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起業家・先輩から学ぶ
341件のまとめ

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山下 勉さん(38歳)
SHARE HORSE ISLAND/兵庫県洲本市
ウェブ制作会社などに勤務した後、2013年に地域おこし協力隊として淡路島に移住。 農山村交流事業や鳥獣害対策活動のかたわら、淡路島の地域資源である馬に着目した。 17年10月に独立。 現在、農耕馬の「風月」とサラブレットの「アネロワ」、2頭の馬がいる。

2019年1月18日

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荒井潤一さん(61歳)
(株)とことん/福島県郡山市
大学卒業後、バーチャルリアリティの開発を経て、2001年にNテクノロジーを設立するも倒産。12年、「とことん」を創業し、再起。現在は画像処理系の機械学習ソフトの受託開発や、写真の第一印象をよくする「みちがえ~る」などを展開している。

2019年1月15日

独立・起業を考える際に切っても切れないのは「この仕事で継続的に稼いでいけるか?」という視点ではないでしょうか。 仕事と生活は密接に結びついており、生活をする以上、仕事できちんとお金を稼いでいかなければなりません。 今回お話を伺ったのは、面会交流代理人で「面会交流支援 OMI VISITS」(以下、OMI VISITS)の理事を務める、山川直明さん。 山川さんは20年勤めた会社を退職した後「OMI VISITS」を立ち上げました。しかしそれはお金を稼ぐために立ち上げたわけではないと語ります。 なぜ山川さんは「OMI VISITS」を立ち上げようと思ったのでしょうか?
<プロフィール> 山川直明さん 面会交流代理人/面会交流支援OMIVISITS 理事 京都市内のタクシー会社で20年ドライバーを務めた後、「面会交流支援OMI VISITS」を立ち上げる。 滋賀県長浜市を拠点に、離婚した家庭のこどもと非親権者の面会の支援を積極的に行う。
面会交流とは:離婚後又は別居中にこどもを養育・監護していない方の親がこどもと面会等を行うこと 出典:裁判所より

3組に1組が離婚する時代の需要。タクシードライバーから面会交流代理人へ転身した理由

―山川さんが「面会交流支援OMI VISITS」を立ち上げられるまでの経緯を教えてください。
山川さん 大学を卒業していくつかの職を転々とした後、京都市内でタクシーの運転手として20年ほど勤務していました。 大学では西洋経済史を専攻しており、卒業後はヨーロッパへ旅をしていました。そのため英語の他にフランス語、ドイツ語なども話せるので、訪日外国人を中心に観光ガイドを担当していました。 京都の街をタクシーで1日周り、観光名所にまつわるエピソードなどを紹介しながら案内していました。
―タクシードライバーだった山川さんがなぜ、面会交流支援を?
山川さん きっかけは妻からの相談でした。 私の妻は滋賀県彦根市で弁護士をしているのですが、女性の弁護士ということで、離婚問題を扱うことが多かったんです。 離婚の問題は離婚調停が終結すれば、問題そのものが終わるわけではありません。 特に問題になりやすいのが、こどもと親権者ではない「非親権者」と面会する、面会交流だったんです。
―なぜ面会交流が問題になりやすいのでしょう?
山川さん 通常、面会交流では当事者(親権者と非親権者)たちの話し合いによって、面会の可否や頻度、日時や場所などが決定します。 ですが、そもそも当事者たちの関係が良好ではない場合、話し合いをすることそのものが困難になってしまいます。 そのため面会交流に立ち会い、当事者たちの間を取り持つ信頼できる第三者が必要になるのです。 昔と比べて離婚率は上昇し、現在は実に3組に1組の夫婦が離婚すると言われている中、面会交流の需要は確実に高まっています。 需要はあるものの、面会交流を支援してくれる団体がないと妻から相談を受け、一念発起して立ち上げたのが「面会交流支援OMI VISITS」(以下、OMI VISITS)だったんです。

こどもを笑顔にするために。ビジネスにしない面会交流支援の在り方

―離婚にも様々な理由がありますが、当事者の仲が悪い場合、親権者の精神的なコミュニケーションコストがかかってしまいますからね。
山川さん そうですね。特に配偶者へのDVが原因で離婚した夫婦ですと、メールや電話でコミュニケーションを取ることすら恐怖を感じてしまうケースもあります。 また私たち面会交流代理人が最も危惧しているのは非親権者による、こどもの「連れ去り」です。 普通の誘拐事件とは異なり、こどもの親ですからね。このあたりは特に気を使っています。
―たしかに離婚しているとはいえ、自分の親ならついて行ってしまいそうですね。こどもが幼いなら特に。
山川さん ええ。だから私たちは大きく4つの支援を行っています。 1つ目は、連絡支援。先程お話した通り、当事者たちの間に入り連絡を取りもちます。 2つ目は、受け渡し支援。これは親権者の代わりにこどもを非親権者との面会に連れていき、時間になったらこどもを非親権者から預かります。 3つ目は同行支援、4つ目は施設提供支援です。面会中、同じ空間に私たちが同行し、面会のための施設を提供します。 同行支援と施設利用支援は「連れ去り」の防止のための手段でもありますが、同時に円滑な面会をアレンジするための方法でもあります。
―どういうことでしょうか?
山川さん 「面会」と聞くと、味気ない部屋に非親権者とこどもを会わせ、私たちがその様子を見守るという、どこか窮屈な印象があるかもしれません。 普段会っていない親子が、いきなり第三者の前で会っても、手持ち無沙汰になってしまいがちですが「OMI VISITS」では施設を貸し出しており、こどもと非親権者が一緒に取り組めるようなイベントがあります 例えば、シーカヤックやバイオリン、ギター作りなど、親子が一緒に楽しめるプログラムを用意しています。
―たしかに親子で「何かを一緒に作る」というのは、手持ち無沙汰解消につながるだけでなく、自然な形で絆を深めることもできますよね。一方で面会交流支援では、どのようなマネタイズ方法を採っているのでしょう?
山川さん 基本的には1回の面会あたりでいくら、という形でお金をいただいているのですが、スタッフの給与を含め、コストと収益はだいたい同じくらいですね。 ビジネス、というよりほぼ慈善事業のようなスタイルです。ただ、サスティナブルな活動にするために様々な工夫を施しています。 例えば、施設は使われていなかった空き家を改装したものですし、空き家の近くには山もあり畑もある。 都会のように居住費もかかりませんし、食費もそこまでかかりません。 またスタッフも理念に賛同したボランティア有志が集まっているので、人件費もそこまで多くかからない。 通常、面会交流支援を受けるためには、1時間で1〜2万円ほどかかるのですが、こうした工夫で相場の6割程度に料金を抑えることができています。
―営利を目的としていないのはなぜですか?
山川さん お金をたくさん稼ぎたくてこの仕事をしているわけではありませんし、都会と違って、長浜で面会交流支援をする分には、そんなにたくさんのお金が必要なわけではないんです。 何より両親が離婚して傷ついているのは、やっぱりこどもです。親のためというよりは、こどもを笑顔にするためになるべく親の負担は減らしつつ、親と会う機会を増やしてあげたいんです。

お金を稼ぐことが全てではない。自分の事業の目的をもう一度考える

―山川さんの今後の目標はなんでしょう?
山川さん 現在は長浜で活動をしていますが、今後は名古屋や京都、大阪など都市部にも進出していきたいと思っています。 やはり人が多ければ多いほど離婚の発生件数も多くなり、それだけ両親の離婚を経験するこどもが増えますから。 しかしそのためには、都市部でもきちんと機能し継続できる仕組み作りが必要です。「OMI VISITS」の理念や良いところは活かしつつ、どれだけカスタマイズできるかが課題ですね。
―ありがとうございます。最後に読者にアドバイスをいただけますか?
山川さん なんのために事業を立ち上げるのか、という動機ははっきりさせたほうがいいかもしれません。 私の場合は、妻から聞いた離婚した後の問題、面会交流支援の重要性、そしてこどもの笑顔を守ることでした。 正直、お金儲けのことは全然考えていませんでした(笑)。 とはいえ継続的に続けていくためにはどこにお金をかけ、どこを削れるかを考え、今のようなスタイルになりました。 自分の目的に沿った事業の在り方、規模感を想定することはとても大切です。ただ漠然と利益追求を目的にすると、なんのためにやっているのか分からなくなってしまいますからね。 自分はなんのために独立・起業をするのか。そこをもう一度よく考えてみると良いかもしれません。

2019年1月11日

楽患ナース株式会社/東京都足立区 代表取締役

岩本 貴さん(46歳)

1971年、東京都生まれ。アクセンチュアに在籍していた2001年、患者への情報提供を主目的とする「楽患ねっと」(翌年NPO法人化)を立ち上げる。07年に「楽患ナース」を設立し、追って「在宅看取り」ができることを特徴とする訪問看護事業を本格化。その活動のなかで在宅の重症児の存在を知り、「楽患チャイルド」「楽患ニーニョ」という保育園を開設した。「重症児に人生の喜びを」をコンセプトに、看護師のほか理学療法士、保育士などの専門職によるケアが行われている。

2019年1月7日

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瀬川直寛さん(41歳)
ハモンズ(株)/大阪市福島区
長年BtoBビジネスに携わっていたが「人を笑顔にする人生を選びたい」と、2012年5月に独立。結婚祝い用の食器を販売するECを開始、後にベビー服のECに参入した。17年には、在庫削減を実現するクラウドサービス「FULL KAITEN」を開始。

2019年1月4日

近年、競技の一種として発展しつつある「eスポーツ」。 eスポーツとは、世界中にいるゲームのプレイヤーが腕前を競うという、れっきとしたプロスポーツです。 4年に1度開催される世界的なスポーツの祭典オリンピック。そのアジア版「アジアオリンピック」にeスポーツがメダル種目として認定されるほど、大きな盛り上がりを見せています。

2018年12月31日

はじめまして。 神奈川県で税理士業を営んでいる高橋昌也です。 今回はご縁を頂き、独立開業に関するお話をお伝えさせていただくこととなりました。 まず簡単に私のプロフィールを。 2006年に税理士試験に合格し、2007年2月に税理士登録、直後から税理士事務所を開業しました。 税理士という資格者ではありますが、開業当初から「仕事はどうやって取れば…」「効率的に作業を進めるには…」「雇用はどうしよう…」と必死に悩んできた、1人の事業経営者でもあります。 加えて、仕事上多くの独立開業者とお話をしてきました。 守秘義務もあるので詳細は伏せながらですが、多くの皆さんらお聞きしてきたさまざまなお話と、私自身が体験してきた「独立開業者のあり方」についてご紹介をさせていただきます。

2018年12月21日

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松本奈緒美さん(50歳)
(株)発明ラボックス/東京都新宿区
美大を卒業後、発明家に。掃除機のノズル「ペン先すーぴぃ」が14万個、販売促進用ツール「紙パズル」が100万枚などヒットを連発。2010年に発明ラボックスを設立、約4000人の発明家のアイデアをメーカーにつなげるプラットフォームを構築した。

2018年12月21日

引退やリストラ。 そんな人生において重大な選択に迫られた時、あなたはどのような決断をしますか? 転職や起業と積極的に新たな道に進む人もいれば、経験したことのない“未知の世界”に対して不安や恐怖を感じ、挑戦する前から「自分には無理だ」と決めつけてしまう人もいるのではないでしょうか。

2018年12月18日

ものは、売ることも買うことも難しい。 これだけ世の中に商品があふれていると、価格・デザイン・機能など、選択肢は様々で、何をどう選べばいいか分からなくなり、選ぶことそのものが億劫になる。 そんな世の中で自社の商品を買ってもらうためにはどうすればいいか? 多くの人は商品に他とは違う付加価値を持たせようとするだろう。 アフターフォローや機能など、商品には様々なエッセンスを付け加えることができるが、大抵のことはやりつくされてしまっているので、それでもやはり差別化は難しい。 ではどうすれば良いか? 方法として考えられるのは商品そのものに「オリジナリティ」を持たせることだろう。そのような時に参考にしたいブランドがある。まずはこの動画を見て欲しい。 動画に映るのは、パッと見はなんの変哲もない丸い板のように見えるコインケース。 しかし、どうだろう。片手でケースの両端を押せばパカっと開き、たちまちコイントレーになった。片手が荷物でふさがっていてもこれならレジで困らない。 このようなアイデアとギミックを詰め込んだ革小物を製作・販売しているのが「sugata」というブランドだ。sugataの代表を務める染谷昌宏さんは、義手や義足などの医療用装具を作る「義肢装具士」からデザイナーに転身した異色の経歴の持ち主。染谷さんはなぜ転身しようと考え、どのように商品のアイデアを生み出しているのだろうか?
<プロフィール> 染谷昌宏さん 義肢装具士として義肢装具の製作に8年間従事。 2015年に自身のブランド「sugata」を立ち上げる。 Japan Leather Award 2015レディースバッグ部門賞受賞。 第12回TASKものづくり大賞優秀賞受賞。

国家資格取得を目指し、専門学校へ。その進路でデザインと出合った

− 染谷さんは義肢装具士として働いていたとお聞きしました。そもそものお話で恐縮ですが、義肢装具士とはどのような仕事なのでしょうか?
染谷さん 逆にどのような仕事だと思いますか?
− 義手や義足を作る仕事でしょうか?
染谷さん 一般的に義手や義足をつくる仕事というイメージが強いかもしれませんが、実際にはそれらは全体の仕事のごく一部です。正確には、「身体を支える、保護する道具」をつくり、身体にフィットさせる仕事。義手や義足だけでなく、コルセットやヘルメット、靴の中敷きまで手がけます。 国家資格が必要な仕事ですが、僕が義肢装具士になった当時は3000人くらいしか資格取得者がいないマニアックな仕事でした。もともと徒弟制度で技術が受け継がれていて、資格ができたのも比較的最近のことなんです。
− なぜそのような珍しい仕事に就こうと思ったのでしょうか?
染谷さん 高校生の時に進路を考えていたら、たまたま図書館に置いてあった本で知ったんですよ。面白そうな仕事でしたし、「手を動かすのが好きで、ものづくりも得意だから向いているんじゃないか」と思い、その道を選びました。 資格が必要な仕事なので、高校卒業後は資格習得のために専門学校に入学。装具を作るためには様々な知識が必要なので、学校では人体の動きを理解するために「解剖学」や「生理学」はもちろん「美術」や「デザイン」も学びました。これがデザインと僕の最初の出合いです。
染谷さん 僕は専門学校入学当初、「デザインは単なる装飾だ」と思っていたんです。でも、学んでいくうちに「デザイン」は単なる装飾じゃなくて、課題解決のプロセスだと感じました。 たとえば、電車の中吊り広告は「ものを売りたい」という課題をビジュアルで解決しています。装具は不自由な身体を道具で支えるために最適な形をしていますし、革の財布はお札や硬貨を取り出しやすい形をしているはず。 「デザインは何かしらの問題意識や課題から生まれ、デザイナーはそれを解決するために最適な色や形を選んでいるのでは?」と思ったんです。その思いが確信に変わったのは、デザイナーの方々と共同で取り組んだ卒業製作の時でした。一緒に製作を進め、彼らの考えを聞くうちに、やはりそうだったんだって。
− それだけデザインへの熱意が高まっていたのなら、そちらの道に進んでしまおうとは思わなかったのでしょうか?
染谷さん 当時は思っていなかったですね。義肢装具士になりたいという思いは変わりませんでしたし、専門学校のカリキュラムは学ぶことが多すぎて、ついていくのに精一杯でした(笑)。

お客さんのニーズと心に向き合った8年間、その経験がデザインの基礎力を作った

染谷さん 専門学校を卒業した後は義肢を製作する会社に入社して、晴れて義肢装具士になりました。入社して3年間は先輩に付き添ってもらい、病院にいる患者さんを訪ねて装具を作っていましたね。
− 当時苦労したことはありますか?
染谷さん フィット感を出すことでしょうか。僕らは靴に小石がひとつ入っていても違和感を覚えますよね。それくらい人体は敏感なものなんです。 身体の形はひとりひとり違うし、日によってむくんだりもする。なんなら患者さんの心の状態もフィット感を左右します。単に技術があればいいかというとそういう訳でもなく、患者さんが装具のどこに不快感を覚え、どう直して欲しいかを話し合わないと患者さんには満足してもらえません。 デザイナーの仕事は「課題解決」。義肢装具士として人の課題と心に寄り添う繊細な仕事をしていた経験は、今の仕事にも活かされてると思います。
− 義肢装具士からデザイナーへ転身しようとしたきっかけはあったのでしょうか?
染谷さん はっきりとしたきっかけはありません。ただ、入社して数年が経ち、余裕も出てきたんでしょうね。自分のやりたいことに目が向くようになって、装具のような「1点もの」から、より多くの人の課題を解決できる「レディメイド(既成品のこと。対義語はオーダーメイド)」へ興味が移っていることに気づいたんです。 日に日にその思いは強くなっていきました。ならば、まずは自分のプロダクトを作る必要があると思い、入社4年目にものづくりを始めたんです。当時は会社で廃棄される革の端材をもらって、小物を作っていました。
− 革を選んだのはなぜでしょう?
染谷さん 少ない道具で様々なことができるから、ですね。最低限、革包丁と針と糸があれば物が作れるし、試行錯誤しやすくコストも手頃。ひとりで小さく始めるのに適していたんです。 入社5年目には本格的に技術を学びたくなり、革職人さんの教室に通い始めました。この頃から独立を考えていましたね。入社して7年目の2011年には結婚、翌々年に独立。その後、2015年に自分のブランド「sugata」を立ち上げました。 立ち上げ後は、百貨店や美術館の催事に出店したり、セレクトショップなどで商品をお取り扱いいただいています。また、最近では、他の企業様へのデザイン提供にも取り組んでいます。

「ものが存在する動機・必要な機能」と徹底的に向き合えば、唯一無二な製品ができる。

− 「sugata」の製品は、すごくミニマルですよね。それでいて、キーが落ちないキーケースとか、片手で開けられるコインケースとか、ひとつひとつに使いやすいアイデアが詰め込まれています。これらの製品はどのように製作されているのでしょうか?
染谷さん ブランドを立ち上げてからずっと、僕は正攻法のデザインがしたいと思っているんです。正攻法のデザインとは、「その物が存在する動機はどこにあるか、物にどのような機能が必要か」を突き詰めていくこと。 このキーケースで説明しましょうか。 キーケースに必要な条件や機能は「鍵を守り、取り出しやすくする」こと。このキーケースはキーリングに合わせて革のケースにスリットを設けています。鍵にリングを取り付け、ケースにストンと落とすと、リングがスリットにはまって抜けなくなるんです。
染谷さん 取り出す時は、ケースの両端をつまんでキーリングを引き上げるだけ。特別な操作も必要なくスマートでしょう? 「鍵を守り、取り出しやすくする」ことに相応しいデザインを備えていると思います。
− 先ほど見せてもらったコインケースはなぜこの形になったのでしょうか?
染谷さん コインケースは、持ち運びやすくしたいですよね? だから携帯時はポケットの中で邪魔にならないよう、平たくしたかったんです。でも、平たいと取り出し口が狭くなるので不便になります。だから取り出す時は立体にしたかった。 「平たいのに立体」という矛盾を解決するために僕は折り紙を参考にしたんですよ。折り紙は平たいのに立体にもできるじゃないですか。
染谷さん このコインケースも最初は折り紙に習って6角形にしていたんですが、手の馴染みを良くするために丸い形にしています。そうそう、同じ折り紙から着想を得たコインケースがもうひとつあるんですよ。これも広げるとコイントレーのようになります。
染谷さん 僕はデザインをする時に、物の性質や機能を因数分解して取り出しているんです。様々な行為に最も適した普遍的な形がきっとある。物が形づくられた意図に気づき、デザインを楽しんでもらうためには、色や柄は余計になってしまいます。だから僕の作るものはモノトーンを基本としているんです。
− ものすごくロジカルにアイデアを生み出しているんですね。これだけシンプルなものだと真似されてしまいそうですが...。
染谷さん 実は真似されてもいいと思っています。大企業なら問題になるかもしれませんが、これだけネットやSNSが発達していますから、「元をたどれば染谷がいた」と気づいてもらえれば、それがかえって宣伝になるんじゃないかと。だから、僕は真似されることについては、あまり不安に感じていないんです。
− これから染谷さんはどのような商品を作っていきたいのでしょうか?
染谷さん 理想は「亀の子たわし」ですね。多くの人は、それをどこの誰がつくったのかまでは、あまり意識せずに使っているように思いますし、そもそもデザインとして認識されることも少ないかもしれません。 ですが実際のところ非常に合理的で、デザインと用途、製造工程までが一致していて無駄がない。普遍性を宿しつつ、プロダクトとして一級品だと思っています。僕はそんな亀の子たわしみたいなプロダクトが作りたいんです。 ありがたいことに、定期的に出展させていただいてる展示会などでも、ご好評をいただいておりますので、これまで以上に販路を拡大して商業的にも成功させていきたいと思っています。
(インタビュー終わり) 「商品にどのような機能が必要か」を考え、奇をてらわず正攻法のデザインをする。この姿勢を商いにも活かせないだろうか。 世の中にはサービスや商品が溢れている。だから差別化をしようとして要素を付け加えてしまう。染谷さんの考えはその逆で、物に求められる機能と形をとことん突き詰めて、普遍性を宿したプロダクトを生み出している。 普遍性を宿したものは色褪せない。生みだすために時間はかかるかもしれないが、それはきっと商品の強みになるだろう。
<オンラインショップ> ■紳士の持ち物 URL:http://shinshimono.jp/ ■mono shop(モノショップ) URL:http://www.monoshop.co.jp/
取材・文 鈴木雅矩(すずきがく) ライター・暮らしの編集者。1986年静岡県浜松市生まれ。日本大学芸術学部を卒業後、自転車日本一周やユーラシア大陸横断旅行に出かける。 帰国後はライター・編集者として活動中。著書に「京都の小商い〜就職しない生き方ガイド〜(三栄書房)」。おいしい料理とビールをこよなく愛しています。

2018年12月13日

皆さんの、独立・起業へのモチベーションはなんですか? 会社員ではなく、雇われずに生きてみたい。ずっと前から興味のあった分野の仕事に挑戦してみたい。など、人それぞれ異なることでしょう。 今回お話を伺ったのは、長野県の白馬村でラーメン屋「高橋家」を営む、高橋恭平さん。 実は高橋さんは、数々の大会での優勝経験やナショナルチーム(日本代表)にも選ばれたことのある、凄腕の元プロスノーボーダー。 そんな高橋さんは現在、現役を引退し地元・白馬村でラーメン屋を営んでいます。 なぜプロスノーボーダーからラーメン屋へ転身したのでしょうか。今回は高橋さんの過去から、ラーメン屋にかける想いについて伺ってきました。
<プロフィール> 高橋恭平さん ラーメン屋「高橋家」店主/元プロスノーボーダー 10歳の時に長野県白馬村に移り住み、スノーボードに出合う。 16歳でJSBA(Japan SnowBoarding Association) のJrカテゴリーで優勝、18歳の時にJSBAが主催する全日本スノーボード選手権大会で最年少優勝の後、ナショナルチームにも選ばれる。 30歳で現役を引退し、現在は長野県白馬村でラーメン屋の経営をスタートさせる。地元の人々だけでなく、県外からも多数のお客さまが足を運び、人気を博している。

プロスノーボーダーとしての栄光と挫折。挫折の先に見つけた、感謝の気持ち

ー元プロスノーボーダーでありながら、現在は長野県白馬村でラーメン屋を経営されている高橋さん。プロ生活を引退後、ラーメン屋への転身は珍しいのではないかと思います。まずは、プロスノーボーダーになるまでの経緯から教えてください。
高橋さん 僕は山形県で生まれました。その後は親の転勤に伴って、東京で5年間過ごした後、10歳の時、この白馬村に引っ越してきました。 スノーボードと出合ったのも、この白馬村でした。 ご存知の通り、白馬はスノーボードに打ち込むには最適な環境だったので、どんどんスノーボードの面白さにのめり込み、腕を上げていきました。 中学、高校と進学する頃には様々な大会で優勝し、ナショナルチーム(国を代表するチーム)のジュニア枠にも選ばれました。 そして18歳の時に、プロ資格を取得。ここまでは比較的、順風満帆なスノーボード人生を歩んでいましたね。
ー念願のプロの世界に入ってからはどうだったのでしょうか?
高橋さん 20歳の時、スイスで行われたジュニアワールドカップに参加した際に、両方のかかとにヒビが入ってしまい、その年はケガで戦線離脱してしまいました。 このケガを経験してから、大会に参加しても優勝できなくなってしまったんです。
ー選手として、苦しい時期に差し掛かったのですね。
高橋さん かかとのケガから1年後、アメリカの大会に参加したのですが、その大会でも結果を残せないでいました。そして帰国した後の大会で今度は脳しんとうを起こしてしまい戦線離脱。 再び、ケガに悩まされる日々が始まりました。そしてこの時期ぐらいから、次第に自分のキャリアについて考えるようになりました。
ーその後はどのような活動をされていたのでしょう?
高橋さん 選手としての活動を全うできない時に、違う形でスノーボードと関わる方法もあるんだと認識し始めました。 例えば、プロスノーボーダーとして雑誌媒体に出たり、スノーボードのキャンプを開いてコーチを勤めたり、プレイヤーではない形でスノーボードと関わっていました。
ープレイヤーから一度離れてみて、いかがでしたか?
高橋さん この頃は、まず自分が培ってきたスノーボードの経験を活かすところから始まりましたが、次第にスノーボードに代わる何かしらのスキルを身に着けていきたいなと思うようになりました。 でもまだプレイヤーとしてやり残したことがあったので、脳しんとうから3年ほど経ってから、再びプレイヤーとしてアメリカの大会に挑戦することにしました。
ーケガから復帰して、なぜアメリカなのでしょう?
高橋さん まずアメリカは、スノーボードがとても盛んな国であるということ。そして自分が前回挑戦した時にケガをして断念してしまったことなどが、理由に挙げられます。 ケガの療養中にプレイヤー以外の経験を積んで、スタッフを始めとするいろいろな人に支えられて、スノーボードに打ち込むことができたんだと再確認しました。 だからこそ今回のアメリカは、人に頼らず自分の力だけ行こうと思いました。 飛行機のチケットを取って、ホテルを予約して、そして試合に臨む。とはいえ異国の地にたった1人で赴いた時、どうしても困ったことに遭遇することもあるんですよね。 そんな時はやっぱり助けてくれるんです。アメリカ人も、現地にいる日本人の方も。 やっぱり自分はいろんな人に助けられていることに、アメリカに来て改めて実感することができました。
ースノーボード以外で大きな発見があったんですね。
高橋さん そうですね。そしていつしかその「感謝の気持ち」が、僕の行動原理になっていくようになり、起業をする時のモチベーションにもなりました。 そしてもう1つ、スノーボード以外で大きな収穫がありました。 アメリカで現地の人に美味しいハンバーガー屋を紹介してもらったのですが、そこのハンバーガーがあまりにも美味しくて、滞在中はずっと通っていたんです。 その美味しさのあまり「日本に帰ったらハンバーガー屋を開きたい」と思うようになりました。 脳しんとうを起こしたくらいから、スノーボードを引退した後のことを考えていたので、まさにちょうどいいタイミングで出合うことができました。 そしてアメリカの大会を終え、帰国してライスバーガー屋を立ち上げたんです。

スノーボードもラーメンも本質は同じ。目的から逆算する力

ー最初はラーメン屋として開業したわけではなかったんですね(笑)。でもなぜ、ハンバーガー屋ではなくライスバーガー屋としてお店を立ち上げたのですか?
高橋さん 白馬村には、すでにたくさんのハンバーガー屋があったので(笑)。それならライスバーガーにしようと思って。
ーなるほど。では、どのようにライスバーガー屋を始めたのでしょうか?
高橋さん アメリカから帰ってきたばかりで、土地もお金もなかったので、最初はトラックを買って、自分で改造して移動式のライスバーガー屋を始めました。 夏場には、ラフティングやパラグライダーなどのアウトドアのインストラクターをしつつ、冬場はスノーボードとライスバーガー屋を営む生活をしていました。
ーでは、ライスバーガー屋からラーメン屋に切り替えたきっかけはなんだったのでしょうか?
高橋さん スノーボードを引退したことと、こどもが生まれたことです。 アメリカから帰ってきて、ライスバーガー屋をやりながらスノーボードも続けていたのですが、2年前に正式にプロスノーボーダーを引退しました。そして同時期に、こどもが生まれたんです。 こどもができたのはもちろん嬉しかったのですが、その反面しっかり家族を養っていかなければいけない、という自覚が芽生えました。 妻と2人ならまだしも、こどもを育てていくためには、移動式のライスバーガー屋や、夏場に短期の仕事をしているだけでは、正直不安定だなと思ったんです。 そこで安定した収入を得るために、1年中経営できる店を開きたいと考えました。そんな時ちょうど妻の知り合いから「居酒屋の居抜きがあるから、何か店を出さないか」というお話がありました。 このチャンスを逃すわけにはいかないと思い、すぐに申し出を受け、経営の準備に取り掛かりました。 白馬村は日本人だけでなく外国人もたくさん訪れますが、日本人にも外国人にも、ラーメンは人気があるので、思い切ってライスバーガーからラーメンに切り替えました。その居抜きに、ラーメン屋を開く条件が揃っていましたし。
ーラーメン屋への転身は、どうでしたか?
高橋さん 最初は毎日が、試行錯誤の繰り返しでした。プレオープンを経て正式に開店してからも、スープの味が決まらずに、ずっと悩んでましたから。
ーライスバーガー屋を営んでいたとはいえ、ラーメンは畑違いですからね。未経験の世界に飛び込むのはとても勇気のいることだと思います。
高橋さん たしかにやってることは違いますね。でも僕はスノーボードもラーメン屋も、本質は同じだと思っています。
ーどういうことでしょうか?
高橋さん 僕がやっていた「スノーボードクロス」という競技は、複数名と混走することが前提です。スピードは元より、技術や人との駆け引きなど総合的な滑走能力が試されます。 そして勝ち上がるためには、自分の欠点と長所を見極め、今どんな行動が必要かを考えます。 ラーメン屋も同じです。売り上げを増やすためには、何が足りていて、何が足りていないのかをしっかり把握する。そこから自分がすべきことを逆算して考えていくんです。 例えば、僕はライスバーガー屋を経営した経験があるので、店のマネジメントは強みです。逆に美味しいラーメンを作る技術は未熟だったので、店を出した後も、ラーメン作りに試行錯誤していました。 長所と短所を冷静に自分で分析できていたからこそ、美味しいラーメンを作ることに最大のリソースを割くことができた。 その結果、今ではお客さまに胸を張って出せるクオリティのラーメンが完成しました。そしてありがたいことに、多くのお客さまにご来店いただけるようになりました。

お客さまにとって居心地がいいお店にしたい。それが、故郷・白馬村への恩返し

ー経営に必要な目的から逆算して行動する力は、スノーボーダーとしての経験で培われていたんですね。ところで、ライスバーガー屋の時から「白馬村」で商売をする、ということにこだわっているように思いますが、なぜでしょう?
高橋さん それは僕が白馬村が大好きで、この場所と人に感謝しているからですね。 白馬村は自分が育った場所であり、この環境があったからこそ、プロスノーボーダーになることができました。 先程も言いましたが、僕はいろいろな人に支えられて、スノーボードに打ち込めて、現役を引退した後もこうしてラーメン屋を営むことができています。 それは故郷である白馬村と、自分の周りにいる人たちのおかげです。 そんな白馬村に恩返しができるとするなら、それはきっと僕が営むラーメン屋がお客さまにとって居心地が良く、笑いが絶えない場所であり続けることだと思います。 そのために、単に美味しいラーメンを提供するだけではなく、気持ちの良い接客も心がけています。地元の方も観光で来られる方も、皆さんに「また行きたいな」と思っていただけるような店作りを目指しています。
ーでは最後に、独立を目指している人へアドバイスをお願いします。
高橋さん 独立は、誰にも縛られずに自分の意志であらゆることに挑戦できます。逆に言えば、自分から行動を起こさなければ何も始まりません。 それなら自分が「楽しそう」「面白そう」と思うことに積極的に挑戦してみた方がいいと思います。 僕自身、単身アメリカへ渡った時、そしてライスバーガー屋を経てラーメン屋を開いた時など、人生で幾度となくそういったターニングポイントを乗り越えてきました。 自分はそもそも何がしたいのか、そしてその何かを達成させるために何が必要で、何が足りないのか。それを分析し、行動することができれば自ずと結果はついてくるのではないかと思っています。

2018年12月12日

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金谷宏さん(63歳)
(株)KDP/大阪市港区
高校卒業後、大阪で電車との接触事故を起こす。運送会社で働きながら賠償金を完済。別の運送会社を経て、「家族を養うため」物流関係の仕事で1991年に起業。その後、物流人材の派遣サービスに進出、現在に至る。自身は2009年に会長職についた。

2018年12月11日

会社員から独立する人は、心のどこかで「ひと山あてたい」と考えているはず。でなければ、安定した立場を捨てるリスクは取れないだろう。 野球で言えばヒットを出し続け、あわよくばホームランを打ってみたい、と独立する時には誰もが思うこと。しかし、ヒットはともかくホームランはどう打てば良いのだろう? ならばクリーンヒットを打ち続けている人に聞けばいい。ということで、今回はライターとして活躍している菊池良さんにお話を伺った。 菊池さんはWebサイト「世界一即戦力な男」(書籍化・Webドラマ化)で注目を集め、文庫化もされた「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」シリーズを執筆したフリーライター。 Webメディア業界でちょっとした有名人の彼は、なぜヒットを飛ばし続けることができたのだろうか?
<プロフィール> 菊池良さん 1987年生まれ ライター 学生時代に公開したWebサイト「世界一即戦力な男」がヒットし、書籍化、Webドラマ化される。株式会社LIGからヤフー株式会社へ転職し、フリーランスのライター・編集者へ。著書に「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」シリーズ(計17万部)。 ◎Twitter ⇨ https://twitter.com/kossetsu

高校中退から世界一即戦力な男へ

− 菊池さんは「世界一即戦力な男」で注目を集めてから、Web制作会社へ就職。そしてヤフー(株)へ転職し、著書はシリーズで17万部を突破するなど、着々とキャリアアップしています。今日はなぜヒットを打ち続けることができたのかをお聞きしたいです。
菊池さん んー…、ヒットの理由と言うと恐縮ですが、自分なりに心がけていたことはありますね。たとえば「自分を信用しないこと」とか「その場しのぎであること」とか…。
− 今日はそのノウハウが生まれた理由も知りたいので、今までの経歴もお聞きしたいと思います。はじめてのヒット作はWebサイト「世界一即戦力な男」ですよね。どのような経緯で生まれたのですか? ※世界一即戦力な男とは:菊池さんが2013年に開設したWebサイトで、セルフパロディを行いながら「企業のみなさん、私を採用しませんか?」と売り込んだ。Facebookで2万3000「いいね!」を獲得するなど、ネットで人気を集めた。
菊池さん 今考えてみると「自分を信用しない」という意識から生まれたサイトだったと思います。 僕は高校を中退して6年間引きこもりを続け、大検をとってから大学の夜間過程に通っていたんです。2010年に入学して、昼は地方新聞を扱う業界専門誌でアルバイトをしていました。その頃から文章は得意な方で、在学中にライターとしても活動していました。
− なぜメディア業界に進みたいと考えていたのですか?
菊池さん 引きこもり時代にYouTubeとか個人のブログとか、インターネットのコンテンツをたくさん見ていたんですよ。 高校は1年生の1学期に、通学の満員電車が嫌で辞めちゃったんですけど、18歳までに大検の資格を取ればいいやと思っていて。辞めてからずっと、朝から晩までネットサーフィンを続けてました。 途中で自分も何か作りたいなと考えて、ブログを立ち上げました。記事に反応があるとすごく嬉しかったですね。
− その嬉しさからクリエイターになりたい、ひいてはメディア業界に進みたいと思うきっかけになったんですね。
菊池さん そうですねぇ。それで「世界一即戦力な男」のサイトを立ち上げるに至るわけですけど、大学4年生になった時に「就職しなきゃ」と思ったんです。 でも僕は、満員電車を理由に高校を辞めたくらい面倒くさがりな性分ですから、就活も面倒に感じていたんです。そんな時「Webサイトを作ればなんとかなるかな」と思いついたんですよ。 サイトの制作は「この人と一緒につくればいいものができるはず」と信頼していた友人にお願いしました。 僕は1人でやると途中で投げ出しちゃうんです。けれど誰かとやると、約束が生まれるからもうやるしかないですよね。「自分を信用しない」というのはそういうことです。
− 面倒くさがりな性分を自覚したうえでの「自分を信用しない」だったんですね。サイトの反響はどうでしたか?
菊池さん 会ってみたいという企業の方から、問い合わせを50件いただきました。
− すごいですね!
菊池さん 自分でも予想外で…。「世界一即戦力な男」はセルフパロディなので、失敗した時のことも考えていたのですが(笑)。 だから正直、これだけ反響があるとは思っていなかったです。一番最初に問い合わせが来たのは某外資系企業で、僕は「イタズラかも」と思っていたくらいです。 その後、15社くらい面接を受けさせてもらって、感触のよかったWeb制作会社「株式会社LIG」に編集者として入社することになりました。それが2014年のことです。

激務ながらも自由にやらせてもらった1社目

− はじめての会社員生活はどうでしたか?
菊池さん 僕は引きこもっていた時期もあったので、社会人として自分を叩き直したいという思いもあったんですよ。でも、週5で仕事をはじめたら意外とすぐに適応しちゃったんです。 自分で見つけなくても会社に行けば仕事があるし、学生時代からライターはしていましたから、ある程度素養はあったんだろうと思います。
− とはいえ編集職なので激務だったのでは?
菊池さん 激務といえば激務でしたね。10時出社で23時退社の時もざらにありましたし。けど、納期を守ればリモートワークをしてもOKだったので、近所のカフェや銭湯に行って息抜きをしながら仕事してました。
− かなり自由な勤務形態ですね。入社した会社では2年間働いていたと聞いていますが、なぜ転職しようと思ったのですが?
菊池さん 仕事は飽きなかったですし、働きやすかったですけど「上野」という場所に飽きちゃったんです。〇〇で昼ごはんを食べて、■■のカフェでリモートワークしてというルーティーンに。だから新しい環境を求めて、2016年にヤフー(株)に転職しました。

2度目の転職と「もしそば」のヒット

菊池さん ヤフーは大手企業ですし、もっと官僚的な社風で束縛されるかと思っていたんですけど、違いましたね。リモートワークもOKでしたし、仕事も10時出社、20時退社で前の会社より勤務時間も短くなりました。
− 当時のお仕事はどのようなものでしたか?
菊池さん 「ネタりか」というメディアの編集者です。2年目の後半は動画プラットフォームの立ち上げに参加していましたね。複業はOKだったので、終業後にライターとしても仕事を続けていました。
− その当時生まれたのが、「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら(もしそば)」です。続編も出されたヒット作ですが、出版の経緯を聞かせてもらえませんか? ※もしそばとは:村上春樹や太宰治などの文豪百名の文体を模写し、「カップ焼きそばの作り方」を綴った書籍。ネットで評判となり、シリーズ累計で17万部売れた。
菊池さん 「もしそば」は、神田桂一さんというライターとの共著なんです。ある日メッセンジャーで神田さんと話していたら村上春樹さんの話になって、「『村上春樹になる方法』ってネタどうかな?」と言うんですよ。 僕も村上春樹さんの著書は全部読んでいる「ハルキスト」だったので「いいですね、やりましょう」と返してその日は解散。しばらくしたら、神田さんが出版社に企画を持ち込みしてくれていたみたいで、書籍化することになっていました(笑)。
− トントン拍子ですね。
菊池さん 僕も予想していなかったですよ。書籍化には出版プロデューサーの石黒さんという方がついてくださって、「村上春樹単体だと厳しいな」「文豪100人の文体模写はどう?」「もう出版時期は決まったから、締め切りはこの日ね」「ふたりで半分ずつやればいけるよね?」と矢継ぎ早に話が進んでいくんです。 約束した手前やるしかないので、仕事が終わったら最寄り駅に移動して、近所のマクドナルドにこもって深夜2時まで執筆してました。
− お話を聞いていると、菊池さんって約束を大切にしてますよね。「したからには、やるしかない」とか。
菊池さん あ、それは学生時代に一度、締め切りを破ってしまったことがあって、それが原因で仲がよかった担当者さんと疎遠になってしまったことがあるんです。以来、交わした約束は守るようにしています。
− なるほど。律儀だと信用の貯金ができるじゃないですか。それもヒットを飛ばせる理由かもしれないですね。
菊池さん 律儀だなんてそんな。人と気まずくなるのが嫌なだけですよ(笑)。

独立後のタスクは芥川賞全冊読破、将来はやなせたかしさんのようになりたい

− 菊池さんは2018年に独立されてフリーライターになりました。独立に至った理由はあったのでしょうか?
菊池さん 実は、辞めるつもりはなかったんです。ヤフーは待遇もいいですし、僕も「アフター5で自己表現ができて認められたら満足」と考えていましたから。でも、複業の方で今度は新しく「芥川賞を全部読む企画」が通ってしまったんですよね……。 芥川賞受賞作って全部で約150冊あるんですよ。すでに読んだ本が30冊なので、あと120冊読まないといけない…。会社員を続けながらだと、時間がとれないので独立することにしました(笑)。
− これも約束を守ろうとして、なんでしょうか。独立された今、これからやっていきたいことはありますか? 将来の理想像とか。
菊池さん 直近は芥川賞を全部読まないといけないんですが、将来的にはやなせたかしさんみたいな人になりたいですね。自分の作ったキャラがたくさんの人に親しまれるような。バーチャルユーチューバーの運営にも興味がありますし、やりたいことは割とたくさんあります。
− 最後にまとめとして、ヒットを飛ばし続けることができた理由を聞かせてください。
菊池さん そんなに偉そうに言える立場でもないんですが、まずは「自分を信用しないこと」でしょうか。1人でやると途中でやる気がなくなってしまいますが、誰かとやると約束になるのでやる理由ができます。 「その場しのぎであること」も。今はWebで何かを発信すると、デジタルタトゥーと言って黒歴史になってしまうこともありますよね。「世界一即戦力な男」は「失敗するかもしれないけれど、やってしまおう」という姿勢から生まれました。 最後に月並みですけど、「発想力」でしょうか。僕はついつい「こんなものがあったら面白いな」と妄想してしまうんです。コンテンツをいっぱい見て、アイデアを出し続けて形にしていると、誰かの目にとまる時が訪れると思います。
(インタビュー終わり) 高校を辞めた理由を聞くと「満員電車が面倒になっちゃって」。転職の理由を聞くと「上野に飽きちゃったんです」。と、菊池さんの返答は飄々としていてつかみどころがない。けれど約束や納期を守るなど、やるべきことはきちんとこなしている印象を受けた。 はたから見ると奇抜に見える発想も、引きこもり時代に見ていた膨大なネットコンテンツの蓄積から生まれたものだろう。 信用を貯金しながら、来るべき日に備えて練習を積み重ねる。やっていることは至って王道。だからこそ菊池さんはヒットを打ち続けられたのかもしれない。
■菊池さんのTwitter https://twitter.com/kossetsu
取材・文 鈴木雅矩(すずきがく) ライター・暮らしの編集者。1986年静岡県浜松市生まれ。日本大学芸術学部を卒業後、自転車日本一周やユーラシア大陸横断旅行に出かける。 帰国後はライター・編集者として活動中。著書に「京都の小商い〜就職しない生き方ガイド〜(三栄書房)」。おいしい料理とビールをこよなく愛しています。

2018年12月7日

モザイクタイルの名産地として知られる、岐阜県多治見市笠原町。 モザイクタイルとは、菜食された装飾用の小さなタイルのこと。モザイクタイルで作られたシンク(流し台)など、どこかで見たことがある人も多いのではないでしょうか。 今回お話を伺ったのは、笠原町にある「作善堂」店主・水野典康さん。

2018年12月6日

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