演劇ユニット*pnish*(パニッシュ)として、笑いの絶えない舞台に立ち続ける俳優の鷲尾昇さん。多くの“若手俳優”を輩出するミュージカル『刀剣乱舞』にも立つ鷲尾さんは顔立ちのはっきりした”イケメン”だ。低音ボイスで渋い男性を演じる芝居をすることもある中、インタビューでは大きな目を見開き、時には取材陣の話に耳を傾け、ゆっくりと頷きながらお話ししてくださいました。包容力のある大人の男性という穏やかな雰囲気をまといながらも、「それはこういうことですか?」「わー、それ詳しく教えてもらいたいです」と垣根なく接してくださる姿は少年のようでした。
芝居はもちろん、芝居×農業でも新しいことにチャレンジしたいと考えていらっしゃる鷲尾さんにお話を伺ってきました。
裏方の仕事を学ぶうちに芽生えた自分も“出たい”という気持ち
―俳優になろうと思ったきっかけを教えてください。
不純な動機なんですけど、17歳、18歳くらいの頃、当時、アイドルだった永作博美さんが好きだったんで、永作さんが初めて舞台に挑戦した、劇団☆新感線を観に行ったんですよ。一人で東京に行くのも、芝居を観に行くのも初めてだったんですけど、そこから、芸能に興味を持つようになりました。生のお芝居って面白いんだなって思ったのももちろんありますけど、いま考えると、芸能界のキラキラした人たちに憧れたんだと思います(笑)。
19歳ぐらいの時に、親に頼んで放送芸術を学べる専門学校に1年だけ通いました。テレビのカメラや、ディレクター的なこと、照明とか全般的に学べる学科だったんですけど、そういう世界で働きたいと思ったんですよね。それまでは、何かやりたいと思うことも、親に何かをやらせてくれと言ったこともなかったんで、僕が急に専門学校に行きたいって言い出しても、何も言わずに許してくれたんだと思います。
授業で、本物のスタジオの様なところで、カメラマンとして撮影をしたり、照明として撮影したりするカリキュラムがあって、その時に撮影されていたのはミュージシャンや役者さんを目指す学科の人たちだったんです。その授業をきっかけに、自分も“表に出たい”っていう想いが強くなっていって、自分勝手なんですけど、2年生になる前に学校を辞めてしまいました。口数も多くない方だし、出たがりでも行動派でもなかったんですけど、学校を辞めてすぐ「De☆View」という芸能界入りを目指す人向けの雑誌を買って、そこに載っている芸能事務所や、養成所で有名な人が所属している所にどんどん履歴書を送りました。何社か返信をいただいた中の1つに研修生で入って、アルバイトをしながら週に1回のレッスンを受けていたんですけど、半年も経つと、何もできない研修生のくせに事務所に所属しているだけで仕事がもらえると思い込んでいて、「なんで仕事がもらえないんだろう?なんでチャンスが来ないんだろう」と思うようになって、辞めてしまいました。
その後、いくつか事務所を変えましたけど、22歳くらいまでアルバイトとレッスンの日々を送っていました。
学校の延長線上で一緒に遊んでいた同年代のアルバイト仲間が、大学を卒業して就職していくタイミングになって、僕は何の進展もないし、周りのみんなは就職していくのに、どうしたらいいのだろう……と思っていた時に、当時養成所の友人だった佐野大樹(現在活動中の演劇ユニット*pnish*(パニッシュ)のリーダー)から、「演劇のユニットを組むんだけど一緒にやらないか」という話をもらったんです。
今思うと、全部 ‟出会い” だと思うんですけど、佐野君とは養成所以来しばらく連絡は取っていなかったんですよね。2年ぶりくらいにもらった電話が、その話だったんです。
アルバイトに明け暮れていたので、二つ返事で「やる」って言って、その半年後にはもう舞台に立っていました。それが僕の初舞台です。佐野君から電話がなかったら、もう芝居はやっていないだろうなっていう感じもしますね。才能がある人がいっぱいいる業界で今も僕がお芝居をやっていられるのって、原点に演劇ユニット*pnish*があって、それがきっかけで出会えたプロデューサーさん、いろんなことを教わった佐野大樹君のお兄さん(俳優・佐野瑞樹さん)とか、いろんな人や作品と繋がっていっているからだと思うので。
芝居にお客さんを呼び込むために必死で行った路上パフォーマンス
―*pnish*として活動を始めてみてどうでしたか?
なかなかお客さんが集まらないので、NHKホールの前とかで、メンバー4人で路上ライブをしたりしていました。
大声で「これからダンスをします」って言って、上手なわけじゃないけど踊ってみたりして。足を止めてくれる人がいたら、すかさず「舞台をやるんです」ってフライヤーを配っていましたね。
まずは足を止めてもらわないといけないので、誰でも知っている曲を使って。ドラゴンボールとかルパン3世とか、当時流行っていたCMを丸パクリしたパフォーマンスをしたりして。そういうことをしていたので、どれくらいの熱量や距離感なら足を止めて注目してもらえるのかということを覚えていきました。舞台に立ったときに、そういう空気感・距離感を体で感じるような癖がついたのはこの経験からかもしれません。その時はお客さんを集めるために必死でやっていたんですけど(笑)。
あとは、大学の学園祭に応募して路上でやっていたパフォーマンスをさせてもらったり、地域のダンスコンテストなんかにも出ました。『亀戸サンストリート』というヒーローショーが行われるようなステージで、オーディションに受かって毎週何かやって良いと言ってもらえたので、「マイクが使えるからダンスだけじゃなくてコントやお芝居をしてみよう」と、いろんな経験を積みました。
20代は*pnish*の活動とアルバイトが全てでしたね。
ただただミーハーで芸能の世界に入ったんですけど、「絶対にお客さんがついてくれるようになりたい、お客さんを増やしたい、お芝居を認めてもらいたい」っていう気持ちが徐々に強くなって、路上のパフォーマンスをしていくうちに内向的であまり表に出るのが好きじゃなかった性格だったことも忘れるくらい、だんだん自分の性格も変わっていきましたね。
そんなことをしている時に、ミュージカル「テニスの王子様」のオーディションに*pnish*のメンバー森山栄治と土屋佑壱が受かったんです。今でいう2.5次元のはしりの作品で、すごい人気だったので、*pnish*の舞台にもお客さんが来てくれるようになったんです。
でも、何年もストリートで活動していたし、特に人気があるわけではなかったので、お客さんが来てくれたことは嬉しかったけど、一過性のものになるんじゃないかと、どこか冷静にその状況を見ていた気がします。*pnish*ではコメディの活劇をしていたので、ミュージカル「テニスの王子様」やアニメがきっかけで観に来てくれたお客さんに“舞台ってこんなに面白いんだよ”って知ってもらいたいという一心でやっていました。
そのあたりから、ありがたいことにお客さんがどんどん増えていって亀戸サンストリートにも、それまでは5人くらいしかお客さんが来なかったのに、600人、700人と集まってくれたりするようになったので「ちょっと夢が叶ったのかな」って嬉しかったですね。
ずっと一生懸命だったんで、熱量もあったと思うし、僕らのエネルギーを感じて周りの大人たちも手を差し伸べてくれたり、色んな方と出会えるようになりました。
10年所属した芸能事務所を退所しフリーへ
-2年前まで所属していた芸能事務所トルチュはどういう経緯で所属されるようになったのですか?