ 今後、成し遂げたいことは?

 ビジョンとしては文化の異なる国の人同士が相手の立場に立って接することのできる社会を作ることを掲げています。でも声高に訴えるつもりもありません。それよりも偶然旅先で知り合ったような、自然な出会い体験をたくさん作っていきたいです。 今は1か月に100組前後のペースですが、今後は事業の採算ラインとなる250組、500人を目指します。
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矢島 純一さん(71歳)
東京都中野区

VOL.168
今年は海外大会で優勝。ボウリング界のレジェンド

賞金を稼げなくなったら引退 でも稼げちゃうんだな

れまで優勝は41回。パーフェクトゲーム28回。どちらも最多記録ですが、才能より何よりキャリア50年のおかげですよ。若い頃はここぞという時緊張してフォームが崩れたものですが、今はいつでも落ち着いて練習どおりに投げられるんです。  今年6月にはシニアの国際大会で優勝できました。海外大会に参加し始めて50年目にしてようやく、日本人男子としても初です。この時は久しぶりに「この一投で優勝か…」という緊張がよみがえりました。でもそこで一息入れて、レーンのコンディションを確認してからバシンとストライクを取った。今も僕は成長してるんですね。15年前からトレーナーについてもらい、筋肉を柔らかくするトレーニングをしています。食事も変えてパスタを主食に。米よりパスタのほうが血糖値の上下がゆるやかで、パフォーマンスを維持できる時間が長いとか。妻は電気釜を捨ててしまいました(笑)。  周りには「レジェンド」なんて持ち上げてもらっていますけど、一線を退く時期は遠くないでしょう。賞金を稼げなくなったらやめようと思っています。でも現に稼いでいるから、今じゃない。闘争心も若い頃のままです。勝ったらうれしい、予選に落ちたら悔しくて眠れない。ただ昔ほど、僕自身が楽しくボウリングをするということはないんですよ。もちろんボウリングのことは好き、でも自分のプレーをお客さんに喜んでもらえたらいいと、そのためにパフォーマンスをしているだけで。  一番の楽しみは、ボウリングファンの笑顔を見ることです。まったく初めてだという人に教えて、投げさせて、たまたまスペアが取れた、間違ってストライクが取れた、その時のうれしそうな顔ときたらね。ボウリングブームの時は試合のし通しで、それ以外のことを考える余裕なんてありませんでした。今のほうがしっかり、お客さんと向き合っているんだな。


更新日:2017/3/31
取材・文/東 雄介 撮影/太田未来子、刑部友康、阪巻正志
アントレ2016.秋号 「定年無用!独立老師が語る退かない人生」より
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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズン。開業までのプロセスや想いを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリー。
橋爪さんご夫妻プロフィール 旦那さまは、山梨県出身の33歳。東京の大学を卒業後、都内の新聞社に就職。その後、保育園の管理事務職に就く。体調を崩した祖父を想い山梨県へUターンするも、勤めていた保育園から、新規園の立ち上げスタッフにと声がかかり再度、東京へ。新規園が軌道に乗ったのを見届けたのち退職。2016年に山梨県へ移住し、現在は働きながら開業準備中。奥さまは、神奈川県出身の44歳。大学卒業後は、大手学習塾、塾経営など教育業界や企業に勤務し、保育園管理事務職に。現在は山梨県内の企業に就職。ご夫婦二人三脚で、山梨県産のフルーツを用いたゼリーを主力商品とした6次産業での開業を考えており、希望に合う物件を探しながら、商品開発も進めている。

――フルーツをカットしたばかりのようなゼリーを開発し、主力商品にしたいと伺っていましたが、その後、商品開発はいかがでしょうか?

ゼリーのベースはできているので、その中で、ゼリーの甘さ、後味の良さを追求しているところです。フルーツの量や、フルーツとゼリーの甘さのバランスも調整しています。 旬のフルーツを使用するため、まだ、すべての商品で、というわけではありませんが、現在メイン商品として開発中のゼリーに関しては、この調整ができれば、自信を持って商品化できると思っています。

――ゼリーを入れる容器も決まりましたでしょうか?

容器のカタログ4冊の中から、サンプルを取り寄せました。容器の形状はもちろんですが、容量や材質なども考慮しながら慎重に選びました。良いデザインだと思っても、イメージした容量や原価が合わなかったり、材質によってはゼリーが半透明に見えてしまうなど、形状、容量、材質とすべてが希望に合うものを選択するまでに時間がかかりました。 結局、スクエアタイプのサンプルを1点、脚付きタイプを2点、取り寄せることにしました。ちょうど今日サンプルが届いたところなので、この容器でゼリーを作ってみたいと思っています。実際に使ってみないと分からないですからね。

――出店を考えていらっしゃる地元での賃貸物件探しについてはいかがでしょうか。

やはり、地元では条件に合った物件がなかなか見つからない状況です。もともと、賃貸物件自体が少ない土地ですし。1件だけ、希望より広い物件だったのですが、以前カフェだったという駅前のテナントに空きがあり、問い合わせをしました。残念ながら賃料がかなり予算オーバーだったので、そちらは断念しました。 地元で開業をしたいという思いは変わらないのですが、このままでは物件が見つからず開業の見通しが立たなくなってしまうので、物件を探す範囲を隣の市まで広げ、良い物件があれば、そちらでまず開業をしようかと考えはじめています。あくまでも良い物件があれば、になるのですが。

――この3月で退職し、開業準備に専念されると伺いましたが、退職日が近づき、心境はいかがでしょうか。

いまだ物件が決まっていないということに焦りはあります。それでも、知人やパッケージ業者の方、山梨中央銀行の方などが、親身に相談に乗ってくれるので不安はありません。夫婦で以前の職場の同僚や現在の職場の方にも、物件のことやHP、商品開発の相談に乗っていただいているので、心強いです。

――奥様から、退職されるご主人に一言いただけますでしょうか。

初心を忘れず、失敗を恐れず、自分を信じて真っ直ぐ進んでほしいです。

次回の更新は、2017年4月7日(金)予定。お楽しみに!

更新日:2017/3/31
文:樋口代史子 撮影:中村公泰

店舗経営が気になる!という方はコチラから! https://entrenet.jp/promo/gyosyulp/C03/index.html
独立開業への道 365日 アンケート2

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さまざまな変革が進んでいく現代社会。なかでも教育業界はこれまで以上に多様性が求められ、学校や家庭だけではない、子どもたちにとっての第3の環境がより一層重要になってきています。 今回お話を伺ったのは、塾・家庭教師の先生と生徒をマッチングするサービス「みらいの学校」(https://www.mirainogakkou.com/)を運営する北本貴子さん。 このサービスを立ち上げるまで教育業界とはまったく縁がなかったという北本さんですが、現在の仕事に対して大きな使命感とやりがいを感じていると言います。 なぜ独立をして「みらいの学校」を立ち上げたのか。その理由と熱い想いをお聞きしました。
北本貴子さん・プロフィール ラナンキュラス株式会社 代表取締役。2011年にデザイン事務所を開業し、2012年ラナンキュラス株式会社を設立。 企業の家庭向けセールスプロモーションのサポート事業のほか、子育て中のママ向けにさまざまなクラウドサービスも展開。2014年、2015年と1000人規模の次世代教育イベント「みらいの学校」を主催する。3人の子どもを育児中。

子どもに学校・家庭以外のサードプレイスを!教育業界未経験の北本さんが「みらいの学校」を立ち上げたワケ

―北本さんが立ち上げたサービス「みらいの学校」について、教えてください。
北本貴子さん(以下、北本さん) 「みらいの学校」は、学び場を子どもやその保護者に選んでもらうマッチングサービスです。 核家族化の影響もあり、今の子どもたちは昔以上に「他人の大人」と触れ合うきっかけが減少しています。 そこで、子どもが学校の先生でも家族でもない大人と関わる機会を増やすこと、子どもたちにとっての第3の居場所を作ることを目的として「みらいの学校」というサービスを作りました。 WEBでは先生と子どもたちを個人間でマッチングするサービスを展開していますが、体験型の教育イベントなどの運営もやっています。 教育コンテンツを提供する企業とそれを使う学校や家庭、教育関係者が一堂に会し、それぞれのブースで子どもたちにコンテンツを体験してもらうというサービスです。
―「みらいの学校」という構想を、WEB・リアルと手段を問わず多角的に展開されているのですね。ここに先程の理念を強く感じるのですが、北本さんは元々、教育というお仕事をされていて独立された、ということでしょうか?
北本さん いえ、これまでの人生で教育に携わってきたことはないんです(笑)。 もともとはSEOの会社で働いていたのですが、子育てをしながらだとどうしても生活スタイルが合わなかったのでその会社をやめてしまったんです。 その後、子育てをしながら働けるという選択肢はフリーランス以外厳しいかなと思い、半ば仕方なく独立したのですが、最初は教育業ではありませんでした。
―「みらいの学校」の構想と事業内容が並々ならぬ熱量だったので、てっきり根っからの教育者だと思っておりました(笑)。ではどうやって「みらいの学校」に行き着いたのでしょう?
北本さん 独立してデザインの事務所を始めた傍ら、SNSでママさんコミュニティの運営を趣味でやっていました。私も3人の子どもを育てるママでしたし、ほかのママたちと情報交換できる環境を作りたくて。 そんなママたちを集めてオフ会やイベントをやっているうちに、だんだんそのコミュニティが大きくなっていきました。すると企業から宣伝させて欲しいと依頼が来たり、コンテンツを提供したいという声がかかるようになったんです。 その中に教育系のコンテンツを持つ企業があって、そこから企業とユーザーとの体験型のイベントを定期的に開催するようになりました。それが「みらいの学校」の前身です。

「私自身が1番の顧客だったんです。」教育事業を始めるに至った、圧倒的な当事者感覚

―コミュニティが大きくなっていくにつれて、「みらいの学校」として事業化されたんですね。
北本さん そうですね。会社としては引き続きデザイン事業もやっていますが、「みらいの学校」として、体験型イベントと、塾や家庭教師の先生と生徒のマッチング業を両立しています。
―塾や家庭教師の先生と生徒のマッチングは、生徒さんが自分の好きな先生を選べるんですよね。
北本さん はい。自分が学びたいと思う先生を自分で選んでもらうのがこのサービスの特徴です。勉強に限らず、その先生が持つ経験や考え方を子どもたちに知ってもらってから学べるという環境を作りたかったんです。
―子どもが先生を選ぶ、というアイデアはとてもめずらしいなと思ったのですが、なぜこのような仕組みにしたのでしょうか?
北本さん おそらく私自身が子どもの親として、当事者だからです。 私には3人の子どもがいるのですが、それぞれ3者3様にいろいろと悩みがあります。長女は絵が好きなのですが、彼女にどのような教育をさせればいいのか悩みました。 小学生の長男は勉強が好き過ぎるが故に、学校の授業に退屈して不登校になってしまいましたし、末っ子は場面緘黙症(普段は普通に会話できるが特定の場面で喋れなくなってしまう現象)で保育園では字も書けず朗読もできません。 複雑な事情を持つ子どもが増えているにも関わらず、これまでのように画一的な教育で対応するには限界を迎えています。とはいえ集団教育である学校に個別の対応を求めるのは人材のリソース的にもコスト的にも厳しいものがあります。 どうしたら子どもたちの長所と短所に合った教育を受けられるか。そう考えて生まれたのが、「みらいの学校」です。いわば、自分自身が「みらいの学校」の1番の顧客だったんですよね。
―「みらいの学校」の構想のターゲットは、北本さん自身だったんですね。
北本さん はい。うちの子に限らず、このサービスに救われる子どもや家庭は必ずあると思いました。 「みらいの学校」は子どもたちの悩みや問題を解決できる、そして長所を伸ばせる「場所」にしたいんです。そのためには学校や家庭以外の大人たちに接する機会をたくさん作らないといけない。だからこそ、会社で事業化する意味があるなと思いました。 子どもの将来を作る、すなわち「20年後の社会を作る」ことがこの教育事業の大きな目標になりました。 現在、幸いにも「みらいの学校」に賛同いただいている先生方は、経験が豊富なのはもちろん、子どもたちへの多様性にも理解のある素晴らしい先生ばかりです。そんな先生たちから学べる子どもたちが正直、羨ましいくらいです。

「20年後の社会を作る」こと。それが、自分の仕事を決める基準

―起業して独立するにあたって、自分のやりたいことに対してブレがあると成功しないといいますが、北本さんを見ているとまさに自分の信念と事業にブレが全然ないなと感じます。
北本さん そうですか(笑)。独立したての頃は起業している先輩や周りの声にいろいろゆれてましたけどね(笑)。 「もっと利益を生むためにはこっちのやり方のほうがいいんじゃないか」とか、「最初はあまり仕事を選ばないほうがいいんじゃないか」とか。 でもたしかに教育事業に携わるようになってからは、そういう意味では本当にブレなくなりましたね。利益を出すことも大切にしていますが、何のために自分が仕事をするのか、そしてそれは子どもたちのためになるのかをまず考えています。 そして「20年後の社会を作る」という軸が教育事業を始めてからしっかりと根を張った気がします。この軸に沿っているか沿っていないかで、ものごとを判別できるようになったのは大きいと思います。
―最後に独立や起業を考える人に、何かメッセージをいただければと思います。
北本さん 先程申し上げたように自分が何を1番大切にしているのか、軸がきちんとできていることで何とか乗り越えられることが多かったりします。でもそれがきちんと定まっていない方もいると思います。 もしこれから独立してみたいなと考えている方がいたら、まずはどんどん動いてみてください。「やりたいことはやる」「やりたくないことはやらない」というくらいのフットワークの軽さでいいと思います。 理屈で難しく考えるよりも、まずは動いてみてみると意外なところにチャンスや自分の大切なものを見つけるカギがあるかもしれません。 「みらいの学校」では、6月に大型イベントを企画していますので、こちらもぜひチェックしてみてください!
詳しくは「みらいの学校」Facebookページから! https://www.facebook.com/mirainogakkou/?fref=ts
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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズン。開業までのプロセスや想いを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリー。
菊地美由起さんプロフィール 岩手県の保育専門学校を卒業後、すぐに結婚。家事をこなしつつ、ファストフード店やコンピューター関連の仕事に従事。数年後、離婚を機に埼玉県へ移住した。1年ほどファストフード店と服飾店で経理として働いた後、総合病院に就職。9年後に退職し、乳幼児専門の保育園に正社員として就職。3年後、次女の結婚を機に、鎌倉に引っ越し。保育園で正社員として働いていたが、3月末で退職予定。鎌倉市内に開業場所が決まり、現在4月7日開業予定でフランチャイズの託児所を準備中。

――さっそくですが、なかなか大家さんから返事がこなかった物件は決まりましたか?

開業日がどんどん迫ってきてあせりましたが、やっと決まりました。 契約時に大家さんに初めてお目にかかったのですが、口数は少なめで、優しい印象の男性でした。物件を今まで飲食関係のお店にしか貸した経験がなかったので、私が申し込んだ後、フランチャイズのホームページを見たり、不動産屋さんに資料を請求したりして託児所について勉強をされたそうです。 入居に関して特に条件を出されることもなく、ありがたいことに入居者を募集していたときの金額より少しお安くしていただきました。 “物事を始める吉日”といわれる「一粒万倍日」が、たまたま私の誕生日だったので、この日に契約しました。サインを終え嬉しくなって、近くにある鶴岡八幡宮に報告に行って来たんですよ。鶴岡八幡宮って、「仕事運」があがる場所なんですよ(笑)。

――本当によかったですね。内装工事の見積もりを再提出するとおっしゃっていた、日本政策金融公庫の創業融資の件はどうなりましたか?

前回、内装の見積もりがあまりにも高額だったので、別の業者にお願いをしたら340万円の見積もりとなったので、FAXで見積書だけ日本政策金融公庫に再提出しました。一週間程で融資の結果が書面で届いたのですが、融資額は希望した金額よりかなり少なく、がっくりしてしまいました。 希望額に満たなかった理由の詳細を聞いたわけではないのですが、内装の見積もりが高かったからなのではないかと思いました。

――そうだったんですか。それではまた工事内容などを変更しなくてはいけないわけですね?

そうなんです。融資の結果が出てからすぐ内装業者に連絡をして、コストダウンできないかと交渉しました。最初に見積もりをお願いした業者より約100万円下がったものの、フランチャイズの担当者からもっと内装費を下げましょう…と本部の皆さんに声をかけてくだって、ほかの内装業者を探してくれました。 私が加盟したフランチャイズの横浜店を手掛けた業者の方が、運良くちょうど連絡をした日に鎌倉に来ていたようで、早速、物件を見に来てもらうことができたんです。かなりコストダウンできるようで、その業者に正式な見積もりを依頼しているところです。

――具体的にはどういうところでコストダウンしたのでしょう?

高額だったエアコンの設置と床を高くすることをあきらめました。契約する物件は風通しがいいので夏は、自然の風と扇風機で乗り切ることにします。ママたちが気持ちよく通ってくれるような雰囲気づくりは重要だと思っているので、内装の素材やインテリアの質にはこだわるつもりです。「鎌倉らしさ」のようなものを出せるといいなと思うのですが。

――フランチャイズの利点を感じる出来事ですね。

そうなんです。自分たちだけではどうにもならなかったかもしれませんね。人のツテというか、フランチャイズの強みをみた気がしました。 担当者とは、メッセンジャーアプリで娘と私の3人で頻繁にやり取りしています。良いことの報告だけでなく、凹んだり不安になった時はそのままの気持ちをぶつけたりもしています。フランチャイズの取締役から電話がかかってきて、「大丈夫!心配ないよ」と声を掛けていただいたこともあるんですよ。目の前が明るくなったのを覚えています。

――ではすぐに開業準備に入れそうですね。

それが3月末まで働く予定の保育園がとても忙しく、思ったように有休がとれずに困っています。フランチャイズ本部とのメールのやり取りは、ほとんど娘の担当。Instagram(インスタグラム)、Facebook(フェイスブック)、Twitter(ツィッター)、ブログなどのSNS関係やリーフレットなどの販促物の準備に取りかかってくれています。知っている限りのメディアに情報を一斉配信しようかと考えているみたいです。私にはできない分野ですので本当に助かります。

――そういえば、オープン前にもかかわらず予約が入ったと聞きましたが。

フランチャイズのHPで開園告知していたので、それを通じて4月8日と5月13日に予約が入りました。予約が入ったと聞いたときはホントに飛び上がって喜びました! いまのところ、4月4日、5日をプレオープン期間として、4月7日にグランドオープンする予定です。あと3週間もないのですが内装にまったく手をつけられていないので、本当にあせっています!

次回の更新は、2017年3月31日(金)予定。お楽しみに!

更新日:2017/3/24
文:堀家かよ 撮影:吉原朱美

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カーリペア業界での開業を視野に入れて始めた独立活動でしたが、従兄へのリサーチによって見えてきた将来性への不安、その従兄から提案された父親がやっていた表装業への見通し…。ここへきて大きく気持ちが揺らぎ始めた林原さんでしたが、今月は進む道に光は照らされたのでしょうか…。
林原雄大(仮名)さんプロフィール 大学卒業後、車・旅行ガイドなどを刊行する出版社に入社。現在57歳で、2年後に定年を迎えるが、2人のこどもがまだ中学生なので、現在勤務している会社の嘱託などを視野に入れつつも、起業を優先に検討。これまでの仕事関係の経験を生かし、カーリペアのフランチャイズを検討していたが、開業の相談をした従兄にお父さまが経営していた表装業を勧められ、検討を開始。

――最初に視野に入れていたカーリペア関連で、フランチャイズ本部に問い合わせるなどの進捗はありましたか?

特に動いていません。担当者へメールで問い合わせるなども、時間的な問題と気持ち的な問題、双方から行っていません。

――ではお父さまが経営していたという表装業については、なにか進捗はありましたか?

母親にヒアリングをしてみたのですが、いまは床の間のある和室自体が減っているとのことでした。しかも掛け軸の値もかなり下がっているようです。

――お母さまの話を聞いて、独立というキーワードにおいて表装業は選択肢として残りそうでしょうか?

父親がやっていた表装の手法は、かなり近代的で、大きなプレス機を使用するもののようです。それだと、大きなロットでの受注ではないと費用対効果も悪いと思います。 父親は独立する前に、文具の卸会社に勤めていたので、書道教室等のルートを持っていましたが、私の場合はそういったルートの開拓からしなくてはいけないので、なかなか厳しいのかなと感じています。

――カーリペア、表装業ともになかなか開業のイメージは見えてこないということですね。

そうですね。どちらも具体的には進んでいません。

――定年後のために、独立・開業へというお話でしたが、ちょっと停滞している現状に対して、なにか打開策はお考えですか?

私は27歳のころからボランティアでカヤックスクールのコーチをやっていました。今は少し離れているのですが、いつかは自然に関わる仕事をしたいなという思いはずっと抱いていたんです。 東京には、リバーカヤックやカヌー関連のアウトドアショップが本当に少ないんです。とても細い糸ですが、輸入業者とのつながりもありますので、そっちにもアンテナを張っていければと思っています。

――実際、アウトドアショップというのはどういうものなのでしょうか?

カヤックなどのグッズ販売のほか、テント、コンロなどのアウトドアグッズも扱うイメージです。

――なにか希望が見えてきそうですか?

久々に、あるメーカーのカヤックのカタログを見たのですが、そこは私が関わっていたカヤックスクールと同じぐらい歴史のあるメーカーで、ショップ経営のアドバイスもしているようなのです。自分の頭の片隅にある構想をまとめてアプローチしてみようかなと思っています。

――どんな構想なのでしょうか?

ショップを経営するうえで、カヤックスクールと連動させるということですね。切っても切り離せない関係性だと思うので。

――3月になり、娘さんの受験も終わったのではないでしょうか?

一応、第一希望の公立高校に合格しましたので、一安心です。

――では、より具体的に独立・開業に向けてプランを考えて、ご家族にも希望のある報告をしたいですね。

次回の更新は、2017年3月24日(金)予定。お楽しみに!

更新日:2017/3/17
文:磯部正和 撮影:吉原朱美

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起業しよう!という方にとってもそうでない方にとっても、何かしら事業に関わろうとするのであれば、どうあがいても避けて通ることのできない『マーケティング』。 現在進行系で悩まれている方も、多いのではないでしょうか? 今回はアントレ創刊20周年特別記念企画。リアルとデジタル、各業界のマーケティングリーダーお二人をゲストにお招きさせていただき、『歳の差20歳の社長対談』を開催。 それぞれの領域で大活躍されるお二人の、起業ストーリーとマーケティング論対談、ぜひお楽しみください。
福井 康夫(48)写真右 SVのアウトソーシングや店頭状況の暗黙知データ可視化など、リアルな流通業界に特化したマーケティング支援サービスをいくつも手がける株式会社メディアフラッグの代表取締役社長。近年は子会社であるImpactTVから人の動きを読み取るサイネージを用いたフィールドトラッキングソリューション「PISTA」をリリースするなど、IoT領域への進出でも注目を集めている。
渋谷 修太(28)写真左 アプリ分析プラットフォーム『App Ape』や、Webサイトをアプリに変換するアプリ作成サービス『Joren』などを運営するフラー株式会社の代表取締役CEO。2016年にはForbes「30アンダー30」にも選出された、デジタルのマーケティングにおける最注目人物。
国内アプリマーケティングの第一人者…といっても過言ではないフラーの渋谷さんに、リアル店舗のマーケティングをアウトソース化によって文字通り構造から作り変えてしまったメディアフラッグの福井さん。 まぁなんとも豪華なお二人ですが、果たして彼らは何をどう考えて起業し、なぜ現在の事業を起こすことになったのか?さっそく伺っていきましょう。

明確なイメージなし?「起業しなければ」という焦りからの ”割と平凡” なスタート

―まずは『なぜこの事業で起業を?』というところから。いわゆる「わかりやすい事業」ではないマーケティングの世界で、なぜお二人は今のビジネスをはじめられたんでしょう?
―福井
私はいわゆる『脱サラ組』なんですが、新卒で銀行マン ⇒ セブンイレブンの店長 ⇒ 本部 ⇒ 35歳で独立。。。という過程で、実は『起業したいという焦り』はあるものの、「この事業でやる!」といったような明確なイメージはもってなかったんですよ。 ただ漠然と30代後半をサラリーマンのまま迎える恐怖だけがあって、ちょうどそのころ流通業の上場ラッシュがあって…。「じゃあ流通業界で何かやろう」くらいな考えだったんです。
なんと。 いや、起業から数年でマザーズ上場を果たしたメディアフラッグの社長…というと、なんとなく『明確なビジョンを持って脇目も振らずに駆け抜けてる人』なイメージが勝手にあったもので。。。ちょっとビックリですね。 なんというか、妙に親近感が。
―福井
いや本当に。渋谷さんはもしかしたらそういう方なのかもですが(笑)僕は大手企業にいた時間が長かったせいか、割と『サラリーマン思考』な部分があるんですよ。 直接的なきっかけはセブン時代に『大きな会社だと新規事業って難しい!』と感じたことだったりしますが、いわゆる「ザ・起業家」てタイプでは無いんですよね。
と、そう語ってくれた福井さん。 具体的な起業時の思考としては以下のような「自身の経験値からのニーズ分解」だったそうですが、案の定周囲からは思いっきり心配されたんだとか。

福井さんの起業時マインドフロー

  • 流通業界での経験を活かしたい
  • 自分の在籍したセブンは強い。では何が強かったのか?を思考
  • SVとPOS(人とITへの投資)がすごいから強いと仮定
  • 他のフランチャイズに目を向けると(ほぼ)できてなかった
  • ではアウトソーシングできればニーズはあるのではないか?という仮説
  • 覆面調査、ラウンダー(メーカーの営業代行、店頭販促フォロー)サービスはあったが非効率的だった
  • ではそれをより効率化させてサービスにしてみよう
経験から得た「大手の強さ」に対し仮説を立て、そこに対するサービスの不足をチャンスと捉えた…ってとこでしょうか。いや、言うは易し行うは難し。って話なんでしょうけども。。。 ちなみに渋谷さんの場合、どんな感じだったんでしょう? 続けて伺ってみます。

やると決めたらまず行動。ルールの転換期を見逃さない決断のスピード

―渋谷
僕の場合、高専時代に「起業しよう!」てだけ友人と決めてたんですよ。で、大学在学中に1人でシリコンバレーに行ってみて『ITすげー!』てなって、新卒で当時黎明期のソシャゲ系ベンチャー入社 ⇒ 数年で起業。みたいな感じです。 福井さんと同じく…かどうかは分からないですが、あまり明確な事業イメージは持ってなくて、せいぜい『スマホすごい!これでなんかやろう!』くらいだったと思います。
おおお…。こ、これはまた何というか。 お手本のような『イマドキの起業家』って感じですね。それこそシリコンバレーの偉人たちのような。。。
―渋谷
いやいや、そんな大層な話じゃないですけどね(苦笑) 年齢が年齢だったんで焦り…みたいなものはあんまり無かったんですが、とにかく業界全体の勢いがすごかったんで。それに乗っからないとヤバイ。置いてかれる…!みたいなイメージはずっと持っていました。
渋谷さんの場合、ちょうどスマホが世界に現れ始めた時期にソーシャルゲーム系メガベンチャーに在籍。 マーケットそのものが突然巨大化する渦中にいたため、以下のようなマインドフローで起業までのスタートを切ったそう。

渋谷さんの起業時マインドフロー

  • ソシャゲ系ベンチャーでスマホ対応を担当
  • 業務をやりながら『いや、ここはアプリだろ!』と強く感じる
  • Webでは当たり前の数値系のマーケティング分析が当時アプリに無かったことに着目
  • ではそこにツールを投下できればニーズはあるのではないか?
  • とりあえずやっちゃおう!で起業
なんというか、間違いなくニーズが爆発することを確信していた…て感じのアクセルの踏み切り方ですよね。 iPhoneが誕生し、今まさにマーケットのルールが変わる!というタイミングにおいて、何よりもスピードを重視したこと。 あらゆる事業に言えることでしょうが、「期を見る」ってやはり重要なんですね。改めて感じさせていただきました。

増え続ける『取得可能なデータ』と、これからの経営者に求められる能力

―お二人とも形は違えど「マーケティング」がメイン事業。ということで、これから独立・あるいは副業などで事業を開始して、マーケティングと向き合うことになる方へ伝えたいことなどありますか? こちらの質問もまずは福井さんから。 それこそ数え切れないほどの店舗経営者さん達と一緒に事業を作ってきた福井さんからのアドバイス、気になります。
―福井
うーん。そうですね…。 例えば、リアルな店舗運営で「経営に役立ちそうなデータを集めよう」なんて考えると、それこそ本当に膨大なデータが取得できてしまうんです。今の時代は。 リアル行動における施策と結果の相関…だけではなく、例えばサイネージとカメラを使った人認証からの顧客特徴の取得。それに合わせたリアルタイムでのアプローチ…などなど。
―福井
ただ、どれだけそういったマーケティング上必要そうに見える情報を集めたところで、「見て知るだけ」では何の意味も持たないんですね。 なので、やはり重要なのは『何を重要とみるか?』という人間の判断だと思っています。それを完璧に我々がサポートできれば理想なんですが、やはり完全とは行かないですしね。
うーむ確かに。 現状暗黙知扱いされている「感覚的になんか正しい」って部分をデータによって可視化することができるようになった。それは素晴らしいこと…とはいえ、あらゆるデータを眺めて片っ端からなんとかする…なんてことは人間には無理ですからねぇ。 どの情報を重要と見るか?あるいは判断に足りない情報は何か? これを見るためのスキルは結局経営する側の人間にとって重要。ということですねぇ。
―渋谷
デジタルの世界はその傾向はさらに顕著かも知れないですね。とにかく取ろうと思えばあらゆるデータが取得できてしまいますから。 リアルよりも「なんとかするための施策が打ちやすい」ってのも理由の1つになるとは思いますが、とにかく『あれが悪いんじゃないか』『こうすればいいんじゃないか』って仮説を立てまくってカウンター撃ちまくればなんとかなる…てほど単純にはいかないんですよね。
と、そう続けてくれたのは渋谷さん。 確かに、それこそフラーで提供している『Joren』(50万買い切りでWebサイトをネイティブApp化できる)みたいな廉価なツールのおかげで打てる手が多くなっている分、デジタルこそこの課題は浮き彫りになりやすいかも…?ですね。
―渋谷
やれ『マーケティングだ!』と息巻いてデータをかき集めても、ただ闇雲にやったんでは、もはや人間が処理できる情報量じゃないんですよ。 なので、『自分たちの事業にとって見るべき相手(データ)はどこにあるのか』これを検討し、決めていくフローにこそ大事なポイントはあるはず。なんて思ってますよ。
ですよねーー。いや、ホント耳が痛い。 何というか、とても『当たり前の話』なんですが、それこそ、ソコを上手く突いて起業~事業拡大を成功させてきたお二人から聞くと、身が引き締まる思いです。 大量のデータ並べて「こうやったら○○なるんじゃないか?」なんて仮説思いつくとすごい仕事やった感ありますもんね。そうじゃない…というか、それだけじゃ駄目だよ。と。

1%の大手より、99%のマーケットに届く思考を

―では最後に『事業を上手いこと拡大していく』ために、お二人がどう考え、どうマーケットと向き合っているのか?お伺いしてもよろしいでしょうか?
―渋谷
大きな目で社会全体を見ることが重要なのかな?とは思っています。 巨大資本を持った大手相手に商売すれば、たしかに単発ではうまくいくことも多いんです。が、事業を拡大しようと思ったら「強い1%の企業をより強くする」という考え方より『99%の周回遅れの企業をどう引っ張り上げるか?』のほうが上手くいくんじゃないかな?と。
―福井
同感ですね。ウチの事業はまさにそのスタイルですし。 この国にはもっともっと「勘と度胸」のみの判断から、根拠をもったデータ・ドリブンな経営をするべき小さな企業がたくさんあるんです。そしてそれがひいては大きな意味での業界・事業・顧客の成長や成熟につながっていくと信じています。 遅れてしまった99%の企業にこそ、提供すべき価値のあるビジネス。これをしっかり創り上げていきたいですね。
な る ほ ど。 言われてみればその通り。一見派手に見える、実際金額も大きくなる大手との仕事ばかりに目が行きがちなのが、なんとなーく普通の感覚と思っていましたが、そうではなくそれだけでは足りない。と。 事業を起こすのであれば、より大きな視点で「どの業界、どのジャンルの、どんな99%の遅れに対し価値を提供していくべきか」これを持たなければ大きくはしていけない。ということですね。 コンシューマ相手の商売にせよ、企業相手の事業にせよ、どちらにも共通する大事な言葉、いただきました。 お二人とも、本当に多忙な中お時間いただきましてありがとうございました!

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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズンがスタート。開業までのプロセスを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリーを公開!
山本さんプロフィール 大学卒業後、学生時代にアルバイトをしていた大手の学習塾に入社。退職後、フランチャイズの学習塾を開業。雑誌の取材を受けるなど経営は順調だったものの、理想とする塾のスタイルと違うと感じ塾を閉める。その後、大手の個別指導塾に入社し、個別指導の運営方法などを勉強。現在は退職し、個人の学習塾開業に向けて準備を進めている。開業場所が2016年12月に決定。17年4月の開校に向け、日本政策金融公庫で創業融資を受け、現在、内装工事中。

――さっそくですが、日本政策金融公庫の創業融資の結果は来ましたか?

はい。無事に満額融資していただけました。郵送で通知が届いたのですが、印鑑証明書と口座の振替用紙を折り返し郵送して、それから3日後くらいに入金されていました。特に心配はしていなかったのですが、なんだか安心しました。

――それはよかったですね。前にお話しされていた内装業者のクラウドソーシングは結局利用されたんですか?

内装や照明でお願いしてもいいかなと思ったのですが、クラウドソーシングを知ったのが直前で時間もなかったので今回は利用しませんでした。でもこれから開業を考えている方は検討する価値があるかもしれません。

――なるほど。ではすでに内装工事に取り掛かっているんですね?

内装工事は、看板の取り付けや壁紙の張り替えは終わりました。看板は店の壁に付ける袖看板が2つと、窓に付けるウインドサインを。それから正面入り口の上の部分に丸い看板を配置しています。壁紙はショウルームを3軒回って選びましたが、やさしい水色をベースにしています。 照明の種類や個数もショウルームで相談したり、シミュレーションしてもらって決めました。物件の広さと天井の高さを業者の方に伝えるのですが、メーカーによっておすすめしてくれる内容が少しずつ違うんですよ。電球が明るいと価格は高いけれど、数は減らせる…。明るさが弱いと価格は安いけれど電球の数を増やさなくてはいけなくて…。結局明るさが十分確保できるようにし、あとは費用対効果を優先して30個に決めました。工事の方には取り付けだけお願いしました。 床については、コンセントの穴がいくつかあいたままで気になっていたので、それを業者の方に直してもらい、あとは自分でカーペットを敷く予定です。

――看板がついたということはロゴも決定したのですね?

はい。そうなんです。塾のロゴは、自分で手描きしたデザインを元にデザイナーさんに作ってもらいました。メールや直接会って打ち合わせをして、何度かデザインの修正を重ね納得のいくものができました。 文字のフォントや色の組み合わせなど、細かい調整を何度も繰り返したので大変でしたが、ロゴや看板ができ上がっていく過程を体験できてとても楽しかったです。

――それでは内装も完了目前ですね。机やイスなどの準備も進んでいますか?

机やイスに関しては、木製のものがいいなと思っていろいろ探してたんです。ある店で目を付けていた机は、発送にだいぶ時間がかかると言われていたのですが、交渉して何とか間に合うように送ってもらえることになりました。 イスについては、希望する商品がすでに発売中止になっていたので、あきらめたんですが、その後インターネットでいいものが見つけられたので、助かりました。 授業中、長い時間、座っていても疲れないようなものを選んでみました。

――机やイス以外にも準備を始めているものはありますか?

教材の発注をしました。今まで使ったことのある教材の中から気に入ったものを中心に揃えました。でも生徒がどれくらい集まるか、まだわからないので、今は全学年分を必要最低限という感じです。 うちは個別指導なので、生徒さんの使う教材は面談で話してから決めていく予定です。小・中学校の学習指導要領の改訂も気になるところです。

――教室が完成すると、そろそろ宣伝も始めるわけですね。

駅の近くにあるデザインショップに、チラシを発注しています。載せる情報は最低限に絞ってシンプルなものにしようかと。塾の雰囲気を伝えたいので教室内の写真を多めに入れる予定です。 大枠はだいたいできているので、内装完成後に写真をはめ込んで完成といった感じです。写真もデザインショップの方が撮ってくれるそうなので、ラッキーでした! ホームページも考えているのですが、開校してからでもいいかと思っています。

――チラシ配りはいつから始めますか?

3月中旬頃ですね。内装が完成したら、教室の写真を入れたチラシを印刷する手はずなので。一緒に働く仲間に手伝ってもらいながら、塾の周辺でポスティングやハンディングをしようと思っています。 ほかにも生徒の月謝が、口座振替できるよう手続きなどもする予定です。

次回の更新は、2017年3月17日(金)予定。お楽しみに!

更新日:2017/3/10
文:堀家かよ 撮影:中村公泰

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NPO法人サービスグラント/東京都渋谷区 代表理事

嵯峨 生馬さん(41歳)

1974年、神奈川県生まれ。大学卒業後、日本総合研究所に入社し、調査研究業務に従事。2001年、渋谷を拠点とする地域通貨「アーティストマネー」を共同設立し、現在も代表理事に就く。2005年、日本におけるプロボノの草分け的活動として、「サービスグラント」をスタート(2009年にNPO法人化)。2010年、グッドデザイン賞受賞。東京、大阪を両拠点に活動しており、プロボノワーカー登録者数は2700名を超えた。高い支援実績を誇り、国内のプロボノを牽引している。

社会課題を肌感覚としてとらえる人々を増やしていく。それが「社会参加先進国」に近づく一歩になる

━ この活動を始めた背景には、ご自身の経験があるようですね。

 サービスグラントの前に、コミュニティの活性化を目的にした地域通貨を発行・流通させる活動を始めていたんです。この時に実感したのは、運営過程において様々な課題が出てくるということ。NPOって最初は勢いがあっても、続けるうちに熱が冷めてきた人の活動力が落ちたり、広報や経理などといった法人運営に欠かせない仕事に手が回らなくなったりと、困り事に多々直面するんですよ。  継続って難しいものだな、そう感じていた頃に、アメリカで知ったプロボノ中間支援団体のことをちゃんと調べてみたのです。企業人のスキルを活用し、非営利組織に実際に役立つ支援を提供する仕組み。これはいい!と。「こんな団体が日本にあったら、まず自分が使いたい」。そう思ったからこそ、活動を立ち上げたのです。

━ 滑り出しはどうでしたか?

 プロジェクトをやればすごく手ごたえを感じたし、ニーズはあると確信できました。ただ認知がないから、説明会を開いてもなかなか人が集まらず、企業との協働もまだなかったので、とにかくお金には窮しましたね。3年くらいたつと中だるみしてきて、このまま続けていけるだろうか……って。  転機となったのは2009年。日本財団から助成金を受けたのです。ちょうど日本財団も、社会的課題に取り組むNPOなどの基盤強化に力を入れていくというタイミングで、僕らが提供する仕組みが「新しい支援のかたちとして面白い」と。これで、もう一踏ん張りしようと意を固めて法人化し、社会的に影響力のある方々にアタックして理事も集めたんです。時代の後押しもあったのでしょう、メディアにも取り上げられ、「プロボノ上陸」と銘打った大きなフォーラムを成功させることもできた。いわば“第二創業”ですね。

━ プロボノワーカーも支援先もずいぶん広がってきています。

 法人化した時期を境に、プロボノワーカー登録者数が年間約400人という規模で増え続けるようになり、従前の10倍ペース。支援先の分野としては医療・福祉、子供・教育が多いですが、本当にいろいろです。プロジェクトは案件ごとにチームを組んで臨むんですけど、大切なのは課題とゴールを明確にすること。達成する成果目標を、受益者とプロジェクトメンバーできちんと共有し、適正な時間管理をすることで、確実なフィニッシュができるのです。  プロジェクトを経験したプロボノワーカーたちの8割以上が、リピートを望んでいます。“異業種混合チーム”で視野が広がり、スキルや問題解決力がより磨かれたりと、自己成長の確かな手ごたえを得られるようです。CSR(企業の社会的責任)の観点からパートナーとして協働してくださる企業も増えていますし、こういう広がりはうれしいですね。  

━ これからの活動イメージは?

 今、僕らは「社会参加先進国へ」という言葉を掲げています。昨今、日本は課題先進国という言われ方をしていますよね。確かに社会課題は様々あるわけですが、これらを解決するには、まず人々、皆が社会参加できるようになっていくことだと思うのです。その中で、社会課題に継続的に取り組むNPOの全体的な底上げが一つ重要なことだし、社会に対しては、NPOに対する理解やかかわりをもっと深めてほしい。 お金で支援するのでも、プロボノで支援するのでもいい。何か活動に直接かかわることで社会課題を肌感覚として持つ人々が増えれば、社会参加先進国に一歩近づけるんじゃないか、そう考えています。そのためにも、今後は縦横に広がるスケール感ある活動を目指したいですね。
取材風景

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「独立・開業」を目標に、起業準備を進めている方に年間密着取材。2016年12月より取材を開始した第2シーズンでは、4組に密着し、開業までのプロセスや想いを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルなお話を伺っていきます。16年12月~17年2月まで3カ月の取材を通じて感じたことをつづっていきます。

取材対象者選考面談は、皆さん少し緊張気味?

2015年から開始した年間密着取材企画も終盤を迎え、新たに第Ⅱシーズンを開始するにあたり、取材にご協力いただける方の募集をしたところ、多数ご応募いただきました。本当にありがとうございました!  ご応募いただいた方の中から、数組の方にお会いしてお話を聞かせていただきました。ご自身のことや開業に関すること、仕事に対する思い、家族への思い、過去・現在・未来。皆さん、生きがいが欲しいから、もっとより良い社会にしたいから、などの信念をお持ちの方でした。編集部も、前を見て自分の道を進んでいこうとしている方、進んでいらっしゃる方にパワーをもらったと感じています。 事前に服装は気になさらないでくださいとご連絡していても、面談前に「職場から直接来たので、こんな恰好で…」とおっしゃる方や、緊張のためか大汗をかいていらっしゃる方も。それでも皆さん、面談を終え、お見送りの際には「初めてリクルートにきたんですよ」「就職面接みたいでしたね」と感想を言ってくださるなど、距離感が縮まったことを嬉しく思いました。

2016年12月より第Ⅱシーズンの取材スタート

取材させていただく4組の方が決まり、第Ⅱシーズンの取材を開始しました。 2017年4月に個別指導塾を開校する予定だとおっしゃっていた山本さん。12月時点では「まずは物件と融資申請ですね。塾をおしゃれなカフェみたいにしたです」とお話ししてくださっていました。翌月には、歩き回って見つけたという物件を契約、日本政策金融公庫の創業融資の申請・面談を終え、2月にはチラシ作りや内装工事など、お会いするたびに開校準備が進んでいます。 山本さんと同じく17年4月に託児所を開業したいとお話してくださった菊地美由紀さんは、12月にご自身のポリシーと合うフランチャイズさんと会い、その後もやり取りを重ねて1月に加盟。2月は物件の申し込みと内装見積もり、日本政策金融公庫の融資申請とを並行して行っていました。物件がまだ確定しないものの、勤め先に3月末退職の意向を伝えるなど、物件以外のものを準備中です。 ご夫婦で取材に応じてくださっている橋爪さんご夫妻は、16年に旦那さまの地元山梨県にUターン。実家が兼業農家という旦那さまは、代々受け継いできたものを絶やしたくない!という思いが芽生え、特産品を用いたゼリーを無店舗型経営で販売することを決意。商品開発を進めつつ、1月に甲府市内の空き物件見学会に参加したのをきっかけに、地元での店舗型経営に気持ちが傾いています。賃貸の空き物件を探しつつ、事業計画に見合う価格帯で器を選ぶなど、できるものから準備を進めています。 2年後に定年退職を控えた林原雄大さんは、中学生のお子さんが成人するまでは働きたいとフランチャイズでの独立を希望。車・旅行ガイドなどを刊行する出版社に長く務めてきたこと、ご自身も車いじりが好きということでカーリペア業を検討していました。しかし、2月に従兄が長く経営していたカーリペア店を閉めると聞き、開業する業界から、考えなおし始めています。

4組に共通するのは「自分らしさ」

4組に共通しているのは「自分らしさ」を求め、これをもとに道を選んでいるということです。「おしゃれな個別指導塾があったらいいな」「もっと子どもに寄り添える託児所があったなら」「好きになれることを仕事にしたい」「地元の特産品を生かした商品をつくりたい」。独自のスタイル・信念を持って開業準備を進められています。 皆さんの心からの思いに触れるからでしょうか、彼らの周りにはトラブルが起きても、暖かくサポートしてくれる人がいます。開業の準備活動を始めてから、「まるでコンサルタントのように動いてくれる」とう知り合いができたり、「小さなことでも娘が相談に乗ってくれます。娘がいなければ、開業しなかったかも」など、取材中に感謝の言葉を聞くことが多い企画だと感じています。 まだまだ年間密着取材は始まったばかり。今後の彼らの動向に注目していきます。

次回の更新は、2017年3月10日(金)予定。お楽しみに!

更新日:2017/3/3
文・撮影:樋口代史子

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20年。生まれたての赤ん坊は成人になり、成人になったばかりの若者は働き盛りの中年になる、長いようであっという間な時間です。 そして今から20年前。世間では、『もののけ姫』が上映され野球界ではヤクルトが4度目の優勝を成し遂げた1997年に、独立・開業を支援する雑誌「アントレ」は創刊されました。 そこで今回はアントレ20周年企画として、新橋を歩く人生の先輩たち20人にインタビューを実施。これまでの20年のアレコレを振り返っていただきました。 ※アンケート対象 40~60代の男女 20人

質問事項

まず、1つめの質問では、20年前にやり残したことを挙げてもらいます。40歳の方であれば、まだまだ夢をもって瞳が輝いていた20歳。きっとやり残したことはたくさんあるでしょう。 2つめの質問は、1つめの質問とは全く正反対。20年間ずっと抱えている後悔や懺悔したい(謝りたい)ことはないかお伺いします。大人になって、なかなか言葉にできない過去の過ちを暴露していただきます。 最後の質問は、これからの将来ことについて伺います。何歳になっても「これからやりたいこと」はあるはず。年齢によってある程度の傾向はあるかもしれませんが、人生の先輩にとっての「これからやりたいこと」はなかなか聞けないので必見です。 これらの質問の答えをおおまかに分類したうえでグラフ化し、この20年をどう考える人が多いのかを分別。さらに、印象深い答えをピックアップしてまとめました。この20年間を待ちゆく人の視点から振り返ってみると、どんな20年が浮かび上がってくるでしょうか。

「もっといい大学に入りたい」「もっと英語を勉強したい」 ”勉強”へのコンプレックスが目立つ結果に

質問1.20年前にもどれたら何をしますか?

最も多かった答えが”勉強”でした。勉強といっても内容はさまざまで、もっと良い大学に入りたかったという人や、今の職場でもっと活かせるように専門分野を極めたかったという人が目立ちました。 社会にでると学歴を気にすることはあまりない、という話を聞くことが多いですが、案外気にしている方が多くいらっしゃるご様子。 しかし、過去に戻って「勉強をする」という答えが多かったのはやはり、この世代の人たちが勤勉で真面目だからではないでしょうか? 勉強に次いで多かった回答「同じ」とは、「現在とまったく同じことをする」という回答のこと。「日常から飛び出したい!」という回答が多いのではないかという予想に反して、現在と全く同じことをするという人が多いという結果に。自分の人生に納得している人が多いのはすばらしいことですね。 そして、まさかのモテたかったという回答が起業を上回る票数になりました。男性にとって青春時代の「モテ」とはそれほどまでに重要なことのようです。

印象的な回答

50代男性(建築系) 「20年若かったら、外国に行って仕事しているかもなぁ。今でもよくアメリカに行ってるし、向こうにも友達がいるし。未来が分かってたらいろいろ挑戦してみたい。」
30代男性(IT系) 「違う部活に入りたかったな。サッカー部とかバスケ部に入りたかったですね。やっぱり部活によってモテるモテないはあると思うんですよ。かっこいいって言われる部活に入りたかった(笑)。」

”勉強”にコンプレックスはありつつも、意外にも後悔の少ない人生を送っている

質問2.20年間で後悔したことや懺悔したいことはありますか?

最も多かった回答は「後悔していることや懺悔したいことはない」で7票を集めました。些細な失敗はたくさんあるものの、後悔や懺悔するほど大きな失敗ではないという人が多かったようです。 仕事にはいつでも失敗があるものですが、人生がひっくり返ってしまうほど大きな失敗はなかなか起こらないようです。 「ない」という回答に次いで多かったのが「自分の失敗」です。具体的には「飲みすぎた」や「遊びすぎた」などの後悔というよりは反省に近い軽いものがメインでした。 なお、本当に懺悔したいという重い回答もごく少数ありましたが、こちらは残念ですがヘビー過ぎて公開できそうもありません。自分だけの問題ではすまない、対人関係における懺悔と回答した人は、少々重い回答が多くありました。

印象的な回答

40代男性(広告関係) 「私は山が趣味なのですが、山登り初心者の友人と山に登ったときにケガをさせてしまいました。命に別状はなかったとはいえ、あの時のことは本当に懺悔したいですね。」
30代男性 「まだ若いときに酔っ払って、顔に大きなケガをしてしまったことは後悔しています。で も、お酒は飲み続けます(笑)。ケガしないように気をつけます!」

先輩世代の将来の夢は、やっぱり「安定した老後」

質問3.これからの夢や目標はありますか?

多かった回答が老後や安定について。40代以上の方はどのような老後を過ごすかを気にされている人が多かったですが、老後を心配している人と楽しみにしている人は半々で分かれました。 「金持ちになりたい」とまだまだ野心を燃やす陽気なイギリス出身の男性や、「親孝行をしたい」と親思いの優しい女性など、人によって様々な回答が印象的でした。さらに印象的な回答はこちらです。

印象的な回答

40代女性(事務職) 「私、モテモテのおばあちゃんになりたいんです。今は仕事や家庭があってなかなか時間が取れないけど、老後は楽しく、自分の好きなことを目一杯やりたいなと。そんな風に自分の好きなことをしている人っていくつになってもキラキラしていると思うんです。だから私はモテモテになります!(笑)」
60代男性 「2020年の東京オリンピックを最後に、おそらく僕たちの世代は本格的に前線から引くことになると思う。だからもう僕にできることは、いい後輩をたくさん育てていくこと。これからの日本を託していく準備をしているよ。」

日々を大切に、これからの20年を幸せに過ごそう

バブル崩壊頃で日本全体が不況に陥っていた1997年からの20年について、新橋の先輩たちにお話を伺いました。 先輩たちは「この20年間大変だった」と笑いながら言っていましたが、どの人も不思議としゃんと胸を張っているように感じました。おそらくいろんな局面に遭遇しても、持ち前の勤勉さと真面目さでひとつ一つ問題を乗り越えてきたのでしょう。 流れる時間は止まることなく、これからも流れ続けます。あと20年、2037年を迎えた時に「良い20年だった」と自信を持って言えるよう、毎日を大切に過ごしていきたいですね。
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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズン。開業までのプロセスや想いを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリー。
橋爪さんご夫妻プロフィール 旦那さまは、山梨県出身の33歳。東京の大学を卒業後、都内の新聞社に就職。その後、保育園の管理事務職に就く。体調を崩した祖父を想い山梨県へUターンするも、勤めていた保育園から、新規園の立ち上げスタッフにと声がかかり再度、東京へ。新規園が軌道に乗ったのを見届けたのち退職。2016年に山梨県へ移住し、現在は働きながら開業準備中。奥さまは、神奈川県出身の44歳。大学卒業後は、大手学習塾、塾経営など教育業界や企業に勤務し、保育園管理事務職に。現在は山梨県内の企業に就職。山梨県産のフルーツを用いたゼリーを主力商品とした6次産業での開業を検討しており、当初考えていた無店舗型経営ではなく店舗型経営の方向で物件を探し中。

――前回、無店舗型経営から店舗型経営に気持ちが傾いていると伺いましたが、店舗型経営に確定されたのですか?

そうですね、店舗型経営にしたいと思っています。
販売予定のフルーツゼリーは山梨県産の素材にこだわったものなので、甲府市に出店するよりも地元に出店したほうが自然のイメージも強く、お店のコンセプトに合うので、地元に出店したい思いが強くなっています。
知人からも甲府市までは自宅から車で1時間くらいかかるので通勤時間がもったいないと助言をいただいたりもしました。夏はこの辺も観光客でにぎわいますしね。

――ご主人も、前回、お客さまと直接やりとりをしたいとおっしゃっていましたね。では、物件探しを始められているのですか?

それが、実は難航しています。この辺りには賃貸物件が少なく、ほとんどが売り物件で、賃貸物件があっても、希望以上に広くなってしまったりするのです。 インターネットで探しても不動産屋で聞いても希望するような賃貸物件がなく、再考せざるを得ないかと思っていたのですが、知人が「良い物件がないか周りに声をかけてみるよ」と申し出てくれたところです。 場所については、絶対に国道沿いや市街地が良いなどの希望は特にありません。地図やカーナビで辿りつくことができるところで、あとは商品の味さえしっかりしたものであれば、口コミや評判で来ていただけるのではないかと思っています。
自分がここでやりたい、お店を楽しくやっているイメージができる物件に出合えたら、きっとお客さまを笑顔で迎えられると思っています。 3月上旬には地元付近で物件を決めたいですね。

――ちなみに、物件探しを手伝ってくれるという知人の方は、地元の方でいらっしゃいます?

そうですね。前職で知り合ったパッケージ業者の方です。商品のパッケージを相談している中で、物件が見つからないことを話したら良い物件がないか探してみてくれると言ってくれて。仕事柄なのかとても顔が広いのです。異業種交流会を紹介してくれるとも言ってくれたりしていて、まるでコンサルタントのように協力してくださいます。 Uターンしてきてから、とても人に恵まれていると感じています。先月参加した甲府市の空き物件見学兼相談会でお会いした銀行員の方や商工会の方、引っ越してから知り合った知人が、物件を含めいろいろと相談に乗ってくれるなど、皆さんに応援していただいています。

――それは心強いですよね。パッケージ業者の方とお会いしているということは、商品開発と容器も決定したのですか?

商品は、フルーツごとに使用する天然甘味料を変えるなど、素材との相性を考えた組み合わせが出来てきました。 ゼリーの甘さは、フルーツ自体の甘みを邪魔しない後味の良いものにするため、分量や配合にこだわっています。ただ、まだ納得いくものではなく、もし、まだ試していない色移りしない後味の良い砂糖などがあれば是非使ってみたいですね。目指すゼリーは素材の味を生かし、カットしたばかりのフルーツをそのまま味わえるものです。 容器も迷ってしまいますね。ざっくりではありますが月の収支を算出しているので、原価率を考えて販売価格に見合う金額のものの中から、容量デザインや材質を考えています。
フルーツそのものも見えるようにしたいし、販売価格に見合う高級感やおしゃれ感もほしいですし。私たちのお店らしさを出せるような、お店のイメージを投影できるような容器にしたいと思っています。 コストを度外視するなら高級感のある瓶にしたいですが、そういうわけにはいかないので難しいところですね。

――着々と準備が進んでいますね。まずは良い物件に出合えると良いですね。

そうですね。物件が決まれば名刺も作れるので、名刺ができたらフルーツの仕入れ先を当たるなど、活動範囲を広げたいと思います。実家で収穫したフルーツだけでは、年によって収穫量も変わりますし、フルーツの種類も限られてしまうので。 容器のラベルは妻の親戚のデザイナーにお願いしていますが、まだ容器自体が決まっていないですし、ホームページも友人を通じて制作依頼はしているのですが、店舗や商品が確定していないので、どれもスタンバイといったところです。 今はまだ開業準備が点の状態なので、物件と商品を納得するものにして点を線にしたいと思っています。

次回の更新は、2017年3月31日(金)予定。お楽しみに!

更新日:2017/2/24
文:樋口代史子 撮影:中村公泰

独立開業への道 365日 アンケート2

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一般社団法人日本リ・ファッション協会/東京都中野区 代表理事

鈴木純子さん(47歳)

1965年、茨城県生まれ。高校時代に起業家を志し、卒業後、経営やコンピュータの専門学校に通う。88年、大手システムソリューション会社に就職したのを皮切りに、経営コンサルティング、雑誌編集などの職を経験、92年、フリーのマルチメディアプランナーに。96年、マルチメディア関連業務などを請け負う「アプロディー」を設立、代表取締役に就任。循環型社会創出への貢献を考えるなか、2009年、思いを同じくする仲間と「日本リ・ファッション協会」設立、代表理事として精力的に活動している。 http://www.refashion.jp

 大量生産・消費から循環型社会へ――。言い古された感のあるスローガンではあるが、一貫したビジネス、ムーブメントに具体化するのは、そうたやすいことではない。鈴木純子が2009年に設立した日本リ・ファッション協会は、「衣」を核に、リユース、リフォーム、リサイクルなど〝Re(再び)〟に焦点を定めた様々な行動を提唱 している。ポイントは「リ」に、モノの循環を支える日本の伝統技術や知恵に対する「リスペクト」 の意を込めていること。それらを結集した「いいものを長く愛用する」社会の再構築が目標だ。 設立4年目、そうした趣旨に賛 同する会員は、企業、個人合わせて約380に達した。現在、「リ・ファッション」を理解してもらうためのワークショップ、コンテストの開催や、初心者でも気軽に手芸を楽しめる「ソーイングカフェ」の運営に取り組む。さらに、回収した古着などを使って新たなビジネスの創設を目指す「リ・ファッション ラボ」では、いくつかのプロジェクトが立ち上がってきた。「多くの人と手を携えながら、自ら〝稼ぎ出せる〟新しいビジネスを」。NPOなどではなく一般社団法人として旗揚げした鈴木の思いは、確実に芽吹き始めている。

「いいものを長く愛用する」ための技と知恵を見直し、企業化を図る。それが循環型社会を支えるムーブメントになる

━ 起業を決意したのは16歳の時だったとか。

 引き金になったのは、高校受験失敗のトラウマです。それからずっと抜け出せなくて、こんなふうに、他人のモノサシに引きずられる人生を送るのはいやだなと。で、自分の価値観を軸に生きていくのだったら、将来「社長」になるしかないと思ったのです。実際に起業したのは、いくつかの会社勤めを経験した後、29歳の時でした。

━ リ・ファッション協会を設立したきっかけは?

 もともと技術畑なので、日本の伝統的な技術や知恵を残したいという意識が強かったんですね。それとリンクさせて、何か、生活や心の豊かさを実現できるビジネスモデルが構築できないかと、いろんな人とも意見交換しながら試行錯誤を重ね、やっと行き着いたという感じです。 日本には、昔から高い技術に裏打ちされたメンテナンスという仕事がそこかしこにあって、それで世の中が動いていたわけです。モノを循環、再生させることで潤いのある暮らしを演出していた。大量消費時代の到来で忘れ去られていたそういう社会を、今の時代に合ったかたちで提案しようと考えたのです。と、理論だけではなかなか理解してもらえないので(笑)、まずは「リ・ファッション」の普及活動から始めました。

━ 具体的には?

 例えば「リ・ファッション コンテスト」。参加者には、私たちが一般家庭から回収した不用衣類を素材として提供し、2着以上の服を使用したリメイク作品を発表してもらう。その作品を公開展示やWeb投票で審査し、グランプリを決めるというイベントです。参加者だけでなく、衣類の提供や審査というかたちで、数多くの人に  「リ・ファッション」の楽しさを知ってもらえるのがミソ。3回目となった2012年は、受賞祝賀パ ーティに100人ほどの方が集まってくれました。 「ソーイングカフェ」にも手ごたえを感じます。お茶を飲み、講師のアドバイスも受けながら縫いものをする、ありそうでなかった空間です。東日本大震災の支援活動の一環でもあるのですが、テーブルを囲んで作業をするというのは、距離感がちょうどいい。心のケアや新しいコミュニティづくりに一役買っています。

━ リ・ファッション市場の創造にも取り組まれているとか。

 家庭に眠る衣類を回収し、会員仲間とともに新しいビジネスを起こそうという「リ・ファッションラボ」事業です。例えば被災地や障害者施設の作業所などは、商品開発やマーケティングが不得手で、そのことが生産の壁になっている場合が少なくないのです。そこで、そうした部分を会員企業などが担当し、現場は縫う、編むといった作業に特化して仕事量を増やすというプロジェクトが始動しました。これを端緒に、いくつかの新しい仕組みづくりに取り組めそうです。

━ これからの夢は?

 あえて株式会社という営利組織でもなく、NPOという非営利組織でもない「一般社団法人」にしたのは、自分たちだけではなく、生産や流通、メンテナンスに携わる人々に消費者も巻き込んだ、実効力のあるムーブメントにしたいと考えたからです。その目標に照らせば、ようやく一歩が踏み出せたところ。芽が出始めた事業を着実に花開かせながら、さらに認知度を高めていきたいですね。 循環型社会が大事だと言いますけど、突き詰めれば、モノを使い捨てにする社会は、人も使い捨てにする。仕事も同じだと思うんですよ。常に創造しつつ、同時にみんなが幸せになれる持続可能な事業を追求する。その原点は忘れずにいたいと思っています。

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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズン。開業までのプロセスや想いを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリー。
菊地美由起さんプロフィール 岩手県の保育専門学校を卒業後、すぐに結婚。家事をこなしつつ、ファストフード店やコンピューター関連の仕事に従事。数年後、離婚を機に埼玉県へ移住した。1年ほどファストフード店と服飾店で経理として働いた後、総合病院に就職。9年後に退職し、乳幼児専門の保育園に正社員として就職。3年後、次女の結婚を機に、鎌倉に引っ越し。現在保育園で正社員として働いているが、3月末で退職予定。現在4月開業を目標に鎌倉市内でフランチャイズの保育所を準備中。

――開業予定の物件の契約は無事にできましたか?

保育所の基本的な設備としては、トイレなどの水回り、エアコン、防音設備が完備していれば大丈夫だと思うのですが、やはりテレビや新聞で保育所の騒音問題などが取り上げられるせいか、大家さんが慎重になっていらっしゃるみたいで、まだ決まっていないんです。以前その場所が使われていたのは飲食店で、今回はまったく別の業種ですし…。 今は、不動産屋さんが大家さんに交渉してくださっているのでおまかせしています。

――それは心配ですね。それでは、ほかの準備の進捗状況はいかがでしょうか?

とにかくできることからと思い、鎌倉に住む次女の知り合いの人を通じて内装関係の方に工事の見積もりを出してもらいました。そしたら大工工事・電気・内装・給排水で500万円以上かかると…。大手の会社にお願いしたのですが、お願いした作業以外にも、保育所にはあったら良いだろうというものを加えてくださったものがあり、予算を大きく上回る金額でびっくりしました。 見積もりが出たところで、日本政策金融公庫に創業融資用の書類を提出しに行ってきました。その後、フランチャイズとの本契約をしました。

――なるほど。そもそもそのフランチャイズを選んだ理由は何だったんでしょう?

保育関係の仕事を続けるうちに、自分のやりたいスタイルというか、自分の作りたい保育所の形がだんだん見えてきたんです。そのタイミングで周囲の人から“菊地さんが保育所をつくったらいいんじゃない”といわれることが多くなって、真剣に開業することを考えはじめました。 自分でやってみたいけど、どうしようかな~と思っていたら、あるとき自分のポリシーにぴったり合う会社が見つかって…。それがこのフランチャイズだったんですよ。

――それはもう縁としかいいようのない出合いですね。話は前後しますが、日本政策金融公庫の申請もご一緒に行かれたんですか?

いいえ、それは1人で。フランチャイズさんからいただいた事業計画書の書類や工事の見積もりなどを持参したのですが、日本政策金融公庫の担当の方が開口一番おっしゃったのが、工事の見積もりが高すぎるということでした…。 私の予定では、不動産、内装準備、フランチャイズ契約を合わせて600万円、そこに自己資金を250万円足して850万円でスタートしようと思っていたんですよ…。だからどう考えても工事の500万円は高すぎますよね。 そこで見積もりをやり直し、工事費を300万円台にして再提出することになりました。私は開業しようとしている鎌倉の出身ではないので、新たにどの業者さんに頼んだらよいのか分からず困っていますが、まずは次女の繋がりで依頼してみるつもりです。

――そうなんですね。初めて融資申請をした感想はいかがですか?

とっても緊張しました。でも担当の方が親切に教えてくださるので安心してお話しできました。融資の返金は最長10年までだということ、再度お金を借りる場合は決算を2回おえた3年以降であれば借りられることなど、疑問に思っていたことも丁寧に説明してくださいました。 ただ、私の性格上、借金が大嫌いなんです。だから今回、融資を受けることに最初は抵抗があったのですが、お話を聞くうちにこれからは経営者として借りることもありなんだって気持ちを切り替えることができたように思います。

――娘さんと二人三脚で開業準備を進めていらっしゃいますが、意見が合わないとか、ぶつかることはありませんか?

それが全然ないんです。普段はメールやLINEで事細かに連絡をしています。平日はなかなか会えないので週末に会って、いろいろなことを報告したり、相談をします。私は仕事もあり、有給完全消化できないまま3月末に退職予定なのですが、自分が動けないときの用事は娘にお願いしています。 娘の存在は本当に心強く、彼女がいるから開業できるという気がしています。いまは一日も早く物件が決まることをだけ信じているんです。

次回の更新は、2017年3月24日(金)予定。お楽しみに!

更新日:2017/2/17
文:堀家かよ 撮影:吉原朱美

独立開業への道 365日 アンケート2

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トレンダーズ株式会社の広報として働きながら、副業でお子さんと一緒にモデルとして活躍する秋枝未来さん。本業と副業、そして2人の子どものママという顔をもつ彼女ですが、最近ではさらにボランティアにも参加しているそうです。 今回はそんな、2足どころか4足ものわらじを履いている秋枝さんに、時間の使い方、そして副業に向いている人についてお聞きしました。
プロフィール 秋枝未来さん(トレンダーズ株式会社 広報室 室長&読者モデル) 新卒で大手レコード会社に就職。結婚後にトレンダーズに転職し、現在は広報室長を務める。2児の母として働きながら、副業としてモデル業、ボランティア活動に取り組んでいる。

子育て×広報×モデル×ボランティア!美人ママが4足のわらじを履いたワケ

-最初に、副業であるモデル業を始めようと思ったきっかけから教えてください。

秋枝未来(以下、秋枝)
娘が赤ちゃんモデルとして雑誌にでたことがきっかけです。自分の娘の話で恐縮なのですが、本当にかわいいんです(笑)。 かわいさ余って、雑誌の読者モデルに応募してみたら見事通過したんです。それで娘が赤ちゃんモデルとして活躍するうちに雑誌の編集者の方から「ママもどう?」と誘われて。 そんな流れで私自身もママモデルとして雑誌に出させていただくことになりました。

-元々秋枝さんがモデルのお仕事をされていたのかと思ったのですが、娘さんのモデルデビューの方が先だったんですね、意外です(笑)。

秋枝
そうですね。ただ前職では芸能関係の仕事をしていたので、比較的芸能の分野は身近な存在でした。 まさか自分が出演する側に回るとは思いませんでしたが(笑)。

-副業でモデルとしても活躍しながら、最近ではボランティア活動を始められたそうですね。そのきっかけは何でしょう?

秋枝
広報になってから毎朝新聞を読むようになり、「もみじの家」(http://home-from-home.jp/)という病気の子どもとその家族が一緒に宿泊できる施設が新設されることを知りました。ボランティアなど何か関われることがないか電話で問い合わせをしてみたんです。 もともと福祉や医療・教育の分野に興味があり、大学でも障害児教育を専攻しました。 私は、会社員としてキャリアをスタートしたのですが、40歳頃からはそうした福祉や医療・教育の分野に関わりたいなと、ずっと思っていたんですよね。 そんな矢先に自分がやりたいと思っていたことに近しいこの施設が新設されることを知り、迷わず応募したんです。

本業と副業がつながって、相乗効果を生み出す!

-お子さんが2人いてお仕事もされているのに、バイタリティがすごいですね…。それだけやることがあるとバランスを取るのが大変そうですが、そのあたりは工夫をしていますか?

秋枝
大変ですが、メインは広報の仕事。モデルとボランティアは、自分で活動の量を調節しているので、どれも楽しく取り組めていますね。 トレンダーズでは、本業に支障がない範囲なら、むしろ副業を推奨しています。 私の他にも副業でセミナー講師や、本を執筆している者がいます。 副業によって得られる知識や人脈は本業にも生かせるし、本人のタレント性を伸ばすことにつながるからです。

-副業としてのモデル活動は本業とつながることはありますか?

秋枝
あります! モデルの現場で、雑誌の編集者さんからいろいろな企画の相談を受けることがあります。それが広報という本業を生かせる内容だったりして。 今回のような私自身の取材を受ける際に、一緒にトレンダーズのサービスを紹介していただけたこともありますね。 もともとキャリアにつなげるためにモデル業を始めたわけではないのですが、結果的には本業とつながる形になりました。

お金第一じゃ長続きしない!興味のあることを副業にするのがポイント

-副業を、やっていてよかったと思うことは何ですか?

秋枝
相乗効果が生まれることですね。 モデル業は先ほどお話しした通りですが、ボランティア活動も本業につながるかもなと思っています。 たとえば、「もみじの家」の持続的な運営のためには、広報が重要となります。 というのも、「もみじの家」を運営するための資金は、主に寄付金によってまかなわれており、それを募るには広報活動が大切になるからです。 まずは現場を知りたいと思い、ここ1年は「もみじの家」で子どもたちと活動していましたが、今後、広報活動に関わっていくこともできるのではないか…と考えています。 そうなれば、本業で学んだことをボランティアで実践したり、ボランティアで感じたことを本業で生かしたりできますよね。

-秋枝さんから見て、副業に向いている人とはどんな人でしょう?

秋枝
タイミングにもよるのですが、私は副業に向いている人には2つのポイントがあると思います。 1つは、自分に余裕があること。 社会人になりたての頃は、仕事のことしか考えられず、毎日必死でした。 そんな時代の私が無理して一歩を踏み出していたとしたら、本業も副業もどちらも中途半端になっていたと思います。 なので今、目の前に全力投球して取り組むことがある人は、そちらを優先するのが良いと思います。 今は忙しくてなかなか副業にまで手が回らなくても、目の前のことを一生懸命に頑張っていると、それを見てくれる人がいたり、次にやるべきことが見えてきたりするのではないでしょうか。

-なるほど、今大変だという人は無理に副業に手を伸ばさないほうが良いということですね。もう1つはなんでしょう?

秋枝
2つ目は、副業にするなら必ず、自分が楽しいと思えるもの、興味のあるものが良いと思います。 「副業」という言葉を聞くと、どうしても空いた時間でお金を稼ぐための仕事、というイメージを持たれるかもしれません。 でも「ちょっとお小遣いを稼ぎたい」ぐらいに思っている人は、正直なかなか続かないと思います。

-確かに「副業=お金を稼ぐ」というイメージになりがちですが、それでは続かないんですね。それはなぜですか?

秋枝
副業をするということは、自分のプライベートな時間を仕事にあてる割合が増えるからです。 私自身もそうですが、興味のあること・自分が楽しんでできることであれば自然とモチベーションがあがります。 私の周りで副業をしている人を見ていると、やりたくてやっている人ほど、とても活躍しています。 反対に、動機がお金だけの人は続いていない印象です。 副業とはいえ、仕事ですので当然大変なこともたくさんあります。 せっかく自分の貴重な時間を使うなら、やりたい仕事をやったほうが楽しいし、得られるものが多いのではないかと思います。 ですので副業を考えている人は、この2つのポイントを意識してみると良いと思います。
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室井 摩耶子さん(95歳)
東京都世田谷区

VOL.167
今なおコンサート続行中。現役最高齢のピアニスト

何か足りないと思ったら、 ぶつかっていくしかないの。

三連音符というのは、非常に複雑なものを持っているのね。ベートーベンの『月光』にしても、四分音符にしてタタタタと引いたら、何とも味気がなくなっちゃう。このリズムの複雑さを本当に発見するのは、演奏家でも時間がかかります。でも、見つけるとうれしくてしょうがない。  若い頃、自分の音楽には何か足りないと思っていました。外国から来た演奏家のを聴くと、もうまるで違う。楽譜どおりに弾く、フォルテといったら強く、ピアノといったら弱く弾く。私はそれだけでした。20代の頃は「現代音楽の室井」と言われて評価もされましたが、やはり何かが足りません。  私はそれを、うやむやにはできなかった。足りなかったら、ぶつかっていくしかないわよね。それまでのキャリアを捨てて、ドイツに留学したのが35歳。人より10年遅い留学でしたけど、おかげでやっと分かりました。自分には音楽を読み解く「音楽文法」が足りなかったんだということが。ある音がある音へ行きたがっている。作曲家は休符1つに、これだけの感情を詰め込んでいる。音楽は詩であり小説であり、戯曲でもある。そういうことがわかると音楽が本当に面白くなる。譜面を開くたび発見が続くのです。最近はハイドンに夢中。子供たちの練習曲だなんていう人もいますが、もうすごいんだから。 今も毎日4時間、ピアノを弾いています。演奏のほうは、1日2日休むとダメね。頭から指の先、出した音から耳へと、非常に繊細な経過で音楽は生まれるものだから、神様が「サボっちゃだめよ」と言うのね。「これだ」という演奏ができて、お客さんからとても素敵だった、心に染み込むようだ、うちに帰ってもまだ音が響いています、なんて言われようものなら、私は天にものぼらん気持ちになる。それで神様に「まだやることがあるから、もうちょっと生かしといてね」とお願いしてるわけ。


更新日:2017/2/10
取材・文/東 雄介 撮影/太田未来子、刑部友康、阪巻正志
アントレ2016.秋号 「定年無用!独立老師が語る退かない人生」より
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永久保 喜也さん(80歳)
理容ナガクボ/東京都世田谷区

VOL.166
演歌に乗ってハサミを握る。お客を招きカラオケ大会も

職人根性を押し付けたらだめ。 お客さんこそ財産です

元の中学を出て、職安を尋ねたら理容師の住み込みの仕事を紹介してもらったんです。私は手に職をつけたかったし、理容師はちょうどいい仕事。そこから年季奉公です。本当は、記者になりたかったの。それで今もこうやって、店内のポップを全部手書きしたりしてね。パソコン打ちの字が1つもないお店です。  上京して、1960年にはホテルニュージャパンの理容室のチーフになりました。高級店ですから各界の名士がやってきて、歴代総理だけとっても、岸さん、福田さん、中曽根さん。そこで腕を磨いて、東京オリンピックのあった年に自分の店を構えました。高級ホテルで活躍したという前評判のおかげで本当に忙しかった。朝飯を食べ損ねると昼まで食べられないから、小さなお握りとわかめのスープを作って店の奧に置いとくんです。お客さんの顔に蒸しタオルを乗せて、トイレに行くようなふりをしてお握りをほおばる。  ある程度の腕を身につけた後は、お客さんの扱い方のほうが大切になる仕事です。職人根性で、ここはこうだと押し付けてもいけない。髪の毛も頭もお客さんのもの。お客さんを見て、お客さんのやりたいことをやってあげなくては。「どこを切ればいいんだろう?」というような頭の人でも、喜んで切ってあげる(笑)。そうして「ほかの人に頼む気がしない」と言ってくれるようなファンができれば、長く働けるでしょう。ファン作りのコツですか? お客さんにはもちろん礼節を尽くしますが、他人行儀は求められていないし、おっかなびっくり触っていると神経を使わせてしまう。「楽しい話をしてるうちに切り終わったな」ぐらいがいいんです。私は歌が好きでね。気の合ったお客さんを呼んでカラオケ大会をしたり、その映像をDVDに焼いて渡してあげたり。昭和の歌謡曲のリクエストも受け付けています。ストックは800曲以上。これもファン作りの1つですよ。


更新日:2017/2/10
取材・文/東 雄介 撮影/太田未来子、刑部友康、阪巻正志
アントレ2016.秋号 「定年無用!独立老師が語る退かない人生」より
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前回、アフターマーケットで独立している従兄の方に話を聞き、カーリペア業界の将来性に疑問を持ち始めた林原さん。その従兄から林原さんの父親がやっていた表装業を勧められるなど、やや気持ちが揺れる要因も出てきましたが、その後、独立に向けてどんな活動をしたのでしょうか――。
林原雄大(仮名)さんプロフィール 大学卒業後、車・旅行ガイドなどを刊行する出版社で編集、営業などに従事。現在57歳で、2年後に定年を迎えるが、2人のこどもがまだ中学生なので、現在勤務している会社の嘱託などを視野に入れつつも、起業を優先に検討。これまでの仕事関係の経験を生かし、カーリペアのフランチャイズを中心に情報収集をしている。

――前回、アフターマーケットで独立されている従兄の方から、先行きについてあまり良い感触の話が聞けなかったと仰っていましたが、その後は何か独立に関する具体的な行動はされたのでしょうか?

実はまだ進んでいないんです。ただ、修繕屋さんには話を聞いてみたいなとは思っています。もう一度初心に戻って、気持ちを整理してみようと思っています。

――その従兄の方から、林原さんのお父さまがやっていた「表装業」のお仕事を勧められたと伺いましたが、具体的にはどんなビジネスモデルなのでしょうか?

父の仕事のメーンは書道教室などで行われる展示会で、生徒さんが書いたものを掛け軸にする仕事をしていました。取引先としては、書道教室が主で、通販で個人向けも行っていましたね。珍しいところでは、お寺さんからの依頼で古い袈裟を表装にしたりというものもありましたね。

――こちらの方面では、何か行動してみたりしているのでしょうか?

これからですね。まだ(定年まで)2,3年あるので、1つの選択肢として視野に入れているという感じです。母も健在なので、話を聞いてみようとは思っています。

――現状では、カーリペア業界での独立は消極的になっているということですか?

100パーセントではありませんが、将来性があるのか、ないのかがやっぱり重要だと思うので、そこはしっかり確認したいと思っています。ただ年明けから本業がバタバタして、まだ全然話を聞けてないんですけれどね。 一方で、1月に行われた世界最大級のカスタムカーの祭典である「オートサロン」に行ったのですが、近年の中では一番盛り上がっているように感じました。しかも僕等ぐらいの50代ではなく、若い人たちがたくさん来ていたので、そういう意味では将来性もあるのかも…という淡い期待も持っているんです。

――将来性というのはどの程度先のことですか?

子どもが独立するまでというのがある一定のスパンですが、でもやっぱり10~20年しっかり市場が見えているかどうかですね。リペア業界には市場があると思ったのですが、従兄の話ではアフターマーケットの廃業が続いているというので、やっぱり厳しいのかなとは思います。フランチャイズ本部には、将来の市場規模予測などのデータがあるのならば、いただきたいです。

――前回、ご家族には独立を検討していることは伏せているとのことでしたが、まだお話はしていないのでしょうか?ご家族・従兄の方以外にも独立に関して相談した方などはいますか?

家族にはまだしていませんね。上の娘が高校受験なので、それが終わってから話をしようと思っています。それ以外にも、独立に関しては誰にも話はしていません。今度、大学のマスコミ関係OB会の新年会があるので、そこで話をしてみようかなって思ってはいます。

――これまで奥さまに独立を匂わすお話をされたことはあるのですか?

まったくないですね。でも冷静なんじゃないかなと。「稼げるんならいいんじゃない」とか言うんじゃないですかね。あと2年で定年だと分かっていることだし、今の会社に嘱託制度があるかも分かりませんしね。そこまで反対されるとは思っていないんです。しかも僕はハイリスクハイリターンという形態は望んでいないので。

――お正月はどんな過ごし方をされていたのですか?

バタバタして何もやれませんでした。娘も受験を控えているので、お正月らしいこともあまりありませんでしたね。うちは娘2人に妻と女家族なので、女性陣は初売りに行ってしまったり、私の実家や妻の実家に帰省したりしたらすぐ終わってしまいました。

――車のリペア業界や、お父さまのお仕事だった「表装業」以外に、何か気になっている業界やジャンルなどはありますか?

リペア業界に付随する意味では、車に限らずお掃除関係、修理関係はありかなって思っています。妻が介護のバイトをしていてとても大変そうなので、介護が必要な家族のお部屋をお掃除したり、何か修理したりという便利屋さん的な業種もありかなと。

――2月以降は、どんな進め方を?

まずは業界をまたしっかり見直して、自分ができることを考えてみて、その中で自分が好きになれるかを再検討していきたいですね。それがリペア業界なのか、表装業なのか、はたまた全く違う業界内なのか、見極めていきたいですね。

次回の更新は、2017年3月10日(金)予定。お楽しみに!

更新日:2017/2/10
文:磯部正和 撮影:吉原朱美

独立開業への道 365日 アンケート2

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働き方の多様化が進んでいる現代。1つの業種に収まらず、副業というセカンドワークを取り入れていることが当たり前と化してきています。実際に、本業に差し支えなければ副業を認める企業が増加しているのも事実。 しかし、いざ何かに手を付けようにも「果たして本業と両立できるのか?」、「自分が副業に向いているのか?」と、スタートを踏み切れない人もいるのではないでしょうか? 今回は、千葉県山武市にある「中央建設株式会社」取締役をしながら、リラクゼーションサロン「MUU越谷駅前店」のフランチャイズオーナーを務めている伊庭恵美さんに、副業についての考え方を伺いました。

本業の新事業につなげるための「お試しツール」として始めた副業

―副業はいつごろから始めたのでしょうか?

伊庭恵美(以下、伊庭さん)
2016年8月からMUUのフランチャイズオーナーを始めました。本業(中央建設)では約20年間経理を担当していたので、リラクゼーションサロンを運営したのは初めてでしたね。

―どういったきっかけで始めようと思ったんですか?

伊庭
本業の新規事業のお試しとしてですね。本業の仕事は建設業なのですが、今後は県や市から委託される公共工事の数は減っていくので。 そこで、その穴埋めじゃないですけど、社長と「会社として違った職業がほしいね」と話をしていたのをきっかけに副業を始めてみたんです。 今は新事業のお試しという形で個人的にやらせて頂いてますが、将来的には会社としての新事業につなげていけたらなと思っています。会社として育たなければ、本当に個人としての副業で終わってしまうので。

―なるほど。副業といってもたくさん種類はありますが、なぜMUUを選んだんですか?

伊庭
1番の理由は、私がマッサージ好きだからです。そしてマッサージ好きゆえの悩みがあったんです。 というのも、私がマッサージを受けに行く時、スタッフのレベルが全く違うことがあるんです。そんな差があるのに、同じ金額を出すと損した気分になるんですよね。 それに対してMUUは、個室で女性が通いやすいというのと、研修がしっかりしていてスタッフのレベルが一定というポイントが魅力的に感じたので、もう即決でしたね。

違う業種の考え方を取り入れることで、新たな発想が生まれる

―本業とは全く異なる業種に着手することによって、何か得られたものはありますか?

伊庭
違う業種の考え方を今の仕事に取り入れると、今までになかった発想が生まれるんですね。なので視野を広げるという意味では、新事業に結び付きやすくなるんじゃないかと感じています。 それに加えて、これまでの本業で提携を結ぶスタッフとMUUのスタッフ、またはその系列の各オーナーの方々といった異なる世界の人たちと接することによって、本業スタッフとのコミュニケーションの取り方が変わってきたという部分もありますね。

―ご自身は施術をやられるのですか?

伊庭
いえ、基本的に私はMUUの中ではオーナーとして運営・売上や備品の管理のみ行っているので、施術自体はやっていません。 もちろん、中にはオーナー兼施術者としてやられる方はいると思うのですが、副業としてやるとなると時間的に難しいんですよね。 なので、運営・管理という部分を徹底して、スタッフがしっかり施術できる環境づくりというのを意識して取り組んでいます。

―やはり、本業と副業の時間の使い方というのはとても難しいと思うのですが、どのようにスケジュールを組んでいるのですか?

伊庭
本業で経理をしているのが私だけなので、自分の仕事量を調節することができるんです。なので、他の事務スタッフが会社にいれば、仕事の合間を見てMUUに顔を出しに行くという感じですね。 副業って聞くと本業の仕事が終わった後、あるいは休日に作業しているという風に思われがちですが、私は平日の昼間や夕方に行っているので、休日は家の家事やプライベートに専念することができるんです。

好きの延長で履く「二足のわらじ」は楽しい!

―副業をしていると、プライベートの時間も仕事に費やすイメージがありますが、平日に両方こなすとは驚きです。ちなみに、副業の勤務先はどこですか?

伊庭
埼玉の越谷です(笑)。なので、本業の会社がある千葉県山武市からは車で約1時間半かかりますね。 ですから、副業のお店に顔を出すのは月3~4回で、週1回を目指してスケジュール調整しています。スタッフがしっかりしているから任せられるというのもありますし、オーナーという立場なので、そのくらいの頻度がちょうどいいとも本部から言われていますので。

―なるほど。では、「二足のわらじ」とよく言いますが、副業を始める際は大変だなぁと不安に思うことはありましたか?

伊庭
いちからお店を始めるとなると大変だとは思いますが、私の場合はもともとMUUの直営店だったお店から譲渡されたので、スタートの時点ではそこまで大変だとは思いませんでしたね。 時間の融通がきくので動きやすいというのもありますし、移動距離に関しても、気分転換のドライブにはちょうどいいので逆にリフレッシュできます。何かトラブルが起こった場合は本部に対応してもらえます。 なので、全体を通しても大変と思うことはありません。むしろ、大変だと思う時こそ楽しくやろうと思っています。2つの仕事をしている以上、仕事量が増えるのは当然ですし、楽しむくらいの気概がないと副業は続きませんから。 私の場合は、いろんな方々とお話しさせて頂くことが好きなので、副業という新境地に足を踏み入れることでたくさんの人に出会えることが本当に楽しいです。

―やはり、楽しいと思える部分がなければ継続することって大変ですよね。ここまで続けてきて、収入の面はイメージ通りに得られていますか?

伊庭
まだ始めたばかりなので、正直そんなに儲かってはいません(笑)。でも、体制を整えてしっかりと集客をしていくことができれば自ずと増えていくとは思います。 ただ、副業なら尚更そうなんですが、収入を増やそうと思ってやるよりは、好きの延長で始めた方がうまくいくし、長く続くとは思いますね。

「いろんな仕事をしている人はパワフルでカッコいい」。今後はそういう人生へ

―そのように好きで続けている副業がいずれ本業に…という考えはお持ちですか?

伊庭
それは考えていません。あくまで本業がメインとしてあるので、そこから独立することはないですね。 ただ、もちろんMUUを軌道に乗せて2店舗目も出したいという目標はあるので、その流れで経営がうまくいった場合は、そのまま個人で運営していくのか、法人化するのかはその時に考えたいと思います。

―では、もし今後また何か副業に挑戦しようとは思いますか?

伊庭
そうですね。次は自分の趣味を仕事としてつなげられたらと思っています。個人的に10年間くらい着付け教室に通っているので、着物に携われるようになりたいですね。 やはり、私の周りにも副業をしている方がいるのですが、そういう人って考え方がしっかりしているし、何より生き方がパワフルでカッコいいんです。なので、私もいくつになってもいろんな仕事をしていたいなとは思っています。
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ケアプロ株式会社/東京都渋谷区 代表

川添高志さん(29歳)

忙しくて時間が取れない、保険証がないから経済的な負担が大きい――。長寿大国と称されるこの国には、様々な理由で健康診断を受けない、受けられない人が、年間3000万人を下らない。川添高志が2007年に設立したケアプロは、そんな人たちに安価で手軽にその機会を提供している。常設の店舗や出張サービスの会場では、血糖値、中性脂肪といった検査が1項目につきジャスト500円で受けられ、結果も数分で出る。小規模自営業者、フリーター、子育て中のママ……事業は、予想どおり「潜在需要」の心に届いた。  独立を志したのは高校1年の時。父親が突然のリストラに遭い、雇われる身の危うさを感じたことがきっかけだ。その後、ボランティア活動した老人ホームで、人手不足で高齢者をぞんざいに扱わざるを得ない現場の矛盾を体験し、起業の方向を医療分野に定める。決意を胸に関連の学部に進んだ大学時代、米国の医療視察に参加。大型スーパーの片隅で客が簡易な医療サービスを受けている光景を目にしたことで、「これだ」と事業の骨格は固まった。事業の全国展開、さらに新たなサービスの創出に向けて、川添は走り続けている。様々な「圧力」にも抗しながら。

本当に世の中に必要とされる事業なのか―自問自答を繰り返す。それが「社会貢献の企業化」を推し進める力になる

━ 初めから「社会貢献事業」をやりたいと考えたそうですが、成立に不安はありませんでしたか?

 昔から、お金の問題を深く考えるたちではないんです(笑)。「世の中に必要なビジネスならば、失敗するはずがないだろう」という発想で、ずっとやってきました。だから、常に自問自答していたのは、「これは人々の役に立つ仕事なのか」ということ。そこに確信を持てていたから、必ず事業は成立すると思っていました。

━ ワンコイン健診は、どのように具体化していったのでしょう?

 大学4年の時から2年間、医療専門のコンサルティング会社で医療経営に触れ、その後、東大医学部附属病院で看護師として働きました。病院では糖尿病の病棟に所属したのですが、症状の重い患者さんたちに、「なぜ、もっと早くに健康診断を受けなかったのか?」と聞いて回ったんですよ。その結果わかったのが、多くの人にとって、健診が意外に敷居の高いものだということ。 わざわざ医療機関に出かける時間がなかったり、予約が面倒だったり。さらに、保険証のないフリーターなんかにとっては、数千円という金額もネックになる。ならば、いくらなら受診する気になるのか、"値頃感"を詰めていったら「500円くらいなら」という声が非常に多かったんですね。あるべきサービスをこの価格で提供できれば、需要はあるということがわかったのです。

━ 2008年、第1号店として出店したのが東京・中野でした。

 駅前の大きな商店街に狙いを定めたのです。店舗を構え、中には看護師が一人。例えば通りすがりで、予約や保険証がなくても、お客さんは、その場で看護師の補助を受けながら自分で指先から微量の採血をすれば、あとは数分結果を待つだけという、ファストフード感覚の健診です。最初の頃は知ってもらうまでが大変で、僕も白衣を着て、駅前で宣伝しました。人通りが途絶えると白衣を脱ぎ、「ワンコイン健診ってどこですか?」と商店を回ったり。店を認識してもらうための"サクラ"(笑)。   おかげさまで、口コミなどで来客数はだんだん増えて、開店から半年後には採算ベースに乗りました。久々に受けてみたら、数値が異常だったという人は、やっぱり多い。実際にやってみて、事業の社会的意義を再認識しました。ちなみに2店舗目は、昨年8月にオープンした東急横浜駅店です。

━ 出張サービスも軌道に乗っているようですね。

 今までに駅ナカ、スーパー、商店街、パチンコ店などに、延べ1500回ほど出張し、喜ばれています。ただ本当は、店舗をメインに事業展開したいのです。ところが出店しようとすると、保健所から「検査はだめだ」というような、根拠のない横やりが入ったりする。潰された店舗計画や出張イベントも、けっこうありますよ。何ら違法性はないのに、おそらく既得権益を守りたい人たちから圧力がかかっているのでしょう。 でも、事業の意義を理解して味方になってくれる自治体なども確実に増えていますし、フランチャイズのパッケージづくりを中心に、全国展開の準備は着々と進めています。

━ 今後の夢

 起業の原点でもある在宅医療、高齢者介護に本格参入したいと考えています。ハードルの高い分野であることは承知していますが、最も「世の中に必要とされるビジネス」であることも確か。そのためにも、今いる10人の社員を含めて、人材育成に力を入れていきます。おこがましいですけど、目指すのは医療・福祉界のジャニーズ事務所です(笑)。 いろんなタレントを発掘しプロデュースして、独自のソーシャルサービスを提供し続けたいと思っているのです。
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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズンがスタート。開業までのプロセスを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリーを公開!
山本さんプロフィール 大学卒業後、学生時代にアルバイトをしていた大手の学習塾に入社。退職後、フランチャイズの学習塾を開業。雑誌の取材を受けるなど経営は順調だったものの、理想とする塾のスタイルと違うと感じ塾を閉める。その後、大手の個別指導塾に入社し、個別指導の運営方法などを勉強。現在は退職し、個人の学習塾開業に向けて準備を進めている。開業場所が2016年12月に決まり、日本政策金融公庫で創業融資の面談を行うなど着々と準備中。

――たしか、1月中旬に日本政策金融公庫に創業融資の面談に行かれる予定でしたよね。

はい。先日行ってきました。前回はフランチャイズで開業したので、創業事業計画書などは本部からもらった見本にならって準備して、面談にのぞみました。でも今回は、日本政策金融公庫のホームページからダウンロードした事業計画書に、自分で考えた内容を書きこんでいきました。 書く内容は、今までの仕事の経歴、いくらくらいお金を借りたいか、今回開校する塾の内容などです。例えば小学校、中学校、高校生の生徒を何名くらい募集して、月謝をどれくらいにする予定か…とか。聞かれることもだいたい想定できたので、契約予定の物件のチラシや、内装修理の見積もりなど、根拠となる資料を準備していきました。 備品の金額などもメモしておいたりして…。物件を借りる手付金の支払書などは持って行きませんでしたが、とくに提示を求められることはありませんでした。

――いよいよ最初の関門へということで緊張されたんじゃないですか?

前回のフランチャイズ開業のときは多少緊張しましたが、今回は、過去に経験があったせいか、特に緊張はしませんでした。開業までの通過点の1つという感じです。実際、日本政策金融公庫の方も銀行と同じように、丁寧にお客さま対応をしてくださいますし、親しみやすい方だったのでよかったです。 開業資金は、自己資金もあわせて500万円くらいを考えているのですが、融資の返済期間は5年に設定しました。1月末には面談の結果が届くはずなので、決まったらいよいよスタートです!

――内装の準備も着々と進んでいますか?見積もりはどうなりました?

内装については、地元の業者さんに物件を見てもらって見積書をいただきました。でも、つい先日、インターネットで職人さんのクラウドソーシングサイトを見つけたんです。だから時間に余裕があれば、そちらも利用して職人さんを募ってもいいかなと考えています。

――それは面白いですね。内装のイメージは固まりましたか?

前にもお話ししましたが、外観がガラス貼りで明るいので、それを生かしたおしゃれなカフェのような雰囲気にしたいと思っています。もともとおしゃれな塾を作りたいと考えていたんですが、その話を周りの人にすると“確かに塾はダサい”と言われたりするんですよ…。だから毎日来たくなるような、そんな空間を目指します。 今はショウルームで、壁紙や床のサンプルをもらってきて、イメージをふくらませているところです。なかなか難しいのは照明。ダウンライトにする予定なんですが、勉強する場所なので、どれくらいの明るさがいいのか、どの場所にいくつくらい設置すればいいのか…。なかなか悩むところですね。床も傷んでいるところがあるので、貼りかえるつもりです。

――なるほど。そういえばお店の看板も準備中でしたっけ?

看板屋さんがロゴから店頭の看板まで請け負ってくれるのですが、ロゴのイメージを手書きで持って行ったら、それをもとに5、6パターン作ってくれました。文字のフォントも指定できたので、よかったですね。 ロゴは“流れ星”をモチーフにしているのですが、これは“夢が叶う”っていう意味も込めているんですよ。

――うわぁ。それは夢がありますね。開校準備が着々と進んでいますが、山本さんは学生時代から物事を計画的に進められるタイプだったんですか?

特に意識したことはないですが、最初から余裕をもって計画するタイプかもしれません。スケジュール表にまず大雑把な予定をたてて、そこに“いついつまでに何をする”というような詳細を決めて書き込みます。不測の事態やトラブルがあることも想定して、余裕をもって考えるかも。 でも、それでもうまくいかないこともいろいろありますけどね(笑)。いまのところはうまく進んでいると思います。

次回の更新は、2017年3月10日(金)予定。お楽しみに!

更新日:2017/2/3
文:堀家かよ 撮影:中村公泰

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神奈川県藤沢市で、農薬や化学肥料を一切使わずに自然栽培野菜をつくる中越節生さん。 もともとは優秀なビジネスパーソンでしたが、一念発起して大工を志し、さらに農家へと転職を果たしました。 安定して稼ぐ選択肢を捨てて、なぜ農家になったのか。「農業は宝の山」と言う中越さんに、大胆な決断の背景や自然栽培野菜の可能性、そして死ぬ時に後悔しない生き方についてうかがいます。
【中越節生さん・プロフィール】 無農薬・有機野菜農家。1970年東京都生まれ。日本大学農獣医学部水産学科を卒業後、不動産会社、そして外資系保険会社に勤務。2005年、大工になるために工務店で修業を開始。 その後、農業の道に進み、無農薬・無化学肥料の有機野菜の栽培に力を入れる。2012年8月、神奈川県藤沢市に直売所兼八百屋カフェをオープン。タレントつるの剛士さんへの農業指導、地元野菜のPR活動も行っている。

苦学生からエリート営業マン、そして家族に家を残そうと大工に

── 大学を卒業して、不動産の企業に就職したのはなぜですか?

中越節生(以下、中越)
大学2年になる前に、父が会社を潰して莫大な借金を背負うことになってしまったんです。 学費も生活費も自分で稼がなければならなくなり、1日4〜5件のバイトをこなしました。 長男だったので、就職してからも家族のために借金を返していかなければいけない。 そこで、固定給プラス歩合で稼ぐことのできる不動産の営業を選びました。

── 営業の仕事はいかがでしたか?

中越
厳しい職場でしたが、それでも辞めるわけにはいきませんから、必死に働き続けました。 やがて成績トップになり、営業部長にもなって、ようやく借金を全額返すことができたんです。

── そして転職をされるわけですよね。

中越
使命感がなくなってしまったのでしょうね。生活には余裕ができたけれど、幸せとは感じられなかったんです。 そんな時に顧客だった方からスカウトされて、生命保険会社に移りました。 そこで働くうちに、人の死について考えるようになって、自分が死んでも家族に家を残してやりたい、それなら大工だ、と。 ちょうど知り合った工務店の社長がいたので、修業をさせてくれと頼んで働き始めました。そして3年後に中古住宅を買い、それを壊して、自分の家を造りました。

── 成績優秀な営業マンから大工になることに、奥さま反対しなかったのですか?

中越
まだ結婚前でしたが、相談はせずに決めました。 「大工になったよ」って。借金はしないし、給料もきちんともらえるから、生活に困ることはないと説明しました。

── まったくの未経験から始めて、3年で家を建てるというのは、相当に大変なことだと思うのですが。

中越
修業しながら、大工の仕事以外まで含めて、家を建てることの全て見させてもらったんです。それで全体の仕組みを理解できたことが大きかったですね。 あとは、大学時代にとにかくいろいろなバイトをしたこと。あの時の経験は、何でもできるんだ、という自信につながったと思います。

農家は「いつまで経っても1年生」。だったら自分にもできるのではないか

── そして、次に農業へ。どのようなきっかけがあったのですか?

中越
家の近くの土手を走っていて、休耕地や休耕田が多いことに気がついたんです。それでいろいろと調べるうちに、農家の高齢化や食料自給率など、さまざまな問題があることを知りました。 これは何とかしなければ、誰かがやらなければと思っているうちに、それなら自分がやろう、という気持ちになっていったんですね。 そして市役所に相談しに行ったのですが、門前払いされてしまって。それで農業への熱がますます燃え上がってしまいました(笑)。 そこからは農作業をしている人に直接たずねたり、直売所で農家を紹介してもらったりしているうちに、有機農業をしている方と出会って、その農園で働くことになったんです。そこで1年働いて、独立しました。

── 勝算があったということでしょうか?

中越
野菜って、実はそれほど手をかけなくても意外にできるということを学んだんですね。それに、農家の方に話を聞くと、皆さん「自分はいつまで経っても1年生だ」とおっしゃるんです。 つまり、正解がないということ。だったら自分にもできるのではないかと思ったんです。また、売る仕組みについても、営業をずっとやってきた経験から、もっと良いものにできるという考えはありました。

── 具体的には、どのような販売方法を?

中越
宅配専門です。無農薬の自然栽培野菜を作り、お客さんを見つけて、直接届けるというスタイル。たとえば新しくできた大規模マンションを調べて、チラシをポスティングするんですね。 そんな営業を続けていくことで、お客さんを獲得していきました。また、それとは別に会員制の畑も作り、年間契約で野菜を定期配送する仕組みも作りました。

── 順調な一歩を踏み出せたようですね。

中越
そうですね。しかし、唯一の誤算が原発事故による放射能汚染です。震災当時、僕たちが農家を始める際に選んだ畑が、除染調査重点地域になってしまって、安全安心の野菜をうたうことができなくなりました。 ちょうどこども生まれる時期でもあったので、一時避難をし、新しい土地でまた畑をやるために動き始めました。それで2012年4月に、藤沢市に越してきたんです。

── 藤沢に決めた理由は?

中越
放射能値が低いこと、産休明けの妻の都内への通勤が可能なこと、そして市役所の方が非常に協力的だったことですね。また、有機野菜を作っている有名な方がいて、その人にも相談することができました。 こちらで野菜を作り始めると、ちょうど藤沢市の観光大使になったばかりのつるの剛士さんが畑をやりたがっているという話があって、その指導をしながら一緒に藤沢野菜のPR活動をするようにもなりました。

── 畑だけでなく、お店も始められましたね。

中越
畑一本でやるリスクを感じてしまったんですよね。それで、野菜を売りながら農業相談もできるお店をやろうと思い、物件を見つけて、自分で内装まで全てやってオープンしたのが「駅前直売所八〇八」です。

とことん考え、「みんなと違うことをやる」ことが大切

── 中越さんは、それまで続けてきたことをスパッと辞めて、新しいことに何度も挑戦してきました。その決断力の源になっているものは何ですか?

中越
僕の信念は、明日死んでも後悔しないように今を生きること。「あの時にああしておけばよかった…」と思いたくないんです。

── それでは今、後悔しないために一番力を入れていることは何ですか?

中越
自然な循環、ですね。誰か1人が勝つのではなく、あらゆるものがうまくまわる仕組みを作れたなら、みんなが幸せになれるのではないか、と。 僕の畑では、農薬も化学肥料も使わず、畑だけでまわしていきます。循環こそが一番調和がとれる方法であって、それは畑も社会も一緒だと思うんですよ。 そういった仕組みを作るために、売り先を見つけることが難しい新規就農者の野菜も買い取って販売しています。

── 仕事を変えたいという人に対して、農業という選択肢を自信を持って提示できますか?

中越
農業は宝の山です。やりたい人はぜひ藤沢に来てほしいですね。 実際、新規就農者は増えています。無償で借りられる畑もありますし、無農薬野菜を扱う飲食店やスーパーもたくさんあります。大きなチャンスだと思いますよ。

── 農業に限らず、独立して何か事業を始めるにあたって、一番重要なことは何でしょうか?

中越
とことん考えることです。あらゆることを想定して、失敗の芽をつぶし、うまくいく方法を自分の頭で徹底的に考える。そこまで考えてやったことなら、どうにかなるものです。 成功したかどうかなんて受け止め方で違ってきますし、そもそも自分で認めさえしなければ失敗にはなりません(笑)。 それともう1つ、相談に来た人に僕がかならず言っているのが、「みんなと違うことをやれ」ということ。成功例があるからといって、同じことをしてはダメです。 たとえば僕の場合は、車でしか行けないところによくある直売所を駅前に作りました。人が何を求めているのか、あったら良いけれど今はまだないものは何か、それをとことん考えた結果なんです。
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好きなことでお金を稼ぐ。誰もが憧れる働き方ですが、実際に実現させることは簡単ではありません。しかし、本業で生活を支えているからこそ、副業では好きなことをして働いている人もいます。 では、本業と副業を両立させている人はどのように働いているのでしょうか。本業でサービスの企画職として働きつつ、副業では自分の好きなカメラでお金を稼いでいます。今回は、片山さんが考える副業についてお話を伺ってきました。

カメラ好きの学生から、就職へ。副業へのルーツを探る

—なぜ今のように本業と副業をという働き方をするようになったのですか?

片山祐輔さん(以下、片山)
もともと写真が好きだったんですよ。高校生のときに、図書館でたまたま風景の写真集を見て「こんなキレイな写真があるんだ!」と感動して、大学に入ってから写真をはじめました。 大学院1年生のときに、ローカル雑誌の編集社に「タダでもいいので仕事ください!」と売り込みに行ったのがはじめて写真で仕事をもらったきっかけです。

—すごい行動力ですね!

片山
そのまま試しに撮影に行ったら、きちんとタウン誌の仕事としてお金をいただけることになりました。あとは知人のイベント会社の方から、臨時のカメラマンとしてライブに呼ばれたことがあったんです。 そのときの自分の仕事を認めていただいて、そのままライブ撮影の仕事もいただけるようになりました。

—そのままプロのカメラマンになろうとは思わなかったのですか?

片山
プロのカメラマンになる道がなかったわけではないのですが、知り合いのカメラマンに相談した結果、就職を選びました。もともと興味があったWeb業界で仕事がしたいと思い、今の会社に入りました。

社会人になったからと言って、カメラを諦めたわけじゃない

−自分の好きなカメラマンの道を諦めてサラリーマンになったわけですが、カメラマンの仕事への葛藤などはありませんでしたか?

片山
そこは気持ちを切り替えました。「とりあえず今は全力で働こう。仕事に慣れてきたらまたカメラマンとして復活したいな」とは考えていましたけど。仕事に慣れるまではカメラを忘れて働いていた時期もありましたね。

−またカメラマンとしての仕事をはじめるキッカケはなんだったのでしょう

片山
副業としてカメラマンの仕事をはじめる前にも、社内のイベント等で写真撮影を担当することはありました。 そこで、自分より上手な先輩たちと出会い、先輩方から技術を学んでいるうちに、プライベートの時間を活かしてカメラマンの仕事をしたいと思い、自分で仕事を取るようになりました。

−仕事を取るとおっしゃっていますが、どうやってカメラの仕事を見つけているのですか?

片山
人づてに仕事を紹介してもらっています。カメラマンを本業でやろうとすると、どうしても本業の平日とかぶってしまうので、土日も仕事がある人が声をかけてくれるという状況です。 不定期になってしまうものの、自分の周りの方々から仕事をいただいています。

カメラで食べていくには、自分の”武器”を増やしていきたい

−実際のところ、副業でどのくらいの収入があるのでしょうか?

片山
副業とはいえ、不定期のお仕事なので、およそ月5万円くらいです。カメラマンとしていただいているお給料はプロの方と比べると安いです。でも、好きなことでお金がもらえるというのはものすごく強いモチベーションになりますね。

—今後はもっとカメラに力を入れていきたいですか?

片山
そうですね。カメラマンとしてもっといろいろな仕事をしていきたいですね。しかし、ただのカメラマンだとそれは厳しいのかな、とも思います。

—その「ただのカメラマン」というのは?

片山
できることの幅が必要、ということでしょうか。 本業の仕事をするかたわら、クリエイターの集りなどで自分を売り込むための作品集作りもしていますし、写真と文章はセットの仕事が多いので、記事も書けるようになれたらいいなと。 あと、Webサービスの知識とカメラを組み合わせて何かできないか考えています。 カメラを軸にその他の武器を増やして、仕事の幅を広げていきたいです。今までは知り合いから仕事をもらっていましたが、仕事をもらえる人脈ももっと広げていけたらいいなと思っています。

お手伝いからでもいい。好きなことがあるなら、そこから広げていけばいい

—これから副業を考えている人にアドバイスをお願いします。

片山
好きなことを軸にどう展開していくかを考えることじゃないでしょうか。 でも、最初から副業や起業のプランを1から10まで決めてしまうと足取りが重くなってしまうので、まずはできることから動いてみるのが大事だと思います。 やりたいことが決まっているなら、ほんの小さなお手伝いでもいいのでキッカケを探すことから。意識して探してみると、案外チャンスなんていくらでもありますからね。
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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズン。開業までのプロセスや想いを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリー。
橋爪さんご夫妻プロフィール 旦那さまは、山梨県出身の33歳。東京の大学を卒業後、都内の新聞社に就職。その後、保育園の管理事務職に就く。体調を崩した祖父を想い山梨県へUターンするも、勤めていた保育園から、新規園の立ち上げスタッフにと声がかかり再度、東京へ。新規園が軌道に乗ったのを見届けたのち退職。2016年に山梨県へ移住し、現在は働きながら開業準備中。奥さまは、神奈川県出身の44歳。大学卒業後は、大手学習塾、塾経営など教育業界や企業に勤務し、保育園管理事務職に。現在は山梨県内の企業に就職。夫婦二人三脚で山梨県産のフルーツを用いたゼリーを主力商品とした6次産業での開業を予定している。目下、店舗型経営と無店舗型経営で悩み中。

――店舗型経営にするか無店舗型経営にするか、市が主催する物件相談会に参加してみてから検討すると伺いましたが、相談会はいかがでしたか。

合同会社まちづくり甲府の企画する「まちなか空き物件見学会」という甲府市中心街の空き物件見学会に参加しました。事前に、どのような事業を検討しているのかをスタッフさんに伝えて、当日は、その事業内容に合いそうな物件を紹介してくださるというものでした。 紹介してもらった物件は5件ほどでしたが、物件ごとに、ここで開業するならどんなレイアウトが良いかな、など考えながら見ました。やはり物件を見て回ると、開業するという実感が湧いてきますね。 見学後は、金融機関の方や甲府市役所の方も同席し、助成金や融資などの相談にのってくださいました。助成金や融資の内容が、より明確になってきたので、作成した事業計画を修正し、もう一度、関係機関に相談に伺おうと思っています。

――ということは、店舗型経営の方向でお考えなのですか?

決断はしていないのですが、物件の見学をした後は無店舗型経営よりも店舗型経営に気持ちが傾いています。物件を見て回ったことで、経営後のイメージがより具体的になったのです。 もともと、店舗型経営にした際のメリットは「顔を合わせた接客ができる」ことだと感じていましたが、改めて、「お客さまの反応をダイレクトに感じられたら、新商品の開発や経営の励み・改善点の発見に繋がるのではないか」と思いました。 今後は、理想の物件を探し出して、実際に出店した場合の収支計画を立ててみたいです。収支が妥当かどうかを検討し、判断したいと思っています。

――物件と、資金の相談以外に参加して得られたものなどはありますか。

インターネットで公開されていない物件を紹介していただけたことが大きかったのですが、甲府市の産業の現状や、商店街の活性化への取り組みをどのように行っているのかも知ることができました。 店舗型経営にしろ無店舗型経営にしろ、開業場所を検討するには、店舗周辺の環境や情報はとても大事だと思うので、普段から地元の新聞、各市町村や商工会のホームページ、知人・友人からの情報など地域の情報にはアンテナを張っています。今回参加した見学会の開催も地元の新聞記事から得た情報でした。

――商品開発など、そのほかの準備についてはどのような状況ですか?

主力商品としたいフルーツゼリーの商品開発は、フルーツごとに使用する甘味料を変えるなど、素材の組み合わせが見えてきました。だいぶイメージする商品に近くなってきたと思います。器はほぼ決まっているので、パッケージ業者と打ち合わせを始めるところです。 店名を花の名前にしました。2人でいろいろと悩んだのですが、お客さまがゼリーを食べて希望に満ちた笑顔になるようにと思い、花言葉も加味して決めました。

店名には、よく笑っていらっしゃるお2人らしい願いが込められているのですね。また次回、進捗をお聞かせください。どうもありがとうございました。

次回の更新は、2017年2月24日(金)予定。お楽しみに!

更新日:2017/1/26
文:樋口代史子 撮影:中村公泰

独立開業への道 365日 アンケート2

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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズン。開業までのプロセスや想いを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリー。
菊地美由起さんプロフィール 岩手県の保育専門学校を卒業後、すぐに結婚。家事をこなしつつ、ファストフード店やコンピューター関連の仕事に従事。数年後、離婚を機に埼玉県へ移住した。1年ほどファストフード店と服飾店で経理として働いた後、総合病院に就職。9年後に退職し、乳幼児専門の保育園に正社員として就職。3年後、次女の結婚を機に、鎌倉に引っ越し、現在の保育園でも正社員として働いている。55歳。鎌倉市内に1人暮らし。

――昨年末から開業にむけて準備を進めていたということでしたが、具体的に作業は進んでいますか?

それが昨年末に体調を崩してしまいました。おまけに今の仕事が忙しかったので、開業にむけての作業がまったく進められなかったんです。それで今年にはいってからなんですが、3軒不動産屋さんをまわってみました。 でも私の希望する、駅から徒歩10分くらいで、15坪程度という条件に見合う店舗は1つも見つかりませんでした。そこで1年以上前からずっと気になっていた場所に決めたところなんです。

――それはどこにある、どんな店舗なんですか?

鎌倉駅から徒歩10分以内。駅から鶴岡八幡宮に行く途中にあって、若宮大路から少し入った所にあります。レンガ造りの建物で目につきますよ。広さは11坪程度。本当は15坪欲しかったんですけどね…。 希望の広さには少し足りないのですが、このエリアでほかの場所を見つけるのは難しいので、ここにしようと思っています。フランチャイズの担当者も“少し狭いかもしれませんね”といいつつ、了承してくれました。 今後一緒に働く予定の娘もママ目線でチェックしてくれたのですが、“いい場所だと思うよ”といってくれています。フラットな床なので、水回りも含め、有効活用できるようにしたいです。

――その場所を決めるのに、友人のサポートもあったとお聞きしましたが…。

はい。私が鎌倉に引っ越してきたときからの友人なのですが、彼女も起業している人なんです。実は今回私が借りようと思っているビルの中に店舗をもっているんですよ。 彼女も一から店舗を作った人なのですが、たくさん苦労話を聞かせてくれました。今は、頼りになる先輩として、起業者としての心構えから開店準備のノウハウ、資金調達の方法などいろいろ教えてもらっています。

――なるほど。では今後のスケジュールはどんな予定ですか?いまお勤めの保育園には退職することを伝えられましたか?

順調にいけば1月中にフランチャイズと本契約を結び、物件の契約をと思っています。それから当初の予定どおり、2月に日本政策金融公庫からの借り入れの準備と内装などの手配、3月にプレオープンして、4月にグランドオープンというのが理想です。 いま勤めている保育園には3月末で退職することを了解してもらいました。皆さんから続けて欲しいと言っていただいたのですが、“子どもたちともっと密に丁寧に接したい”という、私ならではのスタイルで仕事をしたい気持ちを理解していただけたように思います。

――開店資金の準備もはじめていらっしゃいますか?

まだフランチャイズと店舗の本契約ができていないので、具体的にはこれからなんです。だいたいですが、不動産関係、内装、フランチャイズの契約などで計500万円程度をお借りしようと思っています。でも実際に計算したわけではないので、よくわかりません。 今のところ、内装など自分たちでできることは、自分たちでやろうと思っています。無駄にお金をかけずにやってみるつもりです。

――でも、お仕事をしながらの開業準備ってなかなか大変ですよね。

そうなんです。本契約できたらすぐにいろいろ取り掛からなければいけないことだらけですからね。いま働いている保育園での有給休暇が20日弱程度、少なくとも10日は残っていたので、その有給を消化しつつ、あとは仕事がない土曜日と日曜日を使って動きたいと思います。 娘も一緒に動いてくれる予定なので、自分で動けないところは娘にお願いすることもあるでしょうね。4月のオープンまであと2カ月ほどしかありません。とにかくがむしゃらに進むしかないと思っています。

次回の更新は、2017年2月17日(金)予定。お楽しみに!

更新日:2017/1/25
文:堀家かよ 撮影:吉原朱美

独立開業への道 365日 アンケート2

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福田 英康さん(82歳)
レストランサム/東京都台東区

VOL.165
ケチャップ以外は手作り。365日無休の老舗洋食店

好きな料理を作って、満足して帰ってもらう。 疲れるわきゃないよね。

事だけでやってるなら疲れもくるだろうが、趣味だから疲れないわけ。朝から晩まで仕事に入ってるせいで、この街のことは何にも知らない。たまには休みたいなと思うんだけどさ、昔からのお客さんがいつ来るかもわからないし。それで年中無休、正月も開けている。  新橋で42年、レストランを経営しました。ホテルオークラに勤めたままなら偉くもなったんだろう。けど、うちは子供がいなかったから、もう少し暴れてやろうかとなったんだね。お店は繁盛して、最盛期は洋食が2店に中華、和食、すし、ケーキで計6店舗。従業員は50人ぐらいになったかな。そこを閉めて上野に移ったのは、言ってみれば隠居仕事をするためです。好きな料理を好きなように作って、言いたいことを言って、お客さんに喜んでもらうこと。さっきはわざわざ岡山から来た人が「おいしかった、また来ます」と。そんなこと言ってもらえたら、苦労も何にもなくなる。昼間は助けてくれるスタッフがいるが、夜は1人でお店に立ちます。忙しくなれば「ちょっと待ってね」とお客さんにお願いをする。皆「分かってます!」と言って待ってくれるよ。毎日きゃあきゃあ、やってるんだ。  仕事が面白いかどうかではなく、面白くすることが大切だ。料理の場合は、いかにしておいしいものを出し、お客さんを満足させるか。僕は「お客さんを“だます”」という言葉を使うの。悪い意味じゃない。高い材料で高級料理を作るのは誰にもできる、安い材料で高級料理を作るのが腕だ。それはきっと料理の世界のことだけではないはずだよ。うちはケチャップ以外ぜんぶ手作り。それができるか、できないか。逆を言うと、お客さんをだませなくなったら潮時だ。お客さんからクレームがついて、もうおやめなさいということになる。でもそれまではやる。お客さんが喜んで帰ればいいんだと、それだけ考えるんだよ。


更新日:2017/1/24
取材・文/東 雄介 撮影/太田未来子、刑部友康、阪巻正志
アントレ2016.秋号 「定年無用!独立老師が語る退かない人生」より
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「一冊の雑誌が、人の運命を変える」 こう聞いて、大げさだと感じる方もいるかもしれません。しかし、本当に運命が変わった方がいるとしたら、あなたはどう思いますか。 雑誌によって人生を大きく変える出会いを果たしたのは、2016年12月20日、東証マザーズへの上場を果たしたリネットジャパングループ(株)の黒田武志社長です。同社は古本やブランド品のリユース事業NET OFFや、資源リサイクル事業のReNet.jpを運営しています。 黒田社長の運命を変えた一冊の雑誌は、(株)リクルートホールディングスが20年前に創刊した『アントレ』。その創刊号をたまたま手にとった黒田社長を動かしたとあるページには、一体何が秘められていたのでしょうか。 また、黒田社長を駆り立てたものとは何だったのでしょうか。 

黒田武志(くろだたけし)

1965年 大阪府生まれ。大阪市立大学商学部卒業後、トヨタ自動車株式会社に入社。国内および海外の企画業務に従事する。1997年に『アントレ』創刊号を読んだことをきっかけに、トヨタを1998年に退社。株式会社ブックオフウェーブを設立した。2000年には、株式会社イーブックオフを設立し代表取締役社長に就任。2005年、ネットオフ株式会社に社名変更。2014年、リネットジャパングループ株式会社へ社名変更。2016年12月20日、東証マザーズ上場を果たす。

上場後に目指した『静脈メジャー』

―リネットジャパングループの東証マザーズ上場、おめでとうございます!

―黒田
ありがとうございます。2000年の株式会社イーブックオフ創業から、16年かかって、2016年12月20日に上場できました。

―最初から上場を目指していたのでしょうか?

―黒田
上場は起業時からの目標でした。ベンチャーキャピタルにも資本を入れてもらっていたので、以前も2回上場にチャレンジしていたんです。でも上場目前に、ネットバブルが弾けたことのほか、市況が変化したこともあって断念しました。 今回、3回目となるチャレンジで上場を果たしましたが、上場はスタート地点。1つステージを上がったという感じです。これからまだまだチャンスは広がっていくと思います。 上場後は、資源リサイクルでの『静脈メジャー』を目指すチャレンジをしていきます。自動車メーカーや電機メーカーを『動脈サイド』、リサイクル業界を『静脈サイド』と呼んでいますが、欧米では、静脈サイドでも売上高が1兆円クラスの大企業(=静脈メジャー企業)が存在し、動脈サイドのメーカーとパワーバランスをとっているため、対等に話ができています。

―日本では現状、静脈メジャーが存在していないのでしょうか?

―黒田
ええ。日本では小さなリサイクル企業が飽和状態にあります。その背景には廃棄物処理法という法律での規制があるのですが、基本的に市町村単位で事業を行うことになっているんです。決して日本企業が劣っているのではありません。しかし、昨今日本も静脈メジャーを作らなければいけないという声が上がり始めています。 僕らは、まさにその規制緩和のタイミングでリサイクル業界に参入しました。一般的に許認可は1つの自治体ごとに取らなければいけないのですが、小型家電のジャンルにおいては、広域での許認可が認められ、当社は全国全ての自治体の許認可を取得しています。

―全国から小型家電を集めると、一体どうなるのでしょうか?

―黒田
要らなくなったパソコンや携帯電話のなかには、レアメタル(マンガン・コバルトなどの希少な金属)や金が入っています。天然鉱山に対し、都市にある家電に含まれるので「都市鉱山」と言われます。都市鉱山を活用することで、限りある資源を「爆食い」せず持続可能な成長を実現出来るようになります。 そして2010年、リサイクルの規制緩和が行われるよりも先に「日本経済新聞」へ一面広告を出しました。

―宅配回収サービスも生活に根差した文化に育て、日本を循環型社会の先進国にしたいという思いがあったんですね。

―黒田
その2年後、2012年頃になって廃棄物処理法改正の話が出て来ました。その際に宅配便を活用したリサイクルが入っていないと知り、環境省と懸命に交渉した結果、宅配便によるリサイクル事業が認められました。

アントレ創刊号が導いた、大きな出会い

―宅配便によるリサイクル事業を環境省に認めてもらった黒田社長の行動力は驚きです。でもその黒田社長を起業へ突き動かしたのが、実は1997年2月発売の『アントレ』創刊号だったそうですね?

―黒田
この『アントレ』創刊号が僕の運命を大きく変えました。『アントレ』創刊号のページをめくっていた時、ブックオフ創業者の坂本 孝さんの記事が目に留まったんです。

―大きく目立つ記事でもなかったその記事に目が留まったのはなぜでしょうか?

―黒田
何故なのか、僕にもわかりません(笑)。そもそも当時、ブックオフを見たことがなかったんですよ。ブックオフが上場する前でしたし、僕が住んでいた名古屋には当時お店がなかったので…。だから自分でも、坂本さんの記事が何故気になったか分かりません。ただ、坂本さんに話を聞いてみたいと思いました。
―黒田
それで、当時勤めていたトヨタを休んで、ブックオフの本社があった相模原へ向かったんです。本社はマンションの下にある小さな事務所でした(笑)。でも、坂本さんにお会いして実際に話を聞いたら、 「これはただの古本屋の親父じゃない」 「これぞベンチャーだ」 と、すごくビビビッと来ました。「古本で自分たちの商売がなんとなく儲かったら良いや」というレベルではなく、「日本全国を巻き込んでやるぞ」という気迫を坂本さんの話しぶりから感じましたね。

―『アントレ』創刊号での坂本さんは、実際にお会いしてみて、ベンチャー起業家の気迫が伝わったのでしょうか?

―黒田
自分がやったこともない経営の世界で、坂本さんにいろいろ指導してもらえるんだ、というのが誌面から受けた印象でした。でも実際に会ってみたら、学校のような指導者ではなくまさに起業家だったんです。 感銘を受けた僕は、まるで、坂本さんの追っかけのように講演に通いました。講演会などに坂本さんが出るたびに会社の休みをとって(笑)、いつも最前列で聞いていました。一方で、「当社では、社員もバイトも汗と感動の涙を流して仕事する」という話を聞いて、実際はどうなのか確かめよう」と思って、ブックオフでアルバイトを始めたんです(笑)。

―仕事とアルバイトの両立は、かなり大変だったのではないでしょうか。

―黒田
先ほどお話したように、名古屋にはブックオフの店舗がありませんでした。そこで、三重県四日市にあったブックオフまで片道1時間半、高速道路を車で移動してアルバイトをしていました。当時の時給は700円。往復の高速代とガソリン代、昼飯代を引くと赤字です。

―ブックオフでアルバイトをしてみていかがでしたか?

―黒田
アルバイトを10カ月続けました。すると、僕がアルバイトしている話が坂本さんに伝わりました。「最近トヨタのあいつは、講演会に来ないな」と(笑)。いつも最前列の席にいるやつだと、覚えられていましたからね。 そんなある日、坂本さんから「1回、飯を食おう」と電話があり、新横浜駅のプリンスホテルの中華料理店でご馳走になりました。その場で、「そんなにブックオフをやりたいの?」と聞かれて「やりたいです」と答えたら「じゃあのれん分けしてやるから、四日市店をやってみろ」ということになりました。今でも忘れられません。

―『アントレ』で始まった出会いが、すごい展開になってきましたね!

―黒田
突然の申し出に驚き悩みましたが、このまま悩んでいても時間がもったいない、一度きりの人生、自分の気持ちに素直に従おうと、トヨタを辞める決心をしました。そして退職後に、ブックオフの起業家支援制度第1号として1998年3月に三重県四日市に会社を作りました。僕が作った最初の会社です。 坂本さんと僕は全くの赤の他人で、何の接点もありませんでした。しかし『アントレ』創刊号の坂本さんの記事が目に留まった1997年2月から1年1カ月後、会社を作ることになりました。『アントレ』を読んでから、これだけ人生が変わったんです。

―もしもアントレに出会ってなかったら、現在何をされているのでしょうか?

―黒田
間違いなく今もトヨタのサラリーマンだったでしょうね。トヨタで働くことは決してイヤではなかったので。

自ら機会を創りだし、自らを変える。

―現役読者の皆さんに向け、『アントレ』の読み方・使い方についてアドバイスをいただけますか?

―黒田
当然ながら努力と多少なりの実力が必要となる場面はありますが、やはり人生の転機は人との出会いが引き寄せてくれるもの。僕も、坂本さんとの出会いが大きかったですね。アントレの記事には、そんな出会いがあるはずです。

―今後の『アントレ』に期待することはありますか?

―黒田
僕が起業するきっかけになった『アントレ』創刊号では、アントレプレナー(起業家)を啓発する記事やインタビューが載っていました。そういった記事が読める機会があれば嬉しいです。フランチャイズとして独立したとしても、これをステップにしてもっと大きなチャレンジを促すような記事です。僕もブックオフのフランチャイズをきっかけに、インターネットを用いたNET OFFやReNet事業にチャレンジしましたから。

―ちなみに、アントレプレナーが置かれている状況は20年前と現在とで、どう変化したように思いますか?

―黒田
恵まれていると思います。20年前、ベンチャーキャピタルは一般的ではありませんでした。新興企業向け株式市場のマザーズができて、ベンチャー企業が上場する環境が整った結果、ベンチャーキャピタルが次々と登場し、資金もチャンスも提供してくれる人が非常に多くなったと感じています。 しかし、アプローチをするもしないも本人次第。だから、『アントレ』で機会を創り出す情報を得るのも1つの方法です。『アントレ』で見つけた人や会社に積極的にアプローチすることこそが、機会づくりだと思うんですよね。

―独立・起業にあたって最も大事なのは、黒田さんと坂本さんのように1対1の関係を作れるかどうかなのでしょうか?

―黒田
当然、ビジネスではヒト・モノ・カネが必要ですが、それらが無かったとしてもやる気と情熱があれば超えていけるはずです。

―最後に、独立・起業を考えている「アントレnet Magazine」読者の皆さんへメッセージをお願いします。

―黒田
僕の座右の銘でもある、リクルート創業者の江副浩正さんの言葉を贈ります。 「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」 一歩を踏み出すのは、どうしても怖いものですよね。準備が整ってから、そのステージが来たらではなく、自ら創り出した機会によって自分を成長させていく…起業する時の気持ちにものすごく刺さる、力のある言葉だなと思います。

―本日は、貴重なお話をありがとうございました!

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定年を考える時期になり、家族の生活を支えるためにも独立を視野に入れ始めた林原さん。これまでの経験を生かし、車のメンテナンスやリペアなどフランチャイズのアフターマーケットを考えていると話されていましたが、年が明け、進捗はあったのでしょうか――。
林原雄大(仮名)さんプロフィール 大学卒業後、車・旅行ガイドなどを刊行する出版社で編集、営業などに従事。現在57歳で、2年後に定年を迎えるが、2人のこどもがまだ中学生なので、現在勤務している会社の嘱託などを視野に入れつつも、起業を優先に検討。これまでの仕事関係の経験を生かし、カーリペアのフランチャイズを中心に情報収集をしている。

――前回、アフターマーケットで独立している従兄の方にお話を聞いてみるとのことでしたが、具体的にはどんなお仕事をされている方なのでしょうか?

ディーラーのセールスマンから、オーダーメードのシートカバーショップとして独立しました。その後は、ベンツやBMWなど輸入車のシートの張り替えや、車の内装関連のショップを開いたんです。

――実際お話を聞いてみていかがでしたか?

2016年9月で内装関連の仕事を辞め、次なる仕事を考えているとのことでした。理由としては、若者の車離れや、カーメーカーサイドも、それなりのクオリティーの内装を標準装備している車が多く、内装の仕事が激減しているとのことでした。 現在、ユーザーもそれほど車にお金をかけなくなってきており、アフターマーケットでの生き残りはかなりシビアという見解でしたね。

――そういった業界の現状を目の当たりにして、現在どんな心境でしょうか?

カーリペアの分野では、正直なところ、先行きが暗いのかな思ってしまいましたね。ちょっと考えてしまう状況です。

――加盟を考えていらっしゃるカーリペアのフランチャイズ本部に、アプローチはされたのでしょうか?

12月は、仕事が忙しくて連絡できませんでしたので、1月はアプローチしていきたいと思います。

――従兄の話を聞いて、率直に独立に対する気持ちの変化はありましたか?

こうして記事が掲載され、やる気が増した部分はあったんです。意外とのんびり屋なところがあるので、マイペースでありつつも、もう少し積極的に独立について動こうという気持ちを持ったことに変化はありません。 ただ、将来性について考えたとき、アフターマーケットだけではなく、もう少し視野を広げた方がいいのかなとは思いました。

――具体的に何か考えている業界はあるのですか?

従兄からは、私の父が生前やっていた表装を含む美術系の仕事はどうなんだという提案をもらいました。実は父も脱サラして開業していました。サラリーマンとしての最後の仕事が書道具を扱う会社だったので、その流れで表装(掛け軸)の仕事を始めたようです。 従兄と話をし、確かに、表装の仕事は書道家や書道教室の先生のコネクションがあれば、教室の展覧会などのまとまった仕事が入るだろうし、レプリカの仕事にも展開できそうだなと思いました。

――では、業界選定から、じっくりと見直していこうとお考えになったということですね。

そうですね。2020年には東京オリンピックもありますし、海外からの観光客も増えており、今まで以上にグローバル化が進んでいくと思われますので、起業するうえでは、そういった部分も視野に入れて、じっくりと自分のやりたい仕事を見極めていければと思っています。

次回の更新は、2017年2月10日(金)予定。お楽しみに!

更新日:2017/1/27
文:磯部正和 撮影:吉原朱美

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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズンがスタート。開業までのプロセスや想いを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリーを公開!
橋爪ご夫妻プロフィール 旦那さまは、山梨県出身の33歳。東京の大学を卒業後、都内の新聞社に就職。その後、保育園の管理事務職に就くが、体調を崩した祖父を想い山梨県へUターンするも、勤めていた保育園から、新規園の立ち上げスタッフにと声がかかり再度、東京へ。新規園が軌道に乗ったのを見届けたのち退職。2016年に山梨県へ移住し、現在は開業準備中。奥さまは、神奈川県出身の44歳。大学卒業後は、大手学習塾、塾経営など教育業界での勤務や企業での勤務も経験し、保育園管理事務職に。現在は山梨県内の企業に就職。起業については、夫婦で相談し1つずつ決めては、振り返り確認をするスタイルで準備を進めている。

――山梨県の特産品を用いた6次産業で起業しようと決めたのはいつ頃ですか?

私の実家は山梨県のフルーツ農家なのですが、2016年4月に山梨県へ引っ越し、実家の畑の状況を間近で見るようになり、親と話す中で、ずっと昔から繋いできたものを自分の代でなくしたくない!と思うようになったのです。 でも畑だけでは生計が立たないので、親との会話の中から6次産業の話が出たときに、実家で作ったものを生かして、添加物不使用の新鮮なフルーツにこだわったゼリーとかジャムなどをネットで販売していきたいなと思いました。 ゼリーであれば、フルーツが新鮮なうちに作ってお届けできると思い、妻に相談して、夏頃には開業を決意しました。

――奥さまは開業の決意を聞いたとき、どう思われましたか。

生活ができるかどうか、すごく不安はありました。私は過去に塾経営をしたことがあるのですが、開業はいい加減な気持ちでは絶対に成功するものではないし、やるならきちんと計画を立てていかないとズルズル間延びしてしまうものだと思うのです。だから、本当に起業したいのかを何度も何度も確認しました。 主人が強い意志を持って「やりたい」と言っているということがわかってからは、事業が軌道に乗るまでは私も会社員として働き続けたら良いし、軌道に乗ったら私も手伝えば、なんとかなるか!と考えました。

――開業を決意してからはどんな準備をされたのですか?

まず、やまなし産業支援機構へ相談に行きました。そこでは開業についてのイロハや助成金などについてアドバイスを頂きました。 また、住んでいる市の商工会の方を紹介してくれました。商工会では、より細かいアドバイスや、デパートで商品開発に関わっていたという方を紹介して頂き、開業についてだけではなく、ゼリーを固める材料には何があるのか、甘みの調整は、とかも相談しました。 当初は家の敷地内の建物を改装して、そこでネット販売だけの無店舗型経営をするつもりだったのですが、山梨県の中心である甲府市で、ちょうど2017年1月に空き店舗の見学相談会があるということを知りました。せっかくなので参加してみてから、改めて店舗型経営、無店舗型経営の双方のメリット・デメリットを出してスタイルを検討しようと思っているところです。

――お菓子作りが趣味とか、仕事でもなかったということですが、商品開発はどうやっているのですか。

商品開発は毎週末、主人が。私は試食の担当です(笑)。作ること以外は2人で相談しているのですけどね(笑)。 商品開発を初めたばかりのころは、添加物を使わず「果汁100%」にこだわっていましたが、そうすると、濁ってしまったり見た目がイマイチなので、今は添加物を使わず「新鮮なフルーツ」ということにこだわって開発中です。 山梨県産にこだわりたく、水も軟水で料理にも適している南アルプスの水を使用したりもしています。材料や分量で味も見た目もだいぶ変わるので、いい意味で真面目な主人は、一つ一つノートに書き留めたり写真を撮ったりしていますよ。
フルーツゼリーのほかにも、八ヶ岳の牛乳やヨーグルトを使ったゼリー、ジャムなども作っています。のちのちは、体に良いハーブ入りとか、コラーゲン配合の商品とかお客さまのニーズに応えられる商品を開発していきたいのですが、まずは、主力商品のゼリーの「これだ!」という味を見つけることだと思っています。 とりあえず開業して、商品を改良していくのではダメだと思うのです。商品には最初のイメージがつくから最初が肝心なのです。だから、自信を持ってお客さまに提供できる味を見つけて、2017年4月には開業したいですね。

――商品開発以外の準備などはされています?

パッケージやHP、広報活動など構想は立てていますが、商品開発と店舗の有無を決めてから実行に移さないと、二度手間になってしまうので、今はまだその程度です。 また、これまで出会った様々な職種の方々から、開業する時には協力するよと言って頂いているので、いざ実行に移す際には心強いです。

――独立にまつわることで何か気になっていることや心配事はありますか。

う~ん、そうですね~。次期アメリカ大統領がTPPに否定的なトランプ氏になったことで、TPPがどうなるのかと、JA全農の改革で農家がどうなっていくのかが気になりますね。

次回の更新は、2017年1月27日(金)お楽しみに!

更新日:2017/1/13
文:樋口代史子 撮影:中村公泰

独立開業への道 365日 アンケート2

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オフィスに置かれた冷蔵庫の中から、和惣菜を中心とした健康的な食事をいつでも食べることができる。そんなサービスを企業向けに提供しているのが、株式会社おかん。 メディアからも注目されているこのベンチャー企業を牽引する沢木恵太さんに、起業にまつわる話をお聞きしました。
【沢木恵太さん・プロフィール】 株式会社おかん 代表取締役 CEO。1985年長野県生まれ。中央大学商学部卒業後、大手コンサルティング会社、ベンチャー企業でゲームプロデューサー兼事業責任者、教育系ベンチャーを経て、2012年に株式会社CHISAN(現おかん)を創業。 2014年、東京23区で法人向けに「オフィスおかん」のサービスを開始。現在、対象エリアを拡大中。

起業することにネガティブなイメージはなかった

── 会社を起こそうと決めた経緯は?

沢木恵太(以下、沢木)
きっかけは2つありました。1つは福井県の惣菜メーカーとの出合い。前職の同僚の婿養子先なのですが、とても美味しく質の良い惣菜を作っていて、それを扱って何かビジネスができないかという、プロダクト側からの視点です。 そしてもう1つは、ユーザー側からの視点。当時、長女を育てながら、第2子を授かった妻の子育ての大変さと、故郷にいる病気がちの母の生活から、食事支援の必要性を漠然と感じていたんです。 コンサル会社での勤務時代、労働時間の長い仕事に就いていた自分の食事も不規則になりがちで、健康診断の結果が非常に悪かった経験も大きいですね。 そういった自分の身の周りに起きていた課題と、福井の惣菜店の持つアセットがちょうどリンクして、最終的にオフィス向けの惣菜サービスというソリューションに思い至りました。 ですから、起業のためにアイデアをたくさん出した中から選んだというよりは、自分の感じていたことや周囲の状況が偶然にもガチッとはまって、結果として起業したという感じのほうが強いと思います。

── 起業の志向は、学生時代から持っていたそうですね。

沢木
決して意識が高い学生ではありませんでした。ただ、大学3年生になって就活を始める時に、どうせ社会に関わるのならしっかりと貢献したい、価値を提供していきたい、と思うようになったんです。 そのためには、医者のように目の前の人を良くしていくという役割もあると思うのですが、私の志向は、多くの人に広く影響を与えていきたいというものでした。 そして、その目標を実現する手段として考えられるのは、1つには政治ですが、自分がその世界に進むイメージは持てない。そこで、もう1つのビジネスの分野でチャレンジしようと考えたんです。

── 社会に貢献したいという気持ちを持った人は、おそらくたくさんいると思います。ただ、多くの場合は雇われる側に行き、そこにとどまりますよね。自ら事業を起こした沢木さんは、どこが違ったのでしょうか。

沢木
難しいですよね。友人たちと集まった時にもよく話題になるのですが、起業家は「自分は普通だ」と思っているんです。ただ、周りからは変人だと思われている(笑)。 残念ながら私も自分が普通だと思っているのですが、唯一挙げられるとしたら、経営をしている人が周囲に誰もいなかったことでしょうか。 イメージのしようがないので、ネガティブな印象もなかったんです。それに加えて、新卒で入った会社が経営不振で倒産し、大手でも潰れるリスクに直面するという経験をしました。 だから、起業することに悪い意味でのバイアスがかかっていない上に、勤めることに対してポジティブな印象だけを持つことができずにいたので、それならば別に起業したらいいじゃないかという結論に至ったのかな、とは思いますね。

常に今が一番大変。事業が大きくなるほど、社会的な責任も出てくる

── とはいえ、起業に踏み切るときに何か思いとどまるようなことはなかったのですか?

沢木
たしかに、すでにこどもがひとりいて、妻のお腹にもう1人いて、住宅ローンも抱えていて…、普通に考えたら起業はしない状況だったと思います。 それでも踏み切ったわけですが、家族を養っていくという責任感は持っているので、最悪の状況は想定しました。その時、実は転職のオファーもいくつかあり、それなりの価値が自分にはあるという客観的評価をいただいていたのは大きかったですね。

── 失敗が怖いとか、再挑戦ができないのではないかという不安から、起業に踏み出せない人も多いと思うのですが。

沢木
きちんとしたビジネスモデルで、きちんとした方法で資金調達すれば、失敗のリスクは回避できると思います。そこを無鉄砲にやってしまうと、借金が残ってしまったり、個人の信用がすごくガタ落ちしてしまいかねないので、その部分の慎重さは必要ですね。

── 自分がやりたいことやひらめいたアイデアを、いざ形にしようとしたときに、必要なことは何だと思いますか?

沢木
私の場合で言うと、1つは他のビジネスモデルを学ぶこと。自分自身、ゼロから何かを生み出すのは得意ではないと思っているんです。だから、いろいろなビジネスモデルを研究し、それらの一部を流用したり組み合わせたりすることで、自分なりのアウトプットを作りました。 もう1つは、1歩目のハードルを低くすること。まだ雑なビジネスプランかもしれないけれど、とにかくどこかにアウトプットしてみよう、とりあえずやってみようという感覚で、起業に向けて動き出しました。 その結果、出資を受ける話につながったので、確かに運が良かったとは思いますが、動き出さなければその運との接点もなかったわけですから。

── 事業が進み始めて、人を雇い入れることに対する責任の重さを感じたことはありますか?

沢木
それは今も感じています。もちろん、事業を大きく育てて社会に影響を与えることを想定しているわけですが、それに伴う責任は常に感じますね。 サービスが拡大すれば、顧客に対する社会的な責任も出てきます。起業が一番大変で、そこから徐々に安定していくという印象を持たれている方もいるかもしれませんが、私の感覚ではむしろ逆ですね。

── すると、今が一番大変なんですか?

沢木
はい、常に今が一番大変だと思っています。だから、たとえば1年前を振り返ると、そんなに大変じゃなかったかな、という感じがしますね。実際は大変だったのかもしれませんが、過ぎたことをあまり苦労とは思わないタイプなんです。

ミニマムなことでいいので、自信につながる一歩から始めてみよう

── 最後に、起業を考えている人の背中を押すようなアドバイスをいただけますか?

沢木
最初の一歩さえ踏み出せば、ものごとがうまく転がるケースはたくさんあります。きわめてミニマムなことでいいので、自信につながるような一歩から始めてみるといいと思います。 そして踏み出してみると、意外なほど周りの人が助けてくれます。経営する側にまわることで、自分の中にも周りにも何らかの変化が起き、それまで持っていた能力以上の結果がついてくる可能性があるということを、ぜひお伝えしたいですね。
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自身のキャリアや将来、人生設計や未来についての相談などに乗っていると、「とりあえず○○ができるようになりたいです」といった言葉をとにかく多く聞く。 それは例えば現在就いている仕事において期待されているスキルの獲得であったり、あるいはまだ見ぬ『いつかする独立』へ向けた必須技能(とどこかの本や記事で紹介されているようなもの)だったり。個人によって様々だ。 もちろん、その思考自体は素晴らしいことだと思う。 何をするにしたって準備しすぎるという事はないし、できること、できると周囲から認められることを一つひとつ積み重ねていく姿は少なくない評価を獲得していけることだろう。 けれど、もしも『自分らしく自由に人生を生きたい』と望むのであれば、この考え方は少々の危険性をはらんでいるのではないだろうか? 今回はそんな話をしてみようと思う。
―著者:中村 健太 株式会社ビットエーCMO。Techメディア「BITA デジマラボ」のプロデュースやAIカンバセーションエンジンの開発など、Webのみにとどまらず様々な分野で活動するマルチプロデューサー。KaizenPlatformのグロースコンサルとしても知られ、2014年より一般社団法人日本ディレクション協会の会長も務める。主な著書に「Webディレクターの教科書」など。元々大手コーヒーチェーンの店長職からキャリアをスタート。副業としてのアフィリエイター活動からWebマーケティング業界へ入るという珍しい経歴を持つ。

自分自身の人生を生きるための自由とは

まず「自分自身の人生を生きる」というのはどういった状態なのか?だが、ここではシンプルに『何かをやりたいと思った時、自由に立場と選択肢を選んで実行できること』と置いてみる。 例えるなら、朝起きて「さーて今日は何やろっかなー」と考え 実行プランを立てる上での自由度…といったところだ。 それはほぼ無限の選択肢に広がり、やろうと思ったことを自由に実行できる状況であれば、(個々人の性格によるところはあれど)かなり自由に自分自身の人生を生きていると言えるはずだ。 何しろ自分が何をするかの選択肢を自身で握れていることになるのだから。 では、現在のあなた自身にとってその選択肢の数はどうだろう? 極端な話、多くの人にとってその選択肢は大きく2つ程度しか存在しない。つまり「会社に行くか」「サボるか」の二択だ。 これが ”自由で自分らしい生き方” か?と聞かれれば、そうは言いにくいのが現実だろう。

どれだけの人に「自身の価値」を認知させるか

ではどうすれば自分の選択で行動を決められるだけの自由を得ることができるのだろう? ここからはかなり私自身の持論になるが、『自身の価値を認識している人の数と質』により、その多くが決定されると思っている。つまり『何か新しくやってみよう!と決めた時に賛同してくれる人の数と質』が重要なのだ。 その数が多くなれば多くなるほど、質が高くなれば高くなるほど。思いつきの行動は企画と呼ばれるようになり、ちょっとした活動がプロジェクトとして動き始める原動力になっていく。 話がとんでしまったが、つまり そのためにこそ『○○ができるようになったら…』といった極めて会社員的な思考が少々邪魔になってくるのだ。

限定された世界での評価を得るための階段型思考

企業の中でどれだけ期待されたスキルを身に着けても、それは「既にそこまでは出来るようになってほしい」という他人の立てた戦略の中の成果でしかない。 期待する成果のために用意された人員にしかあなたのスキルや成果は認識されないし、取引先などを含めて多く見積もってもその数はせいぜい数十人程度しかいないはずだ。
これを読んでいるあなたも、 『自分自身の仕事っぷりを知り、ある程度できると認識してくれている人の数』 を数えてみて欲しい。恐らく30人を大きく超えるケースは稀なはずだ。
改めて話を戻そう。 「○○ができるようになる」という当面の目標があったとして、その先にあなたは何を目的に置いているだろうか? ○○ができるようになり、例えば課長や部長などの立場になり、マネジメントなどのスキルを得て、次の役職をもらい… はたしてその先にあるのは、何だろうか? 社内の人間を中心とした、数十人程度の『限定された世界での評価』は、果たしてあなたの人生における選択肢を増やしてくれるだろうか。 これに「その通りだ!」と答えられる人やシーンは、実際のところそんなに多くはなかったりするのだ。(あくまで著者の経験上の話だが)

より具体的な状態目標からマイルストーン型思考で行動を設計する

ではどうすれば良いのか。 それこそ人による…といいたいところだが、それではあまりにも無責任なので、以下に著者が実践している方法を紹介してみようと思う。 考え方としては、階段ではなくプロジェクト・マイルストーンに近いもの。つまり、「○○ができるようになったら」「次は○○できるようにして」「その後は…」ではなく… 「最終的に○○をやる」と決めた後に「ということは○年後にこうなってるはず」 ⇒ 「だから半年後はこうなっていて」「つまり1ヶ月後にこうなっていて…」 といった形に自身の置かれている状況や状態を先に置いて、そこに至るまでの途中経過を分解していくイメージだ。 そしてその上に、より具体的に最終的な到達ビジョンを洗い出していく。 例えば「独立する」といったフワッとした目標を「○年後には従業員数300人程度の○○系事業を指揮する代表の立場にある」といった形に落とし込んでいくイメージだ。 それを明確にしてしまえば、あとはシンプル。
  • それを実行するために何人の人間に認知されるべきなのか?
  • どんな実績をどうマーケットに認識させるべきなのか?
  • そのために○ヶ月後までに必要な成果とその成果を認知させるために必要なデリバリーはどうあるべきなのか?
などなど。様々な考えがほぼ勝手に広がっていくはずだ。 極少数の人間にしか知られず、限定的なコミュニティの中でしか認知されていない状態では「どうあがいてもそんなところに到達できない」と、誰が考えてもわかるのだから。

まず「どうありたいのか」ありきで考えれば行動は実行できる

こういった話をされると、つい「いやそんな巨大な野望とかありませんし…」となってしまうことだろう。それが普通だと思う。 実際、著者にしても初期は「3年後に今の年収の3倍もらう!」くらいの目標しか掲げることができなかった。(新卒時の話なので3倍といっても大した金額ではない) が、不思議なことにこれを掲げ、行動の指針として掲げることで例えば…
  • 忙しいけど時間を作って副業やってみる
  • 何のスキルも無いけど、とりあえずサイトを立ち上げてみる
  • 何もかも上手くいかないけど、マイルストーンにむけてなんとか頑張る
  • いつの間にか成果が生まれ、社外の多くの人に認知されはじめる
  • やりたいと思った事がプロジェクトとして動かせるようになる
  • 気づいたら目標をクリアしていたので再度別の目標を立て直す
といった、 客観的にみれば無謀と言える行動を当たり前のようにとることができたのだと思っている。 もちろん個々人によって向き不向きはあるはずだが、今この瞬間に所属している『組織によって設定された目標』をクリアするだけではなく、 自身にとっての状態目標を明確にした上で、階段型ではないマイルストーン型の思考と行動設計を行ってみるのも、自身の人生を自由に生きようと思った上では重要なのではないだろうか。 そのために副業が必要ならばやってみればいいし、もし禁止されているのであれば非営利でも外のプロジェクトに関わり、自分自身を評価してくれる人間の数と質、そして軸を増やしつつ行動してみればいい。 少なくとも、その生き方であれば「○○のスキルを手に入れたハズなのに評価されない」「○○の役職になった後のプランが考えられない」といった『自分の人生と向き合えていない』状態を脱することは可能になるはずだ。 まず、何年後にどうありたいのか ありき。 状況に流され選択肢を徐々に失っていく人生はきっと、辛く苦しいもの。だと思うので。
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山根 明さん(81歳)
東京タブレット研究会/東京都小金井市

VOL.164
各種プレゼン大会で優勝。シニア向けスマホ講座を主宰

行くとこない、会う人いない、やることない。 そんな老人になりたいですか

若い皆さんは毎日忙しいでしょうが、シニアは違います。朝起きて行くところがない、会う人がいない、やることがない。それまでバリバリ働いていた偉い人が、定年後に弱ってしまう姿を見ました。悠々自適な老後なんてありえない。定年前に何か準備しないといけないと思ってパソコン教室に通い始めたことが、今の仕事につながっています。  私たちのスマホ講座、タブレット講座の特徴は、学ぶ側も教える側もシニアだということです。だから、ゆっくり、やさしく、楽しく教えられる。若いインストラクターの皆さんの講座は、申し訳ないのですが、シニアにするとまずペースが速い、そしてカタカナ用語が多い。もう「日本語だ」としかわかりません(笑)。シニアは聞いたこともすぐ忘れてしまう。そこで、私たちは「赤ん坊は泣くのが仕事。シニアは忘れるのが仕事」と最初にお話をする。これで受講生も安心してくれます。  シニアの感動が私のエネルギーです。パソコンは企業の生産性を高めるための道具ですが、スマホやタブレットはコミュニケーションの道具。シニアが講座に求めているものもコミュニケーションの楽しみであり、人間関係です。私たちはそれを提供し、教えるのではなく一緒になって楽しむ。これも、同じシニアでないとできないこと。最近はシニアもLINEにハマっています。講師含めて8人のうち7人がガン生還者だった講座がありました。聞けば、入院中に「今晩の病院食はこれだよ」「おいしそうだね」などとやりとりしている。LINEのおかげでガンが治るとか乱暴なことは言いませんが(笑)、少なくとも自分は1人じゃない、サポートしてくれる人がいると分かる。そこにもシニアの感動があるんです。


更新日:2017/1/4
取材・文/東 雄介 撮影/太田未来子、刑部友康、阪巻正志
アントレ2016.秋号 「定年無用!独立老師が語る退かない人生」より
中村大樹

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株式会社バリューブックス/東京都渋谷区・長野県上田市 代表取締役

中村大樹さん(30歳)

 1983年、長野県生まれ。高校時代はサッカー漬けの日々を送る。大学進学を機に上京。1年生の春休みを利用して訪れたニューヨークで、独立して働く日本人の若者たちに出会い、起業の夢が膨らむ。大学を卒業した2005年、古本のネット販売ビジネスを単身でスタート。その後、友人たちをメンバーに加えて事業を拡大、2007年に「バリューブックス」を設立した。2010年に本を商材とする社会事業に着手、そのプロジェクトは30を超え、着実な広がりを見せている。http://www.valuebooks.jp/

 きっかけは、偶然的だった。大学卒業後、自分で独立して働きたいという思いを胸に秘めながらも、「何をすればいいのかわからなかった」中村大樹は、ある日、起業に向けて買いためていた本を、ネットオークションに出品。すると、意外な高値で売れたのだ。思いついたのが、書籍の買い取りサイトを設け、集まった本をネットオークションで転売するというビジネスモデル。手持ち資金は20万円、まずは一人でスタートした。追って、高校時代の友人たちも巻き込み、試行錯誤を楽しみながら続けてきた活動は、やがて立派な事業のかたちになった。2007年、中村は、4人の仲間と株式会社バリューブックスを設立する。 同業も少なくないなか、同社を特徴づけるのが「社会事業」だ。基本モデルは本業と同じだが、買い取り金額はすべて社会問題に取り組むNPOなどに寄付する。現在、バリューブックスに送られてくる書籍の約半数は、寄付に当てられるまでになった。2010年に始めてから、およそ60のNPOや自治体、大学などといった団体に寄付した総額は約6700万円。「ようやく軌道に乗ってきた」というこの社会事業は、新たな寄付文化の開花をも予感させる。

「眠っている本で社会貢献」――NPOと共同し、仕組みを広げていく。それが寄付文化に対する新しい働きかけになる

━ 学生時代にニューヨークに滞在したことが、転機になったとか。

 留学していた幼なじみのところに1カ月半ほど遊びに行ったのですが、彼が、そこの日本人コミュニティを紹介してくれたんですね。フォトグラファーとか洋服屋さんとか、誰もが独立してバリバリ働いている。そこであらためて感じたのは、彼らは「まぶしい」存在ではあるのだけれど、みんな普通に頑張っているんだ、別世界の人ではないんだ、ということ。起業の道を選んだのは、あの体験が大きかったですね。

━ もともと本に興味はあった?

 いえ(笑)。そのコミュニティで知り合った人たちの部屋に行くと、例外なく、本棚に難しそうな本が並んでいるわけですよ。大いに触発されて、帰国してから本を読みあさるようになりました。もちろん起業のための書物も。でも、肝心の「何をやるか」は、卒業してもはっきりしなかった。そのうち本があふれてきて、捨てるのは抵抗があったから、とりあえず売ってみようと。Amazonに出品してみたら、100円で買った中古本が1000円で売れた(笑)。こういう世界があるのだと気づき、ヒントを得たわけです。

━ 自社の販売サイトは設けていませんね。

 ビジネスモデルを簡単に説明すると、まず広告も打ちながら、買い取りサイトで本を集めます。今は1日に8000~9000冊入ってきて、在庫は35万冊ほど。他方、販売はもっぱらAmazonマーケットプレイスなどに出品するかたちをとっています。もっと扱う点数が増えれば自社販売サイトもアリですが、現状ではほかのプラットフォームを活用するのが効率的なのです。つまり今の当社にとっては、「どう売るか」よりも「いかに買い取る本の質を上げるか、チャネルを増やすか」が“主戦場”。そのためにサイトのリニューアルにも趣向を凝らし、随時取り組んでいます。会社設立前から、サイトの立ち上げから何からすべて自分たちの手づくり。模索の連続でしたが、そうして蓄積されたノウハウは、僕らの財産です。

━ 社会事業に進出したのは? 収益面においては難しそうですが。

 送られてくる本が増えると、残念ながら商品としては市場に出せず、廃棄処分にせざるを得ないものも出てくる。たまたま僕の故郷の長野で、フリースクールを運営するNPOの代表にそんな話をしたら「ならば、うちに置かせてほしい」と。役立てるのなら、うれしいじゃないですか。それで学童保育や病院、老人ホームなどに寄付するようになったのが最初です。 そんな活動をするなかで、社会貢献に寄与するNPOの多くが資金難に苦しんでいるという話を聞きました。そこで始めたのが、寄付支援サイト「チャリボン」です。個人や企業に本を送ってもらい、それを買い取って、相当額をチャリボンに参加しているNPOやNGOに寄付します。同じ仕組みで特定の組織、団体を支援するプロジェクトもあって、今はそれが30ほどに増えました。NPO活動に携わる方々の働きかけによって、輪が大きく広がってきたのです。 本業と同様、当社は買い取った本をAmazonマーケットプレイスなどで売って利益を得ます。寄付の場合、広告は不要な半面、古い本が多く送られてくるとか、ネットで売るには難しさがあるのは事実。正直、しばらくは赤字続きでした。でも内部の作業の仕方を工夫し、倉庫を長野県に構えて賃料などの経費を抑えるとか、努力を積み重ねることで、やっと単体の事業として回るところまできました。企業体力をもっと付ければ、ほかに真似のできない社会事業になるはず。ぜがひでも続けていきたいですね。

「起業家からのメッセージ THE INNOVATION」のバックナンバーはこちらから≫

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和田 京子さん(86歳)
和田京子不動産(株)/東京都江戸川区

VOL.163
元主婦が80歳で起業。仲介手数料無料で年商5億円

自分の足で、自分の名で、 世のお役に立ちたかったのです

のね。夫を亡くした時、達成感があったんです。もう自分はいつ死んでもいいんだって。ところが介護生活から解放されて、食べたい時に食べ、寝たい時に寝ていたら自浄作用で元気になった。自由ばかりも何だから勉強でもと孫が渡してくれた宅建のテキストが、また面白くて。私これまで7つの家に住みましたが、欠陥住宅と訳あり住宅に、ずいぶん泣かされてきたんです。    79歳で資格を取得して80歳で起業。何でその年でと人には言われます。でも1億玉砕の時代を知る人間には、自分だけ生き残ってしまって申し訳ないという気持ちがある。私は学校を出ると家庭に入り、何もできずにいました。親に養われ、夫に養われで、自分の名前を呼ばれる機会もなかった。ずっと思っていたのです。自分の足で立ち、自分の名前で、世間のお役に立ちたいと。  不動産業は人に好かれる仕事ではない、と身にしみて感じます。ちょっとした営業トークのつもりでも、お客さまは言葉のとおりに受け止めて期待をし、そして現実を見てがっかりされる。これが不信感のもとです。だから私は、誠実であろう、うそだけは言うまいと努めてきました。「昨日はああ申し上げましたが、実際はこう申し上げたほうが正解かも分かりません」と後になって訂正したことが何度もあります。うちへいらしたお客さまは皆、私を信じてくださった。本当に感謝です。    この年ですから、相棒の孫の支えなしではやっていけませんが、ひとり立ちしたことには変わりがない。こればかりは最後まで譲れない喜びです。まあでも、会社経営がどれだけ大変か知っていたら起業しなかったかもしれません。購入者からの仲介手数料無料なんて、3日で「しまったな」と思いました。かといって、やめますと言ったらお客さまが許しません。仕方がないので、私が死ぬまで、ということにしました(笑)。


更新日:2017/1/4
取材・文/東 雄介 撮影/太田未来子、刑部友康、阪巻正志
アントレ2016.秋号 「定年無用!独立老師が語る退かない人生」より
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プロフィール 古城幸恵(こじょう・さちえ) 1976年生まれ。短大卒業後、事務員として就職したが、一念発起して憧れだった美容の世界に飛び込む。サロンで働くと同時に専門学校で学び、資格を取得。その後、仕事と育児の両立を考え、開業を決意。2011年11月、自宅を一部改装し、「SHIRO」をオープン。

結婚後、子育てをしながら大手の美容サロンで働いていた古城さん。「限られた時間の中で家庭と仕事を両立させるにはどうすればよいのか」という問題に直面し、導き出した解答は独立・開業。家の一部を改装してサロンを開き、自分のライフスタイルに合った形で、充実した毎日を送る“ママさんオーナー”にお話を聞いてきました。

サロンにいる間、日常を忘れて全てをリセット。 真っ白な気持ちになってもらえるように

――外側からパッと見たところ、お洒落なレストランかカフェにも見える素敵なサロンです。「SHIRO」というネーミングの由来は何ですか? 古城:訪れたお客さまに、日常のストレスをリセットして、真っ白な気持ちになっていただきたくて。完成する前から「白(SHIRO)」と名づけようと決めていました。

――サロンの雰囲気もインテリアも、とってもリラックスできる雰囲気ですね。

古城:お客さまとは常に1対1で、ここで過ごす時間は貸し切りになりますので、居心地が大切。木目調の落ち着ける素材や、店名のように明るいホワイトを使うことにはこだわりました。

――完全予約制なんですよね。

古城:はい。今はアシスタントを付けず、1人でやっているということもありますが、カウンセリングから仕上げまで、お客さまにしっかりと向き合うためにそうしています。1日限定何人とは決めていませんが、メニューによって、その方のお時間をきちんと確保したいと思っています。

友達の髪を遊び半分で切ってみたとき、 「美容師になりたい」という思いが再燃

――短大を卒業してからは、普通に会社員をされていたんですね。

古城:最初は事務員として会社に勤務していました。でも、美容師になってみたいという気持ちは高校ぐらいの頃からあったんですよ。やっぱり美容師をめざしてみようと思ったきっかけは、友人の髪を切ってあげたことです。

――それはまたずいぶん大胆な…(笑)。

古城:その子に頼まれたんですよ。図画工作用のハサミを使って(笑)。それがとても可愛くできたので、こういう方向が自分にはやっぱり合うのではないかと、あらためて思いました。学生の頃から感覚を形にする美術系の科目が得意だったんです。

――そこから、何か具体的な行動は起こしたんですか?

古城:職場の先輩に相談してみたところ、「友人が美容室を経営している」ということを知り、紹介してくださって。やりたいという思いが伝わったのか、経験のない私をアシスタントとして雇ってもらえることになったんです。

子育てをしながらも、仕事を楽しくやりたい…。 模索した結論は、自宅の近くでの起業だった

――それまでは会社員だったんですよね。美容師の資格はいつ取られたんですか?

古城:美容室でアシスタントとして働きながら専門学校に通わせていただきました。同級生はほとんどが10代でしたが、気後れするよりも皆より年齢が上という焦りもあり、「負けずに頑張って、誰よりも早くデビューするぞ!」という思いが強かったです。そのかいあって、無事、資格を取ることができました。

――その後は、大手サロンに移られたんですね?

古城:自分の力を試してみたくなったんです。そのころは、本当に仕事が楽しくて、楽しくて。ただ、すでに結婚していたのですが、移籍後の出産を機に仕事と育児の両立のバランスが難しくなってきました。お祝いごとの着付けなどは朝早いことが多いのですが、そういった早朝や夜間の仕事に携わることも困難で。職場の皆さんは理解してくださっていたのですが、私自身、仕事が楽しいと思えることがバロメーターということもあり、仕事も大事、家庭も大事、でも時間には制限がある。そんなもどかしさを感じることも増えてきてしまいました。

――それで独立することを決断されたと。

古城:そのサロンには10数年間お世話になり、美容師として成長させていただきましたが、今後、家庭も仕事も大事にするための最良の方法と考えて、独立を決断しました。元々、将来は自分のサロンを持つ目標もありましたし。

――自身のサロンを持つことも簡単ではなかったと思います。育児も接客も無理なくできるという理由で、ご自宅をリフォームされたんですか?

古城:最初は近所のテナントを借りて独立するつもりだったんですよ。家は休む場所だと考えていたので。初期費用ももちろんそうですが、テナントを借りるとなると自分の稼働率をさらにあげる必要があります。その頃はこどもたちもまだ小さいですし、その選択は今ではないと思いました。 あまりお金をかけすぎるとそれが負担になって仕事が楽しくなくなることもありますし、ストレスを抱えずに仕事ができることを重要視して。幸い、夫の理解も得られましたので、自己資金の中で家の一部を改装することにしました。

自分のタイプとしては、経営者というより「職人」。 将来は同じようなプロと共に腕を振るう夢も

――やってみて経営はどうですか? オーナーとヘアデザイナーを1人でこなさないといけないですよね?

古城:たいへんなこともありますが、おかげさまで予想していたよりは順調に推移しています。早朝の着付けの仕事など、時間に融通をきかせて受け入れることが出来るようになったので、サロン勤務していた頃より出来る仕事は増えたと思います。ここまで育ててくださったオーナーさん、お客さま、家族の後押しがあってこそですね。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

――お客さんには、常連さん以外にも口コミも多いそうですね。

古城:そうですね。近隣の方のほか、前にお世話になったサロンで知り合った方も中にはいらっしゃいます。まだアシスタントの頃に、私のカットモデルとして来店された方も、それ以来ずっと続けて来ていただいたり。新規のお客さまもほとんどが常連さんの口コミのおかげです。

――今後の目標をお聞かせください。

古城:私自身、経営者というよりも、どちらかといえば職人に近いと思っています。だから、アシスタントさんを雇ってお店を拡げる方向ではなく、プロとして色々な技能を持った方と組んで一緒にやっていくことも、考えています。私がまだ持っていない美容系の資格・・・たとえばネイリストの方と組んで、1つのサロンでトータルなサービスを提供できるようにするとか。まだ具体的にそう決めているわけではないんですけどね(笑)。生涯できる仕事なので、この先続けていく中で、そんな事が近い将来できればいいなと思っています。

取材・文/神門駿兵 撮影/田部雅生 構成/細井香里

2016年12月28日

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NPO法人Youth Create/東京都中野区

代表 原田謙介さん(26歳)

 1986年、岡山県生まれ。中・高校は愛媛県の一貫校で寮生活を送り、2006年、東京大学法学部入学。若者の「政治的無関心」に危機感を抱き、3年生の時に学生団体ivoteを結成。投票率向上に向けた街頭啓発などを行う。2011年6月に引退。翌年には自らが発起人となり、インターネット利用の選挙運動解禁に向けた「One Voice Campaign」を実施。2013年1月、Youth CreateをNPO法人化、代表に就任する。現在、学生、社会人ら13人で活動中。 http://youth-create.jp/

 政治のことを語るなんて、ダサイじゃん――。その意識は、例えばこんな数字に結びつく。民主党による政権交代にわいた2009年8月の総選挙。全体の小選挙区投票率が69.28%だったのに対し、20歳代のそれは49.45%にとどまった。ちなみに30歳代は63.87%、60歳代は84.15%である(「明るい選挙推進協会」調べ)。若年層の投票率が上の世代に比べてダンゼン低い傾向は、特に80年代以降、顕著になってきた。当然のことながら、若年層の「利益」や「思い」を代弁する人物は、当選が難しいということになる。  そうした現状に風穴を開けるべく活動を続けてきた原田謙介は、現在、Youth Createの旗頭として意欲的に動いている。「若者と政治を結ぶ」をコンセプトに、党派を超えて政治家と直接「飲める」イベントや、小学生から社会人まで、政治リテラシーを向上させるための年代別教育プログラムなどを実施。従来なかった取り組みは、マスコミにも取り上げられ、広く注目を集めている。そのルーツは「政治に関心を持つのはかっこいい」と思われる社会にしようと、大学生時代に同志6人で始めた、若者の投票率向上を目指す運動にある。

「無関心」が未来を閉ざさないよう、政治を肌で感じられる機会を創出する。それが、若者たちの政治参画を促す礎となる

━ そもそも政治に関心を持ったきっかけを教えてください。

 高校生の頃、どういうわけか政治家になりたかったんですよ。世の中に広くかかわる仕事がしたいなあって。政治のことなど、何も知らなかったんですけどね(笑)。で、大学に入ってから、郷里である岡山選出の民主党国会議員さんのところで、インターンをやったんです。とりあえず現場を見てみようと。そこでわかったのは、政治というものには、ものすごく力があるということ。まだ政権交代前夜でしたが、民主党の議員さんたちの話していたことが、翌日トップニュースになったりするわけです。そしてもう一つ、議員が若者に会う機会はほとんどない、ということにも気づきました。永田町の議員会館にいても地元に帰っても、周りは年配者ばかりで……。

━ そこで生まれた問題意識が、学生団体の結成につながったと。

 そうですね。片や、同級生なんかに政治の話をしてみると、「何言ってんの」という反応がほとんど。でも、30年後の日本のことを当事者意識を持って真剣に考えられるのは、その頃社会を支えているはずの若者でしょう。そこのギャップを埋めない限り、世の中は変えられないと強く感じたのです。それで大学3年の春、20歳代の投票率向上を目指す学生団体「ivote」を結成しました。東大のサークル仲間、あとはインターンで知り合った人とか、大学もバラバラの6人が集まって始めたんです。

━ 実際にはどのような活動を?

 最初は、学生が集まるイベントがあればとにかく出かけていって、空気を読まずに(笑)、「政治についてどう思いますか?」と聞きまくりです。むろん「何言ってんの」パターンが多いのですが、なかには「年金もらえるのかな」なんていう反応があるわけです。そんなことを繰り返しているうちに、だんだん活動のアイデアが固まってきました。「20代の夏政り」と銘打って、浴衣や甚平を着て練り歩きながら、若者に投票を呼びかける街頭啓発活動をやったり、「居酒屋ivote」という国会議員と若者の飲み会を企画したり。若者が政治に“直接触れる”機会づくりから始めたわけです。

━ それが、現在の活動のベースになっているわけですね。

 ivoteは後輩にバトンタッチし、そのOB・OGで設立したのがYouth Createです。僕らが考えているのは、まず選挙に特化した団体にはしないということ。例えば、まだ選挙権を持たない子供や若者に、政治の仕組みや役割などをきちんと知ってもらうための教育プログラムの策定、イベントの開催などを考えています。そして主催している「Voters Bar」は、やっぱり政治家との飲み会なんですが(笑)、今後は地方議会の議員さんたちとも触れ合える場をつくるべく、全国ベースで進めていこうと。あとはNPO法人として、行政や企業と組んだ活動の推進も課題です。

━ 多摩大学大学院教授の田坂広志さんらが発起人となった「デモクラシー2.0イニシアティブ」にも参加していますね。

 「観客型民主主義から参加型民主主義へ」といった、新しい時代に必要な政治理念を発信していくグループで、うちは、8つある参加組織の一つに加わらせてもらっています。僕は常々、「政治はあっちの人たちがやるもの」という発想が一番の問題だと思っているんです。それを打破していくうえで、非常に意義深い活動だと思っています。僕らの活動はまだ緒についたばかりですけど、学生団体を立ち上げた5年前にはなかった運動の広がり、手ごたえが確かにあります。これからが本番。いろいろ仕掛けていきますよ。

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2016年12月26日

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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズンがスタート。開業までのプロセスを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリーを公開!
菊地美由起さんプロフィール 岩手県の保育専門学校を卒業後、すぐに結婚。家事をこなしつつ、ファストフード店やコンピューター関連の仕事に従事。数年後、離婚を機に埼玉県へ移住した。1年ほどファストフード店と服飾店で経理として働いた後、総合病院に就職。9年後に退職し、乳幼児専門の保育園に正社員として就職。3年後、次女の結婚を機に、鎌倉に引っ越し、現在の保育園でも正社員として働いている。55歳。鎌倉市内に1人暮らし。

――保育専門学校を卒業されていますが、いつ頃から保育に興味があったんですか?

小さい頃から保育士になるのが夢でした。当時は岩手県に住んでいたので、県内の専門学校を卒業しました。卒業後、21歳で結婚し、専業主婦をしていたのですが、家計の足しになればと思い、ファストフード店で働きました。働き出して3年くらい経った頃、接客やサービスの技術が認められ、“個人賞”をもらったんです。 確か、東北3県で2名しか受賞していない賞だったと思います。そんな風に評価されることは初めてでしたし、誰かに認められる、誰かに必要とされる喜びのようなものを強く感じました。その後、前から興味のあったコンピューター関連の仕事に就いたのですが、離婚を機に岩手県を離れたんです。

――それで埼玉県に引っ越しをされたんですね。お仕事はどうされましたか?

3人のこどもたちと埼玉県へ引っ越し、最初はファストフード店や服飾店で働きました。こどもが育ち盛りだったので大変でした。でもその服飾店で経理として働いているときに、会計士さんから病院で働かないかと声を掛けていただき、病院に勤めることになったんです。 以前コンピューター関連の仕事をしていたおかげで医療事務のパソコン作業もこなせたんだと思います。病院は内科・小児科・産婦人科のある中規模の総合病院だったのですが、そこで赤ちゃんや小さなこどもたちをみているうちにずっと前からなりたかった保育士の夢が、ふつふつと湧いてきました。 そこでは院長先生をはじめ、一緒に働く方々にも恵まれ、仕事をしながら医療事務の資格をとることができました。本当にお世話になったんです。

――でもやっぱり保育士の仕事をしたいと思って、方向転換したんですね?

はい。辞めないでほしいと何度も引き留めていただいたのですが、やはり自分の道は保育士だと心に決めたので、退職させていただきました。その後、同じく埼玉県内の乳幼児専門の保育園に就職しました。 そこで長く働くつもりだったのですが、勤めて3年経った頃に、下の娘が結婚することになって、鎌倉に引っ越すって聞いたんです。そしたら私も鎌倉にどうしても住みたくなって…。

――えっ?結婚されるのはお嬢さんですよね?(笑)同居されたんですか?

いえいえ。なぜだか分からないのですが“鎌倉”ということばの響きにビビッときてしまい、私もひきつけられるように鎌倉に引っ越しました(笑)。何度か訪れたことがあって、そのたびに「いい所だな」と思ってはいたんですけどね。 すぐに仕事を探す必要があったので、派遣会社に登録し、保育士の仕事を見つけました。本当は病児保育に携わりたかったのですが、募集がなかったので、まずは普通の保育の仕事に就きました。派遣社員でしたが気づけば社員と区別なく働いていたので、その対価はいただいた方がいいと思い、半年ほどで正社員になりました。 常々保育園・保育所は、こどもたちが自由に過ごせる、遊べる空間であるべきだと思うのですが、どうしてもマニュアルや枠のようなものがあって…。それって本当にこどものためにいいのかな…と、だんだん疑問を感じ始めました。

――それが独立のきっかけなんですね?

そうなんです。それなら自分の思い描く保育所を作ればいいんだって。そんな時、あるフランチャイズが目にとまって。そこは“どんな状況でもお子さんを預かる”というのがコンセプトなのですが、それこそ私のやりたいと思っていた保育所に近いのではないかと思いました。 普通にお子さんを預かるという形はもちろんなんですが、鎌倉という場所柄、観光客の方もたくさんいます。そんな時、数時間だけでもお子さんを預かってあげられれば、大人は大人だけの時間を過ごせるのではないかと思いました。そういう新しいスタイルの保育所を提案していきたいと考えています。

――開業に向けていろいろ作業は進めているんですか?

はい。2017年4月開業をめざし、今年の6月くらいから独立の準備を始めています。実は既に鎌倉市内にいいなと思っている候補地があるので、まず場所を来年の1月中に決定。2月には開業告知をしながら内装を整備、3月にはプレオープンしたいと思っています。 当面は、鎌倉に住む下の娘と協力して始めていきたいと思っています。今の心配ごとといえば、予算のこと。実は気持ちが先走っていたので、あんまりお金のことを考えていなくて…。貯金通帳をじっくり見なくてはと思っているところです。

次回の更新は、2017年1月20日(金)お楽しみに!

更新日:2016/12/23
文:堀家かよ 撮影:吉原朱美

独立開業への道 365日 アンケート2

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2016年12月23日

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ビジネス誌や書籍をはじめ、アカデミックな場で語られるリーダー論。 理想やビジョンを掲げただけでは、人がついてくる保証はない。 リーダーは自ら行動し続けるからこそ、共鳴が生まれ、仲間が集まる。 今回は、公務員を経て40歳でサイエンスプロデューサーとして独立された 米村でんじろう氏を取材。勝算があったわけではない、手探りからのスタート。 経験を重ねながら見えてきた経営者としての視点を、語っていただいた。 前回のストーリーはこちらから

プロフィール 米村でんじろう(サイエンスプロデューサー) 1955年、千葉県生まれ。東京学芸大学大学院理科教育専攻科修了。学校法人自由学園講師、都立高校教諭を務めたのち、科学の楽しさを広く伝える仕事を目指し、96年、サイエンスプロデューサーとして独立。同年、NHK『おれは日本のガリレオだ!!』に出演し、話題となる。98年、米村でんじろうサイエンスプロダクションを設立。科学実験の企画・開発、サイエンスショー、実験教室、研修会の企画・監修・出演、テレビ番組、雑誌の企画・監修・出演など、幅広いフィールドで活躍を続けている。

捨てるものが大きければ、入ってくるものも大きい

――起業を目指す読者へのメッセージをお願いします。

米村:僕は60歳になりましたが、40歳で独立した当時を思い返すと、本当に若かった(笑)。40代なんてまだ人生の折り返し地点、まだまだ若い! 今のあなたはそのことに気づけないかもしれませんが、その年ならもう一勝負できるんです。ある程度の経験とノウハウを重ねたこの年代の方々の独立って、例えば20代で独立する人よりも断然有利だと思います。  だから、周囲が反対したとしても、本気なら絶対にやるべき。捨てるものが大きければ、入ってくるものも大きいというのは本当です。あなたが誰かを応援したいと思っても、本気の覚悟を確認できないと信用できないでしょう。  もちろん独立したら、思うように進まないことがたくさんあります。その時は、苦しくてもあきらめずにやり続けることです。そして、八方ふさがりになって迷った時は、必ず初心に立ち帰ること。 これからも世の中はものすごいスピードで変わっていきます。最初に打ち立てた志にうそをつかず、こだわりすぎに注意して、世の中のニーズに対して柔軟に変化していけばいい。そこにお客さまやお取引先への確かな誠実さがありさえすれば、あなたの独立人生は継続していけると思います。

【リーダーの流儀とは】

スタッフ、お取引先、お客さまのために、この事業を永続的に残したい。 きちんと後進にバトンタッチすることが、自分の役割だと思っている


2016年12月22日

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ビジネス誌や書籍をはじめ、アカデミックな場で語られるリーダー論。 理想やビジョンを掲げただけでは、人がついてくる保証はない。 リーダーは自ら行動し続けるからこそ、共鳴が生まれ、仲間が集まる。 今回は、公務員を経て40歳でサイエンスプロデューサーとして独立された 米村でんじろう氏を取材。勝算があったわけではない、手探りからのスタート。 経験を重ねながら見えてきた経営者としての視点を、語っていただいた。 前回のストーリーはこちらから

プロフィール 米村でんじろう(サイエンスプロデューサー) 1955年、千葉県生まれ。東京学芸大学大学院理科教育専攻科修了。学校法人自由学園講師、都立高校教諭を務めたのち、科学の楽しさを広く伝える仕事を目指し、96年、サイエンスプロデューサーとして独立。同年、NHK『おれは日本のガリレオだ!!』に出演し、話題となる。98年、米村でんじろうサイエンスプロダクションを設立。科学実験の企画・開発、サイエンスショー、実験教室、研修会の企画・監修・出演、テレビ番組、雑誌の企画・監修・出演など、幅広いフィールドで活躍を続けている。

正直言って、人前に出て何かを演じることは今も向いていないと思う

――公務員という安定した地位を捨て、40歳でフリーランスに。勝算はあったのでしょうか。

米村:独立する前に、勝算などないですし、今のような仕事をするなんて想像もしていなかったです。ただ、実際に教師を辞めたことを宣言したら周囲が動き出し、いろんな人との関係性が変わっていきました。何かを捨てると、次への本気度が伝わるのでしょうね。 ある日、 「ヨネちゃん、君の出演も盛り込んだ新企画を出しておいたから」と、出入りしていた映像会社の知り合いから言われたんです。それが後に転機となる、NHKのドキュメンタリー番組でした。ちょうどその頃、学生の理科離れが社会問題になっていて、ユニークな科学の授業をする教師を紹介するという企画が、採用されたのです。  独立して2か月目のゴールデンウィークにその番組が放映されてすぐ、びっくりするくらいいろんな問い合わせが殺到しました。世の中に僕のような存在が珍しかったのでしょう。例えば、韓国の大手鉄鋼会社の社長から会いたいと呼ばれ、「韓国も受験社会になった。君のような子どもの好奇心を刺激する授業ができる教育者が必要だ」と熱く語られたこともありました。 ほかにも、本当にたくさん。人前に出ることなど想像もしていなかったのに、テレビ番組や講演に呼ばれる機会がどんどん増えていきました。でも、科学の面白さってただ話すよりも、実際の実験を見せたほうがわかりやすいし、お客さまも楽しいでしょ。そう考えて、今のようなスタイルのサイエンスショーを始め、少しずつ進化させていったのです。  僕の肩書は「サイエンスプロデューサー」ですが、これは、人前に出るよりも、教材や番組の企画など、裏方の役割がしたいという思いでつけた造語。正直言って人前に出て何かを演じることは今でも向いていないと思っています。ただ、フリーランスは仕事を断るのがすごく怖いのです。来月も仕事がもらえるかどうか、全くわかりませんからね。多少やりたいことと違う方向性の仕事の話が来ても、断らずにやってみたらそれがまた次の仕事、次の仕事につながっていった。 流れに逆らわず、素直に、誠実にずっと身を任せ続けてきたら、今の場所にたどり着いていたという感じでしょうか。

科学版「シルク・ドゥ・ソレイユ」を実現できるような仕組みを考案中

――米村さんのリーダーとしての考え方を教えてください。

米村:サイエンスショーは1人ではこなせません。道具や機材を製作したり、本番ではそれらを搬入しなくてはならないからです。それも全国各地で毎週1本くらい。それをスムーズにできるよう、スタッフを少しずつ増やし、法人化して、今では10人くらいの会社になりました。で、多少なりとも社会貢献できているこのビジネスモデルと組織を永続的に残したいと真剣に考え始めたのが5、6年前くらい。  自分一人でやっているのであれば辞めてもいいと思うのですが、スタッフ、お取引先などを巻き込んでしまっていますからね。だから今、僕に必要なリーダーシップって、きちんと後進にバトンタッチをすることだと思っています。  そのためには、若い人材を採用して育てなければなりません。僕も会社もスタッフも、年を取っちゃったから。事業の幅を広げ、新規雇用するための利益を増やす必要がありますが、これがなかなか儲からない。先にお話ししたとおり、うちのショーにはいろんなコストがかかります。競合が出てこないのは、きっとそのせいですよ。 ただ、アイデアレベルですが、僕は科学版の「シルク・ドゥ・ソレイユ」を実現できるよう、日々いろんなアイデアを考えています。ぜひ、多様な才能を持つ人たちに加わってもらいながら、温めているいろんなアイデアを一緒にかたちにしていきたいですね。

━ 次回更新日は、12月22日(木)です。お楽しみに! ━

2016年12月20日

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小さい頃から新聞の折り込みチラシで絵本を包んで遊ぶような少女だったという。いつかは…と思い描いた夢を実現し、2014年6月に「雑貨とラッピングのお店アジト」をオープンしたオーナーの増田智枝美さんに開業までの道のりを伺いました。 http://ameblo.jp/ajito-jyunbishitu/

──いつ頃から雑貨やラッピングに興味があったのですか?

増田:雑貨は物心ついた頃からずっと好きでした。ラッピングは、小さい頃から絵を描いたり何かをつくったりすることが大好きで、新聞の折り込みチラシで絵本を包んで遊んだりしていました。今思えばそれが原点ですね。

──そうなんですね。社会に出てすぐに雑貨の道へ進んだのですか?

増田:工業高校のデザイン科を卒業後、カーテンショップを母体とするインテリア雑貨店で働き始めました。キッチン雑貨やタオル・バス用品など幅広く扱っているお店でした。店長は、「将来、自分のお店を持ちたいんです」と言う私に接客やディスプレーはもちろん、店の成り立ちや流通の仕組み、仕入れのノウハウまでいろいろ教えてくれました。 初めてギフトショーに連れて行ってもらったときは、世に出る前の雑貨がこんなにたくさん!と興奮したことを覚えています。あのときの店長との出会いがなければ、今の私はないかもしれません。

結婚・出産・離婚
人生の転機を乗り越え、再び雑貨の道へ

──出産で一度退職して、どれくらいで仕事へ復帰されたのですか?

増田:こどもが1歳半のときに離婚をしたので、生活のために働く必要がありました。 でも、できることなら雑貨屋さんで働きたい…。勤務可能エリアのインテリア雑貨店を調べて、片っ端から「スタッフ募集していませんか?」と電話を掛けました。 でも、そう簡単にはみつからず、ファミリーレストランで働いたりもしました。そうして何カ月後かに電話を掛けた先のお店から「まだお仕事を探していますか?」と連絡がきたんです。電話を切った後、履歴書を書いてその足ですぐ面接へ飛んで行きましたよ。

──これはもう縁としかいいようがありませんね。

増田:そうなんです。2店舗目に勤めたのはキッチン雑貨店だったのですが、店長のディスプレーのセンスが抜群で、毎日が勉強でした。その後、3店舗目となる勤め先はロングライフデザインをコンセプトとしたお店で、このお店では定番商品の販売が中心。 季節によって商品が入れ替わるわけではないので、どういう切り口で見せるか、あの手この手でディスプレーを変えて、いつも違った印象を持ってもらえるように工夫しました。

──今のご主人との出会いはそのころですか?

増田:知り合ったのは最初のお店で働いていた頃です。雑貨メーカーの営業マンでした。2店舗目で働いているときに再会して、まずは文通からスタートして(笑)お付き合いすることになりました。

ご主人の強力なサポートで
夢にまでみた雑貨店をオープン!

──ご主人は開業についてどう思っていらしたんでしょう?

増田:私が自分のお店をやりたいと言ったとき「雑貨のために生まれてきたような人だから絶対にやったほうがいいよ!」と、最初から応援してくれました。こどもが小学校へ入学するタイミングに合わせて自宅兼店舗を建てようと、逆算して開業までの計画を立て始めたんです。 商売をする立地と子育てをする住環境のバランスを考え、1年以上かけて土地を探しました。この場所は、初めて訪れたときに、それはもう直感としか言いようがないくらいパッとイメージが湧いて即決だったんですよ。

──開業準備は順調に進みましたか?

増田:建物の角を利用したユニークな形の看板は、インターネットで偶然見つけて一目惚れしたデザインです。その看板は北海道にあるレストランのものだったので、レストランに電話をして事情を話し、看板の制作会社を教えてもらいました。 お店の宣伝や日々の情報発信は、ブログで行っています。でも、パソコンを使わない世代には届かない。どうしようかと考え“アジト新聞”という手作り新聞を、月に1枚書いて店頭に置くことにしたんです。 すると地元の年配の方々にも「読んだわよ~」と声を掛けてもらえるようになったんです。毎号読んでくださるお客さまもいて本当に嬉しいです。

2カ月先まで予約がいっぱいという
大人気のラッピング教室

──アジトといえば、ラッピング教室も大人気ですよね?

増田:ありがとうございます。現役の雑貨屋スタッフが、マンツーマンで、長年の知識や経験を出し惜しみなく教えてくれるという部分が支持されているのかもしれません。生徒さんは、趣味の方から仕事でラッピングスキルが必要な方までさまざまです。 一緒に手を動かしながらコツやポイントを伝えています。可愛いラッピングでプレゼントをもらうと嬉しいですよね!

──最後に。これからのことを聞かせてください。

増田:まずはこの叶った夢を続けること。それがお世話になった人や、応援してくれる人への恩返しになると思っています。オープンして3年目、だんだんと次の目標も見えてきました。今はそのための準備をしているところです。

取材・文・撮影/堀家かよ 写真提供:増田智枝美

2016年12月19日

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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズンがスタート。開業までのプロセスを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリーを公開!
林原雄大(仮名)さんプロフィール 大学卒業後、車・旅行ガイドなどを刊行する出版社で編集、営業などに従事。現在57歳で、2年後に定年を迎えるが、2人のこどもがまだ中学生なので、現在勤務している会社の嘱託などを視野に入れつつも、起業を優先に検討。これまでの仕事関係の経験を生かし、カーリペアのフランチャイズを中心に情報収集をしている。

――35年以上、サラリーマン生活を送られているとのことですが、これまでの経歴を教えてください。

社会人になってアパレル関係の仕事に就職したのですが、1年ぐらいで転職して、車・旅行ガイドなどを刊行している出版社で編集や営業をやってきました。

――長年サラリーマン生活をされていますが、どういったきっかけで独立を目指そうと思ったのでしょうか?

来年58歳になるのですが、そろそろ定年を考えなくてはいけない年齢なんですよね。私は結婚が遅かったので、上の子は中学3年生、下の子が中学1年生なんです。少なくても下の子が成人するまで生活を支えなくてはいけないなとは思っているんです。 もちろん今勤めている会社の嘱託という考えもあるのですが、現時点ではあまり積極的ではありません。書店に並ぶような市販の本が好調の会社でもなく、あまり面白みもないので、どうせなら独立してみようかなと思いついたんです。

――どんな業種を考えているのですか?

仕事で車関係の本を作っていたこともありますが、一方で趣味でも車いじりをやっていたので、車のメンテナンスやリペアなどフランチャイズのアフターマーケットを考えています。

――定年をきっかけに独立を考えているとのことですが、元々独立志向はあったのでしょうか?

若いころから意外とそういう思いはありました。まあ、サラリーマンというのは、収入が安定しているという部分では楽なので、なかなか踏み切るまではいかなかったのですが、ずっと心のどこかには“会社員じゃないな”という気持ちはありましたね。

――独立に向けて準備しておこうと思っていることはありますか?

従兄が2人いるのですが、どちらも車関係の仕事をしているんです。1人はディーラー系で、もう1人はシートの張り替えなどの会社をやっているので、今後の自動車業界を含め、しっかりとヒアリングしていこうと思っています。 正直、現在の若い子って車に関してあまり興味を持っている人が少ないので、この先どうなっていくかを見極めることは大事だと思っています。良い話ってよく聞くのですが、失敗例はあまり出てこないので、そういう部分もしっかり情報収集していきたいですね。 「いざ開業しました、でもうまくいきませんでした」ではダメなので、フランチャイズ本部との話の中で、どういったサポートが受けられるのか、具体的なイメージなどを見極めていきたいと思っています。

――情報収集をされているなかで、現時点でご自身としてはどの程度の手応えを感じているのでしょうか?

収入的な面では、思い描いていたイメージとはそれほどかけ離れていないのかなという印象ですね。また仕事の面でも、実際体験させてもらったなかでは、好きになれそうだなと感じています。 不安半分、期待半分といったところでしょうか。

――フランチャイズを検討している一番の理由はなんでしょうか?

手軽というと表現は悪いですが、技術から学べるということもありますね。

――現時点で開業に向けて一番注意している部分はありますか?

アフターマーケットがどのぐらい成熟しているかというのは重要だと思うので、従兄にその部分はしっかり確認したいですね。リペアだけじゃなく、違う可能性も見つけられればいいと思っています。

――今回の開業への思いはご家族には話されているのでしょうか?

まだ話してはいません。いま上の子は中学3年生で受験も控えていますので、中途半端に話すとトラブルの種になってしまうので、もう少ししっかりと業界のことを調べてから、いいタイミングを見計らって話をしたいと思います。

次回の更新は、2017年1月17日(火)お楽しみに!

更新日:2016/12/16
文:磯部正和 撮影:吉原朱美

独立開業への道 365日 アンケート2

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2016年12月16日

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ビジネス誌や書籍をはじめ、アカデミックな場で語られるリーダー論。 理想やビジョンを掲げただけでは、人がついてくる保証はない。 リーダーは自ら行動し続けるからこそ、共鳴が生まれ、仲間が集まる。 今回は、公務員を経て40歳でサイエンスプロデューサーとして独立された 米村でんじろう氏を取材。勝算があったわけではない、手探りからのスタート。 経験を重ねながら見えてきた経営者としての視点を、語っていただいた。

プロフィール 米村でんじろう(サイエンスプロデューサー) 1955年、千葉県生まれ。東京学芸大学大学院理科教育専攻科修了。学校法人自由学園講師、都立高校教諭を務めたのち、科学の楽しさを広く伝える仕事を目指し、96年、サイエンスプロデューサーとして独立。同年、NHK『おれは日本のガリレオだ!!』に出演し、話題となる。98年、米村でんじろうサイエンスプロダクションを設立。科学実験の企画・開発、サイエンスショー、実験教室、研修会の企画・監修・出演、テレビ番組、雑誌の企画・監修・出演など、幅広いフィールドで活躍を続けている。

遊んだ野山と自然が、科学への興味を醸成した

――サイエンスプロデューサーとして活躍される米村さんですが、昔から理科が好きだったのですか。

米村:昭和30年代、僕が少年時代をすごした千葉県・市原市は何もない山奥の農村で、その頃の自宅は藁ぶき屋根、風呂をわかすのは薪でした。しかも、10㎞くらい歩かないと買い物もできない。でも今では道路が整備され、ゴルフ場も増え、小湊鉄道を見学する鉄道ファンが訪れるなど、けっこうにぎやかな場所になっています。  当時は小川や森林が周りにたくさんあって、魚や虫をとったり、秋は山菜とりをしたり、道に電灯がないから夜空もすごくきれいでね。手先が器用なほうでしたから、遊び道具も自分でつくっていました。天体望遠鏡とか木の枝にゴムを張ったパチンコとか、次第にエスカレートしてケガをすることもありました。その時の傷あとが、今も左手首に残っています(笑)。  そうやって野山で遊びながら、自然科学、理科にどんどん興味がわいていったんですね。それらについて教えてくれるのは、学校の理科の授業とNHKの実験番組。成績は、理科だけは5段階評価の5か4でしたが、ほかの教科はアヒル(2)ばかりでしたよ。

――大学は3浪の末、東京学芸大学に進学されています。

米村:当時の日本は高度経済成長の波に乗り、大学進学率が急上昇していました。両親からも「国公立なら」と言われて国立の理工系を目指していましたが、3浪(笑)。その間、工場で働くなど紆余曲折を経ながらも一人自宅で勉強を続けていました。結果、教師になる気もないのに、東京学芸大学の理科教育科へ進学。何とか滑り込みで、受かることができました。  2年までの教養課程はついていけましたが、僕が専攻していた物理学は3年以降、相対性理論や量子学など複雑で専門的になります。得意だった物理が全くわからず、どんどん落ちこぼれていきました。でも、卒業はしたいので研究室に入れてもらって、そこで、80年代初頭にやっと普及し始めたパソコンにはまるのです。  お金はないけど時間だけはあるから、毎日、朝から晩まで研究室のパソコンをいじっていました。そうすると当然研究室の誰よりも使えるようになって、物理現象のシミュレーションをするプログラムをつくったりするように。次第に先生たちから「これをプログラミングしてほしい」と頼まれるようになって、「自分もやればできるんだ」と思えるようになりました。落ちこぼれの自分が自信を取り戻せたという意味で、パソコンとの出合いは大きかったです。

安定した公務員生活を捨て、40歳でフリーランス独立

――その後、研究者を目指して、大学院に進学されています。

米村:はい。もうちょっと研究を続けたいという気持ちも多少ありましたけど、動機の半分以上が社会に出るのが嫌だという後ろ向きの理由でした(笑)。そして大学院を修了した後は、ドクターコースのある大学院を受けては落ち、受けては落ちで、あっという間に3年の歳月が流れました。  この間、自由学園という学校で講師をしていたのですが、生徒といろんな実験を自由に行った経験から、「科学の楽しさを生徒に伝える理科の先生になるのも悪くない」と考えるように。それで一念発起して教員採用試験を受け、都立高校の物理の新人教師に。29歳でやっと新社会人ですよ(笑)。 配属されたのは、郊外の都立高校でした。多感な年ごろゆえ、中には無断の遅刻や早退は当たり前といった生徒もいるわけです。担任していた生徒がちょっとした悪さをして、強面の体育教師から、 「お前の担任は誰だ! 昼休みに体育教官室に来いと言っておけ」って僕のほうが呼び出されることも(笑)。  そんな生徒たちにどうやって授業に興味を持ってもらうか考え、とりあえず面白いことをやって興味を引くことにしました。みんなに手をつながせて静電気で軽く感電させてみたり、自然観察で外に連れ出して、野山の草花や椎の実をビーカーで茹でて食べさせてみたり。物理も自然科学ですからね。とにかく思いつくことからやってみました。最初は全然話を聞いていなかった生徒が感電して面白がったり、摘んできた野草が食べられるのか真剣に調べたり、自ら考えた授業に反応があることに、大きなやりがいを感じました。  その高校で8年、その後、別の進学校に異動して3年。11年も同じことをやっていると、自分の限界が見えてくる。生徒のことを考え、好き勝手をしながらも一生懸命やってきたつもりだったけど、自分は一般的に言う、いい教師にはなれないんじゃないかと。  その頃、教師として教壇に立つ傍ら、学校側の要請もあって学外の授業研究会に所属し、NHKの実験番組の助手や科学館の手伝いもしていたんです。そうやって外の世界も見ていたこともあって 「教師以外で科学にかかわる仕事ができないものか」という願望が徐々に膨らんでいったのです。 40歳になる前年度、3学期の終業式直後に、思い切って校長先生に「辞めます」と伝えたんです。すると、「東京都は今、教師余りですから。辞めてくれたら万々歳」くらいの調子で受理された(笑)。 新年度の頭に教師の離着任式があったのですが、当時の教え子から僕への贈る言葉が秀逸でした。 「米村先生は教師に向いていないとご自分でおっしゃっていましたが、それは正解です。ご自分の好きな道に進まれるとのこと。そっちのほうが向いていると思います」と。その時、あぁ僕も洞察力のあるいい生徒を育てたなあと思いましたよ(笑)。

━ 次回更新日は、12月20日(火)です。お楽しみに! ━

2016年12月15日

福吉様メイク姿ご確認用(247トリミングPH)

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2児の母でありながら、マーケティングリサーチコンサルタントとメイクセラピストという肩書きを持ち、個人事業主として働いている福吉彩子さん(38歳)。以前は大手外資系メーカーで管理職まで務めましたが、育児との兼ね合いで、15年働いていた会社を退職し現在の道に進みました。仕事と育児という、いつの時代になっても両立することが難しいと言われる問題に対して、どんなビジョンを持って答えを出していったのでしょうか。

【福吉彩子さん・プロフィール】 大学卒業後、大手外資系メーカーに入社。産休・育休を取得しながらも課長職まで勤める。2016年、おこさんの成長に合わせた働き方を選び個人事業主に。現在はキャリアを生かしたマーケティングリサーチコンサルタントと、ご自身の興味のある美容関係でメイクセラピストとして活躍中。 http://s.ameblo.jp/ayako-lala/ https://www.instagram.com/fuku44aya/

■こどもの様子が変!?母親として下した大きな決断!

―2016年から個人事業主として新しい道に進まれたとのことですが、独立するまではどんな仕事をされていたのでしょうか?

福吉:前社に15年間在籍していたのですが、夫がMBA取得のためにアメリカ留学したときに同行したり、出産も経験したりして、合計で3年ぐらいは休職をしています。会社では主にマーケティングリサーチの仕事をしていていました。

―課長職まで進んだとお聞きしましたが、そこからどういうきっかけで会社を辞めようと思ったのでしょうか?

福吉:一番のきっかけはこどもですね。当時長男が5歳で保育園の年長だったのですが、5年間通い続けている保育園に「行きたくない」って言い出して暴れたり、機嫌が悪くなったりすることが多くなっていったんです。

―何か心当たりがあったのですか?

福吉:ある日、運動会があったのですが、息子がすごく嫌がって。理由を聞くと、私の前で失敗するのを見せたくないって言うんですね。時を同じくして、会社のチームメンバーから、「福吉さんに見せる資料は、完璧なものにしてからじゃないといけないと思っていた」と告白されたことがあって。 もともと私には完璧主義的なところがあるという自覚はあったのですが、そういったことを自然とこどもにもチームにも押し付けていたんでしょうね。それで「このままじゃまずい。もっとちゃんとこどもに向き合わなければ」って思ったんです。まだ小学生になる前だったからいいけれど、もっと年齢が上だったら確実にグレてしまうという危機感は強かったです。

―そこからすぐに決断されたんですか?

福吉:いや、決断するまで1年以上、時間をかけてじっくり考えました。会社には15年も在籍させていただきましたし、それなりに大きな会社の管理職までやらせてもらったので、やりがいも誇りもありましたから、そういったものを手放すのは大きな決断でした。

■大手企業を退職!進む道は2足のワラジ!

―会社を退職してすぐに現在の仕事に就いたのでしょうか?

福吉:すぐにそういう発想になったのではなく、夫が立ち上げた会社がコンサルティング系の仕事をしていたので、そこでマーケティングリサーチを手伝うつもりで退職したんです。

―それが現在のマーケティングリサーチコンサルタントの仕事に結びついているんですね。メイクセラピストはどういった経緯で?

福吉:メイクのきっかけは、会社を辞める1年ぐらい前に、ブログを通じて気になっているビューティーコンサルタントの方のメイクアップ講座を受けてみたことから始まっていますね。メイクというよりもその方に会ってみたいというのが最初の動機だったのですが…。その講座を受講したとき、婚活のために地方からやって来たという方がいらしたのですが、受講後、メイクによってとても素敵な女性になったんです。あの方はもしかしたら、いい出会いがあって人生が変わるかもしれない…と思ったら、目の前にいる人に直接影響を与えることができて、さらに私の手で、よりその人の魅力を引き出すことができたと実感できたら素晴らしいなって感じたんです。それからメイクの学校に通おうと思ったんですね。

―その時点で、将来はメイクのお仕事をしようと思っていたのですか?

福吉:いえ。そんなつもりは全くなかったんです。

―ではなぜ、メイクの学校に?

福吉:管理職になるまでは、結構自分で色いろいろと取り仕切って、何でもできるんだと思っていたんです。でも管理職になってなかなか上手く物事が進まなくなって「なんて小さな存在なんだ」って気づかされたんです。自分がまったく認められていないんじゃないかという焦りから、何かしなくては…という逃げに近い感覚だったと思います。なので、これが仕事になるなんて気持ちは全くなかったんです。

―でもそれが、現在では肩書きになっていますよね。

福吉:会社を辞めた後も学校には通っていて、メイクを実践する課題があったんですね。それで練習に付き合ってくれる人にメイクをしたら、喜んでもらえて、SNSにあげたりしてくれたんです。そうしたら「やってほしい」って言う人がそれなりにいて、徐々に広がっていったんです。

■個人事業主としての魅力!子どものライフステージに合わせて働き方を変えられる!

―実際、個人事業主としてマーケティングリサーチコンサルタントとメイクセラピストの仕事を本格的に開始したのはいつからなのですか?

福吉:今年に入ってからですね。

―会社員と個人事業主との違いはどういったところにあると思いますか?

福吉:何に価値を置くかということだと思います。会社員だからこそできる規模の仕事もあります。でも私は、自分のやりたい部分をフォーカスして仕事をしたかったので、今の仕事の方が会社にいた時より自分の力を発揮できるのかなって思っています。

―母親という視点からみるとどうですか?

福吉:もともと私がいた会社は、育児にすごく理解がある会社だったのですが、私は自らの意志で時短勤務もしていませんでしたし、もし時短勤務していたとしてもこどもと一緒にいる実質的な時間は、やはり働いている以上、長くはないんです。でもいま、私が家にいる時間が長くなってこどもの気持ちは安定していると感じますね。 あとは、こどものライフステージに合わせて働き方を変えられるというのも個人事業主の魅力かなと思います。赤ちゃんの頃、幼稚園、小学生とこどもが成長していくにつれ、接する時間も接し方も違ってくる。当然、仕事の仕方も変わってくると思うんです。もちろん会社員でもできるとは思いますが、個人事業主の方が、よりその部分はコントロールしやすいと思います。

■行動することを恐れない。自分の強みを知ることにより道が開ける!

子育てと仕事の両立で悩んでいる母親はとても多いと思われます。そんな中、福吉さんは大手企業を退職して、個人事業主という道を選びました。その決断に至るまでの葛藤は非常に大きなものだったでしょう。しかし福吉さんは「行動することを恐れないこと」と自分に言い聞かせたといいます。 「こどもが小さいとか、夫の収入が少ないとか、色々と考えてしまうと思いますが、変わりたいという気持ちが強いなら『何を始めたらいいんだろう』『何を変えたらいいんだろう』と思考を巡らせること。何かを得るためには何かを手放さなくてはいけない。そんな割り切りが必要だと思います」。 また「自分ができると思っていることと、人の評価って違うことが多いんです」と語ると「自分だと当たり前にできていることでも、人からみたら当たり前じゃないことってあるんです。それは自分の武器になりますよね。しっかり自分の強みはなんなのかということを意識して考える思考を持つことは大切だと思います」とアドバイスしてくれました。 「常に、5年後どうなっていたいかを考えて行動しています」と語った福吉さん。現在、マーケティングリサーチコンサルタントとメイクセラピストという肩書きを持っていますが「パラレルキャリア、どれだけ色々な肩書きを持つかということも、個人で仕事を続けていくうえでは重要だと思います」と先を見据える。 常に自分の未来を想像し、アジャストしていくこと、そして勇気を持って踏み出すこと…そんな心がけが、進む道に光を照らすのかもしれません。

取材・文・撮影/磯部 正和

2016年12月12日

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「独立・開業」を目標に実際に起業活動を進めている方の年間密着取材、第2シーズンがスタート。開業までのプロセスを中心に、苦労話や失敗談まで、リアルな姿を追いかけるドキュメンタリーを公開!
山本さんプロフィール 大学卒業後、学生時代にアルバイトをしていた大手の学習塾に入社。退職後、フランチャイズの学習塾を開業。雑誌の取材を受けるなど経営は順調だったものの、理想とする塾のスタイルと違うと感じ塾を閉める。その後、大手の個別指導塾に入社し、個別指導の運営方法などを勉強。現在は退職し、個人の学習塾開業に向けて準備を進めている。場所は都内または神奈川県内を予定。

――もともとこどもたちに勉強を教えることが好きだったんですか?学校の先生ではなく、学習塾の先生になられた理由はなんでしょう?

大学時代から学習塾でアルバイトをしていたのがきっかけで、都内にある大手の学習塾に入社しました。比較的勉強も好きですし、教えることも好きでした。学校の先生は人に教えることが仕事ですが、今思えば、僕の場合、人に教えることと同時に経営にも興味があったのだと思います。 ここで働くうちに“いつか独立して自分の塾を経営したい”と思いはじめました。

――それでフランチャイズの学習塾を開業したんですね?

フランチャイズの本部を選ぶときって、普通はいろいろな本部をまわって話を聞いて検討するんじゃないかと思うんです…。でも僕の場合は、1件目の説明会で話を聞いて、“パソコンを使って指導するタイプの塾なら、指導の質のばらつきをなくせそうだし、資金的にもやっていけそうだな”と思って、すぐそこに決めちゃったんです(笑)。 確かその説明会後3カ月くらいで開業していたと思います。その学習塾はパソコンを使い、ゲーム感覚で授業をすすめるスタイル。 60名くらいの生徒をかかえ、生徒・保護者の面談や講師の育成、シフト作成など、教室運営の仕事が中心でした。でも時間が経つにつれて、“人が人を教える”というスタイルに立ち戻りたいと思うようになったんです。

――それが2回目の転職ですね。でもすぐ独立に向けて動きはじめたわけですよね?ご両親の反応はいかがでしたか?

そうですね。“人対人”の塾を運営するためには、もう少し経験が必要だなと思って大手個別指導の学習塾に入りました。今度はフランチャイズではなく、個人経営で理想の学習塾を作るつもりです。 過去にフランチャイズで開業しているので、経営者としての経験値もあり、講師の面接・採用や資金運用についての知識もあるので、初めて独立するときより少しは不安が少ないかと思います。家族も“好きなことをすればいい。がんばってね”と応援してくれていますし。

――年末から来年にかけてどんな準備を予定していますか?また、今の不安要素といえばどんなことがありますか?

まずは学習塾をどこで運営するか…講師が集めやすい都内やこどもが通いやすい住宅街にするか迷っています。都内や自分の地元周辺でも探しています。近くに小中学校や高校が2、3校あって、清潔感のあるキレイなビル。広さは20坪程度と考えています。今のところ、12月中に開業する場所を決定、来年1月には資金の借り入れや講師の募集と面接、2月には内装工事をして3月開業という予定です。 塾は春と夏が生徒募集時期ですし。心配といえば、やはり知名度です。無名の塾でどれくらい集客できるんだろう…というのが一番の不安要素です。今までは大手やフランチャイズの学習塾で、誰でも知っている名前でしたから。 今考えている集客方法は、学校の近くなどでピンポイントにちらし配りをしようかと考えているのですが、まだまだほかの方法も考えてみたいと思っています。 まずは、条件に合う物件を見つけて早くスタートを切りたいですね。もし年内にいい物件に出合えなければ、少し延期して夏前の開業も視野に入れています。

次回の更新は、2017年1月6日(金)お楽しみに!

更新日:2016/12/9
文:堀家かよ 撮影:中村公泰

独立開業への道 365日 アンケート2

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NPO法人オフィスリブスタイル/東京都大田区

代表 奥山京子さん(34歳)

 1979年、愛知県生まれ。幼少の頃から音楽に慣れ親しみ、音楽大学では声楽を学ぶ。卒業後、専門学校にてさらに音楽療法を学び、在学中の2006年に、高齢者施設などに音楽セラピストを派遣するNPO法人「オフィスリブスタイル」を設立。現場活動とともに、音楽セラピスト統括責任者として、プログラムの作成にもあたる。現在、都内公立小中学校の特別支援クラスや、成人更生施設において同療法の講師を務めるなど、その活動領域は広がりをみせている。

音大は出たけれど……。奥山京子が音楽療法の道に進んだのは、「とにかく仕事をして稼ぎたかった」からだ。専門学校に入り直し、音楽療法士の資格を取得して、「オフィスリブスタイル」を設立したのが2006年。スタッフ3名で始めた、26歳の起業だった。 高齢者施設のお年寄りと一緒に懐メロを歌ったり、昔話をしたりする――すると、普段は孤独で無口な老人たちの顔に笑みがこぼれ、驚くほど饒舌になる。奥山らが実践する音楽療法の評判は口コミで広がり、事業は順調に拡大を見せた。現在、同法人にはセラピストやアシスタントなど、30名ほどが在籍。高齢者に加え小中学校、障害児の放課後クラブ、精神科、成人更生施設を主領域に活動するほか、東京・大田区にあるオフィスでは、楽器で「遊ぶ」音楽教室、障害児のための「音楽療法教室」を開いている。自らを「野心家かも」と笑う彼女の当面の目標は、「音楽療法の存在と意義を社会に広めること」。そして、その視線の先には、今日まで常に人生の支柱になってきた音楽を超越した、ある構想も芽生えている。「活動を通じて自分自身が変わってきた」と言わしめるものとは、いったい何なのか。

心身を癒し、脳を活性化させる音楽の力で、「老い」や「心の病」をケア。

━ 子供の頃からずっと音楽を?

 はい。自然に続けてきて、気づいたら音大に入っていた、という感じですね。ところが卒業してみると、仕事がない。そもそも音大生って就職にはあまり縁のない人たちなんですけど(笑)、私はちゃんと働きたかった。さりとて、音楽からは離れたくないなぁと悩んでいる頃に、ちょうど日本でも少しずつ広がり始めていた音楽療法のことを知ったのです。

━ そもそも、音楽療法とはどのようなものなんでしょう。

 昔よく聴いた曲が流れたら、当時の思い出がよみがえったという経験、ありませんか?例えば、今朝のご飯のメニューは忘れちゃうお年寄りが、若い頃に親しんだ歌をちゃんと歌えたりする。つまり、心身を癒し、脳に刺激を与え、記憶を喚起するといった音楽の持つ効力を、医療や介護などの現場で計画的に活用するのが音楽療法です。 ただし、私たちの提供するプログラムは、歌ったり楽器を演奏したりするだけではありません。何より重視しているのは、会話。いろんな話をし、時にはクイズなんかも織り交ぜながら、自然に音楽に入っていけるように工夫しています。ちなみに中身はスタッフの知恵も借りながら、すべてオリジナルで作成しています。

━ 最初からNPOとして活動するには、苦労もあったかと……。

 一人では無理なので、まず学校の同級生に「こんな活動をやらないか」と声をかけたんですよ。ところが、みんな「いいね」と言うものの、手伝ってはくれない。私に人徳がなかったのかも(笑)。そこでネットで広く募集して、活動に共感してくれたスタッフを、まずは2人確保してスタートしたんです。 とはいえ、音楽療法そのものに対する認識が浅いなかでの営業は難しく、口で説明しても伝わらないので、施設には「とにかく一度やらせてください」とお願いして、仕事を取ったのが最初。そうやって1カ所で始めたら、自然に評判が立ってつながっていったのです。一つ一つの現場を大事にすれば機会は得られるということを、この時に学びましたね。

━ 高齢者施設以外にも、活動の幅を広げているようですが。

 今、力を入れているのが、ホームレスの自立支援施設での取り組みです。そこでは180名ほどの男性が、自立に向けて訓練を受けているのですが、「授業」では、例えばみんなでバイオリンを弾いたりするんです。おじさんたちのバイオリン演奏、一見の価値ありですよ(笑)。 もちろんここでも、音楽だけではなく、作業をしてもらったり、世の中にどんな仕事があるのか話をしてみたり、社会復帰に向けたプログラムも取り入れています。更生した方から「頑張って生き抜きたい」なんていうお手紙をもらうと、本当にやりがいを感じますね。

━ 今後の目標は何ですか?

 ホームレスの自立支援に携わるなか、彼らと向き合ってみて、私自身も変わりました。音楽は、社会的弱者と信頼関係をつくるための一つのツール。その先に様々な支援の仕方があるんだ、ということに気づかされたのです。 この領域は、高齢者や障害者などといったほかの福祉分野と比べると、公的支援がとても少ない。だから、私たちが新しい支援のかたちをつくらねばと、考え始めたのです。ようやくソーシャルベンチャーらしくなってきたかな(笑)。 実は施設を出ても、7割が路上生活に戻ってしまうという現実があります。そうならないよう、卒業者が集える場をつくり、うちのスタッフが日常的にケアできるような仕組みを構築したいのです。「前例がない」と動かない行政に、今、掛け合っているところなんですよ。

取材・文/南山武志 撮影/押山智良 構成/内田丘子

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ご自身が手掛けたアロマオイルの香りが漂う室内に迎え入れてくれた岩田さん。もともと独立志向が強く29歳で念願のインテリアショップのオープンを果たし、現在は複数の事業を展開しています。その一方で、更に新たな展開に取り組んでいる真最中ということ。その柔軟な事業転換の秘訣を聞かせていただきました。

プロフィール 1974年生まれ、岐阜県出身。高校卒業後、名古屋のガソリンスタンドに就職し、21歳で上京。アパレルを中心に様々な業種を経験し、有名家具メーカーのマーチャンダイザーなどを経て、03年にインテリアショップ『MONDE』を目黒にオープン。その後はインテリアコーディネート事業や表参道と横浜にマッサージサロン『SHAMBALLA』をオープンするなど、異業種に参加。また、200人の会員が登録するレンタルサロン・シェアスペース『SHAMBALLA-SPACE』も展開。

「甘かったです。全て学んだと思い込んでいました」初の独立でぶつかった壁。その時導いてくれたのは

――29歳の時に開業し、最初のインテリアショップを構えたということですが、それまではどんなお仕事をされていたんですか?

岩田:実家が岐阜県でガソリンスタンドを経営していたんです。それで高校を出て名古屋のガソリンスタンドに就職したのが最初ですね。でも興味が持てなくて、結局そこを辞めたんです。 古着がすごい好きだから、古着屋を開業しようかな…と思っていると、下北沢にある古着屋さんが古着屋経営の講習会をやっていることを知りました。

――それをきっかけに上京したんですね。

岩田:仕入れのノウハウや海外での買い付けのやり方など、半年間教わり、21歳からは主にアパレル業界で働いていてました。そして、25歳くらいのときにアルバイトでアジアン家具のショップに勤めたんです。 そこはアルバイトながらもディスプレーや仕入れ、買い付けまで任されて、すごく勉強になりました。社員になってからは海外にも買い付けに行くこともあり、勤めた2年間でちゃんとしたノウハウを身に着けました。

――そこから独立につながるわけですね。

岩田:実際には次のショップですね。バイヤーとして転職し、そこではマーチャンダイザーとして経営やお金のことを学びました。もともと独立願望は強かったので、そこで急に具体化しました。

――開業資金はどのように?

岩田:貯金500万円と親に800万円借りて、目黒の家具屋が集まるインテリアストリートにアジアン家具のショップをオープンしました。 でも、甘かったです。金銭的な計算が特に。大手家具店とはコンテナの本数も違うし、レートや国の違い…完全に知識不足でした。働いていた時は「全て学んだ」と思い込んでいたんですが、ガーンとやられましたね。

スタッフの給料を払えなくなりそうになるなど苦労した時期も。独立5年目で次の事業をスタート

――最初はスムーズにいかなかったんですね。

岩田:僕が独立した03年ごろはアジアン家具が流行っていたんです。でも4年目くらいには流行はすたれていきました。 独立する前は休日にインテリアショップを巡って流行を自然に知ることができていたんですけど、経営しているとそういう時間もなくなり、行けなくなる。そうなると仕入れてきたものが流行遅れになったりするんです。

――経営に困ったことは?

岩田:売り上げにすごく波があって、家具だからスペースを取るので倉庫の賃料も高いんですよ。スタッフの給料が払えなくなりそうなとき借金をして、給料を払った時もありました。その3カ月間は困りましたね。

――そこからどう立て直したんですか?

岩田:ショップでただ小売りをするだけじゃだめだったんで、家具のリースや、スタジオとしてショップを貸したり。その中で内装コーディネートの仕事が増えていったんです。あと、マッサージ事業も始めました。 「なんで家具屋さんがマッサージ事業を始めたの?」とよく聞かれるんですけど、僕自身、海外に行くたびにマッサージに行っては、「こういう内装、いいな」「自分の家具でできたらいいな」と思っていました。もともと、マッサージサロンを開きたいというお客さんも、ショップによく来ていて、コーディネートの依頼を受けることもあったので、自分としては自然な流れなんです。 タイに買い付けに行った時に、マッサージ学校にも通って資格を取っていたので、「自分のお店の中でやっちゃおう」と。 そして最初はお店の中でマッサージサロンを開業しました。08年ごろ、独立してから5年目ですね。スタッフはタイ人のマッサージ師を雇いました。

選択と集中。近隣異業種という道。「常にアンテナを張って、次の可能性を探しています」

――お話を伺う前は、インテリアショップからマッサージ業と異業種に参入したと思っていたんですが、繋がりがあったんですね。

岩田:近隣異業種といいますか、アジアン家具のお店には マッサージのお店を経営している人が多く来ていたんです。ちょうどその頃インテリアコーディネートの仕事の比重も増えてきて、家具の小売りよりも売り上げが大きくなっていました。 インテリアコーディネートの仕事もリピーターやオーダーが定期的に来るようになり、8年目に「一回物販の方は閉めよう」とショップの方は閉めて、マッサージ事業とインテリアコーディネート事業だけ残しました。

――思い切った決断ですね。

岩田:8年経営していましたが、「次にアジアン家具のブームがくるのはいつかな?」と考えると、しばらくは来ないだろうと。親に借りていたお金もその間に返しましたし、インテリアコーディネートの仕事だけで、生活ができるようになっていたので、早めに手を引くことにしました。 常に次の可能性を考えていました。1つのものがうまくいかなくなっても、次に何ができるか? 今も常にアンテナを張っていますね。

――ちなみにインテリアコーディネーターの仕事というのは具体的にはどのようなことをするのですか?

岩田:スケルトンの物件(内装がない状態)の設計から入る時もありますし、ハード面が終わってから小物や棚というソフト面を手がけることもあります。施工費の15%~25%がデザイン料として入る形です。 もともと内装を作るのが趣味なんですよ。このお店もそうですし、このカウンターもハンガーラックも(写真1枚目)手作りです。自宅もリノベーションしまくりです(笑)。お店も自宅も、ある程度いじってもいいよ、という物件しか選ばないですね。

無借金経営で、次の事業へ「貯金のコツは給料をもらったら別の口座に入れることです(笑)

――現在手がけている事業はマッサージサロンとインテリアコーディネートっていうことですか?

岩田:12年にオープンしたマッサージサロン『SHAMBALLA』の表参道店と横浜店。メーンはインテリアコーディネートです。やっぱり自分のモチベーションが上がるのはインテリアの仕事。壁にペンキを塗ったりしているのが楽しくて(笑)。 自分の作品をいかに見てもらうか、それでお客さんをつかむには?と考えています。数字のことは後からついてくると思って。

――『SHAMBALLA』横浜店はレンタルサロンとしても営業しているんですよね。

岩田:お店は24時間あるのに、お客さんが入っていない時間がもったいないなと思ったんです。そこでスペースを時間貸しすることにしました。エステティシャンやネイリストで技術は持っていても、お店を持っていない人に場所を提供しています。レンタルは会員制で。登録している会員の方は今200人くらいいますよ。実は、今日この後も会員さんの予約が入ってるんです。

――お話を聞いていて感じたのですが、岩田さんの経営スタイルはすごく柔軟ですよね。

岩田:インテリアショップを経営していた時は「どう生き残るか」をずっと考えていました。挫折も何度もあるんですけど、自分では挫折と感じていなくて、「お勉強だったな」と。経営資金も金融機関の融資は受けていなくて、開業時に親から借りたときと、先ほどお話したインテリアショップ経営時代の経営難だった3カ月以外は全て自己資金です。

――独立のルーツは?

岩田:独立願望が強いのは家系かもしれませんね。実家のガソリンスタンドは、あまり経営向きでなかった父から兄貴が継いだんですけど、兄貴が経営者になってからはすごかったんですよ。繁盛しすぎて行列ができるくらいになって。兄貴を尊敬していますし、自分もどこかで認められるくらいやろうという考えが頭の中にずっとありましたね。

――これから独立を考えている方へメッセージをお願いします。

岩田:本当に自分でやりたいことを見つけるまで、じっくり考えてから動くことだと思います。10年後に続いているのか、20年持つのか。 僕は20代のうちに独立したいと思っていたので、ずーっと貯金していました。コツ? 給料をもらったら即、別の口座に入れることです(笑)。

――僕、全然貯金できていないんで心がけます(笑)。最後に今取り組んでいることがあれば聞かせてください。

岩田:今、ホームステージングの事業に参入してます。ホームステージングというのは、分譲マンションや戸建ての中古物件に対して新築物件のモデルルームのように家具やインテリアを配置して物件のトータルコーディネートをすることなんです。 日本の中古不動産って家具も何もない空室状態のまま、お客さんが見学に来られるパターンが多いので部屋がガラ〜ンとしていて暗い印象さえ与えがちですよね。
でも中古物件にもホームステージングを入れる事でモデルルームのように購入後のイメージが伝わりやすいんですよ。海外では当たり前のサービスなんですが、日本でもようやく、このシステムが注目されてきましたね。 かなり問い合わせも受けていますし、僕自身も不動産業者から依頼を受けて週2,3日、この仕事に取り組んでいるところです。ただ、僕はホームステージングの一歩先を読んで次の展開に動いています。
それは、単に中古物件にホームステージングするだけじゃなく、物件そのものに施工を加えてフルリノベートし、さらにステージングを入れて売り出す。そして売却が決まるまでの期間を、今、はやりの民泊のような感じで宿泊施設として解放するというというもので、システムを構築中です。 一般の方も泊まれますが、マンションの購入を検討している方に実際に宿泊していただき、お部屋の使い心地を体感していただく狙いです。

――すでに次の展開に備えているんですね!お話の中で「周りには経営者というよりアーティストよりだと言われます」「飽きっぽいんです」とおっしゃっていましたが、発想力が豊かな上に、常に先を見据えてアンテナを張っていらっしゃるのが分かりました。 10年後、20年後に何をされているのかとっても楽しみです。貴重なお話を、どうもありがとうございました。

更新日:2016/12/5
取材・文・写真:磯部シゲマサ

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NPO法人クロスフィールズ/東京都品川区

共同創業者・代表理事 小沼大地さん(34歳)

1982年、神奈川県生まれ。一橋大学社会学部卒業後、同大大学院に籍を置きながら青年海外協力隊(中東シリアの環境教育活動)に参加する。大学院修了後、マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社に入社。2011年、同社を退職し、共同創業者である松島由佳氏とNPO法人クロスフィールズを設立。現在、常勤スタッフは11名。企業向けに、社員を途上国支援のNGOに数カ月間派遣する「留職」プログラムを提供、これまでに12社の導入実績がある。中小企業、行政機関も対象に、プログラムの拡充を目指す。

2005年春、大学卒業を控えた小沼大地が青年海外協力隊に志願したのは、「教師になる前に社会経験を積んでおこう、という軽い気持ち」だった。ところが、貧しい国に貢献するつもりで赴任したシリアで出会ったのは、先進国の援助をひたすら待つ人々などではなく、「自分たちの力で国をつくっていくんだ」という気概に満ちあふれた人間たち。そこには、日本が見失った情熱があった。わずか2年程度の体験で、自国にそれを取り戻すことを人生の目標に定めた小沼のもとに、想いに賛同した仲間が集まる。そして試行錯誤の末、企業で働く若手を、途上国の抱える問題解決に取り組むNGOへと派遣する、留学ならぬ「留職」プログラムを考案した。 クロスフィールズを設立したのは2011年のこと。手探りのスタートではあったが、3年あまりですでに大企業12社が同プログラムを導入し、延べ25人がベトナム、インドネシアなどでの活動を経験した。途上国でもまれ、職場復帰した“情熱の種”は自ら花開くだけでなく、周囲にその熱き魂を伝播する役割を担っている。人を変え、企業を変え、そして日本を変えたい――異国の地で誓った想いは、着実にかたちになりつつある。


企業人が失いかけた理念や情熱を途上国の「熱き想い」でよみがえらせる。

━ シリアではどんな体験を?

「貧しい国を、自分の力で良くしたい」と真正面から語り、頑張っている現地の人が大勢いて、驚くやら圧倒されるやら。で、気づかされたんですよ、日本に一番足りないのは、目の前にいる人間たちが持っているような強くて熱い“想い”ではないのかと。 帰国してマッキンゼーに入ったのは、国際協力と企業活動をつなぐことができたら何か生まれるのでは、というひらめきがあったから。そのために、次はビジネスの最前線を知っておきたいと思ったのです。

━ 企業に「留職」の意義を理解してもらえましたか?

 最初は連戦連敗。知恵を絞って何とかパナソニックに導入してもらい、そこからは「あのパナソニックがやってるんですよ」と(笑)。でも事業を始めて改めて気づいたのは、日本企業のミッションは素晴らしい、ということ。どこも「当社は社会の発展のために存在する」っていう理念を堂々と掲げている。それと「留職」プログラムの目指すベクトルが合致したからこそ、採用する企業が順調に増えたのでしょう。  現実に目を向けると、自分が身を置く小さな世界で専門性を磨くうちに、ともすれば視野狭窄に陥り、本来持っていたはずのクリエイティビリティも失ってしまう人が非常に多いわけですね。 僕らがやりたいのは、まずそんな人たちに理念や情熱を思い出してもらうこと。実際、途上国ですさまじいまでの熱意を持ったリーダーと仕事をすると、どんな人でもスパークします。

━ 「スパーク」の例をぜひ(笑)。

日立製作所でパソコンの耐久性を高める仕事をしていた方が、ラオスで太陽光を使ったランタンの普及に取り組むNGOに派遣されました。ある時、実際にランタンを使っている村に行くと、照度が最低に設定されていて薄暗い。聞けば、「これはとても大切な光なので、明るくして故障すると困るから」と。その瞬間、彼は自分のやっている「耐久性を向上させる仕事」というのは、本来、こんなふうに暮らしている人たちの助けになるためのものなんだと、気づいたそうです。  彼は帰国後、「ただ品質向上を唱えていた僕は、エンジニアとして恥ずかしい。これからは、世の中の人たちにとって本当に役立つモノづくりとは何なのかを問い続けながら、挑戦していきたい」と語りました。やはり根っこには、途上国で奮闘する人たちと同じ“熱”が、日本の企業人の中にもあるのです。それを表に出しにくい空気感みたいなものも、この取り組みを通じて払拭していきたいと思っています。

━ 今後の課題を。

 今は大企業が主ですが、近い将来、中小企業や行政なども対象にした仕組みをつくり、「留職」の幅も数も増やす計画です。ゆくゆくは情熱を持った人たちに導かれた企業、行政、NPOが、協働して日本の直面する課題に立ち向かっていく社会を実現する―それが掲げるビジョンです。  実はマッキンゼーを辞めたのは、奇しくも2011年の3月11日。辞職のあいさつをメール送信しようとしていたら、揺れに襲われました。起業しようにもできる状況ではなくなり、2カ月ほど被災地支援に取り組みましたが、そこでもいろんな経験をさせてもらいました。 東北には、まさに「俺の手で復興を果たすんだ」という強い想いを持った方がいる。海外ばかりでなく、そうした人のところに「留職」してもらうのもアリだと思っています。それが実現できて初めて、僕にとっての3・11が単なるめぐり合わせではなく、明確な意味を持つものになるのかな、という気もしているのです

取材・文/南山武志 撮影/押山智良 構成/内田丘子

2016年11月30日

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株式会社ビストロパパを起業して7年半。“パパ料理研究家”という新しい市場を開拓し、さらに活動の場を広げるために今年の春からは新会社も設立。そのほかにも講演会や料理教室など、東奔西走の日々をおくる滝村雅晴さん。 今回は、独立時の心構えから、いかに自分の事業や地位を確立させたのか、そして“パパ料理研究家”という仕事への想いなどを語っていただきました。 そこには4年前に天国へと旅立った長女への想い、家族への愛情という、揺るぎない信念がありました。
【滝村雅晴さん・プロフィール】 デジタルハリウッド株式会社で執行役員等歴任後、09年4月、株式会社ビストロパパを設立。 パパ料理によって、家族の食育・共食と健康作り、ワークライフバランスを広める、日本で唯一の料理研究家。 ブログ「ビストロパパ~パパ料理のススメ~」は、10年半以上にわたり更新中。 2015年12月には47fishプロジェクトをスタート。2016年4月、ヨンナナフィッシュ株式会社を設立。 http://bistropapa.jp/ http://47fish.jp/

「報酬があるから働く」のではなく、「まず働く」。その結果、仕事がつながっていく。

―最初に、滝村さんのお仕事を改めて教えてください。

滝村雅晴さん:以下、滝村
私の仕事は、料理を通して家庭を幸せにすることです。仕事が忙しいお父さんが「仕事を早く片付けて家に帰ろう。今日の晩御飯は俺が作ろう」という気持ちになってもらえるように、マインドを変えられたらと思います。

―アントレnetでも以前に取材(https://entrenet.jp/contents/lifestyle/22/index.html)させていただきましたが、ご活躍の場がますます広がっていますね。

滝村
「家族の笑顔のために料理をつくるパパを増やす」というテーマを元に、料理教室や講演・セミナー、ブログなど、様々な活動を株式会社ビストロパパの仕事として行っています。 そのビストロパパと並行して、2016年4月から、家庭内の「魚食」の推進に特化した事業を手がける47fish(ヨンナナフィッシュ)という会社を設立しました。子育て中の家族がターゲットで、魚を食べる習慣、そして魚の味覚をこどもに教えることが目的です。

―ビストロパパの起業から事業を推進していく上で、大切にしていることはありますか?

滝村
もちろん、ビストロパパも最初から成功していたわけではありません。成功させるためにはとにかくがむしゃらに働く、ということが1番ですね(笑)。それと同時に意識したことは「自分がやりたい仕事」と「自分ができる仕事」をきちんとセパレートして考えるようにしていました。 というのも、仕事はほかの人に目に見えてわかるキャッチーな部分と、あまり人の目に触れず、裏でこつこつやる部分に分かれます。ビストロパパの仕事の場合、多くは前者に該当する、いわば私のライフワークです。 一方、私はデジタルハリウッド出身ということもあり、現在でもコンサル・宣伝・広報戦略の仕事もやっています。ビストロパパに比べると、こちらの仕事は表からは見えません。 でもこうした仕事が基盤にあるからこそ、ビストロパパという、自分がやりたい仕事ができるのです。 このように「自分がやりたい仕事」と「自分ができる仕事」のバランスを取ることが非常に大切だと思います。 仮に「自分のやりたい仕事」がなかなかお金になりにくい仕事だったとしても、「自分ができる仕事」でお金を稼いで事業や生活を支えることができるからです。独立を考えている人は、まず自分のやりたい仕事とできる仕事をきちんと考えてみると良いかもしれません。

―自分できちんとお金を稼げる柱を作ることはとても大切ですね。ほかに何か心がけていることはありますか?

滝村
大切にしているのは「10万円分報酬として受け取るからその仕事をする」のではなくて、報酬の前に「10万円分の仕事を自分からする」という考え方です。 これは逆に、ビストロパパを立ち上げて少し経ってから改めて再認識したのですが、ある程度お金を稼げるようになると「これくらいの仕事ならこれくらいの売上になるだろう」と判断して仕事の質を無意識にセーブしてしまいがちになります。 そうではなく、とにかく自分が先に仕掛けて報酬以上の仕事をする。そうすることで、たとえその時々に自分の満足する報酬が得られなかったとしても、回り回って相応の報酬が得られるようになり、結果的に事業は軌道にのっていきます。 だからよく立ち上げ当初は「売る物がなかったら恩を売れ」と言いますがこれは、僕が思っていることで一般的な話ではないかと思いますのでニュアンスを変えていただければ、それは立ち上げ当初に限らず、ずっとその気持ちを持ち続けることが大切。「初心忘れるべからず」ということです。

退路を断って、覚悟を決める。がむしゃらになることで拓いてきた道

―ビストロパパのプロジェクトの1つに、一澤信三郎帆布さんのエプロンを展開されていますね。ほかにはない企画だと思うのですが、どのように実現させたのでしょうか。

滝村
これは、私がビストロパパの事業を始めた時に、「パパが似合うエプロンをつくること」を1つの目標に掲げました。そこで私が京都出身ということもあり、一澤信三郎帆布さんにエプロン作りを依頼したんです。

―一澤信三郎帆布さんといえば、京都の歴史ある有名な布製カバンのメーカーさんですよね。

滝村
はい。なので、事業を始めたばかりの自分が、こんな歴史のあるメーカーさんと取引できるはずがない…とどこかで思っていたのですが、ダメ元でお願いしてみたんです。 その際に、最初は「どれくらい売れるか」といったような普通の企画書を持参しようとしましたが、ふと手が止まり、結局書き直しました。 そして新たな企画書には「いかにパパとしての想いが強くて、どんな世の中にしたいか」という想いを込めた企画書を書き上げ、伝えました。 そしてその想いが伝わったのでしょう。一澤信三郎帆布さんからは快諾が得られ、日本全国どこへも卸していない貴重なエプロンを、唯一ネットで売ることに成功しました。

―素敵な話です。始めたばかりの頃のがむしゃらな気持ちって大切なんですね。

滝村
はい。この話ではないですが、起業したてで無我夢中の時はとにかく、自分の事業や想いを人に伝えること。がむしゃらになるためには「退路を断つ」ことも大切です。 私がビストロパパを始めるとき、あいさつまわりをする際、一緒にデジタルハリウッドの名刺も渡すようにしていました。しかし在職しながら準備しているうちに、だんだんデジタルハリウッドの名刺を出さなくなっていきました。 なぜならインパクト的にはビストロパパのほうが大きい上に、何より私の本気の意気込みが伝わっているからか、みんな話を聞いてくれました。 会社を辞めて独立するといって本気で話をするときは「退路を断っている」わけなので、みんな応援してくれたんです。 そして、先輩の起業家たちもみんな同じような過去があるので、こちらが本気だったら応援してもらえます。そういった縁をつないで、今に至っています。

自分にしかできないことで、オンリーワンからナンバーワンへ

画像出典:http://blog.livedoor.jp/tuckeym/

―毎日更新されるブログも知名度向上に大きく貢献していますね。
滝村
ブログ「ビストロパパ」は、2006年3月19日から1日も欠かさず続けています。もともとこの「ビストロパパ」はブログタイトルだったのですが、結局それが社名になりました。

―情報発信の方法として、ブログ以外には?

滝村
ブログだけですね。それで必要十分でした。私のブログ「ビストロパパ」の編集方針は「パパ料理」というワンテーマです。パパ料理、すなわちパパが作る料理ということですので、ブログでは外食で食べた料理を紹介する記事をメインに書いたことはありません。 日々の当たり前な食卓を描いていますが、必ず家族と一緒に食卓を囲んでいるのが特徴です。格好良く見せるのではなく、食器や食卓が写り、家庭の温かな景色を切り取っているというのが、パパ料理のコンセプトです。

―ビジネスチャンスを広げるには、SNSを通じた情報発信も大事ということですね。

滝村
はい。人に自分の想いがうまく伝わらないのは、自分の「想い」が弱いか「伝える力」が弱いかの、どちらかです。伝えることに関しては、デジタルハリウッドで培ったノウハウがありましたし、何より私は「パパ料理を広めたい」という強い想いがありました。 もうひとつ大きなポイントとなったのは、「パパ料理研究家」という新しい職業を自分で作ったこと。だから、パパ料理と検索すれば必ず自分の名前が出てきます。 そうした決定的なオンリーワンを続けることで、第1人者としてナンバーワンになる日が来ます。このブログがあるからこそ、今の自分があります。

「料理を通して家庭を幸せにすること」―長女がくれた、パパ料理研究家という使命

―そもそもなぜビストロパパを起業したのでしょうか。

滝村
まず、当時は「料理をしないお父さん」をターゲットにしている人や事業はそう多くありませんでした。そういった意味でこのターゲット層はまさに、ブルーオーシャンです。 そして何より、私自身が「料理をしないお父さん」だったからです。仕事ばかりしていた私が、長女が生まれたことがきっかけで料理を勉強するようになりました。なので、こうした「料理をしないお父さん」の気持ちがわかるのが第1ですね。

―そんな料理をしないお父さんに対して、どんなことを教えているのでしょうか?

滝村
私が教えているのは、お父さんとして奥さんやこどもの空腹に気づくという気持ちや、思いやり。そして実際に料理を作るスキルです。 そして、この「料理が楽しい」という感覚が芽生えると、家事や子育ても楽しくなってきます。そのマインドを伝え、育むのがパパ料理研究家の役割だと思っています。 つまり、私が教えているのは料理だけでありません。料理を始めとする、家族との付き合い方、ライフスタイルの提案です。

―料理だけではなく、そこまでコミットする理由はなんでしょうか?

滝村
私の長女の存在が大きいですね。先程も少しお話しましたが、以前は仕事漬けだった私が料理を始めたきっかけが長女の誕生でした。けれどそのきっかけをくれた長女は4年前に病気で天国へと旅立ちました。 それから私は、料理教室で「家族が一緒に食事ができる回数は有限」だということを伝えています。家族全員がそろって、全員健康で笑顔で食卓を囲むことは、当たり前なようで、本当は奇跡に近いわけですから。

―滝村さんにとって「パパ料理研究家」の仕事は、家族への深い愛情の証であり、1つの使命でもあるのですね。

滝村
そうですね。繰り返しになりますが、私の仕事は料理を通して家庭を幸せにすること。長女が誕生して料理を始めた私のように、お父さんがもっと家庭にコミットすることで家庭は幸せになりますので。 また、最近「誰かのために料理を作ることが、結果的に健康寿命を延ばすことになる」のではないかと考えています。 具体的には認知症は守るべき誰かを失った時に発症しやすい、と聞きました。つまりご飯を作ってあげる誰か、すなわちパートナーや子どもの存在がいるからこそ、人は自分がしっかりしていないといけないと思い、認知症になりにくいのかなと思っています。 誰かの命を守り、つなぐことは、誰かを生かすこと。長い目で見たら、こうして家族にご飯を食べさせてあげることが、自分や家族の健康寿命を延ばすことにもつながっているのではないでしょうか。 パパ料理研究家という仕事が、誰かの命を生かすことにも役に立っていたら、とても嬉しいですね。

2016年11月29日

雇われない生き方img_vol.162

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杉本 あきほさん(51歳)
オフィス共笑/東京都港区
飲食業、携帯電話の営業などを経て研修講師を目指して独立。修業中、笑いとヨガの呼吸法を組み合わせた「ラフターヨガ」に出合う。現在は「第3の笑い」をコンセプトに企業研修などを行う。2015年にはNHK『オイコノミア』でピース又吉さんと対談。

VOL.162
ストレスから身を守るメンタルヘルス研修

笑いの世界に革命を ギャグなしネタなしの「第3の笑い」

1の笑いは喜びや安心から自然に生まれる笑い。第2の笑いはギャグやユーモアによる意図的な笑い。私が広めている「第3の笑い」はネタ不要の自ら生み出す笑いです。これができたらいつでもどこでも笑えて、ストレスマネジメントに大いに効果あり。要は「面白いから笑うのではなく、笑うから面白い」ということなんですが、普通の人は心のなかで「何がオモロくて笑うねん」と自己否定するはず。そこを腹落ちしていただくのが、私の仕事です。    大阪に生まれて、人を笑わせてナンボの文化で育った人間です。コンプレックスだって、いじれば笑いの種になる。でも九州で働いてた頃、笑いが人を傷つけることがあるとわかったんです。そこへいくと「第3の笑い」は誰も傷つけない笑い。出合った時は自分の奥底から「これだ!」というエネルギーを感じましたよ。この新しい笑い、新しい価値観を伝えるために起業したんです。ご理解いただけずに「職場で笑うなんて不謹慎」としかられることもあります。でも「生まれて初めてこんなに笑った」という人もいる。何をするにもダイレクト。その日やったことがすぐ自分の励みになるなんて、最高だと思います。


更新日:2016/11/24
取材・文/東 雄介 撮影/太田未来子、刑部友康、阪巻正志
アントレ2016.夏号 「儲けも損も財産だ 激白!社長の醍醐味」より

2016年11月24日

innovation

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NPO法人農スクール/横浜市中区

小島 希世子さん(35歳)

1979年、熊本県生まれ。2009年に(株)えと菜園を設立。農家と消費者を直接つなぐネットショップのほか、体験農園、農作物の自社生産事業を展開。一方、生活保護受給者などの就農支援プログラムで「横浜ビジネスグランプリ2011ソーシャル部門最優秀賞」を受賞したことで、活動を本格化させるべくNPO法人農スクールを設立。生きる意欲、働く意欲を取り戻すためのペアワーク、グループワーク、農業日誌など独自のプログラムを開発し、提供している。

熊本県に生まれた小島希世子が「将来は農業をやってみたい」という、同世代の人間たちとはちょっと違う夢を抱いたのには、その生育環境が影響している。幼い頃、遊び回っていた地には広々とした畑が一面に広がり、牛が草をはみ、軒先ではリタイアした老人が熊手を手づくりしている――。そんな風景が、「農家っていいな」という思いをはぐくんでいった。夢をかたちにし、(株)えと菜園を設立したのは、大学卒業後の2009年。現在は、契約農家の農作物を直販するネットショップ、体験農園、そして自らの畑での野菜の生産が事業の3本柱となっている。
憧れの道に足を踏み入れてみて、わかったことがあった。多くの農家が人手や後継者不足に直面しているという事実である。他方、大学生活を送るために出てきた東京には、田舎では目にしたことのないホームレスの存在があった。農家と働き場のない人たちを結びつければ、農業を通じた社会貢献が可能ではないか。そう直感した小島は、自立支援を目的とした活動を始め、2013年にNPO法人農スクールを設立した。これまでにスクールを巣立って職に就いた人は、非農家も含め12名。まかれた種は、着実に芽吹いている。


人手不足に悩む農家と、「働きたいのに職がない」人々をシンプルに結ぶ

━ ご両親は高校教師だったとか。

だからよけいに、トラクターを操って畑を耕している姿なんかがまぶしく映って(笑)。農業を志したきっかけは、そういう環境に加えて、小学生の時に、アフリカの子供たちを題材にしたドキュメンタリー番組を見たこと。自分と同じ年格好の子供たちが、食べ物がなくて餓死していくという内容は、衝撃的でした。 「砂漠地帯で作物を育てるためには、とても高い技術が必要だ」という母の言葉を聞いて、ならば自分が、それをできる農家になってやろうという気持ちが強く植え付けられたのです。

━ えと菜園の事業は、どのように始められたのでしょう?

やりたかったのは、無農薬で化学肥料なども使わない農業でした。ところが農家に話を聞きに行ったら、「今はやめたほうがいい」と。基本的に、評価基準は安心や味ではなく、「量」になる。どんなつくり方をしようが、自分で値段を決めることはできない。生産物に対する消費者の声も聞けない――。要するに、「今の流通システムでは、あなたのやりたいことはできないよ」ということです。 ならば、既存のルートに乗らず、直接、生産者と消費者をつなげばいいと、ネットショップを立ち上げたのです。その後、お客さんに生産の現場を理解してもらうための体験農園も始めました。もちろん自分でもつくっています。 雑草を抜かずに刈り取り、畑にまいて土に返すといった農法で。このほうが土壌微生物の活動が活発になって、実は土の状態がよくなるんですよ。

━ 農スクールについてうかがいます。ホームレスと農業とは、一見結びつきにくい気もするのですが。

上京して初めてそういう人たちを目にした時、ショックを受けたんです。で、路上で雑誌を売っているおじさんなんかに話しかけてみると、「働きたいけれど、雇ってはもらえない」と言うんですね。その言葉が、ネットショップの仕事で回った農家の多くが人手不足を嘆いていたことと、パッとリンクしたわけです。この人たちに農業に従事してもらえば、双方の問題が解決できるのではないか、と。   スクールでの「講義」は、3カ月1クールで、作物の種まき、苗・うねづくりといった作業を行ってもらいます。職を失った人は、自信も失っていることが多いんですよ。 栽培技術を磨くと同時に、グループで作業を行うことで、他者の目を通して長所を見いだしたり、農業日誌をつけることで自らを見つめ直してもらったり……といった、働く意欲を高めるためのプログラムを導入しています。

━ 参加者の様子に変化は?

初めは目を合わせて話さなかった方が、実際に何回か収穫を体験すると、目に見えて自信を取り戻していくんですよ。 農業日誌にも、どんどん自分をさらけ出すようになる。そういう姿を見て、意義のある取り組みだったのだと、私自身確信が持てました。 最近は“ニート率”が高まって、今はニート7名、生活保護受給者3名が参加しています。

━ 今後の課題を教えてください。

頭の痛いのが、活動資金です。働いていない人が就労して納税者になれば、「利益」を得るのは国や自治体なのですが、そこからお金をもらえるわけではありません。 将来的には、人材を紹介した先から報酬をいただけるようなスキームを確立させたいと考えています。そして何よりも、うちだけでやっていても「点」にもなりませんから、同じような取り組みをしたいという人たちが、全国津々浦々に生まれてくるような動きにしたいですね。 そのためにも、より多くの成功事例を発信できるような活動を繰り広げていかなければ、と思っています。

取材・文/南山武志 撮影/刑部友康 構成/内田丘子

2016年11月23日

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プロフィール:湯川治往(ゆかわ・はるゆき) 1961年生まれ、東京都出身。小学校時代をイタリア・ローマで過ごし中学生の時に帰国。3年の浪人と1年留年しながら学習院大学を卒業。ビクター音楽産業株式会社に入社。主に「ORQUESTA DEL SOL」、「LOVE PSYCHEDELICO」などのディレクターを務める。40代半ばで早期退職し07年に独立。レコード会社「Hot River Records(EUR Inc.)」を立ち上げる。「吾妻光良 & The Swinging Boppers」(以下、バッパーズ)などが在籍。

急激に寒くなった雨の日、待ち合わせの喫茶店にアロハシャツ姿で現れた湯川さん。大手レコード会社を40代で退職し独立、という「雇われない生き方」を実行する1人です。 なぜ大手企業から飛び出し、1人で音楽レーベルを設立するようになったのか、「儲かってないんですけど、本当に自分なんかの取材でいいんですかね?」と言いながら、人懐こい笑顔と、ユーモラスな口調でざっくばらんにお話ししてくださいました。

40代の転機。早期退職の募集を聞き、心に湧き上がったのは「まだ音楽作りたいな」という気持ち

――湯川さんが退職された07年ごろといえば、音楽業界も転機を迎えていた時期でしたが、実際はどんな状況だったんですか?

湯川:当時はアルバム1枚作るのに、広告宣伝費は別で1,200万円くらいかけれたんですよ。今は100万円ちょっとで「高いよ」っていう感覚です(笑)。規模が10分の1どころの騒ぎじゃないですよね。

――そういう変化を肌で感じていたんですね。

湯川:早期退職の募集があったんですよ。「1週間で決めて」と言われた。残ったら在籍していた制作部以外に行くことになるだろうし、「俺、制作以外できねえしなあ」ってちょっと考えましたね。 自分でレーベルをやるか、会社に残って音楽は趣味でやるか。どうしようか。でも“まだ音楽作りたいな”とは思ったんです。

――誰かに相談は?

湯川:周り、といっても会社に仲のいい奴はいなかったから、ミュージシャンとかに言ったら「辞めちゃうの?バカだろ!?」と。 相談はしてないんですけど、バッパーズの吾妻光良さん(以下、吾妻さん)にレーベルおこしたら移籍してくれるかって聞いたら「いいよ」って。じゃあ辞めちゃおうと(笑)

――吾妻さんは現在も「バッパーズ」として湯川さんのレーベルに在籍してますよね。

湯川:「バッパーズ」は自分が売り出したい!と引っ張ってきたバンドで、ほとんど1人で担当したんです。メンバーほぼ全員が会社員だったんで、イベントは土曜日のみ、プロモーションは一切できないという条件があったから、会社の上層部とかには「これなんだ?」「売れるのか?」と散々言われましたね。 でもノープロモーションで1アルバム2万枚売れたんです。彼らの音楽が響くファンがちゃんといるんですよね。自分が担当してきたバンドだったんで、ずっとやれたら、と思って吾妻に聞いてみたんです。

――勝算はあったんですか?

湯川:人を雇って開業するなら責任はありますけど、幸い自分1人。ギリギリでもなんとかやっていけたらいいか、と。そういえば、来年にはレーベル立ち上げて10周年だから自分たちでイベントでもやりたいね。

高校生で音楽にのめり込む。バンド活動に明け暮れた大学時代を経てレコード会社に入社

――湯川さんは小学校時代イタリアで暮らしていたんですよね。帰国後、私立暁星中学校に編入。

湯川:史上最低の帰国子女と呼ばれてました(笑)。漢字も書けない、地理もわからない。帰国時は英語とか覚えていたんですけど、すぐ忘れちゃいましたし(笑)。

――音楽との出合いは?

湯川:小さいころはオルガン教室に通ったり、クラシックギターを習ってました。オルガンは幼稚園生の時だけですけどね。 なんとなく「やろう!」と思ったのは高校生の時。中3か高1の時、ミーハーで恥ずかしいんだけど「Stuff(スタッフ)」というバンドが来日して。ドラマーがかっこよくてね。自分も“なれたら良いな?”ってそこからのめり込みましたね。 同級生も音楽好きが多くて、友達にレコードを借りる、返すっていうためだけに学校に行ってました。当時レコードは高かったしね。

――(笑)。その後は大学に進学。レコード会社に入ったきっかけはなんだったんですか?

湯川:大学に入る時も3年浪人し、大学では留年(笑)。バンド活動ばっかりやってたんです。だからなんとなく音楽の仕事をやろうかなと思って。ビクター音楽産業(株)を受けた時も当時、日本ビクターと同じ採用面接で、「ディレクターになれないなら帰ります」なんて言ったら、1人だけ別室に呼ばれて、受かって。

――会社員時代はどんな仕事をしていたんですか?

湯川:主にディレクター業ですね。特に最初の頃は、作曲家に「こういう音楽を作りましょう」と曲を作ってもらい、作詞家に発注して、アレンジャーに依頼、レコーディング。機材もアナログで手作業でしたね。僕らなんかがアナログ機材を使ってレコーディングしてた最後の世代なんじゃないかな。今はデジタルだから。

自分で聴く音楽を自分で作る。好きなことしかやっていないから続けられる。

――吾妻さんともその時期に出会ったんですね。

湯川:「バッパーズ」って楽ちんなんですよ。アイドルとかみたいに全部こっちで用意するんじゃなく、「こういう音楽をやりましょう」「こういう風にしましょう」と作り上げていくことができる。何よりも、スタジオに入ってバンドと一緒に作っていくという作業が楽しかった。

――一番楽しいことはレコーディング?

湯川:レコーディングはめちゃくちゃ楽しい。でも1番は自分がバンドなどで演奏すること。その次がスタジオで音楽を作ること。3番目が聴くことですね。

――それを叶えるために独立という道を選択したんですね。独立後の状況はどうですか?

湯川:ヒマな時にボーっとできるのが良いですね(笑)。今までそんな時間なかったからね。音楽業界は難しい。 成功しているのは一握りだと思います。でも「何か作りたいな」「何かやりたいな」と思っていたんです。自分が聴きたい音楽がないから、自分で作りたいんですよ。だから大変なことばかりでも耐えられる。

――07年にレーベルを立ち上げ、周囲の反応はどうでしたか?

湯川:「よく会社を辞めたね。大丈夫?」でした(笑)。もともと社外の人と付き合うことが多かったんで社外の人に言われたね。 会社で命令されたこと以外もしていたし、デスクは荷物置き場くらいにしか思っていなかったから会社に寄りつかないしで嫌われ者だったと思うけど、社外の人たちとは散々飲んでましたからね。社外で付き合いのあった連中は、今でも何かあると声をかけてくれるし、人を紹介してくれたりします。

独立するといろんな人と知り合える。今後は「作品をもっと作りたい」

――独立して良かったことは?

湯川:いろんな人と知り合えることですね。仲良くなれますよ。会社員の時は会社の看板をしょってたけど、それがなくても付き合ってくれる人がいる。友達になるのはそういう人ですね(笑)。 例えば、知り合いが自分の会社でイベント発券システムを持ってるんで、それを安く使わせてもらったり、また別の知り合いからライブ時の柵を格安で借りたりしてますよ(笑)

――湯川さんの人間性がなせる業ですね。

湯川:どうなんすかね。よく酒を呑んではいますけどね。「打ち合わせする」って言っても集まらない「バッパーズ」には、「居酒屋で飲むぞ」って言って呼んでますよ。メンバーが多いバンドでしょ、会社員時代は10万、20万って呑み代を財布に入れてたけど、今じゃ、100円単位で割り勘です(笑)。

――今後の展望を教えてもらえますか?

湯川:資金を集めて、もっと作品を作りたいです。僕の仕事はCDを作ること。今はお金かけないでもプロモーションできる時代ですから、ホームページ作りや映像の編集をやりたいですね。あとライブの音源化も。

――会社を10年間続ける秘訣はありますか?

湯川:適当だからですね(笑)。真面目だったら辞めてたかも。夢はあんまりないですけど、音楽で当てて打楽器を心置きなく叩ける家が欲しいです。

音楽への愛があふれる湯川さん。ご本人は否定されていましたが、壁を作らない気さくな人柄を感じました。 お話を伺い「きっと湯川さんのお人柄が仲間を集め、その仲間を助け、助けられ、やってこられたんでしょうね」と言うと「なんでしょうね」「そうなんですかね」と少し照れたように笑ってくださいました。
始終自然体でしたが、撮影は照れっぱなし。「裏方ですから」という湯川さんにポーズをお願いすると「吾妻風」と言って手を広げ自身が手掛けたCDジャケットに載っている吾妻さんのポーズをしてくださいました。今後も湯川さんの手がける音楽に期待し取材を終えました。

更新日:2016/11/18
取材・文・写真:磯部シゲマサ 撮影協力:holy

2016年11月18日

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鈴木 幸生さん(56歳)
ユー・エス・エム(株)/横浜市中区
雑貨を扱う会社で社長の右腕となり、社員数人だった会社を200人規模にまで成長させるが、50歳で独立。20年間暮らしていた横浜で「横浜らしさ」を表現するものづくりを思い立ち、船舶に使われる帆布を生地にした「横濱帆布鞄」を開発した。

VOL.161
実は少ない横浜ブランド港町ならではの帆布鞄

地域に根をおろし ものづくりで街の魅力を伝える

まれは浜松なんだけど、代官山の会社に通うのに横浜本牧へ越して20年です。横浜はカッコいいな、ハイカラだなって、それだけの理由なんだけどね。会社員のうちはただ住んでるだけで、知らないところばっかり。    50歳まで勤めた雑貨の会社を辞めて起業したのは、魔が差したっていうのかな(笑)。会社の看板なしの丸裸になったら何ができるか試してみたくなったんです。最初はコンサルタントをやろうと思ったんだが、口だけで食えるほど甘くなかったね。自分の原点に帰ってものづくりをしよう、そういえばファッションにしても横浜ブランドは案外少ないな。というのが「横濱帆布鞄」の始まりです。横浜といったら港町。船舶に使われる耐水・耐熱性に優れた帆布でつくった鞄に、横浜の市外局番「045」をプリントしました。    横浜との縁が本当に深くなったのは、横浜のブランドを謳って起業してからかもしれません。地元の人と付き合いができて、最近は街づくりのお手伝いも始めている。やっと横浜に根をおろせたかな。こんな場所にしゃれた鞄屋があるよと言ってもらえると、横浜の価値の1コマ分になれた気がする。うれしいよね。


更新日:2016/11/16
取材・文/東 雄介 撮影/太田未来子、刑部友康、阪巻正志
アントレ2016.夏号 「儲けも損も財産だ 激白!社長の醍醐味」より

2016年11月16日

社会企業家

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NPO法人ソーシャルコンシェルジュ/東京都港区

林 民子さん(45歳)

1969年、北海道生まれ。政府観光局や出版社勤務、欧米ファッションブランドの広報などを経て、2007年に社会問題の解決に取り組む団体を支援するNPO法人ソーシャルコンシェルジュを設立。翌2008年、チベット系民族が生産するヤクの毛を原料としたニットブランド「SHOKAY」の日本代表に就任したのを機に、ソーシャルビジネスを展開するダブルツリー株式会社を設立。NPOと株式会社の協働により、他者や社会、そして環境に配慮したライフスタイルを提案している。

子供の頃から「社会とのかかわり」を強く意識していた林民子が、勤務していた欧米ファッションブランド輸入会社の広報を辞め、NPO法人ソーシャルコンシェルジュを設立したのは2007年。社会問題の解決に取り組むNPOなどが、継続的に事業運営していけるためのコンサルティングやPR活動が目的だった。翌年には、チベット系民族の貧困解決や伝統的な暮らしを守るために生まれたニットブランド「SHOKAY(ショーケイ)」の事業を日本でスタート。同時にダブルツリー株式会社を設立した。現在は、NPOと株式会社の両輪で、社会貢献事業、関連ビジネスを展開している。 彼女が実行するプロジェクトは、例えば障がい者がつくる授産製品とデザイナーなどのクリエイターとのコラボだったり、パーマカルチャー(農業を軸とした持続可能なライフスタイル)を体験するイベントだったり、その活動はとても多彩である。「社会に新しい価値観をもたらすもの、そして“グッドアクション”だと思えるものは広く取り入れ、走り続けてきた7年間。あっという間でした」。そう振り返る林の究極の目標は、「自然や弱者に配慮するのが、ごく当たり前になる社会」の実現だ。


持続可能な未来のために"グッドアクション"を重ねていく

━ 社会貢献活動に目覚めたきっかけは?

10代の頃から社会派の映画やドキュメンタリーなどに興味津々で。そして、認知症のおばあちゃんの付き添いだとか、いろんなボランティアをしてきたのですが、私にはごく自然に、社会問題に目が向く素地があったようです。 ソーシャルコンシェルジュを立ち上げたのは、ひとことで言えば「世の中にそういうものがなかった」から。 ファッションブランドの広報をしている頃、例えば、新作発表会のプレス向けのお土産に授産製品を入れて、さりげなくPRするような活動をしていたんですよ。周りの人たちも理解や興味を示してくれたのですが、ファッション業界と障がい者施設、またそれを支援するNPOなどを、きちんとつなげる存在がなかった。だったら、自分でやろうと。

━ つまり、社会貢献が目的のNPOをサポートするわけですね。

はい。ただ現在は、活動が広がって、パーマカルチャーに関するワークショップの企画・運営や、社会貢献活動に関する情報発信などがメインになっています。 パーマカルチャー関連では、これまで土壌の専門家に技術指導をしていただいて、八ヶ岳の麓で持続可能な農業をベースにした生活の体験講座を、月1回のペースで行ってきました。 今年からは、そうした生活を実践している人のところに出かけるスタディツアーを行いたいと考えています。

━ ダブルツリーという株式会社を設立した理由を教えてください。

必要に迫られたという側面が大きいですね。「SHOKAY」というのは、チベット系民族がヤクという動物から手作業ですき取った毛を原料にしたニットブランドですが、この優れた製品群を日本で市場展開するためには、会社が必要だったのです。 これは現在、チベット系民族支援にとどまらず、東日本大震災の被災地で、SHOKAYのものづくりをサポートしてもらうプロジェクトにもつながっています。 被災地に住む女性を対象に、編み物のワークショップを開催する「SHOKAY for TOHOKU」というもの。被災地の女性たちに集まってもらい、一緒に編み物をすることで心を癒していただく。 同時に、収入源の限られるチベット系民族の支援にもなるという取り組みです。

━ 非営利と営利の連携、両者の位置づけは?

両方ともエシカルな、つまり人の営みや環境に配慮できる社会の実現を目指すというミッションは同じ。“車の両輪”だと考えています。ダブルツリーでは、エシカルなファッション製品などを扱うセレクトショップ「DGBH(Do Good,Be Happy!)」を運営していますが、ここで得た収益をNPOの活動資金として循環させていくという考え方です。 そうした仕組みを構築したいという意識は、当初からありました。私たちのように「楽しく社会貢献を」というNPOは、助成金や寄付に頼るのは難しいんですね。 一方で、資金を集めることに労力がかかりすぎて、活動が立ち行かなくなったNPOも見てきました。 両輪をうまく機能させることで、自分たちの活動が持続できるという新たなモデルを、社会に提案できればと思っています。

━ これからの目標は?

当面、実現させたいと思っている夢は、八ヶ岳で培ったノウハウを生かして、私の故郷である北海道に「エコビレッジ」をつくること。 ただ、世の中に新しい価値を提供できるもの、よりよい未来につながるもの、というのがコンセプトなので、何でもありなんですよ(笑)。そうした視点に立つプロジェクトを一つでも多く花開かせていきたいですね。

取材・文/南山武志 撮影/刑部友康 構成/内田丘子

2016年11月15日

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長い間チャレンジした司法試験を諦め、八方塞がりになっていた関口克己さんは、さまざまな人との出合いや助言、そして資格取得によって、社会保険労務士・行政書士事務所を開業します。その道のりは、運命的でドラマチックである一方、しっかりとしたご自身のポリシーに基づくものでもあります。

■20年近くの司法試験挑戦を断念!途方に暮れる中、届いた友人の一言

―大学卒業後、司法試験を目指して勉強をされていたんですよね?

関口:20年以上やっていましたね。考えられないぐらいの失敗をする中、司法試験の制度が変わって「もうダメだ」と思って諦めたんです。

―それからどうされたんですか?

関口:当時、資格試験取得の予備校で教材作成などアルバイトをしながら勉強していたのですが、アルバイト先の友人から社会保険労務士のことを聞いて、その翌年に試験を受けたんです。 まあ付け焼き刃の勉強だったので、1回目は落ちたのですが、2回目に受かったんですね。その前に行政書士の資格も取っていたので、その2つで何とか食べていけないかなって思ったんです。

―社会保険労務士と行政書士の資格を取ったら食べていけると思ったのですか? 関口:いや全然。資格は取ったものの、自分の人生八方塞がり。どうしようって思った時に、ある知り合いが「社会保険労務士と行政書士を持っている人が廃業しようとしているのだけれど、お客さんがいるのですぐにはやめられない。 引き継ぐ人を探しているんだけれど興味ある?」って声を掛けてくれたんです。その話を聞いて2日後には、その廃業しようとしているという先生に会っていました。

―その流れで開業ということになったんですね。

関口:一応はそういう形にはなりますが、どこかの事務所に勤めて修行したという経験がなかったので、最初は右も左もわからない状態でした。 ただ、ラッキーだったのは、営業活動をすることもなく、多くはなかったですが、引き継いだ仕事があったことでした。

■偶然が重なり、迷う暇もなく開業。しかし、実務経験がゼロという中での船出は、いい面も大変な面も…

―非常にラッキーな形での開業でしたね。

関口:そうですね。僕に仕事を引き継がせてくれた先生が僕と同じ資格を持っていたので、仕事をしながら正にゼロから色々教えてもらえたことは、すごく助かりましたね。

―では開業の困難みたいなものはなかったのでしょうか?

関口:実務経験がゼロのまま開業してしまったので、大変なこともたくさんありました。例えば建設業の許可の仕事は、引き継がせてくれた先生は分からない仕事だったのに、僕は引き受けちゃったんですね。 全然分からないけど投げ出すわけにもはいかないので、都庁の行政書士がやっていた相談窓口に行って、名刺交換して何度も押しかけたりしました。 実際、その窓口って一般人の相談窓口であって、同業者は行ったらダメみたいだったんですね。でもそんなの知らないから、かなりしつこく行きました。

―そういうバイタリティは独立開業には大切なことですか?

関口:そうだと思います。これは、どの仕事も同じだと思いますが、初めてやる仕事は間違いなく採算に合わないと思います。 そうは言っても、やったことがない仕事をやらずにいたらいつまでも自分の引き出しが増えないので、授業料を支払っているというつもりでやらせてもらっています。

―そんな中、ピンチに陥ったことはないのですか?

関口:倉庫業の許可をとる仕事が来たときは大変でしたね。まったく分からないジャンルだったのですが「先生ならできますよ」って言われて受けちゃったんです。 壁の強さを表す単位すら分からない状態ですからね。ノウハウもないし、運送業や倉庫業を専門にやっている同業者に行ったら、高い相談料を取られたりしましたよ(笑)。 結局はラッキーなことが重なって許可はとれましたが、半年以上かかったし、考えてみれば、あれが最大のピンチでしたね。さすがにあの時は寝つきが悪かったり、朝方、変な時間に目が覚めたりしていました。

―メンタルも大切になってきますね。

関口:そうですね。自分は楽観主義の人間だと思っていますが、それが幸いだったのかもしれません。独立開業を考えている人は、後ろ向きで下を向いて歩いていたら、見えるものも見えないし、世の中に吹いている風も感じられないですから。

■凝り固まらずなんでもチャレンジすることで、先に進む道が明確に見えてくることもある。

―士業の人には最初から特定の専門に特化する人もいますが、関口さんは間口を広げることを選択したんですね?

関口:まあ、何も知らないで開業したということもありますが、どんな仕事の依頼が来るのか分からない状況では特定の分野に特化しない方が得策ではないかと思いました。それと、いろいろな仕事をやった方が面白いんじゃないかとも思っていました。 今でも、基本的には失敗を恐れずにいろいろとやるべきだと思っています。 我々の仕事はアイデアも1つの商品であり、知らないことがあれば色々なところに顔を出して、人の話を聞くことによって思いもよらない考えが生まれます。仕事の間口を広げることによって色々な人とのつながりもできますからね。

―人とのつながりは大事ですよね?

関口:そうですね。面白い人やいろんな国の人と出会うことは刺激になりますよ。ちょっと前は、ガーナ人の永住許可をとったのですが、彼は日本で会社をやりたいという目標があって、その時にはまた力になれるかもしれないし、韓国人デザイナーのビザをとる手伝いもしました。いまは日本で会社を経営しているロシア人とも仕事をしているんです。もちろん仕事でもありますが、そうじゃないところで何かまた新しいことが生まれるかもしれないですよね。

―そういったポリシーに基づいてお仕事をすることによって、ご自身の中でも見えてくることはありましたか?

関口:僕の場合は、最初にいろいろな仕事をやったことによって、自分が何に注力したいかというのは見えてきました。今は、労務管理を中心にやりたいんです。いわゆる「働き方改革」と言われていることです。「労働時間の削減」とか、「仕事とがん治療の両立」とか、「仕事と介護の両立」とか叫ばれていますよね。

―なぜ労務管理を中心に?

関口:市場が大きいということもありますが、一番は答えがないからですね。例えば「離職率が高いのですがどうしたらいいでしょうか」という相談があったとすると、それって会社によって理由が違うじゃないですか。 しっかり担当の人と話をして、会社ごとに特徴を考える。通り一辺倒では正解にたどり着かない。それってとてもやりがいがあることだと思うんです。

■士業での開業に資格取得は最低条件だけれど、それより大事なのはアイデア、フットワーク、人間関係!

関口さんはこれまで “数々の失敗”を経験したと表現していましたが、その失敗こそが現在の成功に結び付いている大きな要因になっているのでしょう。 「失敗しないように慎重に仕事を選ぶ」のではなく、最初のうちは「失敗して当たり前。そこから学ぶことの方が数段多い」という考え方が必要だと関口さんは力説します。 何度も失敗をして前に進んできた人の言葉だけに説得力があります。 積極的に物事にチャレンジするからこそ、色々な人との出合いがあり、その人間関係が礎となり、次へとつながる。 その中、必ず心掛けていることをお聞きすると「ちゃんとした仕事をすること」と即答。仕事に対しても、人に対しても誠実に向き合うことの重要性を説いてくれました。 士業というと“専門的な知識”が重要だと思われがちですが、関口さんは「業種に関係なく、独立開業にはアイデア、フットワーク、人間関係が一番大事」と断言します。 まずは恐れずに一歩を踏み出すことが重要なのかもしれません。

取材・文/磯部 正和

2016年11月11日

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さる9/27~9/28の2日間にわたり、「見て、触れて、選べる!独立体感イベント アントレフェア2016」が開催されました。 この独立・起業に役立つ様々なコンテンツが用意された同イベントの中でも人気の高かった「ゲスト講演コーナー」では、プロボクシングの世界チャンピオン、長谷川穂積さんが登壇。「何度でも立ち上がる理由」をテーマに、講演されました。 スポーツとビジネスは全く違うように見えますが、根底にあるものは一緒。独立・起業を目指す人たちを力強く後押しする、”長谷川マインド”をご覧あれ!

負けてもいいから気持ちで勝て!二度の苦い経験から学んだ教訓

―長谷川穂積さん(以下、長谷川)
僕がボクシングをはじめたのは、小学校2年生のとき。元プロボクサーだった父が、息子に夢を託したかたちでした。 最初は練習も楽しかったのですが、徐々に厳しくなっていきました。ランニング、スパーリング、筋トレ……中学生になるまで365日、正月もなく毎日トレーニング。小学校4、5年生の頃の写真を見ると、かなりムッキムキです(笑)。中学では逃げるように卓球をやりましたが、17歳のときにもう一度ボクシングがしたいと思い、本格的にスタートしました。 いまでこそ「10度の防衛」「3階級制覇」したチャンピオンになれましたが、実はプロテストは一度落ちていますし、プロになってからの成績も順調ではありませんでした。当時を知る人からすると、いまの姿は信じられないと思います。 そんなある日、転機が訪れました。一度負けた選手ともう一回試合ができる機会が巡ってきたのです。一度目の敗因は、「社会人チャンピオン」という肩書きをもつ相手に気持ちで負けてしまったことでした。その苦い経験があったので、二度目の試合では“負けてもいいから気持ちで勝つこと”を意識しました。そして相手を気迫で圧倒して、僕は勝利することができました。 ボクシングには技術やスピードなど必要な要素はたくさんありますが、一番大事なのは「気持ち」なのだと、そのとき気がつきました。その後は負けることなく、2003年に東洋太平洋チャンピオンになり、世界挑戦へとつながっていきました。

リスクを背負った挑戦。大切な人に勝利を捧げたい

―長谷川
世界チャンピオンになったのは2005年。そこから2010年までの期間に10度の防衛に成功しています。11回目の防衛戦で負けましたが、その7か月後には階級を2つ上げて再度世界戦に挑みました。 しかしその一方で、母が2006年から約4年間、ガンと闘っていました。そして、2階級制覇がかかった試合の1か月前に、息を引き取りました。 そもそもボクシングには全部で17階級あり、約1.8kg刻みで階級が変わります。10度防衛したのがバンタム級(53.5kg)で、このときの階級はフェザー級(57.1kg)でした。『1.8kg差でそんなに違うの?』と思われるかもしれませんが、体の大きさやパンチ力が全然違うので、階級を変えるのはかなりのリスクを背負います。試合前には、熊と鶏ぐらいパンチ力が違うともいわれていました。 試合前は不安や恐れもありました。それでもその試合は、「母に勝利を捧げたい」という一心で闘いました。テクニックやスピードといった自分の持ち味を活かしたボクシングではなく、気持ちを前面に押し出した闘い方でした。ボクシングで一番大事なのは気持ち。勝ちたい気持ちが強いほうが勝つのだと、あらためて実感しました。

王座陥落から5年9か月―。ドン底から勝利へと繋いだ、長い苦闘の糧

―長谷川
2階級制覇の後、自分自身に少し満足した部分もあって次の試合で負けてしまいました。そして、それから今回チャンピオンに返り咲くまでに5年と9か月。辛い日々が続きました。 僕は今年で36歳。ボクサーとしては厳しい年齢です。けがが増えたり、試合の内容が悪かったりして、周囲や身内から「グローブを置いたら?」と引退を勧められました。なによりも、以前のような「チャンピオンになりたい」という強い気持ちが足りなかったと思います。 ボクシングは、体と心が一致してはじめて勝てるスポーツです。体はトレーニングで作れても、心が作れないと勝つことはできません。どん底の日々でしたが、それでも「もう一度、体と心を一致させた世界戦をしたい」と願って、ひたすら練習を続けました。 そして念願が叶い、今回の試合が実現しました。でも、試合の45日前に左手親指を脱臼骨折してしまったんです。普通なら試合もできないし、心も折れてしまうと思います。ラストチャンスと銘打った世界戦だったこともあり、焦りや不安、葛藤がなかったと言ったらうそになります。 結局、痛みが引いたのは試合の1週間くらい前。 でも心のどこかで、“あの6年弱を乗り越えてきたから大丈夫”という気がしていました。これだけ辛い思いしてきたのだから、神様がもう一回チャンスをくれるはずだと。 いま思えば、「左手を骨折したから、右手を使う練習ができる。足を使う練習ができる」というふうに考え方を切り替えられたことが奏功したと思います。 そして、6年弱の間に味わった全ての経験、そして「気持ち」が今回の勝利に結びついたのだと確信しています。

悩んだときは、やらない後悔よりもやる後悔を選べ!

―長谷川
敗戦からチャンピオン返り咲きまで、5年と9か月。正直、試合をするかどうかさえ迷って過ごした時期もありました。『負けたらこれまでの栄光が崩れる』と周囲からも諭されました。それでも、10年後、20年後に“あのとき試合をしていたら……”と思うくらいだったら、負けてもいいから挑戦したい。やらない後悔よりも、やった後悔のほうがいいと思いました。 そう決心してからは、もう一度チャンピオンベルトを巻く自分を強く、リアルにイメージしていました。“こうなりたい”ではなく、“こうなる”のだと信じること。悩むこともあるけれど、絶対にできるイメージをもつことは、ボクシングだけではなく仕事においても大事ではないかと思います。 新しい事業を考えていたり、新しい一歩を踏み出そうとしている方は、不安を感じることもあると思うし、失敗する可能性も当然あると思います。でも、闘ったほうが断然いい。 僕も試合前は毎回怖いです。でもそれを乗り換えたときの達成感がすごく大きいから、「やる後悔」をずっと選んできました。今回は結果的には勝つことができましたが、負けていても後悔はなかったと思います。 いつか尊敬する方に言われたことがあります。『悩んだときは、考えて楽しいと思ったほうを選びなさい』。いま悩まれている方も、楽しいと思えるほうに進めば、後悔しないと思います。
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約10年勤めていた会社を退職。料理未経験のオーナーが、退職後約4年かけて東京都・高田馬場にオープンした立ち飲みスペインバル「TAKADAnoBAR」は、瞬く間に人気店になった。 その後、お客さまの要望に応えるかたちで、東京都・新宿に「EXOTICA」として移転。福本智さんに脱サラから開業までの道のりを伺いました。

会社員生活10年の節目を迎え考えた“これから” 好きなことをして生きていきたい!と一念発起

━ 福本さんは、もともと料理好きで普段からご自宅でお料理を作ってたんですか?

福本:独身時代はまったくやったことなかったんですよ。33歳になって、会社勤めが10年を迎えたころ、このままずっと同じ仕事を続けるより“なにか好きなことをして生きていきたい”って思い立って退職したんです。 そのあと何をするかまったく決めていない状態で…(笑)。

━ それはまた、思いきった行動にでましたね。何がきっかけで飲食店を開業することになったんです? 福本:そうですね。もともとおいしいものを食べたり、酒を飲んだりすることが好きだったのですが、ちょうどそのころボクよりも食べ飲み歩きが趣味という、今の妻に出会って、彼女をとおしてワインにも興味をもつようになったんです。 結婚しようと思ったのですが、彼女のご両親にあいさつに行くにも無職では世間体が悪かろう…と、とりあえず保険会社に入りました。 それが全然おもしろくない仕事でね~(笑)1年足らずで辞めました。それで妻と将来のことをいろいろ話すうちに“やりたいことをやった方がいいよ”って後押しをされて、一念発起。それで飲食店を開業しようと思ったんです。

再び仕事を辞めて、スペインへ。 ここで出会った“バル”こそが理想のスタイル

━ 開業までは大変な道のりだったんですか?

福本:飲食関係で働いた経験はないし、年齢も30代半ばでしたから、現場での仕事には就けなかった。だから、まずは居酒屋などに食材を運ぶ卸売業者に就職、社員として営業を担当。肉や魚の部位や旬の素材、食材の産地、それから食材の相場も学びました。 あるとき、妻に自分がやりたい店は気軽に立ち寄れる雰囲気で…とイメージをあれこれ話したら、“それはスペインにあるバルスタイルじゃない?”と教わって…。じゃあ、それを見に行こう!って、また仕事を辞めてスペインに向かいました(笑)。 現地でいろいろなお店をのぞいたのですが、サッと立ち寄れて、安くておいしい小皿料理が楽しめるスペインバルは、まさに自分が理想とするお店だったんです。会社員だったころは、そういうお店がなくっていつも探しまわっていましたから。

━ 日本でもブームになって今でこそ市民権を得たバルですが、当時は珍しいですよね?バルスタイルに決まってから開業まではスムーズでした?

福本:そうですね。確かに、当時バルスタイルのお店はあまりありませんでしたね。 お店のスタイルが決まったので、あとは料理とお酒だと思ったので、ワインは近所の酒屋で半年間勉強させてもらいました。 でもそこはフランスワインが得意な店だったので、自宅でひたすらスペインワインをネットで買って飲んで、を繰り返し!(笑)現場仕事は、先輩が開いたハワイアン居酒屋で勉強しました。 その時、東京には山ほど飲食店があるから、自分の店にも何か看板メニューがないと店が続かないなと思って…。それで、舌の肥えた妻を練習台に、半年かけて白レバーとフォアグラのパテと牛スジの煮込み・マッシュポテトのせを開発しました!

開業資金はなんと200万円! 店の狭さが逆にお客さんとの距離を縮めてくれた

━ なるほど。この人気メニューはそうやって生まれたんですね。お店の場所はどうやって決めたんですか?

福本:物件は、自分が自宅から上り電車でいくエリアで探しました。立ち飲みで、15人も入ったら満員になるくらいのスペースで、高田馬場の路地裏にあるアパートの1階。そこでオープンしたのが「TAKADAnoBAR」でした。妻と内装をDIYで手掛けて、業者に頼んだのはトイレとエアコンくらい。全部合わせても200万円足らずの設備費で出来たので、負担は少なかったです。 店が小さかったこともあり、お客さんとの距離が近くて、よくおしゃべりしましたよ。立ち飲みスタイルなのに女性の常連客が多いと言われたのは、料理の話など、美味しいものが共通の話題だったかもしれませんね。 でもそのうち「予約ができるお店にしてほしい」「座る席も欲しい」「アクセスの良いところにしてほしい」っていうお客さんの要望が増えてきたんです。

━ それで新宿に「EXOTICA」を出店したわけですね?移転して、さらにお店の名前も変えてお客さんが離れるといった不安はなかったですか?

福本:お客さんからの要望だったので、不安はなかったですね。「集まりやすくて、座れて、予約がとれる店」を目指したので、新宿に限定して店を探しました。 ここなら高田馬場の常連さんも来やすいし、どこから来ても便利。おかげさまでたくさんのお客さんに来ていただくようになりましたが、ここも席が少ないので予約が取りづらいと言われるようになり、昨年同じエリアに2店舗めをオープンしたんです。 でも複数店舗を経営すると、お客さんと直接話す機会が減って、少しずつ距離が離れてしまったように感じました。それって自分が目指すお店とは違うんじゃないかと思いはじめたんです。

原点回帰…やっぱりお客さんと身近な距離感で 料理とおしゃべりが楽しめる店に戻りたい

━ それで1周年を迎えた2店舗めを閉店することにしたんですね

福本:そうなんです。もうすぐ50歳になるので、もう1度、繁華街ではないエリアで前みたいにお客さんと距離の近いお店をやるのもいいかなって思ったりもしています。

━ 最後に、飲食店を長く続けるコツをおしえていただけますか?

福本:とにかくお客さんを飽きさせないことですね。「いつ行っても季節のおいしいものが食べられる」「いつ行っても店内がきれい」。 基本のことをキチンとやってお客さんを迎えるという気持ちじゃないでしょうか。それと一番大切なのは、お客さまとの信頼関係を築くこと。 店とお客さまが商売という関係性だけではなくそれ以上の人間関係ができたり、その人の日常の一部になれた時、その店は大切なお客さまに支えられて長く続くようになるのではないでしょうか。

更新日:2016/10/28
文:堀家かよ 撮影:堀家かよ/樋口代史子

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齋藤 真帆さん(37歳)
(株)ヴィヴィッドクリエーションズジャパン/東京都渋谷区
大学卒業後、出版社を経てメーカーに。2006年にシンガポールの日系企業に就職。フリーランスのコーディネーターを経て09年にシンガポールで起業。15年には日本法人も設立し、2カ国でイベントやPRを中心としたマーケティングサービスを行う。

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日本のコンテンツを輸出「リアル脱出ゲーム」も

日本とシンガポール 国境を越えて人をつなげる

事な時は感性を頼りにするタイプです。これだ!と思ったら止まらない。いいな!と思った人にはすぐ会いにいく。海外でベンチャーをやってると言うと興味を持っていただけることが多いですし。そこからまた会いたい人につながっていく。これが醍醐味かな。    学生時代の憧れはニューヨーク。人種のるつぼで皆が夢を持って切磋琢磨している。私も一緒に頑張りたかったんですが、その時はハードルが高かった。でもやっぱり海外で働きたいと思い立った時、シンガポールと出合いました。ニューヨークと同じく多国籍でエネルギーにあふれる国。そこで働き始めて、やっと人生のスタートラインに立てた気がしました。    シンガポールは新しい国で独自の文化を形成しているところ。一方、日本には素晴らしい文化がある。両者をつないで日本のコンテンツをシンガポールに紹介しようと思ったのが起業の動機です。ただし一方的に発信するのではなく現地に合わせてローカライズするのがポイント。例えば立川志の春さんの英語落語。現地での体験をマクラにして、質疑応答も自分の言葉でする志の春さん、すごい柔軟性です。こういう人に会うと自分もいい仕事ができる気がする。


更新日:2016/11/3
取材・文/東 雄介 撮影/太田未来子、刑部友康、阪巻正志
アントレ2016.夏号 「儲けも損も財産だ 激白!社長の醍醐味」より
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2015年11月、佐々木礼子さん(仮名)の年間密着取材を開始しました。「EU圏でキャビンアテンダントとして長く働き、永住権も取得したのですが、体調を崩したことをきっかけに日本に戻ってきました。でも、転職ができないので、独立しようと思ったんです」とお話しくださいました。 いつも前向きで、背筋をシュッと伸ばした佐々木さんが、独立すると心に決めてから、起業形態・業種選びを模索する中、その時その時の思いを伺ってきました。 >>バックナンバーはこちら

2015年夏に独立を決めたのは 転職がうまくいかなかったから

航空会社の専門学校を卒業してからは、秘書とか通訳、アジア圏の航空会社のキャビンアテンダント、飛行機の機内通訳を勤めた後、EU圏でキャビンアテンダントになったんです。英語圏でなかったので、最初の2年は日常会話もできなくて泣いて過ごしていましたが、こんなことではダメだと踏ん張りました。
言葉に不自由しなくなり、仕事も覚え、仕事がオフの期間はアメリカの大学にも通って勉強をして過ごしていたが、体調を崩して帰国を余儀なくされる。
日本で就職しようといろんな会社を受けるたんですが、使いにくいと思われたり生意気だと思われたりするのか、受け取るのは不合格の通知ばかりで…。150社はエントリーしたと思います。だからね、もう転職じゃなくて独立しようと思って。

説明会やセミナー、アントレカウンターで 見分を深めるなど、行動の2015年秋

独立開業はこの秋の某国家資格を取得してからだと決めています。この資格があればフリーとしても働けるので、自分がやりたいと思う仕事で独立するために、朝4時から寝るまでアルバイト以外の時間はずっと勉強しています。
資格を生かした独立を目指す佐々木さんが興味のある業種は、通訳・翻訳、中古車の輸出、航空会社の教官、旅行関連、不動産など、様々だが、事務も法務も営業も、もちろん経営の知識も経験もないのに起業するなんて無謀じゃないかと思うこともあるという。フランチャイズのようにパートナーがいる独立のほうが良いのではないかと悩みながら、自分に合った道を模索していた。
いろいろ悩んでいたら、「アントレ独立カウンター」が無料でセミナーと個別相談を行っていると知ったので、さっそく申し込みました。相談員の方に、気になるフランチャイズがあるなら、実際に目で見て確かめた方が良いと勧められたので、気になっていた輸出関係の某フランチャイズの説明会に行ったんです。 もともと、メールをしても返事もないような状態だったので、私には合わなそうだと迷っていて。実際の説明会でも対応が悪く、自分には合わないと感じました。 ほかのフランチャイズは違うかもしれませんが、たくさん資料請求した中から選んだ会社がこの結果だったので、フランチャイズは選択肢から外すことにしました。

方向転換を重ねた 2016年冬~2016年春

某国家資格は残念ながら不合格だった佐々木さんだが、前向きな姿勢は変わらない。
健康でいれば、いろいろなチャンスに巡り合い、それをモノにできると思いますので、そう信じて次の試験も頑張りたいと思います。周囲の応援あってこそ自分があるので、感謝の気持ちを忘れず、明るく元気に過ごしていきたいです。
独立の選択肢から外したフランチャイズだったが、気持ちをリセットしたという佐々木さんは、年始に急きょ某フランチャイズの説明会に参加することに。
もともと気になっていたフランチャイズなんですけど、加盟金が高かったので説明会は行かなかったんです。たまたま自宅付近で説明会が開催されるっていうから、参加したら、本当にいろんな質問に気さくに答えてもらえて。加盟金さえ高くなかったら決めても良いかな?と思ったくらいだったんですが、車の運転が必須で…。私はペーパードライバーで運転に自信がないから諦めました。 でも、この説明会で、日本の伝統工芸品を製作・販売している代理店業があって!海外に販売したりしているらしいから、キャリアが生かせるかと思えたんです。
さっそく、翌月、その伝統工芸品を扱う代理店の説明会にも参加したという。
日本文化を海外や訪日外国人向けに発信する事業というのは、まさにやりたかった仕事!スタッフの皆さんが熱心で、どんな質問でも、すぐ答えてくださいます。 会社の風通しが良さそうですし、返信が早いので好感が持てますね。私も東南アジアを中心にヨーロッパや中東からもお客さまを呼び込みたいです。
この時期、アルバイトを辞めたものの、次のアルバイトがなかか決まらずもどかしい思いをしていたが、独立の方向性がまとまってくるとともに、アルバイトの方も随分前に履歴書を送った企業から急に声がかかり始めるなど、ものごとが一気に動き始める。

フランチャイズを選択肢から外し 再び方向転換した2016年夏

専門学校の非常勤講師や家庭教師と複数のアルバイトで忙しくなった佐々木さん。 日本の伝統工芸品を製作・販売している代理店の工房に、最終確認のため見学へ。
見学の後、やっぱり個人で独立しようと決めました。代理店として独立するには多額の費用がかかるという、マイナスイメージを払しょくすることができなくって。 元々フランチャイズには興味がなかったのですが、自分一人の力で独立する自信がなかったのでフランチャイズで……と考たんですが、独立できる国家資格もいくつか持っているので、思い切って1人で開業しようかな……と思い始めました。 英語教育関係から始めて、めどが立ったら、旅行業務取扱管理者の資格を生かして、訪日外国人に観光案内をしたりしたいですね。
この頃、アルバイト先の同僚から塾の講師アルバイトを紹介されるなど、仕事の依頼が次々と舞い込んでくるようになり、某国家試験も近づく中、講師業で超多忙となった。
いただいた仕事はすべてお引き受けするつもりで頑張っていかないと未来は開けないんじゃないかと思っています。 去年の転職活動は何百通と履歴書を書いて、落ち続けていたので、講師業で初めて自分が評価されたと嬉しく感じています。 今さらですが、転職がうまくいかなかったのは、会社選びを間違えていたからかもしれませんね…。実は経営者としてのオファーももらいましたけど、今は独立しか視野にないのでお断りさせていただきました。

独立準備は残すところあとひとつ。 目標の某国家試験に受かるだけの2016年秋

講師業が多忙を極め、「次の某国家試験、難しいかも」と取材中に一度だけ弱音を吐いた佐々木さんだったが、試験を間近に控え、ポジティブに。
試験に合格したら2017年春くらいには英語教育と訪日外国人向けの観光案内で独立したいです。仕事のオファーも本当にたくさんいただいていて、みなさん、私の開業を待ってくださっているんです! 転職活動をしていた時はWEB応募も含めると、おそらく300通は、履歴書を書きましたがうまくいきませんでした。 でも、その苦い経験のおかげで、就職指導やさまざまなジャンルの講師としてのお話がいただけるなんて、あの大変な時期があったからこそでしょうね。 世の中に無駄な経験はない…自分の身の周りに起こること全てに意味があり、そしていずれは必ず解決する…。というのは、まさにこういうことなのだと思います。

佐々木さんの笑顔とともに ~取材を終えた編集部

2015年、初めてお会いしたときは、転職活動がうまくいかなくて、とお話しくださった佐々木さん。 当時も笑顔とともに語ってくださっていましたが、2016年冬に、気に入った代理店と出合った頃から笑顔が変わったように感じました。ご自身の方向性が決まった安心感からなのか、心から独立に向けた活動を楽しんでいるようにお見受けしました。 ちょうどその時期に、アルバイトも決まり、どんどん仕事のオファーも増え、お会いするたびに笑顔が増えていったように感じています。 いつも周りに感謝の気持ちを持ち、自分に厳しく、目標をもって歩み続けていく前向きさが、新しい道を切り開く原動力なのかもしれません。

更新日:2016/10/28
文:樋口代史子 撮影:中村公泰
撮影協力:八重洲ブックセンター本店 喫茶ティファニー

独立開業への道 365日 アンケート2

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2016年10月28日

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NPO法人コモンビート/東京都世田谷区

理事長 安達 亮さん(33歳)

1981年、東京都生まれ。大学卒業後、そのまま就職することに違和感を抱き、2004年4月~7月、世界一周航海「ピースボート」に乗船。船内企画だった『A COMMON BEAT』にキャストとして参加し、その活動内容に感動する。2005年、同作品を日本で上演するNPO法人コモンビートの事務局長に。10年間の経験を生かし、2014年1月、理事長に就任。スローガン「個性が響きあう社会」を掲げ、ミュージカルプロジェクトを中心に国内外で様々な表現活動を展開している。また、同年9月より、日本ブラインドサッカー協会の理事も務める。

日本有数のコンサートホール、昭和女子大学人見記念講堂(東京都世田谷区)を満席にする、学生や社会人がつくり上げるミュージカルがある。毎年、顔ぶれの異なる100人のキャストが、100日間でつくり上げる『A COMMON BEAT』で表現されるのは、「ある日、異文化の存在を知り、戸惑い、争い、やがて……」という人類の雄大なヒストリーだ。このミュージカルの真価は、見る者を感動させることだけでなく、感動させるために研鑽を積む中で、100人が自らを見つめ直し、社会に目を開く“気づき”を得るところにある。 運営主体であるコモンビートが設立されたのは、2004年3月。現在は、東京ほか大阪、名古屋、石巻、福岡の各地でそれぞれキャストを集め、活動している。これまでに約80回の上演を行い、キャスト参加者は3000人、観客動員は10万人近くになった。2014年1月に新たに理事長に就いた安達亮は、「今後10年間で、キャスト経験者を1万人まで伸ばしたい」と意気込む。その安達が、今の活動にのめり込むようになったきっかけは、大学卒業後、就職活動を放棄して飛び乗った「ピースボート」にある。


表現活動を通じて、自分らしく、たくましく生きる個人を増やす。

━ 就活をしなかった理由は?

僕は、昔から学級委員をかって出たり、運動部の部長をやったり、輪があったら中心にいたいタイプなんですね。目立ちたいのではなくて、リーダーシップを取ることで、みんなの役に立ちたいという気持ちが強くて。 今思うと、そんな自分が「会社組織の一員になる」ということが、完全にミスマッチだったのでしょう、どうしても就職の実感が湧かないわけです。 で、やりたいことが見つかるまで就職活動はいったん休止すると決めたある日、「地球一周の船旅」っていう新聞広告が目に入った。もともと海外には興味があって、世界を巡れば何か得るものがあるのではと、参加を即断したのです。

━ そこでミュージカルに出合ったわけですね。

ピースボートって船の上で過ごす時間が長いから、そこで様々な活動が行われるのですが、その中に今、僕らが日本語で上演している作品を原作の英語のまま演じるという企画があったんです。 もちろん、ミュージカルなんて初めて。でも、やってみたら、これが楽しいわけです。歌って踊って自分を表現するという未知の充実感もさることながら、いろんな年代、職業の人たちと出会って世界が広がっていく感覚がすごくよかった。 僕が乗船したのは2004年ですが、ミュージカルへの取り組み自体はその4年前から始まっています。洋上だけでなく、2003年には初めて陸上での公演も行われており、この活動なら、「自分の能力を生かして、人の役に立つ」という、本当にやりたかったことができるのではないかと感じたのです。 なので乗船後、運営主体として設立されていたNPO法人の事務局長に手を挙げました。

━ 普通の「ミュージカルづくり」との違いは?

取り組んでいるのは「ミュージカルをつくる」ことではなくて、「それをすることによって社会をつくる」活動です。目指しているのは、多様な価値観を認め合える社会形成。その社会をつくるのは、構成員であるキャスト一人ひとりなので、自らを変えるだけでなく、周囲にも影響を与えられる人に成長できるような、独自のプログラムを組んでいるんですよ。 主軸になるのが、ストーリー展開に合わせたグループディスカッションで、例えば、祖先を顧みるシーンでは、「自分の祖先について調べよう」という課題を出し、発表し合う。自分の「来し方」に思いを馳せることは、その後の人生において何がしかの糧になるはずです。 キャストの大半は会社員ですが、初めは雰囲気もどんよりで(笑)、 「人前で歌うなんてとてもとても」という感じ。それが100日後には、大勢の観客の前で目を輝かせて自分を表現している。一番驚くのは見に来た友人たちで、その人たちが翌年の キャストに応募してくれる例が非常に多いんですよ。

━ ご自身は、やっぱり「就職」しなくてよかったですか?(笑)。

はい(笑)。人の役に立っていれば生きていけると思っている僕のような人間が、非営利のNPOという組織に出合えたこと自体、本当に幸運だったと感じています。キャストたちが、100日間で成長してくれるのは確かです。でも一方で、今までは「101日目」以降のフォローが弱かったかなという思いもあって。 実は、コモンビート「卒業者」には、経験や気づきをもとに組織を立ち上げ、社会貢献に力を注いでいる人も少なくありません。 今後は、そうした活動を積極的に紹介していきたいし、活動趣旨を理解してくれるほかのNPOなどとの連携も重要なテーマになるでしょう。 それらを通じて、社会に向けた歌声の輪をどんどん広げていくことが、僕に課せられた使命だと思っています。

取材・文/南山武志 撮影/刑部友康 構成/内田丘子

2016年10月26日

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川岸 亮造さん(34歳)
(株)KOMPEITO/東京都渋谷区
大学卒業後、日系コンサルティングファームで製造業の研究開発部門のコンサルを担当。のちにKOMPEITO共同創業者となる渡邉瞬氏と出会い、農業界が抱える問題を痛感。農産物物流の変革を目指し、起業。都内オフィスに新鮮野菜を届ける。

VOL.159
会社に野菜を「置く」発想「オフィスで野菜」運営

大手を巻き込み 農業界を変える「没頭」の力

ンサル会社で働いていた頃は複数のプロジェクトを掛け持ちしていました。どれも面白いけど「こなす」感じは否めない。一つに没頭できればもっと大きなインパクトを残せるのに……。そんな折りに会社の同期に農業界が抱える問題を聞かされたんです。この先農業界は変わる、そこで自分が没頭すればインパクトが出せる。そう思って同期と2人で起業しました。    「オフィスで野菜」は都内160社に新鮮な野菜を届けるサービスです。中間業者を挟まずまとまった量の野菜を届けるので、農家さんが手にするお金を増やせます。代金は会社持ちで、社員は健康に。仕事中でも気軽につまめるよう、ミニトマトみたいな小さい野菜をそろえました。初期は僕らが自転車をこいで「お前は港区内担当な」とかやって野菜を届けていたんですが(笑)、今は朝日新聞の販売所と提携して配送を仕組み化しました。考えてみると自力にこだわる必要もないんですよね。実はキユーピー(株)とも提携しているんです。僕らがハブになってそういった既存の大手プレイヤーを巻き込めば、世の中を動かす力はもっと大きくなる。でも主役はやっぱり自分たち。僕らはこのスタイルで農業を変えます。


更新日:2016/10/5
取材・文/東 雄介 撮影/太田未来子、刑部友康、阪巻正志
アントレ2016.夏号 「儲けも損も財産だ 激白!社長の醍醐味」より

2016年10月24日

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2015年11月、中北一郎氏(当時47歳)の年間密着取材を開始しました。2015年夏、取材にご協力いただける方を募集したアントレ編集部は、多く独立開業希望者と面談をさせていただきましたが、中北さんの場合は「それは、だいたいいつ頃のエピソードですか?」と伺うと、「○月×日です」と、時にメモを見ながらも、はっきりと丁寧に答えてくださっていたのと、「何でも隠さずお答えします」とおっしゃっていたのが印象的でした。 その後、独立開業を決め、経営者となった中北さんに色々な話を伺ってきました。 >>バックナンバーはこちら

○転職先の内定を辞退して独立を決めたのは 「また会社員やるの?」という妻の一言

大学卒業後、ソニー株式会社に入社したのは、独立したいと思っていたからだという中北さん。
大学時代にね、脱サラして起業した友人のお父さんから、成功している会社に入って勉強することが独立への一番の近道だという助言をもらったんですよ。 会社員時代も、ずっといつかは独立するという想いはもっていましたね。具体的に動き出したきっかけは、2012年の早期退職制度の募集だったんです。 その時は、申し込むのが遅くなっちゃって応募できなかったんですが、仕事の区切りもついたし新しいことに挑戦してみたいと思うようになりましたね。 そうこうしていたら、2014年にもまた募集がかかったので、今度はすぐ妻に相談し、即、応募して転職活動を始めたんです。
退職が決まり、「新しいこと」を目指した中北さん。しかし、独立ではなくキャリアを生かしての転職活動をしていたという。
実は、ある企業から良い条件の内定ももらったので、半分くらいそちらに行く気でいたんですが、本当に良いのかな?と妻に相談したら、また会社員やるの?と言われて。ビックリしましたよー。
奥さまのこの一言が独立の転機になる。
さっそく、脱サラして開業した奥さまのお父さんに電話をしたんですよ。その時初めて会社を辞めること、既に内定をもらっていること、家族の生活もあるのでリスクのある独立は迷っていることを相談したんです。 そしたら、自分で何かやると思っていたよと言ってもらえたので、独立を決めました。

○IT関連での起業は考えていましたが フランチャイズで開業しようとは思っていませんでした

奥さまのお父様から「自分のスキルを生かせる仕事を始めた方が良いんじゃないか」と独立の助言をもらった中北さん。 IT関連での独立を考えていたが、たまたま、友人に教わった日米フランチャイズEXPOに参加し、初めてフランチャイズビジネスを考え始めたという。
興味を持ったのはパソコン教室ですね。私もパソコンに携わる仕事をしてきましたし、人に教えることはもともと好きですし。 初めはね、フランチャイズを信用していなかったんですよ。しかも、パソコンが普及した時代のパソコン教室なんて。でも、言われてみれば、うちの近所に10校も教室があったんです。 そこで、儲かるからくりを調べてフランチャイズのパソコン教室関連10社くらいコンタクトをとって話を聞きに行ったり、実際に体験入学してみたいりしたんです。そうするとね、ビックリすることに、思いのほか、人が来るんですよ! 平日の午前中でも賑わうので、いけるんじゃないかと実感しました。

○数あるフランチャイズから、今の本部を選んだのは データを重視する考え方が自分に合ったから

いくつかフランチャイザーに話を聞きに行きましたが、統計など数字を見るフランチャイズが自分に合うと思いました。フランチャイザーの持っている膨大なデータと研究結果は安心感があります。あと、開業していらっしゃる方にお会いして話を聞くことが出来たので。
フランチャイザーからは、店舗の立地をいくつか提案してもらったり、教室をオープンする前はオーナー研修やスタッフ面接時のロールプレイングなど、びっしりと研修をしてもらったという。 自宅にはオープン前までに見ておくべきDVDなどがビッシリだったが、新しいことに踏み出した中北さんは、開店準備の疲れをもろともせず終始にこやかにお話しくださいました。

○フランチャイザーによる細やかなロールプレイングを終え2016年2月5日に念願のパソコン教室をオープン!

スタッフを採用すると、今度は開店直前まで全員でフランチャイザーのロールプレイング研修を受講。
教室の工事が1日後倒しになってしまったので、実際の教室で行うスタッフ研修も遅れたりしてバタバタでした。チラシ配り、新聞折り込み、ポスティングなどの販促もしました。いよいよオープンだと毎日ワクワクしています
販促方法やユニホームなど、決めることは盛りだくさんなこの時期、「責任も決定権も自分にある」とことあるごとに嬉しそうに口にしていましたす。 教室にいつ伺ってもスタッフさんと旧知の仲かのように軽口を叩いていたのが印象的です。

○開業後に気づいた唯一の失敗点は 「お金を借りられるだけ借りなかったこと」

開業から2カ月。それまではお金のことを口にしなかった中北さんだったが、収支が気になりだした。
販促費がかかって仕方がないんです。ひと月に80万円以上かかったりするんですよ。人件費や求人募集の費用、販売促進用のチラシなど、これが想定以上にかかる。 契約前にフランチャイザーから提示されていましたが、あれは本当に最低限ですね。開業前は支出を抑えたいと思って日本政策金融公庫からの借り入れを少な目にしましたが、追加融資を受けることは難しいので、こんなことなら初めに満額借りていればよかったですよ。
生徒を呼び込むための販売促進費や、スタッフの追加募集、パソコンの不具合による総取り替えなど想定外な自体が中北さんを襲う。

○人とお金に悩まされる日々を送るも 「スタッフが全て。結果はついてくる」の信念

教室をオープンしてから1カ月目で1人のスタッフが退職。その後も「思っていた仕事内容と違った」などの理由から辞めるスタッフが。 開校から半年、3人目のスタッフが退職したときは、初めてポジティブではない言葉が飛び出す
退職理由を聞き、数カ月働いただけで仕事の何が分かるのかと少し憤ってしまいましたね。長く勤めたソニー株式会社では、雇用形態に関係なくみんな、髙い意識を持って責任ある仕事をしていたので、そんな理由ですぐに退職を決めてしまうなんて、考えられなかったんです。 経営側としては辞められてしまうと本当に痛いんです。3カ月で辞められてしまうと100万円がパーですからね。 人を1人育てるのには作業とお金がかかっていますが、当の本人はそんなことは関係ないですからね。本当に悔しいですよ
人を動かすことはマニュアル通りにはいかないと痛感した中北さんだったが、その後はITに強くなくても一生懸命やろうという姿勢を持った方を採用するなど、フランチャイザーの採用マニュアルに自身の経験をプラスして運用しているよう。 常に「スタッフが全てですから。きちんとやっていれば結果は後からついてきますから」と口にする中北さん。 なかなか黒字化しない中、スタッフの正社員化手続きも開始。さらに、フランチャイザーからは人件費が多いと指摘を受けるも、
赤字でも人件費だけは削りたくないんです。スタッフのモチベーションを保つためにも。アルバイトってすぐ辞めることができちゃうけれど、教室のことを真剣に考えて、意見してくれるような、本当に良いスタッフたちに恵まれていると思うので。

○結束の高まるスタッフと中北さん 今後の複数店舗経営の実現に向けて

アントレ編集部はスタッフ5名に「経営者としての中北さんはいかがですか」と個別に聞いてみたところ驚くべきことに全員から同じ返事が返ってきた。 それは、「いいことも悪いことも、思ったことは直接中北さんに話しています」という言葉。これには取材陣も驚きを隠せなかったが、確かに取材中も、家族のような距離感で話をする場面は何度もあった。 スタッフからは「皆さんの教室ですからって中北さんはいつも言っています」「一番大切なのは生徒さんだから、生徒さんのためになると思うことは相手が誰でも遠慮せずに話し合いをしています」という返事。中北さんの思いとスタッフの意識は共通のものでした。 そして、驚いたことに、スタッフは副業で教室勤務をしているという方がほとんどでした。中北さんは開業前から複数教室経営をしたいと語っていたので、これは矛盾しているのでは?と聞いてみたところ、
「経営を任せたいと思う人はもちろんですが、うちで学んで世界に羽ばたいてほしい人も採用しているんです。大学生も雇いました。うちで働いた経験が次のステップになればいいと思っています」
今の夢は、教室が黒字化して経営が安定したら2校目を出すこととだという。
成熟して既にパソコン教室があるような街ではなく、これから成長していく可能性のある街で開業したいですね。つくばエクスプレス沿線あたりとかいいですね」
1年間の取材を振り返り、この取材の間に黒字化しなかったことがとても残念だと言っていた中北さん。
1年前と変わったことはありません。全て想定内です。1年前の自分にアドバイスするとしたら、借金は満額するべきだというくらいですかね。会社員時代に比べて、自分で全ての判断ができるのは自分に合っていると感じますし、ストレスも減りました。
いつ取材してもイキイキと楽しそうに働いていた中北さんは時に苦しむことはあれど、常に裁量権を持つ経営者であることを楽しんでいるようでした。

更新日:2016/10/21
文:樋口代史子 撮影:吉原朱美

独立開業への道 365日 アンケート2

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2016年10月21日

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朝6時前、まだ辺りが暗い中一軒一軒のドアノブにつくりたてのパンが届けられます。 朝食用パンのデリバリー専門店「ぱん工場 寛」の店主・田中朋広さんは、パンづくりを全て1人でこなすと、できあがったパンを自転車で届けて回ります。雨の日も雪の日も360日、年末年始以外ほぼ休みなく走り続けること10年。 お客さまに心のこもったおいしいパンを直接届けたいという田中さんの情熱は、パンと一緒にほのかな温もりも届け続けてきました。 大手企業を退職してパンづくりに取り組んだ田中さんが独立起業に当たり、考えたのは「自分にしかできないこと」。その結果、導き出した答えが「注文生産」と「デリバリー」を組み合わせた画期的なパン屋でした。その発想の原点はどこにあるのでしょうか。詳しくお話をうかがってきました。
<田中朋広さんプロフィール> 1967年生まれ、「ぱん工場 寛」店主。大学で化学を専攻し、卒業後、大手電機メーカーにシステム設計者として入社。27歳で退職し、都内のパン屋2軒で修業。川崎の薬局勤務を経て、2006年、都立大学駅近くに「ぱん工場 寛」を開店。国産の原料にこだわったパンの注文生産、夜中から早朝にかけてのデリバリーで、信頼と人気を集める。 http://home.p00.itscom.net/pankouba/index.html

“パン”ではなく、“ぱん”。店名に込めた、ささやかな思い

◆電機メーカーを辞めて一念発起。パン屋の開業に至るまでの道のりをお聞かせください。

―田中朋広さん(以下、田中)
大学卒業後、大手電機メーカーに入社し、システム設計の仕事をしていました。入社後の配属先は新規事業をやっている部署で、現場を担当していましたが、10年くらいすれば管理職になるのが予想できたんです。 でも自分はずっと現場で仕事をし続けたかった。その頃、地元の両親にいろいろと事情があったのもあり退職を決めました。 退職を決め、何かお店を開こうと思った時にパン屋を選びました。たとえばイタリアンなどはセンス必要ですが、パン屋なら体力勝負でできるだろうと当時は思ったのです。 それで退職後、沼袋と新宿の2軒のパン屋で計5年間、修行しました。

◆それから独立したわけですね。

―田中
いえ、一度職を離れ、家内の実家が切り盛りしていた薬局で事務を手伝っていました。パンづくりの現場からは離れてしまいましたが、もともと経営・マネジメントには興味があったので。 それで薬局に5年間勤めた後、パン屋での修行経験を活かしてようやく開業に踏み切りました。

◆ビルの2階という目立たない立地。この場所を選んだ理由は何でしょう。

―田中
自宅が近いことからこの近辺(都立大学)で探していたところ、タイミングよく今の物件が見つかりました。ビルの2階ですが、もともと店頭販売にはこだわらないつもりだったので、大通りに面している必要はない。釜だけでも4〜500kg、重機の重さが1トン近いので、その点は大丈夫かといろいろと確認が必要でしたが、最終的に大家さんの了承も得られたのでここに決めました。 また、当時、ビル内にはスナックもあって、ママさんがパンを買ってお客さんにおみやげとして持たせてくれたんです。おかげさまでそこから口コミで評判が広がったりして、とても助かりましたね。

◆お店のネーミングを、あえてひらがなにしたのは?

―田中
“パン"よりも、“ぱん"のほうが親しみを感じませんか(笑)。カタカナだときつい気がするし、”ぱん”の見た目も合わせ、「やさしさ」や「やわらかみ」を表現したかったからです。店名からも、そうしたぬくもりを伝えられればと思っています。
田中さんの作る”ぱん”たち

「勝負できるもの」「自分しかやらないこと」を大切にすることが成功の要因

◆独立する際に、とくに意識した点はありますか?

―田中
「勝負できるものを持つ」ということですね。独立して成功するには「自分しかやらないこと」を探すことが重要だと思います。 たとえそれが尖っていたり突拍子のないことでも、世の中のニーズに合っていれば成功するでしょう。いわば早く始めた者勝ちということです。

◆田中さんの場合、それが「注文を受けてつくる」ことと、それを「お届けする」という今のお店のスタイルだったわけですね。

―田中
そうです。注文を受けたぶんだけを夜中に焼き上げて朝までに届ける。これは前例がないやり方でした。勝負どころは「お届けすること」。 お客さんからすれば重視しているのは「味」。つくりたてのデリバリーをするのはそのほうがおいしいからであり、それが自分のお店の個性でもあり最も重要な強みでもあると考えています。

◆注文制にしたのはなぜでしょう?

―田中
きっかけは、パン屋で修業中に経営や会計にも触れる機会があり、その時、毎日生じるロスを目の当たりにしたことにあります。どれだけつくれば売れるか、いくらデータ化しても、ずれが生じて無駄がなくなることはなかったのです。 それを見て、パン屋はなぜ注文に基づく生産をしないのかと考えました。注文制なら、生産側としてもベースは確保されますし、確実にお客さんが見込めて、経営的なロスが少なく、価格転嫁もせずにすみます。

◆経営面でのメリットが大きいわけですね。

―田中
それだけではありません。注文制だとつくる側は流れ作業でなく、より「一つ一つ、おいしくつくろう」という意識も生まれます。お客さんの顔を思い浮かべながらつくればパンは絶対においしくなる。 そうして一つ一つ丁寧に心を込めてパンをつくり続けていればお客さんにも喜んでもらえます。注文制にすることは、経営的にもお客さんにとってもメリットがあるのです。

これまでの10年間と今後。時代に流されず、シンプルな味を大切にしていきたい

◆競争の激しいパン屋業界で10年続けられた理由は何でしょう。

―田中
開業した当時、このお店のある都立大学駅周辺では、パン屋は続かないというジンクスがありました。その中でこれまで10年間続けてこられたのは、ひと言でいえばうちが「変わっている」パン屋だからだと思います。 具体的にいうと、1つは先ほど説明した「注文制」と「デリバリー」を組み合わせたサービスの独自性。そしてもう1点はパンの味わいです。うちの”ぱん”は、バターを使っていないので、日持ちもしないのですが、味付けがシンプルで素朴なんです。 ほかの味を邪魔しないため、自分でトッピングやバターなどバリエーションを楽しんでもらえます。つまり、飽きることがない。だから、これまで10年間もの長い間、愛され続けてもらえているのだと思います。

◆最後に今後の展開をお聞かせください。

―田中
小さなお子さんにもうちの”ぱん”の味を試してみてほしいと思っています。 というのも、うちの”ぱん”はバターもですが、保存料や着色料なども入っていません。北海道産の小麦粉と世界遺産・白神山地で発見された白神酵母をふんだんに使っているので、素朴な”ぱん”本来の味わいと嚙みごたえがあるんです。 食育という意味でも、マーガリンがたくさん入った給食のパンに慣れる前に、”ぱん”本来の味わいを知ってもらいたいのです。だから、まだ小学校に入る前の幼稚園か保育園くらいの子に、こういうシンプルな”ぱん”もあることを知ってほしいと思っています。

編集後記

360日を10年間、雨の日も風の日も毎朝”ぱん”を届けて、温かいうちに食べてもらいたい。”ぱん”づくりは余分なものを使わず、本来の味を楽しんでもらいたい―。 経営手法、商品、そして心構えまで、田中さんは常にものごとをシンプルに考える方だと感じました。 そのどこまでもシンプルな願いをひたすら追い続けてきたから、10年もの長い間、お店を続けることができたのだと思います。これからの「ぱん工場 寛」の発展が楽しみです。

2016年10月20日

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岸田 浩和さん(40歳)
(株)ドキュメンタリー4/東京都杉並区
映像作家、映像記者。大学卒業後、レンズメーカー勤務の傍ら、ライター&カメラマン活動を開始。東日本大震災後、被災した宮城県石巻市内の缶詰会社を追った短編ドキュメンタリー映像が5カ国9カ所の映画祭で入賞・入選したのを機に独立を果たす。

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映像記事や企業ビデオを制作 映画祭に入賞した作品も

不可能を可能に 35歳からの映像作家デビュー

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歳の時、大学時代の友人に罵倒されたんですよ。「お前にはがっかりした!」って。バックパッカーやってた頃の僕を面白がってくれてたのに、その時の僕は会社の愚痴ばかり。「お前の経験を書き残せ」とも言われて、酔っぱらった勢いでライタースクールに申し込みました。    転機は石巻市内で被災した缶詰会社を取材したことです。カメラはまだ始めて数カ月、でもその時撮影したムービーが映画祭に入賞しました。今は自分が興味あるニュースを追いかけながら、企業のPR映像などの依頼を受けています。転がる石のような経緯ですが、結果的にやりたいことに近づきました。誰も知らない人、知らない土地、知らない景色を自分の表現で伝えること。    35歳を超えて、普通の会社員から映像作家へ。こんな転身ができたのはその年齢が“熱源”になったからだと思うんです。正攻法ではとても無理。気になるメディアの社長が登壇するイベントに押しかけては名刺を渡して売り込みました。でもこっちだって事業主です、憧れだけの人間じゃない。本気でかかっていけば、向こうも「こいつは何者だ?」って本気になってくれるんですよ。


更新日:2016/10/18
取材・文/東 雄介 撮影/太田未来子、刑部友康、阪巻正志
アントレ2016.夏号 「儲けも損も財産だ 激白!社長の醍醐味」より

2016年10月18日

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アジア圏・EU圏でキャビンアテンダントとして活躍した佐々木礼子さん(仮名)が選んだ『独立開業』という次のキャリア。彼女が何を考え、何に悩み、そして進んでいくのかに迫った長期密着取材。2015年11月からお送りしているシリーズの最終回。 某国家資格を取得してから独立開業したいと考えている彼女だが、試験日が差し迫ってくる中、アルバイトの講師業は多忙を極めている。 >>バックナンバーはこちら

人脈が増えた分だけ講師業のオファーが来るように

先月同様、講師業のアルバイトが順調な佐々木礼子さん。 講師仲間や昔の同僚、知人からの紹介によるオファーが後をたたず、現在では専門学校の7校8教科のオファーに加え、大学や企業からも英検やビジネスマナーの講師の仕事から声がかかっているという。
実は転職活動を始めた頃、国内でエアラインスクールや英会話スクールの仕事が決まっていたんです。 当初は“今までの経験や知識を生かした仕事をしてください”と言われていたのですが、蓋を開けてみたら全てにおいてもその会社のやり方で進めなくてはいけなかったんです。 それで、これはきっと人間関係がうまくいかなくなるだろう…社風が自分には合わないだろうと判断してやめました。 それからは、自分から積極的に行動することがなくなってしまって…。そんな時、ある知り合いの人から“今までのように自然体でいた方がいい”と言われて、そこからなんだか吹っ切れたんです。
1年前に比べたら、人脈が格段に増えたという佐々木さん。
アルバイトを再開してみたら、いろいろな出会いがありました。今までの知り合いやツテなどで、あれよあれよという間に仕事が増えていきました。 専門学校の講師や家庭教師の仕事をするようになって、今までと一番違うのは、人の話をすごく聞くようになったこと。年齢が上になればなるほど、注意や助言など周りの人は何も言わなくなりますよね…。 だから逆に周りの人に、何か間違っていないか、このままで問題ないかをことあるごとに聞くようになりました。 それによって、より人とうまく関われるようになったと思います。
この人脈を生かし、今秋の某国家試験に合格したら来春には都内で開業を予定している。 「私を待ってくれている人がいますから」とキッパリ言い放ち前を向く佐々木さん。 転職がうまくいかなかったこと、アルバイトが決まらないつらい時期を乗り越え、これからも前を向いて進み続ける。

更新日:2016/10/14 取材・文:堀家かよ 撮影:中村公泰

独立開業への道 365日 アンケート2

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2016年10月14日

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馬場 加奈子さん(44歳)
(株)サンクラッド/香川県高松市
大学卒業後、日動火災海上保険に入社。後に3人の子どものシングルマザーとなる。長女が障害を持って生まれたことから「子育てしながらできる仕事を」と考え、起業を思い立つ。大同生命を経て、2011年に中古学生服の売買を行う「さくらや」を開店した。

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お母さん1人で開業できる 学生服リユースショップ 

働き方は自分で決める 育児する母のためのビジネスモデル

ングルマザーとして3人の子どもを育てながら、生命保険の営業をしてました。楽しい仕事でしたよ。でも忙しくて。私はもっと子どもに寄り添いたかったんです。    学生服リユースはまず自分が欲しいと思ったビジネス。学生服って安くても1着1万数千円するのに、学校行事に参加していないのでお下がりを頼めるママ友がいませんでした。同僚に聞いてみると「私も」だって。無店舗で創業したら「学生服を売り買いするなんてアヤシイ」と言われて半年間は泣かず飛ばず。実店舗を出したらやっと信用されて、地域のお母さんも「こんなお店が欲しかった」と言ってくれるようになりました。    各校制服のデザインが少しずつ違うので細かい在庫管理が大変。でも買い取りの査定ルールをつくり、1万点以上の商品はPOSレジシステムで管理することで育児中のお母さんが一人でもお店を回せるよう効率化しました。だから営業時間も週4日の10時から15時まで。パートナー店を増やしてこの仕組みを全国のお母さんに広めるつもりです。お客さんからありがとうと言われるのはもちろんうれしい。でも私らが子どもと一緒に過ごす時間を持ちながら仕事もちゃんとできること、それが一番。


更新日:2016/10/12
取材・文/東 雄介 撮影/太田未来子、刑部友康、阪巻正志
アントレ2016.夏号 「儲けも損も財産だ 激白!社長の醍醐味」より

2016年10月12日

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千葉県・館山市。自然が広がるのどかなこの街に、1軒のジャム工房を営むのが礒部克さん。元々半導体製造会社に勤務していた礒部さんは、工場の閉鎖に伴い、ご自分が勤めていた環境を追われてしまいます。 そこで礒部さんが新しい職として選んだのが、なんとこのジャム工房。なぜジャム工房を選んだのか、開業までの道のり、そしてこれからについて礒部さんにお伺いしてきました。

突然の工場の閉鎖ー仕事がなくなっても館山に残った理由とは?

―まず、この工房を立ち上げた経緯をお聞かせください。

―礒部克(以下、礒部)
私は元々半導体製造会社に勤めていたのですが、工場が閉鎖することになりました。約1000名の同僚は新しい職を探すため、家族と一緒にこの館山市から出て行ってしまったんです。その理由は、仕事がないから。この土地には農業や漁業、介護しか仕事がないんです。 都会のようにたくさん仕事があるわけではないし、新たなビジネスに取り組む雰囲気もなければ、当然起業をするような流れでもない。でも私は、この館山から離れたくなかった。なぜなら、館山にはダイヤの原石がたくさん転がっていると思っていたからです。

―ダイヤの原石とは、なんでしょうか?

―礒部
ある農業関係の友人から、形の悪い野菜や完熟した果物を大量に廃棄しているという話を聞きました。いずれも、味はおいしいのに世に出して売ることができない。 そんな理由から野菜や果物が捨てられる現状を見て、私は不思議に思いました。「なぜ、ダイヤの原石が落ちているのに誰も拾おうとしないのだろう?」と。 館山には、そうしたムダになってしまっている野菜や果物を活用するための加工場がありませんでした。市の担当者さんとそんな話をしていたら「補助金を100万円まで出せるから、礒部さんが加工場をやりませんか?」と誘っていただいたんです。「誰もやらないなら、やってみようかな」と思って引き受けました。

―「やってみようかな」とは、なかなか軽やかなお返事ですね(笑)。全く未経験のジャム作りに不安は感じなかったのですか?

―礒部
もともと私は技術者なので、なんでも徹底的に取り組み、極めていけば、見つけてくれる人がいるという考え方を持っています。前職の半導体も、徹底的に研究して突き詰めて、そして気がついたら日本で1番、世界で1番になっていることもありました。 ですので今回のジャムに関しても、極めて突き詰めていけばきっとなんとかなる!と思っていました。技術者としてやってきた方法論を、ジャム作りにも当てはめてみたんです。

自分の舌を信じ、その素材に適した製法を独自で考える―ジャム製法へのこだわり

―その後は事業計画など、起業をするための準備段階になると思いますが。

―礒部
はい。「廃棄されている野菜や果物を使って、ジャムを作って売る」という構図からどのように工房を立ち上げるかを考えていきました。 まず、フランチャイズか自営かを考えました。フランチャイズとしてどこかの企業の傘下に入った方が、いろいろとノウハウもある上、資金や物資の調達も楽は楽だったのですが、私は自営を選びました。

―それはなぜでしょうか?

―礒部
やはり館山で作っている野菜や果物に自信がありましたし、味のレベルも高いと思ったんです。なら、どこかの傘下に入るよりも、ジャムを独自のブランド力を持つ方向に持って行きたいなと考えました。 原材料の味がいいことはもちろん、ジャムに何かしらの付加価値をつけたくて。その分値段もそれなりにしてしまうのですが、商品として付加価値の高いものを作ることがブランド力を持つためのポイントだと思っていました。

―付加価値を生み出すために、どんなことをされたのですか?

―礒部
まず、ジャムの作り方について徹底的に勉強しました。いろいろな公開レシピを見たり、市販のジャムを徹底的に調べ尽くしました。 酸度や糖度や粘度……、人気のあるジャムにどんな特徴があるのかを調べあげたんですが、一般的に使われているやり方が正しいとは限らないことに気が付きました。そして、結局は「自分の舌を信じて、素材の味を1番おいしくなる製法にしていくしかない」という結論に至りました。 そこで厨房を「実験室」にして、数ヶ月かけてそれぞれの素材に合った香りや色を出すノウハウを見出しました。酸化すると色が変わったりするので、うまく火力を調整したり、酸化を防ぐための方法を考えてみたり。 さらに、化学を専攻していた妻が、摘果した青いマンゴーの渋みを溶解する方法を編み出してくれたことで、今まで摘果した果物も有効的に活用することができるようになりました。

地元への想いが、周囲のサポートを呼んだ!―ジャムから始まる、館山のこれから

―こうした努力もあって、ブランド化への道は着々と進んでいるように感じます。開業にあたっての資金繰りはどうされたのでしょうか?

―礒部
最初に計算した段階では総額2,000万円だと割り出しました。しかし、実際に動き出してみると、なんと3,000万円はかかる計算になってしまって。2,500万円まではカバーできたのですが、どうしても残りの500万円が足りなかったんです。 残りの資金を捻出するために最初、政府系の金融機関に申し込みに行ったんです。でも断られてしまって。その後地元の銀行にお話を持って行ったら500万円融資してもらいました。「館山をもっと盛り上げるためなら!」と、地元の銀行の方が力を貸してくれたんです。

―苦難を乗り越えなんとか開業。その後の滑り出しはいかがでしたか?

―礒部
最初の滑り出しは上々でした。開業直前に地方紙の新聞記者の方に記事にしていただいて。そのおかげか開業日は、店からあふれるくらいにお客様がつめかけてくださいました。 しかしその後は徐々に落ち着いてきて。当初から黒字化までにはおよそ3年かかる計算だったので、織り込み済みではあったのですが。 さらにその後、テレビ出演などもさせていただきました。番組のファンの方がご来店されたりして、売り上げが2倍になるなど、順調に利益を伸ばすことができています。

―では、現在の売り上げは店舗での売り上げがメインなのでしょうか?

―磯部
店舗や通販での売り上げに加えて、OEM(他社ブランドの製品を受託して製品を製作すること)として近隣のホテルやレストランのオリジナル商品を受託しています。主にこの2本の柱で利益を得ています。

―礒部さんのフルーツ工房では、市役所の人や奥さんの副業、地元の銀行の融資や新聞、テレビの出演など、周囲のサポートがとても多いなと感じました。何か秘訣はあるんですか?

―礒部
やはり、人と人とのつながりだと思います。私が抱いている思いが、いろいろな人を動かしてくれているのではないかと思います。先にも話しましたが、この土地には素晴らしいダイヤの原石がたくさん転がっているんです。それを誰も拾わず、誰も磨こうとしなかった。 現にこの工房では50種類もの果物や野菜を使ったジャムを生産しています。それだけの素材が取れるのに、生産者も行政も、全然それをアピールしようとしていなかった。 私は、そんなダイヤの原石を磨いていきたいんです。そうした意識が周りに広まって、同じように感じていた人や共感してくれた人が自然と手を貸してくれたのだと思います。 最近では市が本腰を入れて、果物をシンボルにしようと取り組み始めていて、市内の「道の駅」に加工場をつくる構想を進めています。いずれはここに工場を作りたいと考えています。いい素材が豊富に取れる「館山ジャム」のブランド化によって、館山のこれからを作っていきたいと考えています。

2016年10月11日

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ソニーの品質保証で23年。学生時代から独立を夢見ていた48歳サラリーマンの中北一郎さんが、なぜフランチャイズのPC教室という形で独立開業の道を選んだのか?何から考え、どこで悩み、何を目指してどうなっていくのかに追った長期密着取材。2015年11月からお送りしているシリーズの最終回。 開業して7カ月。黒字化にならず、資金繰りが厳しい中でも人件費だけは削らないという理由を聞いてみました。 >>バックナンバーはこちら

赤字続きでも人件費だけは削りたくない!

10月1日、教室初の社員誕生に向けて、約3カ月前から会計事務所に相談していた中北さん。
これからも助成金制度を活用して、計画的に社員を増やしていきたいと考えています。オープン当初の予定では、1年後には黒字になって少しずつ教室を増やして経営をしたいと思っていたのですが、いろいろなトラブルやスタッフの退社などがあったので、まだ達成できていないのが現状。 本当ならこの年間取材が終わるまでに黒字になるはずだったんですけどね…。本部からも人件費を抑えるように…と助言をもらいましたが、スタッフのモチベーションと人の質だけは落としたくないんです。そこが経営の難しいところだなと思いますね。開業前から希望していた複数店舗経営については、実はすでに本部に1、2回相談していて、場所と資金が整えば…と思っています。 これから成長していく可能性のある街で開業したいと思っているので、今のところ、つくばエクスプレス沿線あたりを考えていますが、まずは今の教室を軌道に乗せることが一番ですね。
経営がなかなか順調に進まず悩みの多い中北さんだが、通学している生徒さんたちは着実に成果をあげているよう。
昨年4月にMOS(マイクロオフィススペシャリスト)に認定校されたのですが、うちの生徒さんで受験される方も増えてきました。 毎週土曜と日曜に試験を開催していますが、すでに3名の合格者が出ました。これはとってもうれしいことですよ。最近ではMOSを取るために入会する人も出てきましたから…。こうして少しずつ生徒さんが増えていくことが大切だと思います。

更新日:2016/10/7
取材・文:堀家かよ 撮影:中村公泰

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雇われない生き方img_vol.156

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角田 太郎さん(46歳)
(株)ワルツ社/東京都目黒区
大学卒業後、WAVE渋谷店、六本木店でバイヤーを経験。2001年アマゾン・ジャパンに入社し、消費財事業部長や新規開発事業部長を経て15年3月に退職。カセットテープやレコードを販売する「waltz」をオープン。カセットの店頭在庫は約3500本。

VOL.156
元Amazon部長が開業 カセットテープ店

時代に逆行 カセットテープが音楽業界を再生する

マゾンの黎明期から14年働きました。辞める直前の僕はよくいる外資系マネジメント人間です。アマゾンのことは誰よりも愛しています。でも僕がやりたかったことは別で。新卒でWAVEに就職したんですが、CD産業が衰退して不完全燃焼。アマゾンに転職してインターネットで音楽を売りながら「自分ならこんな店をつくるのに」ってずっと空想してました。    恵まれたポジションを手放すからには、アマゾンでは絶対できないことをしたい。そう思った時部屋のなかを見渡したら約1万本のカセットが並んでいたわけです。 僕はおそらく世界的なカセットコレクター。市場らしい市場がないのでカセットの入手は困難。でも入手困難だからこその「ありがたみ」があります。それこそ定額で音楽聴き放題の時代になって失われてしまったもの。    僕のビジネスの持論は時代に逆行すること。そうすれば誰もいないところにたどり着ける。起業したら社内稟議もなくなる、いっそう説得不要で逆行できますよね。SNSもマーケティングもしない。音楽離れが叫ばれているなか、それでも開店前からお客さんが並んでくれる。メディアが変わるだけで音楽はまだ売れるんです。僕は本気で、カセットから音楽業界を再生するつもりですよ。


更新日:2016/10/5
取材・文/東 雄介 撮影/太田未来子、刑部友康、阪巻正志
アントレ2016.夏号 「儲けも損も財産だ 激白!社長の醍醐味」より
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アジア圏・EU圏でキャビンアテンダントとして活躍した佐々木礼子さん(仮名)が選んだ『独立開業』という次のキャリア。 彼女が何を考え、何に悩み、そして進んでいくのか。2015年11月から365日長期密着でお送りしているシリーズ第23弾。 講師業のアルバイトが花を咲かせ、人づてに仕事のオファーが次々と舞い込みはじめた佐々木さんに密着! >>バックナンバーはこちら

自分の身の周りに起こることは全て意味がある!と実感

この秋に受験する国家試験に合格したら、2017年春頃をめどに、英語教育と海外からの観光客を対象に日本国内を案内する観光業で独立を考えている佐々木礼子さん。 現在は、資格取得のための勉強をする傍ら、専門学校・塾の非常勤講師、家庭教師など複数の講師アルバイトをこなしている。 数々のオファーはとどまるところを知らず、またもや、知人を通して大学、企業からマナーや検定関係指導の仕事を受けることになったという。
2~3年前、履歴書を200通くらい書いて、WEBアプライの応募も含めると、おそらく300通は、超えているだろうと思うほど、転職活動していました。 その苦い経験が積み重なり、今こうして就職指導やさまざまなジャンルの講師としてのお話がいただけるなんて、あの大変な時期があったからこそなんでしょうね。 あの辛い思い出は、私にとって必要不可欠だったんだな…と思うと、とても不思議な感じです。 人がよく言うように、世の中に無駄な経験は何ひとつない…自分の身の周りに起こること全てに意味があり、そしていずれは必ず解決する…。まさにこういうことなのだと思います。
国家試験も近づき、一時は合格するか心配だと少し弱気になっていた佐々木さん。 海外のエアラインで客室乗務員をしていた頃の激務や、数々の資格を取得するために勉強してきたことを思い出し、“今までいろいろなことがあったけれど、乗り越えてきた。忙しいからといって落ちるようではダメ”と自分を戒め、前を向いている。

次回の更新は、10/14(金)お楽しみに!

更新日:2016/9/30 取材・文:堀家かよ 撮影:中村公泰

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雇われない生き方img_vol.153

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斎藤 材さん(47歳)
ファンテイル/群馬県みなかみ町
機械メーカーで設計に従事後、車の性能をテストする会社へ。1年間、ワーキングホリデーでニュージーランドに滞在。その後、フリーターを経て群馬県のラフティング会社に契約スタッフとして勤務後、就職。2003年に独立。旅行会社を介さず、群馬の自然の魅力を案内する独自のガイドツアーを行う。

VOL.155
群馬の自然の魅力を知り尽くすアウトドア・ネイチャーガイド

転職内定をけって海外放浪。 自分の本当の望みがわかった

日、同じ仕事をこなし、給料をもらうだけの会社員時代。このままでは先がないと思い、転職を決意しました。しかし、給料も待遇もいい会社から内定をもらっても、なぜか心は冷めていたんです。自分の望みが一体何なのかわからず、悶々とし続けましたね。その時、ふとワーキングホリデーで海外に行った知人を思い出し、「今までは普通に就職する生き方しかないと思っていたけれど、違う道があるのかもしれない」と。そこで、内定をけってニュージーランドへ行くことに。全く違う環境に身を置き、1年間放浪しようと考えました。
 現地に到着すると、「明日から何をしても自由」という環境に戸惑い、行き先すら決められない自分に驚きましたね。けれど、自ら情報を調べ、目的地もやりたいことも決めていく毎日に、自分の意思と力で生き抜く手ごたえを感じた。おかげで「何をやっても生きていける。じっくり考えよう」と思えるようになりました。
 ネイチャーガイドの仕事は現地で知り、憧れを感じましたが、帰国当時の日本はまだアウトドアビジネスの黎明期。半年間、フリーターをしながら情報を集めていたところ、この地域でラフティングガイドを募集していると知り、移住を即決! 3年間、経験を積んだ後、群馬の自然の見どころを案内するツアーガイドで独立しました。今思えば、僕の本当の望みは、「誰かに支配されず、自分で考え、自分で決めて生きたい」だった。悩むより、行動したことで、答えにたどり着けたと思います。


更新日:2016/10/19
取材・文/上野真理子 撮影/刑部友康、阪巻正志、四宮義博、仲本 潤、町田里仁
アントレ2016.春号 「独立VS転職 私たちの決断」より
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▲「Ashi」木村純史さん(左)、松本翔子さん(右)

また戻ってきたくなる、下町のDINNERを発見!

今回の舞台はどこか懐かしい、新旧がうまく 融合した街「蔵前」。 気づくと見知らぬ人とでも自然と話ができる、下町ならではの不思議な空間が点在します。そんな独特の盛り上がりを見せるこのエリアで 「また来たい店。年齢、人種を問わない、いつでも戻ってきたくなる、出入り自由なターミナルのような居場所を作りたかった」と話してくれたのは、木村純史さん。DINNER「Ashi」の若きオーナーです。 そしてオーナーはもう1人・・・、「常連さんが集まる店をいつか持ちたい」と願っていた松本翔子さん。「Ashi」は、同じ目的を持つふたりが共同経営するお店、ということでお話を伺ってきました。

何度も気軽に来てほしいから…定食をメインに

▲定食は肉、魚から選べる日替わりで、手間をかけたバランスよい定食が一日中楽しめます。
  ――なぜ独立をしようと思われたのですか?
―木村
若いころからレストランでもなく、居酒屋さんでもなく、地元のバーに通っていました。そこであらゆる業種、あらゆる年代の先輩にいろんなことを教わったんです。いいことも悪いことも(笑)。 その中で人間としても成長させてもらい、今となってはそこで学んだことは自分の財産になっています。なので、いつか人が集まるお店、また来たいと思ってもらえるお店を自分も出したいと思っていたんです。 いろいろな事情、タイミングから前職のお店を退職することになり、 一緒に仕事をしていた松本さんと自分たちのお店を出さないかという話になったのが独立のきっかけです。
前職で店長と副店長だった二人は、退職後、半年の準備期間で「Ashi」をオープンします。現在のお店にほど近いお店で働いていた二人にとっては、常連さんやご近所の方も強い見方になってくれたそうです。   ――「定食」をメインにされたのはなぜですか?
―木村
このエリアは、近隣の常連客はもちろん、出張などで訪れる人や、外国人観光客も多いんです。特に海外からの旅行者がもつ和食のイメージといえば、すしや天ぷらですが、実は日本人でもそんなに頻繁には食べないですよね(笑)。そこで、日本の日常食(=定食)をメインのお店にしようと思ったんです。
  ――定食と言えば昼のイメージですが、夜も・・・ですよね?
―木村
はい。昼夜関係なく日替わりで定食を提供しています。野菜は多めにし、栄養バランスも意識しています
―松本
私は大分出身なので地場産のものを率先して使用するようにしているんです。
 

お料理はすべて手作り。見た目はもちろん、素材や味へのこだわりも!

――お料理のほかに本格的スイーツも人気と聞きました
―木村
すべての料理を担当しているのは松本さんです。そして彼女は、パティシエとしても8年の実績を持っているんです。
▲パティシエShokoが作る手作り本格スイーツ!
―松本
写真は、KIRIのクリームチーズを贅沢に使用したなめらかなベイクドタイプの「チーズケーキ」です。他にも、クーベルチュールのコクと苦みをそのままにした、クラッシックスタイルの「ガトーショコラ」や、ブラジル産トンカ豆の甘い香りと、キャラメリゼの苦みが絶妙な「クレームブリュレ」も人気です。
  ――夜は、日本酒にこだわったメニューも取り入れているそうですね。  
―松本
店内にある日本酒は、以前務めた日本酒バーでの経験を生かして私がセレクトしています。毎週土曜日は1杯500円で5種類のお酒を楽しめる『酒サタデー』も開催しているので、是非一度足を運んでみてください!
 

若いふたりが目指すところは、年齢、人種も問わないあらゆる人が自由に出入りできる「ターミナル」的存在

 
―木村
デザイナーやアーティストなどたくさんの人が携わって完成したお店なので、いろいろな個性が融合し合う、お店の成長が今の一番の楽しみです。まだまだ手のかかるこの店がかわいくて仕方ないんですよ。
―松本
飲食店なのでもちろんお料理やお酒が商品ですが、店内の空気感と音楽、そして人とのつながりを大切にしていきたいです。2020年に東京オリンピックもありますし、DINNER STYLEで日本の日常食(=定食)の魅力を世界に広めたいと考えています。
  二人の強い思いと意思、そして仲間との出会い、いろいろな偶然が重なりあって、現在の「Ashi」はオープンしたんですね。あくまで自然体で目まぐるしい変化を楽しんでいるようにも思える若い二人の思いがつまったお店だと感じました。  
【プロフィール】 Ashi/東京都台東区 オーナーの木村純史さん(左)(32歳/東京都出身)、 松本翔子さん(右)(30歳/大分県出身) 共に昨年まで近隣のカフェにて勤務。 退職後、2015年12月Ashiをオープン。 米国在住歴5年の木村さんは英語も堪能。 料理全般を担当しているのは、フランスで修行後、 パティシエとしても8年の実績を持つ松本さん 2016年9月27日 アントレ秋号掲載 取材・文/山本薫 撮影/斉藤啓介 構成/細井香里 取材協力/Ashi
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ソニーの品質保証で23年。学生時代から独立を夢見ていた48歳サラリーマンの中北一郎さんが、なぜフランチャイズのPC教室という形で独立開業の道を選んだのか?何から考え、どこで悩み、何を目指してどうなっていくのか?2015年11月から長期密着でお送りしているシリーズ第23弾。 開業して約半年。初の決算月を迎える中北さんに密着!>>バックナンバーはこちら >>バックナンバーはこちら

赤字続きでまだまだ余裕を持てない中、 初の決算期を迎える新米社長奮闘記

9月に初の決算月を迎える中北一郎さんのパソコン教室。
初めての決算で、分からないことだらけですが、本部の担当会計事務所に協力をしてもらいながら進めています。今、教室に出向くのは週2、3日程度。あとはほとんど自宅兼事務所で決算作業に追われてますね。 まだまだ赤字続きで、財政的には非常に厳しい状態です。10月にはスタッフの正社員登用を予定しているのですが、業績が思わしくないため、もしかしたら少し延期にする可能性もあります。 もともと意識の高いスタッフなので、正社員になってからも仕事に対する意識は維持してくれると思います。しっかり教室のことを考えて行動してくれる方なので心強い。 とにかくスタッフにいろいろな意味で負荷がかからないように気をつけたいと思っています。妻もいろいろな場面で応援してくれていますよ。でもなかなかプライベートな時間が作れないので一緒に過ごせないのが残念なんですよ。
一方教室では、MOS(マイクロオフィススぺシャリスト)を受験する生徒も増えてきたという。
将来的なことを考えて、開業時からMOS受験校の資格を取得して、試験校になろうって決めていました。そのかいあって、初めて受験する生徒さんが出てきたんですよ。 私は試験官もやっているので、合格できるか本人以上にドキドキです!今までの努力する姿をを見てきているので、合格してくれると本当にうれしい!きっとインストラクター冥利に尽きるでしょうね。

次回の更新は、10/7(金)お楽しみに!

更新日:2016/9/23
取材・文:堀家かよ 撮影:中村公泰

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米国NPO法人コペルニク/ニューヨーク市

共同創設者兼CEO 中村俊裕 AGE.41

1974年生まれ。主に大阪府で育つ。大学卒業後、英国ロンドン経済政治学院で修士号取得。マッキンゼー東京支社で経営コンサルタントとして活躍した後、学生時代からの夢だった国連へ。復興支援、ガバナンス改革などの業務に就く。2010年、国連の同僚だったエヴァ氏と、ニューヨーク市で非営利団体コペルニクを設立。現在、米国、インドネシア、日本に計4法人を置く。コペルニク自身でも新しいテクノロジー開発を行い、世界銀行、ユニセフなどの政府系機関とも連携、その活動を拡大させている。著書に『世界を巻き込む。』(ダイヤモンド社)がある。

国連職員として、途上国向けODA(政府開発援助)の現場にいた中村俊裕が、アメリカで非営利団体コペルニクを設立したのは2010年のことだ。 地動説を唱え、それまでの定説を覆した科学者の名から取った法人名には、ODAなどとはひと味違う途上国支援で、現地の人たちが余儀なくされている不便・不健康な生活環境を目に見えるかたちで変えたい、という思いを込めた。 試行錯誤の末に考え出した支援のモデルは、ある意味シンプル。途上国の生活向上に役立つ数々のテクノロジーを、コペルニクが見つけ出し、有用性を感じた現地パートナーとともに普及のためのプロジェクトを立ち上げる。 それを動かす資金は、趣旨に賛同する企業や個人の寄付によってまかなわれるのである。  活動スタートから5年、これまで24の国、30万人近い人々の手元に、簡易型浄水器、ソーラーライト、楽に水が運べるタンクなどの製品が届けられ、「暮らしのコペルニクス的転換」が実現した例も多く生まれた。  だが、「活動は、まだ構築途上にある」というのが、中村の認識である。“ラストマイル”――途上国でも最も支援が届きにくいところ――を制覇するまで、その挑戦は続く。


テクノロジーを、必要としている人に“ストレート”につなげる。

━ 国連に勤務するようになったきっかけを教えてください。

東西冷戦が終わったのは、高校時代でした。多感な時期に、国際情勢が大きな変動を迎えていたわけで、気づくと「外」に目が向くように。冷戦の後に待っていたのは、民族紛争。それを解決するうえで、大きくクローズアップされてきたのが国連でした。 元難民高等弁務官の緒方貞子さんや、明石康さんの活躍を知り、いつしか自分も国連の舞台に立ち、世界の貧困を解決したいという気持ちが強くなっていったのです。 大学卒業後、フランスでの語学留学中にインターンに応募し、採用され、その後民間企業での勤務を経て正式に国連のパスポートをもらったのが2002年、28歳の時でした。 独立間もない東ティモールで兵士の社会統合に取り組んだり、スマトラ沖地震の津波で被害を受けたインドネシアで復興プランを策定したり、とにかく援助が必要な現場に行き、そこで求められることを懸命にやりました。

━ コペルニクを設立したのは、国連の活動に限界を感じたから?

限界というか、もどかしさみたいなものですね。何かしようとする時に、いろんなプロセスが必要で、そこに不必要なお金や時間がかかっていたりする。もっとストレートに、困難にある普通の人たちの生活が改善できる手立てはないものだろうかと。 とはいえ、アイデアがすぐに浮かんだわけではないんですよ。コペルニクは、国連の同僚だった妻のエヴァと共同で設立したのですが、2、3年は二人で議論を重ねる日々でした。

━ どのような仕組みですか?

キーになるのは、テクノロジーです。なにもハイテクである必要はありません。欲しいのは、あくまでも暮らしの改善に貢献する技術です。例えば、途上国には、生活に使う水を毎日遠方から家まで運ばなければならない地域が多く存在します。それらは重労働にもかかわらず、たいていは女性と子供の仕事。そこで開発されたのが、太い「車輪型」のタンクです。これに水を満たし、転がしながら帰ってこられるというわけです。 世界には、こうした途上国向けの製品をつくっている企業がたくさんあるんですよ。僕らは、そうした製品を常にリサーチし、Webサイトなどを通じて紹介します。一方、各国には現場を支援しているNGOなどのパートナーがいるのですが、彼らがそれを見て、支援地域で役立ちそうな製品を見つけたら、僕らに対して普及に向けた提案をしてもらい、プロジェクトを立案するのです。
それに対して個人や企業からの寄付を募り、遂行のための資金を調達します。こうしてテクノロジーの開発・生産者と利用者、それに資金提供をする人たちを直に結ぶことで、より効率的でスピーディーな途上国支援ができるようになりました。
ちなみに、テクノロジーを探したり、現場のパートナーと一緒に仕事をするスタッフは約80名。彼らは現在、世界に4つ置いている法人のうち、インドネシアの拠点にいます。国連時代の仕事を通じて土地勘のある国で、最初のプロジェクトを立ち上げたのもここ。僕にとっても大切な場所です。

━ 今後の活動方針は?

設立以来、資金ショートで3度「倒産」寸前まで行きました(笑)。 さすがにその状態は脱しましたけど、僕のなかでは「まだほんの一里塚」という感覚なのです。 活動を本格化させていくためには、いかにインパクトの強い取り組みをかたちにできるかが勝負になる。 企業や国際機関とのパートナーシップを強め、ニーズの高いエネルギー、浄水関連の案件を横展開するのと同時に、農業、ヘルスケアといった分野の深掘りにもチャレンジしていきたいですね。

取材・文/内田丘子 撮影/押山智良

雇われない生き方img_vol.154

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蜂谷 詠子さん(37歳)
㈱BEEVALLEY/横浜市中区
システムエンジニアとしてIT企業数社を経験。2011年に出産、13年に独立。女性起業家専門にWebや広告制作を手がけ、稼げる集客の仕組みづくりを行う。また、女性起業家マッチングアプリの発信や、育児中の女性をスポット雇用し、中小企業のWeb更新を行うサービスも手がけている

VOL.154
女性起業家専門のWeb制作で 収益の出る仕組みづくりを支援

子育てママに転職は厳しい。 夫が背中を押してくれた

職のIT会社は、育児への理解が深く、出産後も働きやすい環境でした。けれど、自分じゃなくてもできる仕事のために、幼い我が子を預けて働くことに罪悪感があったんです。将来、子どもに胸を張れるような、「私にしかできない仕事」をしようと思い、女性や子どもの事業を手がける会社への転職を目指しました。ところが、現実は厳しかった。
 その後、女性支援事業で独立しようと決めたものの、退職の日が迫る中、「会社に残りたい」という言葉がノドまで出かけていました。独立すれば、お金や子どものことで家族に迷惑をかけるかもしれない。迷いはありました。しかし、一度決めたらやり通すという私の性格をよく知っている夫は、「やってみたら?」と賛成してくれて。独立しないことへの言い訳ができなくなりました(笑)。
 現在、女性起業家専門で収益アップにつながるWeb制作や、子育て中の女性向けに在宅Web業務のマッチングサービスを行っています。多くの女性起業家は「子どもや家族のために起業したのに、忙しくなるだけで稼げない」という“起業迷子”のような状態に陥っています。目標は、Webサービスを通じ、そうした課題を解決していくこと。同じ母であり、女性起業家である私だからこそ、寄り添っていきたいと思います。


更新日:2016/9/14
取材・文/上野真理子 撮影/刑部友康、阪巻正志、四宮義博、仲本 潤、町田里仁
アントレ2016.春号 「独立VS転職 私たちの決断」より
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撮影場所:八重洲ブックセンター本店 喫茶ティファニー

アジア圏・EU圏でキャビンアテンダントとして活躍した佐々木礼子さん(仮名)が選んだ『独立開業』という次のキャリア。 彼女が何を考え、何に悩み、そして進んでいくのか。2015年11月から365日長期密着でお送りしているシリーズ第22弾。 一時期はフランチャイズ加盟を真剣に検討するなど、今の決断に至るまで、いろんな道を辿ってきた佐々木さん。 今回は、大きな決断をする際に、どなたに相談するのかを伺ってみました。 >>バックナンバーはこちら

普段は無口であまり話さないという意外な一面がチラリ

2017年の独立開業を視野に入れ、専門学校の講師と家庭教師などのアルバイトをしながら連日忙しく過ごしている佐々木礼子さん。
この企画のインタビューではいつも快活でよく話す人という印象だが、“実は私、内向的な性格なんですよ…”という。
独立についても士業を営む友人夫婦以外には、周りの人たちに相談することはありません。 7月末に会った叔母も、お盆に帰省した時に会った家族にも、特に相談や報告はしなかったんです。
講師の仕事をしているのに意外…と思われるかもしれませんが、プライベートとなると本当に話しませんね。だから私が英会話をベースにした仕事で独立する!なんて言っても誰も信じてくれないと思います。
今は、講師をしている予備校から経営者としてのお誘いもあり、いろいろ悩むこともあるそう。 アルバイト先の同僚から紹介された他校の専門学校については、
8月末にスケジュールを提出し、先方の返事を待って訪問しようと思っています
と前向きに検討中だ。 開業までに取得したいと考えている秋の国家試験の受験日も刻々と近づいている。

次回の更新は、9/30(金)お楽しみに!

更新日:2016/9/16 取材・文:堀家かよ 撮影:中村公泰

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上場企業にも務め、企業で取締役までした50代後半の男性が「マラソンのメダルをかけるハンガーを作って起業する!」と言い出したとしたら? 通常の感覚であれば、通帳を取り上げて「待ちなさい」と言いたくなるお話。 今回インタビューさせていただいた服部さんは、そんなリスキーなチャレンジを選び、わずか2年で実際に商品を開発。 某国内最大級のマラソン大会公式グッズにまでブランドを押し上げ、その手腕からTV・雑誌・新聞など多くのメディアに取り上げられるスゴイ方です。 一体、彼が取った戦略とはどのようなものだったのでしょうか? 詳しく聞いてきました。

服部 真さん プロフィール

(株)ランビー代表取締役/東京都中央区。59歳。バンダイなど、玩具会社で商品企画に従事。2014年に独立し、(株)ランビーを設立。会社員時代の経験を生かしてジョギング関連の商品企画を行うほか、自らもジョギングインストラクターを務める。看板商品はメダルを飾る「メダルハンガー」。ジョギング歴は20年以上。

なぜメダルハンガーに?商品開発の着想ヒントは自身の愛するものから

―このメダルハンガーを商品化しようと思ったきっかけは何でしょう?

―服部
趣味のランニングの分野で起業しようというコンセプトは決めていました。その中でいろいろ考えているうちに、マラソン大会で完走した時にもらえるメダルを飾るアイテムがないな、ということに気づいたんです。そこでインターネットで検索をしてみたら、アメリカのウェブサイトで金属でできた「メダルハンガー」を見つけました。こんなのがあるんだと感心して、自分自身、ほしいなと思ったんです。 それからランナー仲間に聞いてみると「知らない!そんなのあるんだ」と同じように関心を持つ人もいれば、「でも、日本じゃデカいよね」という反応もあったり。アメリカの家はでっかい。だから、メダルハンガーも大振りなんですね。 その時、「確かに、日本の家だと大きすぎて絶対無理だな。でも、これをもっと小さくしたら売れそうだ」とひらめいたんです。そこで「ちょっと小さくしたらどう?」と聞いてみると「それだったら面白いんじゃない?」っていう感じになったんです。

―マラソン好きじゃないと気づかないニーズですね。その経験を生かしてメダルハンガーで起業したわけですね。

―服部
はい。中学のころから駅伝の選手をやってました。正式にフルマラソンに出始めたのは30過ぎからなのでランナー歴は30年以上ぐらいですかね。メタルハンガーに目をつけたのは、ある意味で私の趣味の延長でもあるわけです(笑)。

―着想から実際に販売にいたるまでは、どのような経緯だったのでしょうか?

―服部
一番最初はどこかの会社と組んで、自分の企画を持ち込んで採用してもらい販売してもらう。そうしてアイデア料をもらうみたいなビジネスモデルを考えていました。 ある企業とは話が進んで「やりましょう」って言われて、幸先いいな思ってたんです。でもしばらくして「やっぱり無理だ」って断られちゃいました。ロットがそんなに作れないし、うちの会社のリスクになるからとご破算になっちゃったんです。 その後、1ヶ月ぐらいすごく悩みました。自社で作ると在庫を抱えるリスクがあるので。だけどやっぱり自分発信で、Run Be(ランビー)のブランドで商品を出すことにしました。それが57歳のときのことです。

商品もブランドも知名度ゼロ。取った手段は正面突破

―57歳から起業するのって、結構大変じゃないですか。何よりも服部さんは、それまで会社の役員を務められていたので、そのキャリアを捨ててまでチャレンジするには、かなり勇気が必要だったと思うのですが。

―服部
そうですね。今、59歳なので「アラフィフ」ならぬ「アラ還」。前の会社ではずっと役員として部下も何十人もいて、それなりの年収もあって。そこから独立して起業するのは、大変といえば大変かもしれませんね(笑)。でもやっぱりやりたいことをやりたい。その気持ちが強かったです。 最初、自分のウエブサイトでメダルハンガーを売りつつ、スポーツ用品店や東急ハンズ様にメダルハンガーを置きたいなって思っていたんです。起業した10か月後の2014年11月には、期間限定ではあったんですけど、東急ハンズ様の新宿店で置いていただけることになりました。

―東急ハンズさんには、ご自身で直接営業なさったんですか?

―服部
そうですね。ランニング仲間のツテを頼りに正面突破で売り込みに行きました。この「飛び込み」なら飛び込んでも死なないですから(笑)。 ゼロからスタートなので、つまりビジネスでは弱者。地道にやっていくしかない。しかもお金かけないでやる。ブランドも知名度もない弱者なのですから当然ですね。 東急ハンズ様に置けたことで、次の段階につながっていきました。そのあと結構大変でしたが、スポーツ用品専門店のスポーツオーソリティ様に置いていただけたのです。次は、ブルーブルーエ様という100数店舗ある雑貨のお店や、ランニング教室のジャパンマラソンクラブ様でも売ってもらいました。 さらにランニング教室では、生徒さんたちにも営業していただいて売ってもらっています。今は、ヨガスタジオさんにも売っていただいるんです。そうしたツテやつながりをフルに使って、少しずつシェアを広げていきました。 ただ、売り場に行っても大体ダメ出しされるんですよね。でもその時、「役員までやってたのに」なんて考えると何もできないです。恥を考えちゃ何もできない。そう考えています。

―役員から一転、飛び込み営業なんてサラリーマン1年生になったようなものですね。その突破力で、国内最大級のマラソン大会の公式グッズにもなったのでしょうか?

―服部
国内最大級のマラソン大会には残念ながらツテがありませんでした(笑)。そこで、マラソン大会の公式サイトにあるお問い合わせフォームから提案をしたんです。でも返事が1か月くらいこなくて。まぁ、大体こないですよね(笑)。 でも1か月後、返事が来たんです!「返事が遅れてすいません。メダルハンガーについて詳しく聞きたいので来社してくれますか」という内容です。文字通り、その担当者のところへすぐ飛んで行きました(笑)。 取引条件では「服部さんができる範囲でいいですよ」と言われて、「じゃあ、それで」と言ったら、結局2日間で売り切れるほど大好評。おかげさまで来年も契約させていただくことになり、さらにちょっと増量しましょうということになっています。

恥を捨て、恥を忍ぶ。弱者のマーケティング戦略

―営業の他にも大変だったことは、たくさんあったのではないでしょうか?

―服部
そうですね。例えば事務や管理業務のバックオフィスの仕事。会社勤めだと、経理部とか総務があって、全部やってくれてるわけじゃないですか。でも起業すると、決算前には決算書や青色申告書も作らなきゃいけないし、税務署に行かなきゃいけない。 でも実際やり始めたのはいいけれど、当然四苦八苦する。それを見て友人の税理士さんがいつでも教えてあげると言ってくれたんです。その言葉に甘えて、しょっちゅう相談に乗ってもらっています(笑)。 さらに税務署でも教えてくれるので、税務署の職員に言われたとおりまた直して、また出直しますというのを繰り返して。結局、お金は一銭もかけませんでしたね(笑)。

―人と人で直接会話してなるべくコストを抑えるんですね。独立・起業といっても、やはり人に頼ることは大切ですか?

―服部
「人に頼る」っていうよりも、「恥を捨てて人に聞く」ってことが大事です。頼ろうとすると煙たがられますから。人は結構教えるのが好きなので「教えてよ」っていうと、「俺でいいの、しょうがないな〜」と言って聞いてないことまで怒涛ごとく教えてくれます(笑)。 聞き上手になって、いろんな人に聞きまくること。前職のちょっとしたツテでも自分でぶち当たっていけばいい。

―ひょっとして、人のつながりでメディアにも登場なさったのですか?

―服部
はい。メディアに出るようになったのは、私も会員になっている起業家向けのレンタルオフィスを運営している銀座セカンドライフ株式会社の片桐実央 社長とのつながりがきっかけでした。 片桐社長がある雑誌の企画で取材されたときのことです。レンタルオフィス会員の人も同時に取材したいということになり、「服部という人をインタビューしていいですか」と雑誌の担当者から聞かれたそうです。どうも私は片桐社長の会員では異色のようで。「変わっている」という恥を活かせたわけです(笑)。 そんな変わっている私がメディアに出ると、それを観た他のメディア関係者が検索して、直接ホームページから連絡が入ります。その連鎖で、マスコミからの問い合わせが多くなり、自然と登場する回数が増えていったという感じです。 銀座セカンドライフ株式会社で片桐社長と繋がらないで、自宅でコツコツやっていたらマスコミには登場できなかったです、きっと。「恥を捨て、恥を忍ぶ」。これがわたしなりの弱者のマーケティングだったんでしょうね。

独立・起業して成功する鍵はフェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーション

―やはり人のつながりというのは大切なんですね。

―服部
人とのリアルなつながり、フェイス・トゥ・フェイスは、おそらく皆さんが考えている以上にずっと大事だと思います。先日、あるTV局の取材の時、電話取材だけにしたいという申し出がありました。でも、電話だけじゃ嫌だよといって断ったんです。 フェイス・トゥ・フェイスなら、相手の表情で「そんなこと聞いているんじゃないんだな」と察知して言い回しを変えたりできます。そうして初めて本当に相手が求めているものが提供できるようになります。こちら側としても相手の表情がわからないと、聞いてもらってるのかなって不安にもなりますよね。 きっかけは別にメールでいいんですよ。でも、踏み込んで聞きたいときは、やっぱり会ったほうがいい。

―独立・起業の成功のコツも実はそこに?

―服部
そうです。すべては、コミュニケーション。コミュニケーションを取り違えると大きな傷になって最後に違うね、となります。ビジネスも同じでしょう。コミュニケーションの取り違えさえなければ、結構自分のやりたいように仕事をして生きていけます。いかに最初をつかむかというのが大切ですよねぇ。

まとめ:コミュニケーションを大切にすれば50代でも独立・起業の道は開ける

大手玩具会社での商品企画の経験を活かして、ランニンググッズのビジネスを展開するのが服部さんのマーケティング術だと取材前は思っていました。 しかし、実際は、人のつながりをとことん活かして服部さんは事業をされてます。だからこそ、対面コミュニケーションの大切さを服部さんは強調されています。フェイス・トゥ・フェイスは、昔ながらのコミュニケーションの基本。そうした人とのつながりを活かしてTVや雑誌などのマスコミへの登場にもつなげる。そうした複合的なマーケティングに、独立・起業のヒントがありそうです。
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何が得意で、どんなところが長所なのか。自分の取り柄を知ることは、独立して事業を起こす際に必ずチェックしなければならないポイント。 では実際に独立や起業して成功している人は、どのように長所や取り柄を見つけたのでしょう?かつてギャル社長として19歳で独立。今年で5回目を迎えた「うまいもん甲子園」の発起人ともなった、藤田志穂さんにお話を伺ってきました。

藤田志穂さんプロフィール

一般社団法人 全国食の甲子園協会会長、OFFICE G-REVO株式会社相談役。高校卒業後ギャルのイメージを一新させる「ギャル革命」を掲げ、19歳で起業、ギャルの特性を活かしたマーケティング会社を設立した。2008年12月末に社長業を退任、現在は高校生の夢を応援する食の甲子園「ご当地!絶品うまいもん甲子園」を企画し、全国の高校生との交流を通じて、人材育成や地域活性化を行っている。 http://umaimonkoshien.com/index.html

他人から逃げないこと。そしてとにかく知ろうとすること

ー早速…というか唐突ですが、藤田さんが事業を行う上で大事にしている自身の強みや長所って、なんでしょう?

―藤田志穂さん(以下、藤田)
いきなり取り柄を教えてくれって言われても、なかなか難しいですよね。だから、この取材のお話をいただいた時に旦那や会社のみんなに聞きました。「私の取り柄って何?」って(笑)。 そこで挙がったのが「私は人を見かけで判断しない・第一印象で人を決めつけたりしない」というところでした。最初の印象があまり良くない人でも、ちゃんと話してみると意外といい人だったりすることって結構あるじゃないですか。 最初に嫌だなって思った時に、今後付き合っていくのをやめようとするのは簡単ですけど、それ以上の発展はなくなってしまいますよね。なので、相手を否定したい時ほど一息置いて、とにかく相手を知ろうとします。

ーたしかに人を見かけで判断してはいけないと言いますが、なかなか実践するのは難しいかもしれません。藤田さんがそのように心がけようと思ったきっかけはなんでしょうか?

―藤田
ある時、ほぼ初対面の人にめちゃめちゃ怒られたことがありました。「出会ったばかりで私のこと何も知らないくせに、頭ごなしに怒るなんて!」と腹が立ったんですよ。で、その人と付き合うのはやめようと思いました。 でも、せっかく出会ったのだからと、グッと堪えて。その人との付き合いを続けたんです。そしてしばらくしたら他でもないその人が『いろんな人が、人生の先輩としてあなたにいろいろと言うけれど、あなたはその中から好きなものだけ選べばいいのよ』って言ってくれたんです。 その時にやっと気づいたんです。「この人はただ私のことが嫌いで批判したいんじゃなかったんだ」って。もしあの時、その人から逃げていたらこの長所が生まれなかったかもしれません。

ーその人のことを知ろうとしても、初対面の人とはどうしても壁ができてしまうと思います。藤田さんはどうやって人との間の壁を乗り越えているんでしょうか?

―藤田
私、こうみえて人見知りなんですよ。特に初対面の人との沈黙が耐えられないんです。だからひたすら話しかけてしまうんです、沈黙が怖くて(笑)。もしかしたらここで壁がなくなっているのかもしれません。 それにたくさん話しかけて相手のことを知ろうとするのは、ギャルだった時にバカにされてすごい悔しかったからかもしれません。昔はギャルって見かけだけで変な勘違いをされたり、いろいろとイヤな思いもしてきたので。 だから私は人を見かけで判断しないで、相手の中身をきちんと知ろうとしています。その知ろうとする過程で、自然と壁を乗り越えているんだと思います。

人を支えて人をつなげる。7年の歳月で変化した自分の立ち位置とやるべきこと

ー藤田さんには7年前にアントレの本誌で一度取材させていただきました。その時から変わったことを教えてください。

―藤田
前回の取材の時は、自分が行っていることをアピールしていました。当時は何ができるのかわからなかったので……。 とりあえず私ががんばっている姿を周りの人に見てもらうことで、がんばろうとしている人たちに『自分でもできるかも!』って思ってもらいたかった。 でも今は、自分ががむしゃらにがんばって前に出るよりも、周りの人をどうフォローできるのかを考えています。若い人達の背中を押し、陽の光を浴びせられるようにするためには、協力してくれるクライアントを探さなくてはなりません。 そこで私は、知り合いや今までお世話になった企業さんに想いを伝えて、人と人をつなげる事で若い人達を応援する。これが今の私の立ち位置であり、やるべきことなんです。 そして私が多くの人と知り合うことができたのは、私の”人を見かけで判断しない”という取り柄があったからだと思います。

過去は変わらない。だから『今までの自分』をどう思うかは今の自分次第

ー藤田さんはこの7年間で自分の立ち位置ややるべきことを確立していますが、そう簡単ではないはずです。どうすれば自分の役割を見極めることができるのでしょうか?

―藤田
とにかくたくさん経験を積むことだと思います。起業をしてから、あるいは起業をする前から、私は数多くの挑戦をしてきました。その中で成功した経験、そして失敗した経験が今の自分の立ち位置と役割を与えてくれているのだと思います。

ー失敗した経験によって、後悔したりすることもあるかと思うのですが……?

―藤田
過去の経験をどう捉えるかが重要だと思っています。特に失敗した経験に対しては、過去の自分に後悔が生まれると思うんです。私自身、昔はなんで起業したんだろって後悔したこともありました。 でも、過去は変わらないんです。それなら、過去の経験があってよかったなって思えるように、毎日を生きればいい。今までの自分をどう思うのかは、今の自分次第だと思います。

悩んで悩んで独立できなかったら、きっと後悔しか残らない

ー最後に、独立をしたくてもなかなか踏み出せない人に対して、メッセージをお願いします。

―藤田
やりたいことがあるなら、まずはやってみたほうがいいと思います。早すぎて失敗するのは経験になりますが、遅すぎてできなくなってしまうことは1番やってはいけないこと。できなかったら、きっと後悔しか残らなくなってしまいます。 それに、独立は一人ですることに思えますが、実は、数え切れないほどの人とのつながりの中で成し遂げられています。そのつながりが陰で支えてくれると思うだけで、力が湧いてくるのではないでしょうか? つながりを大切にするために、苦手な人でもまずは話を聞いてみる。そして周りに起業することを伝えることも重要です。誰かがつながりを持っている人を、紹介してくれるかもしれません。 周りの人を上手に頼りながら、自分の得意なことや取り柄を武器に、まずは勇気を持って動き出すところから始めてみてください。
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ソニーの品質保証で23年。学生時代から独立を夢見ていた48歳サラリーマンの中北一郎さんが、なぜフランチャイズのPC教室という形で独立開業の道を選んだのか?何から考え、どこで悩み、何を目指してどうなっていくのか?2015年11月から365日長期密着でお送りしているシリーズ第22弾。 前回に続き、開業6か月目を迎え、初の社員登用を進めることになった中北さんに密着! >>バックナンバーはこちら

個人個人の意識の向上、後にそれが利益につながるとスタッフを信じて

開校当初から働いていたアルバイトの1人を、初めて正社員にすることにした中北一郎さん。準備を進めるうちに今まで気づかなかったことが見えてきたという。
思いのほか、アルバイトやパート、正社員の違いはないことが分かりました。
一般的に正社員は安定性と言いますが、我々中小企業は決して安定しているわけではないので、正社員もアルバイトもほとんど差がありません。そのことにあらためて気づかされましたね。
逆に言うと、正社員はある程度時間に拘束されるので、社会保険や厚生年金などにメリットを感じなければ、アルバイトやパートの方がずっと自由度が大きいように感じるかもしれません。
企業側から見ても、正社員にすれば責任も重くなるので、双方にとってのメリットっていったい何なのか?あらためて考えました。私としては一緒に“責任を持って頑張ってほしい”という思いもあるので、正社員化を進めているんです。
最近女子大生のアルバイトが入り、さらにスタッフ同士の結束が固まったとか。
年齢も若いので、職務経験が浅い分、フレッシュ!先輩から見ると、何もできないように見えますよね。そこで再度、自分自身の行動に映してみて、間違いがないか、違う方向に向かっていないか、自分を見直すいいきっかけになっていると思います。
例えば、カルテの書き方や予約表の書き方など、教えているうちに、人によってバラツキが出てきちゃってますから…。教えるということは、自分自身が十分に業務を理解している必要があるし、自分たちの意識の向上にもつながっているんじゃないでしょうか。
よいメンバーたちがそろい、前向きに仕事を続けていけば、先日おきたPCデポの事件のように企業として倫理的に逸脱することなく、自然に利益が出るもの…と中北さんは考えている。

次回の更新は、9/23(金)お楽しみに!

更新日:2016/9/9
取材・文:堀家かよ 撮影:吉原朱美

独立開業への道 365日 アンケート2

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今から約10年前「サン・ゴールド介護タクシー」の代表・荒木正人さんは、当時としては珍しい介護タクシーのサービスを立ち上げるため、長年勤めた会社を早期退職。57歳にして起業しました。 独立して10年。酸いも甘いも知り尽くしている荒木さんにこれまでの歴史、そして今の仕事に対する想いをお聞きしました。

「車が好き」×「人から”ありがとう”を言われる仕事」それが、介護タクシードライバー

ー最近ではよく見るようになった介護タクシーですが、荒木さんは10年も前から介護タクシーの事業を立ち上げているんですよね。そもそも事業を立ち上げようと思ったきっかけはなんですか?

―荒木正人さん(以下、荒木)
前職のシステム系の会社にいたときから、シニアライフアドバイザーの養成講座に通っていました。そこで出会った先輩に影響されたことがきっかけです。 介護タクシーサービスをボランティアでやっているその先輩の講演を聞いて「私も介護タクシーの仕事をしたいのでノウハウを教えてください!」と、弟子入りを志願しました。 そこで車を調達したりサービスの認可を取ったりなどサービスを立ち上げるまでの手順を教えてもらいました。

ー弟子入りを志願してっていうのがすごい熱量ですね。なぜ介護タクシーを選んだのでしょうか?

―荒木
元々車を運転するのが好きだったのと、会社員時代からずっと「人から”ありがとう”を言われる仕事」がやりたいと思っていました。その2つがマッチングしたのが介護タクシーの仕事だったからです。

ーまさに荒木さんのやりたいことがマッチした仕事だったんですね。天職として始めた介護タクシーの仕事、立ち上がりはどうでしたか?

―荒木
滑り出しはまずまずよかったです。杉並と世田谷の2区を中心にやっているのですが、大きい家や有料老人ホームなどを狙ってポスティングをしたり、HPを作ったりして。最初は地道な営業活動をして徐々にお客さんを増やしていきました。 そんな時、HPを見たある病院から、患者の送り迎えを担当してほしいと声がかかったんです。そこからさらに人を雇って車を調達して。その後3、4年でグッと業績が伸びました。 当時は同業者も少なかったこともあり、順調に業績を上げていきました。タクシー業に病院の送り迎えと大忙しで、最盛期には7〜8人雇って運営していました。

病院との摩擦、収入3割減、ドライバーの引き抜き……順風満帆から一転、荒木さんを襲った”谷の時代”

ー立ち上がりから3、4年で仕事も人も増えて、業績も上がり、全てが順調だったわけですね。

―荒木
最初の5〜7年くらいはよかったんですが、実は今そんなに余裕はないんです。というのも、3、4年目から売れ行きがよくなって人も車も増やしたので、当然コストもそれに応じてかかってきます。 特に病院にはかなりの頻度で送迎をやっていたので、病院側に請求するお金もだんだん増えていって。コストが膨らんでいくにつれて、病院側との間に摩擦が生じてきたんです。

ー事業がある程度成熟してきたからこそ、出てきた問題なのかもしれませんね。費用に関して摩擦が生じたのは、他に競合がいたからなのでしょうか?

―荒木
いえ、競合がいたわけではないんです。ただ、額面上費用が上がってしまったので、病院側から「こんなに払えない!」と言われてしまったんです。 いろいろと交渉もしてみたのですが、結局今までいただいていた料金から、3割も引いた金額で取引をすることになってしまいました。

ー3割も引かれてしまうなんて……。

―荒木
それだけではありません。その後、今度は運転手の引き抜きがあったんです。休日に病院側が無断でドライバーを雇ったりだとか。 当時契約していた病院には車があったので、その車のドライバーとしてうちのドライバーを引き抜いたんです。当時は知識もなく、契約で引き抜きを禁止するなどのこともやっていなかったので、その様子をただ見ていることしかできませんでした。結局、その病院とは契約を解除して雇っていたドライバーの多くはやめてしまいました。

ー順風満帆から一転、大変なことになってしまったんですね。とてもお聞きしづらいのですが……、現在はどのように運営をされているのですか?

―荒木
現在はある病院と新たに契約して、現在8人の患者さんを週3で送り迎えしています。前回の反省を活かし専門家に契約周りから相談をしているので、引き抜きの心配もありません。 それ以外の仕事もあるのですが、やはりきちんと定期的に収入が入ってくる環境がひとつはないと、とてもやっていけませんから。 今は全盛期に比べると仕事は少ないのですが、やっといいドライバーさんが2人見つかって地道に、堅実に運営しています。

それでもこの仕事を続けたいのは、お客様の「ありがとう」が聞きたいから

ーまさに山あり谷ありの10年を過ごしてきた荒木さんですが、今後新たなビジネスを展開していこうとは考えているのでしょうか?

―荒木
もちろん、新しいビジネス案を常に考えてはいるのですが、現状あまりいい案が出てきてはないですね。私が事業を始めた10年前と異なって、今は競合もとても多くなりましたし、大手の企業さんもこの市場に目をつけて手を打ってきています。 やるとしたら、企業さんができない個人レベルならではのサービスがいいのですが……。むしろいい案があるなら教えてほしいくらいです(笑)。

ー介護タクシーの事業から離れて、全く新しい事業を立ち上げることも視野に入れているのでしょうか?

―荒木
それはないですね。新しいサービスを展開するなら、介護タクシーの事業に付随するような形で広げていきたいと考えています。 様々なところで大変な思いをしますし頭を抱えることも多いのですが、それでも自分の好きな運転で、お客様に「ありがとう」と言ってもらえる喜びは、何ものにも代えがたいやりがいです。このままじゃ終われないなと思っています。 サラリーマン時代にはなかなか味わうことができなかったこの喜びがあるからこそ、この仕事が続けられているんだと思います。

ーどんなにつらくてもお客様のためにならがんばれる仕事。とても素敵ですね。最後に、独立や起業を考えている人にメッセージをください。

―荒木
まずは自分の好きなことや興味のあることを仕事にできるよう考えてみてください。私の場合、それは「運転」そして「人の役に立つこと」という2つが独立のカギでした。 独立はたしかに不安もつきまとうし、勇気がいることだと思います。そしていざ独立してからも、私のように10年もやっているといい時もあれば悪い時もあります。 いい時はともかく、悪い時に乗りきれるか否かは、やはり自分が自分の仕事を好きでいられるかどうかです。だから自分の好きを仕事にできるよう、一歩を踏み出してみてください。
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