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社会起業家からのメッセージ

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NPO法人サービスグラント/東京都渋谷区 代表理事

楠 めぐみさん(33歳)

1982年、埼玉県生まれ。立教大学観光学部を卒業後、06年から5年間、訪日外国人旅行者向けウェブサイト「japan-guide.com」にて旅行会社、公的機関等のインバウンドプロモーションに関わる企画・提案に携わる。11年に退職後、食を通じた「ホームビジット」の事業を構想し、大手料理教室の講師を務めつつ、NAGOMI VISITの運営をスタート。13年にNPO法人化し、本格的に事業を展開。国内外のメディアでも多数取り上げられ、現在までに57か国3900人の海外旅行者と日本の家庭とをマッチングした実績を持つ。

文化の違う人同士が互いに認め、尊敬し合える“つながり”を作る。個々人の小さな変化が世界を動かす“てこ”になる

━ 活動を始めたのは、ご自身の個人的な体験からだそうですね。

  海外旅行者のための情報サイトの仕事をしていた時から、旅行者にエキサイティングなアクティビティを提供できないかと思っていました。そこで、自分が旅行者だった時に一番、エキサイティングだったことは何かと振り返ると、真っ先に思い浮かんだのが、私のパートナーのデンマーク人の実家を訪ねた時のことでした。 初めての欧州旅行で一般家庭に入って暮らしぶりを見たり、ごはんを食べる体験は、驚きと感動の連続でした。この体験を日本に来る旅行者にも、味わってもらいたいと思ったのがきっかけでしたね。

━ 事業としては、どんな形でスタートを切ったのでしょうか?

 最初は前職を辞めた時期に、「ちょっとやってみた」という感じでした。知人の家庭にホストになってもらい、一方でご縁のあった旅行社にゲストを紹介してもらって、試験的に4組のホームビジットをセットしたんです。ゲスト側は大喜びでしたが、気がかりだったのはホスト側の反応。実施後にヒアリングしたところ、意外にも「視野が広がった」とか「外国に対する見方が変わった」など、人間的な成長につながったとの声をいただけたんです。 実は私が「ホームビジット」に込めた期待もそこにあったので、これを自分の事業にしたいと思うようになりました。

━ 期待とはどんなことですか?

 日本の、特に地方では、外国人に遭遇すると、見てはいけないものを見たような反応をしたり、子供は「ガイジンだ!」と騒いだりします。見た目の違いによる偏見や特別視する光景を見る度、寂しさを感じていました。 職場の外国人社員から「なぜ日本人は外国人に過剰反応するのか」と聞かれることも多かったんです。考えてみると、日本人はただ外国人に不慣れなだけなんですよね。だから外国人と関わりを持たない一般の人に、直接、海外の人と触れ合うことで、異文化に対する見方を変えてもらいたいと思っていました。

━ そこからの事業展開は?

 まず「ホームビジット」の仕組みとルールを作り、実績を積んでいきました。当初は全て手作業で、1組のリクエストが入ると、数人のホストにプロフィールや日程のメールを送り、誰かが手を挙げてくれたらゲストにメールして、という具合ですね。その後、前職で同僚だった女性がメンバーに加わったことで、13年にNPO法人を設立。 幸いメディアにも多く取り上げられ、次第にゲストもホストも増えていきました。規模が増えるにしたがって少しずつシステムを導入し、ようやく決済やマッチングをシステム上でほぼ完結できるところまできました。

━ ゲストとホストが長い付き合いになることも多いそうですね。

 「同じ釜の飯を食う」とはよく言ったもので、たった数時間でも、食卓を囲めば心が通い合うんです。旅行者が再び同じホストを訪ねたり、反対にホスト側が海外のゲストの家に行くといった交流が生まれています。それも、対等な関係で付き合える仕組みにしているからでしょう。 サービスを受ける側と提供する側に分けないために、ゲストは低料金で参加でき、ホストはその中から食材費をまかなう形にしたのはそういう理由です。

━ 今後、成し遂げたいことは?

 ビジョンとしては文化の異なる国の人同士が相手の立場に立って接することのできる社会を作ることを掲げています。でも声高に訴えるつもりもありません。それよりも偶然旅先で知り合ったような、自然な出会い体験をたくさん作っていきたいです。 今は1か月に100組前後のペースですが、今後は事業の採算ラインとなる250組、500人を目指します。
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NPO法人サービスグラント/東京都渋谷区 代表理事

嵯峨 生馬さん(41歳)

1974年、神奈川県生まれ。大学卒業後、日本総合研究所に入社し、調査研究業務に従事。2001年、渋谷を拠点とする地域通貨「アーティストマネー」を共同設立し、現在も代表理事に就く。2005年、日本におけるプロボノの草分け的活動として、「サービスグラント」をスタート(2009年にNPO法人化)。2010年、グッドデザイン賞受賞。東京、大阪を両拠点に活動しており、プロボノワーカー登録者数は2700名を超えた。高い支援実績を誇り、国内のプロボノを牽引している。

社会課題を肌感覚としてとらえる人々を増やしていく。それが「社会参加先進国」に近づく一歩になる

━ この活動を始めた背景には、ご自身の経験があるようですね。

 サービスグラントの前に、コミュニティの活性化を目的にした地域通貨を発行・流通させる活動を始めていたんです。この時に実感したのは、運営過程において様々な課題が出てくるということ。NPOって最初は勢いがあっても、続けるうちに熱が冷めてきた人の活動力が落ちたり、広報や経理などといった法人運営に欠かせない仕事に手が回らなくなったりと、困り事に多々直面するんですよ。  継続って難しいものだな、そう感じていた頃に、アメリカで知ったプロボノ中間支援団体のことをちゃんと調べてみたのです。企業人のスキルを活用し、非営利組織に実際に役立つ支援を提供する仕組み。これはいい!と。「こんな団体が日本にあったら、まず自分が使いたい」。そう思ったからこそ、活動を立ち上げたのです。

━ 滑り出しはどうでしたか?

 プロジェクトをやればすごく手ごたえを感じたし、ニーズはあると確信できました。ただ認知がないから、説明会を開いてもなかなか人が集まらず、企業との協働もまだなかったので、とにかくお金には窮しましたね。3年くらいたつと中だるみしてきて、このまま続けていけるだろうか……って。  転機となったのは2009年。日本財団から助成金を受けたのです。ちょうど日本財団も、社会的課題に取り組むNPOなどの基盤強化に力を入れていくというタイミングで、僕らが提供する仕組みが「新しい支援のかたちとして面白い」と。これで、もう一踏ん張りしようと意を固めて法人化し、社会的に影響力のある方々にアタックして理事も集めたんです。時代の後押しもあったのでしょう、メディアにも取り上げられ、「プロボノ上陸」と銘打った大きなフォーラムを成功させることもできた。いわば“第二創業”ですね。

━ プロボノワーカーも支援先もずいぶん広がってきています。

 法人化した時期を境に、プロボノワーカー登録者数が年間約400人という規模で増え続けるようになり、従前の10倍ペース。支援先の分野としては医療・福祉、子供・教育が多いですが、本当にいろいろです。プロジェクトは案件ごとにチームを組んで臨むんですけど、大切なのは課題とゴールを明確にすること。達成する成果目標を、受益者とプロジェクトメンバーできちんと共有し、適正な時間管理をすることで、確実なフィニッシュができるのです。  プロジェクトを経験したプロボノワーカーたちの8割以上が、リピートを望んでいます。“異業種混合チーム”で視野が広がり、スキルや問題解決力がより磨かれたりと、自己成長の確かな手ごたえを得られるようです。CSR(企業の社会的責任)の観点からパートナーとして協働してくださる企業も増えていますし、こういう広がりはうれしいですね。  

━ これからの活動イメージは?

 今、僕らは「社会参加先進国へ」という言葉を掲げています。昨今、日本は課題先進国という言われ方をしていますよね。確かに社会課題は様々あるわけですが、これらを解決するには、まず人々、皆が社会参加できるようになっていくことだと思うのです。その中で、社会課題に継続的に取り組むNPOの全体的な底上げが一つ重要なことだし、社会に対しては、NPOに対する理解やかかわりをもっと深めてほしい。 お金で支援するのでも、プロボノで支援するのでもいい。何か活動に直接かかわることで社会課題を肌感覚として持つ人々が増えれば、社会参加先進国に一歩近づけるんじゃないか、そう考えています。そのためにも、今後は縦横に広がるスケール感ある活動を目指したいですね。
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一般社団法人日本リ・ファッション協会/東京都中野区 代表理事

鈴木純子さん(47歳)

1965年、茨城県生まれ。高校時代に起業家を志し、卒業後、経営やコンピュータの専門学校に通う。88年、大手システムソリューション会社に就職したのを皮切りに、経営コンサルティング、雑誌編集などの職を経験、92年、フリーのマルチメディアプランナーに。96年、マルチメディア関連業務などを請け負う「アプロディー」を設立、代表取締役に就任。循環型社会創出への貢献を考えるなか、2009年、思いを同じくする仲間と「日本リ・ファッション協会」設立、代表理事として精力的に活動している。 http://www.refashion.jp

 大量生産・消費から循環型社会へ――。言い古された感のあるスローガンではあるが、一貫したビジネス、ムーブメントに具体化するのは、そうたやすいことではない。鈴木純子が2009年に設立した日本リ・ファッション協会は、「衣」を核に、リユース、リフォーム、リサイクルなど〝Re(再び)〟に焦点を定めた様々な行動を提唱 している。ポイントは「リ」に、モノの循環を支える日本の伝統技術や知恵に対する「リスペクト」 の意を込めていること。それらを結集した「いいものを長く愛用する」社会の再構築が目標だ。 設立4年目、そうした趣旨に賛 同する会員は、企業、個人合わせて約380に達した。現在、「リ・ファッション」を理解してもらうためのワークショップ、コンテストの開催や、初心者でも気軽に手芸を楽しめる「ソーイングカフェ」の運営に取り組む。さらに、回収した古着などを使って新たなビジネスの創設を目指す「リ・ファッション ラボ」では、いくつかのプロジェクトが立ち上がってきた。「多くの人と手を携えながら、自ら〝稼ぎ出せる〟新しいビジネスを」。NPOなどではなく一般社団法人として旗揚げした鈴木の思いは、確実に芽吹き始めている。

「いいものを長く愛用する」ための技と知恵を見直し、企業化を図る。それが循環型社会を支えるムーブメントになる

━ 起業を決意したのは16歳の時だったとか。

 引き金になったのは、高校受験失敗のトラウマです。それからずっと抜け出せなくて、こんなふうに、他人のモノサシに引きずられる人生を送るのはいやだなと。で、自分の価値観を軸に生きていくのだったら、将来「社長」になるしかないと思ったのです。実際に起業したのは、いくつかの会社勤めを経験した後、29歳の時でした。

━ リ・ファッション協会を設立したきっかけは?

 もともと技術畑なので、日本の伝統的な技術や知恵を残したいという意識が強かったんですね。それとリンクさせて、何か、生活や心の豊かさを実現できるビジネスモデルが構築できないかと、いろんな人とも意見交換しながら試行錯誤を重ね、やっと行き着いたという感じです。 日本には、昔から高い技術に裏打ちされたメンテナンスという仕事がそこかしこにあって、それで世の中が動いていたわけです。モノを循環、再生させることで潤いのある暮らしを演出していた。大量消費時代の到来で忘れ去られていたそういう社会を、今の時代に合ったかたちで提案しようと考えたのです。と、理論だけではなかなか理解してもらえないので(笑)、まずは「リ・ファッション」の普及活動から始めました。

━ 具体的には?

 例えば「リ・ファッション コンテスト」。参加者には、私たちが一般家庭から回収した不用衣類を素材として提供し、2着以上の服を使用したリメイク作品を発表してもらう。その作品を公開展示やWeb投票で審査し、グランプリを決めるというイベントです。参加者だけでなく、衣類の提供や審査というかたちで、数多くの人に  「リ・ファッション」の楽しさを知ってもらえるのがミソ。3回目となった2012年は、受賞祝賀パ ーティに100人ほどの方が集まってくれました。 「ソーイングカフェ」にも手ごたえを感じます。お茶を飲み、講師のアドバイスも受けながら縫いものをする、ありそうでなかった空間です。東日本大震災の支援活動の一環でもあるのですが、テーブルを囲んで作業をするというのは、距離感がちょうどいい。心のケアや新しいコミュニティづくりに一役買っています。

━ リ・ファッション市場の創造にも取り組まれているとか。

 家庭に眠る衣類を回収し、会員仲間とともに新しいビジネスを起こそうという「リ・ファッションラボ」事業です。例えば被災地や障害者施設の作業所などは、商品開発やマーケティングが不得手で、そのことが生産の壁になっている場合が少なくないのです。そこで、そうした部分を会員企業などが担当し、現場は縫う、編むといった作業に特化して仕事量を増やすというプロジェクトが始動しました。これを端緒に、いくつかの新しい仕組みづくりに取り組めそうです。

━ これからの夢は?

 あえて株式会社という営利組織でもなく、NPOという非営利組織でもない「一般社団法人」にしたのは、自分たちだけではなく、生産や流通、メンテナンスに携わる人々に消費者も巻き込んだ、実効力のあるムーブメントにしたいと考えたからです。その目標に照らせば、ようやく一歩が踏み出せたところ。芽が出始めた事業を着実に花開かせながら、さらに認知度を高めていきたいですね。 循環型社会が大事だと言いますけど、突き詰めれば、モノを使い捨てにする社会は、人も使い捨てにする。仕事も同じだと思うんですよ。常に創造しつつ、同時にみんなが幸せになれる持続可能な事業を追求する。その原点は忘れずにいたいと思っています。

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ケアプロ株式会社/東京都渋谷区 代表

川添高志さん(29歳)

忙しくて時間が取れない、保険証がないから経済的な負担が大きい――。長寿大国と称されるこの国には、様々な理由で健康診断を受けない、受けられない人が、年間3000万人を下らない。川添高志が2007年に設立したケアプロは、そんな人たちに安価で手軽にその機会を提供している。常設の店舗や出張サービスの会場では、血糖値、中性脂肪といった検査が1項目につきジャスト500円で受けられ、結果も数分で出る。小規模自営業者、フリーター、子育て中のママ……事業は、予想どおり「潜在需要」の心に届いた。  独立を志したのは高校1年の時。父親が突然のリストラに遭い、雇われる身の危うさを感じたことがきっかけだ。その後、ボランティア活動した老人ホームで、人手不足で高齢者をぞんざいに扱わざるを得ない現場の矛盾を体験し、起業の方向を医療分野に定める。決意を胸に関連の学部に進んだ大学時代、米国の医療視察に参加。大型スーパーの片隅で客が簡易な医療サービスを受けている光景を目にしたことで、「これだ」と事業の骨格は固まった。事業の全国展開、さらに新たなサービスの創出に向けて、川添は走り続けている。様々な「圧力」にも抗しながら。

本当に世の中に必要とされる事業なのか―自問自答を繰り返す。それが「社会貢献の企業化」を推し進める力になる

━ 初めから「社会貢献事業」をやりたいと考えたそうですが、成立に不安はありませんでしたか?

 昔から、お金の問題を深く考えるたちではないんです(笑)。「世の中に必要なビジネスならば、失敗するはずがないだろう」という発想で、ずっとやってきました。だから、常に自問自答していたのは、「これは人々の役に立つ仕事なのか」ということ。そこに確信を持てていたから、必ず事業は成立すると思っていました。

━ ワンコイン健診は、どのように具体化していったのでしょう?

 大学4年の時から2年間、医療専門のコンサルティング会社で医療経営に触れ、その後、東大医学部附属病院で看護師として働きました。病院では糖尿病の病棟に所属したのですが、症状の重い患者さんたちに、「なぜ、もっと早くに健康診断を受けなかったのか?」と聞いて回ったんですよ。その結果わかったのが、多くの人にとって、健診が意外に敷居の高いものだということ。 わざわざ医療機関に出かける時間がなかったり、予約が面倒だったり。さらに、保険証のないフリーターなんかにとっては、数千円という金額もネックになる。ならば、いくらなら受診する気になるのか、"値頃感"を詰めていったら「500円くらいなら」という声が非常に多かったんですね。あるべきサービスをこの価格で提供できれば、需要はあるということがわかったのです。

━ 2008年、第1号店として出店したのが東京・中野でした。

 駅前の大きな商店街に狙いを定めたのです。店舗を構え、中には看護師が一人。例えば通りすがりで、予約や保険証がなくても、お客さんは、その場で看護師の補助を受けながら自分で指先から微量の採血をすれば、あとは数分結果を待つだけという、ファストフード感覚の健診です。最初の頃は知ってもらうまでが大変で、僕も白衣を着て、駅前で宣伝しました。人通りが途絶えると白衣を脱ぎ、「ワンコイン健診ってどこですか?」と商店を回ったり。店を認識してもらうための"サクラ"(笑)。   おかげさまで、口コミなどで来客数はだんだん増えて、開店から半年後には採算ベースに乗りました。久々に受けてみたら、数値が異常だったという人は、やっぱり多い。実際にやってみて、事業の社会的意義を再認識しました。ちなみに2店舗目は、昨年8月にオープンした東急横浜駅店です。

━ 出張サービスも軌道に乗っているようですね。

 今までに駅ナカ、スーパー、商店街、パチンコ店などに、延べ1500回ほど出張し、喜ばれています。ただ本当は、店舗をメインに事業展開したいのです。ところが出店しようとすると、保健所から「検査はだめだ」というような、根拠のない横やりが入ったりする。潰された店舗計画や出張イベントも、けっこうありますよ。何ら違法性はないのに、おそらく既得権益を守りたい人たちから圧力がかかっているのでしょう。 でも、事業の意義を理解して味方になってくれる自治体なども確実に増えていますし、フランチャイズのパッケージづくりを中心に、全国展開の準備は着々と進めています。

━ 今後の夢

 起業の原点でもある在宅医療、高齢者介護に本格参入したいと考えています。ハードルの高い分野であることは承知していますが、最も「世の中に必要とされるビジネス」であることも確か。そのためにも、今いる10人の社員を含めて、人材育成に力を入れていきます。おこがましいですけど、目指すのは医療・福祉界のジャニーズ事務所です(笑)。 いろんなタレントを発掘しプロデュースして、独自のソーシャルサービスを提供し続けたいと思っているのです。
中村大樹

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株式会社バリューブックス/東京都渋谷区・長野県上田市 代表取締役

中村大樹さん(30歳)

 1983年、長野県生まれ。高校時代はサッカー漬けの日々を送る。大学進学を機に上京。1年生の春休みを利用して訪れたニューヨークで、独立して働く日本人の若者たちに出会い、起業の夢が膨らむ。大学を卒業した2005年、古本のネット販売ビジネスを単身でスタート。その後、友人たちをメンバーに加えて事業を拡大、2007年に「バリューブックス」を設立した。2010年に本を商材とする社会事業に着手、そのプロジェクトは30を超え、着実な広がりを見せている。http://www.valuebooks.jp/

 きっかけは、偶然的だった。大学卒業後、自分で独立して働きたいという思いを胸に秘めながらも、「何をすればいいのかわからなかった」中村大樹は、ある日、起業に向けて買いためていた本を、ネットオークションに出品。すると、意外な高値で売れたのだ。思いついたのが、書籍の買い取りサイトを設け、集まった本をネットオークションで転売するというビジネスモデル。手持ち資金は20万円、まずは一人でスタートした。追って、高校時代の友人たちも巻き込み、試行錯誤を楽しみながら続けてきた活動は、やがて立派な事業のかたちになった。2007年、中村は、4人の仲間と株式会社バリューブックスを設立する。 同業も少なくないなか、同社を特徴づけるのが「社会事業」だ。基本モデルは本業と同じだが、買い取り金額はすべて社会問題に取り組むNPOなどに寄付する。現在、バリューブックスに送られてくる書籍の約半数は、寄付に当てられるまでになった。2010年に始めてから、およそ60のNPOや自治体、大学などといった団体に寄付した総額は約6700万円。「ようやく軌道に乗ってきた」というこの社会事業は、新たな寄付文化の開花をも予感させる。

「眠っている本で社会貢献」――NPOと共同し、仕組みを広げていく。それが寄付文化に対する新しい働きかけになる

━ 学生時代にニューヨークに滞在したことが、転機になったとか。

 留学していた幼なじみのところに1カ月半ほど遊びに行ったのですが、彼が、そこの日本人コミュニティを紹介してくれたんですね。フォトグラファーとか洋服屋さんとか、誰もが独立してバリバリ働いている。そこであらためて感じたのは、彼らは「まぶしい」存在ではあるのだけれど、みんな普通に頑張っているんだ、別世界の人ではないんだ、ということ。起業の道を選んだのは、あの体験が大きかったですね。

━ もともと本に興味はあった?

 いえ(笑)。そのコミュニティで知り合った人たちの部屋に行くと、例外なく、本棚に難しそうな本が並んでいるわけですよ。大いに触発されて、帰国してから本を読みあさるようになりました。もちろん起業のための書物も。でも、肝心の「何をやるか」は、卒業してもはっきりしなかった。そのうち本があふれてきて、捨てるのは抵抗があったから、とりあえず売ってみようと。Amazonに出品してみたら、100円で買った中古本が1000円で売れた(笑)。こういう世界があるのだと気づき、ヒントを得たわけです。

━ 自社の販売サイトは設けていませんね。

 ビジネスモデルを簡単に説明すると、まず広告も打ちながら、買い取りサイトで本を集めます。今は1日に8000~9000冊入ってきて、在庫は35万冊ほど。他方、販売はもっぱらAmazonマーケットプレイスなどに出品するかたちをとっています。もっと扱う点数が増えれば自社販売サイトもアリですが、現状ではほかのプラットフォームを活用するのが効率的なのです。つまり今の当社にとっては、「どう売るか」よりも「いかに買い取る本の質を上げるか、チャネルを増やすか」が“主戦場”。そのためにサイトのリニューアルにも趣向を凝らし、随時取り組んでいます。会社設立前から、サイトの立ち上げから何からすべて自分たちの手づくり。模索の連続でしたが、そうして蓄積されたノウハウは、僕らの財産です。

━ 社会事業に進出したのは? 収益面においては難しそうですが。

 送られてくる本が増えると、残念ながら商品としては市場に出せず、廃棄処分にせざるを得ないものも出てくる。たまたま僕の故郷の長野で、フリースクールを運営するNPOの代表にそんな話をしたら「ならば、うちに置かせてほしい」と。役立てるのなら、うれしいじゃないですか。それで学童保育や病院、老人ホームなどに寄付するようになったのが最初です。 そんな活動をするなかで、社会貢献に寄与するNPOの多くが資金難に苦しんでいるという話を聞きました。そこで始めたのが、寄付支援サイト「チャリボン」です。個人や企業に本を送ってもらい、それを買い取って、相当額をチャリボンに参加しているNPOやNGOに寄付します。同じ仕組みで特定の組織、団体を支援するプロジェクトもあって、今はそれが30ほどに増えました。NPO活動に携わる方々の働きかけによって、輪が大きく広がってきたのです。 本業と同様、当社は買い取った本をAmazonマーケットプレイスなどで売って利益を得ます。寄付の場合、広告は不要な半面、古い本が多く送られてくるとか、ネットで売るには難しさがあるのは事実。正直、しばらくは赤字続きでした。でも内部の作業の仕方を工夫し、倉庫を長野県に構えて賃料などの経費を抑えるとか、努力を積み重ねることで、やっと単体の事業として回るところまできました。企業体力をもっと付ければ、ほかに真似のできない社会事業になるはず。ぜがひでも続けていきたいですね。

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NPO法人Youth Create/東京都中野区

代表 原田謙介さん(26歳)

 1986年、岡山県生まれ。中・高校は愛媛県の一貫校で寮生活を送り、2006年、東京大学法学部入学。若者の「政治的無関心」に危機感を抱き、3年生の時に学生団体ivoteを結成。投票率向上に向けた街頭啓発などを行う。2011年6月に引退。翌年には自らが発起人となり、インターネット利用の選挙運動解禁に向けた「One Voice Campaign」を実施。2013年1月、Youth CreateをNPO法人化、代表に就任する。現在、学生、社会人ら13人で活動中。 http://youth-create.jp/

 政治のことを語るなんて、ダサイじゃん――。その意識は、例えばこんな数字に結びつく。民主党による政権交代にわいた2009年8月の総選挙。全体の小選挙区投票率が69.28%だったのに対し、20歳代のそれは49.45%にとどまった。ちなみに30歳代は63.87%、60歳代は84.15%である(「明るい選挙推進協会」調べ)。若年層の投票率が上の世代に比べてダンゼン低い傾向は、特に80年代以降、顕著になってきた。当然のことながら、若年層の「利益」や「思い」を代弁する人物は、当選が難しいということになる。  そうした現状に風穴を開けるべく活動を続けてきた原田謙介は、現在、Youth Createの旗頭として意欲的に動いている。「若者と政治を結ぶ」をコンセプトに、党派を超えて政治家と直接「飲める」イベントや、小学生から社会人まで、政治リテラシーを向上させるための年代別教育プログラムなどを実施。従来なかった取り組みは、マスコミにも取り上げられ、広く注目を集めている。そのルーツは「政治に関心を持つのはかっこいい」と思われる社会にしようと、大学生時代に同志6人で始めた、若者の投票率向上を目指す運動にある。

「無関心」が未来を閉ざさないよう、政治を肌で感じられる機会を創出する。それが、若者たちの政治参画を促す礎となる

━ そもそも政治に関心を持ったきっかけを教えてください。

 高校生の頃、どういうわけか政治家になりたかったんですよ。世の中に広くかかわる仕事がしたいなあって。政治のことなど、何も知らなかったんですけどね(笑)。で、大学に入ってから、郷里である岡山選出の民主党国会議員さんのところで、インターンをやったんです。とりあえず現場を見てみようと。そこでわかったのは、政治というものには、ものすごく力があるということ。まだ政権交代前夜でしたが、民主党の議員さんたちの話していたことが、翌日トップニュースになったりするわけです。そしてもう一つ、議員が若者に会う機会はほとんどない、ということにも気づきました。永田町の議員会館にいても地元に帰っても、周りは年配者ばかりで……。

━ そこで生まれた問題意識が、学生団体の結成につながったと。

 そうですね。片や、同級生なんかに政治の話をしてみると、「何言ってんの」という反応がほとんど。でも、30年後の日本のことを当事者意識を持って真剣に考えられるのは、その頃社会を支えているはずの若者でしょう。そこのギャップを埋めない限り、世の中は変えられないと強く感じたのです。それで大学3年の春、20歳代の投票率向上を目指す学生団体「ivote」を結成しました。東大のサークル仲間、あとはインターンで知り合った人とか、大学もバラバラの6人が集まって始めたんです。

━ 実際にはどのような活動を?

 最初は、学生が集まるイベントがあればとにかく出かけていって、空気を読まずに(笑)、「政治についてどう思いますか?」と聞きまくりです。むろん「何言ってんの」パターンが多いのですが、なかには「年金もらえるのかな」なんていう反応があるわけです。そんなことを繰り返しているうちに、だんだん活動のアイデアが固まってきました。「20代の夏政り」と銘打って、浴衣や甚平を着て練り歩きながら、若者に投票を呼びかける街頭啓発活動をやったり、「居酒屋ivote」という国会議員と若者の飲み会を企画したり。若者が政治に“直接触れる”機会づくりから始めたわけです。

━ それが、現在の活動のベースになっているわけですね。

 ivoteは後輩にバトンタッチし、そのOB・OGで設立したのがYouth Createです。僕らが考えているのは、まず選挙に特化した団体にはしないということ。例えば、まだ選挙権を持たない子供や若者に、政治の仕組みや役割などをきちんと知ってもらうための教育プログラムの策定、イベントの開催などを考えています。そして主催している「Voters Bar」は、やっぱり政治家との飲み会なんですが(笑)、今後は地方議会の議員さんたちとも触れ合える場をつくるべく、全国ベースで進めていこうと。あとはNPO法人として、行政や企業と組んだ活動の推進も課題です。

━ 多摩大学大学院教授の田坂広志さんらが発起人となった「デモクラシー2.0イニシアティブ」にも参加していますね。

 「観客型民主主義から参加型民主主義へ」といった、新しい時代に必要な政治理念を発信していくグループで、うちは、8つある参加組織の一つに加わらせてもらっています。僕は常々、「政治はあっちの人たちがやるもの」という発想が一番の問題だと思っているんです。それを打破していくうえで、非常に意義深い活動だと思っています。僕らの活動はまだ緒についたばかりですけど、学生団体を立ち上げた5年前にはなかった運動の広がり、手ごたえが確かにあります。これからが本番。いろいろ仕掛けていきますよ。

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2016年12月26日

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NPO法人オフィスリブスタイル/東京都大田区

代表 奥山京子さん(34歳)

 1979年、愛知県生まれ。幼少の頃から音楽に慣れ親しみ、音楽大学では声楽を学ぶ。卒業後、専門学校にてさらに音楽療法を学び、在学中の2006年に、高齢者施設などに音楽セラピストを派遣するNPO法人「オフィスリブスタイル」を設立。現場活動とともに、音楽セラピスト統括責任者として、プログラムの作成にもあたる。現在、都内公立小中学校の特別支援クラスや、成人更生施設において同療法の講師を務めるなど、その活動領域は広がりをみせている。

音大は出たけれど……。奥山京子が音楽療法の道に進んだのは、「とにかく仕事をして稼ぎたかった」からだ。専門学校に入り直し、音楽療法士の資格を取得して、「オフィスリブスタイル」を設立したのが2006年。スタッフ3名で始めた、26歳の起業だった。 高齢者施設のお年寄りと一緒に懐メロを歌ったり、昔話をしたりする――すると、普段は孤独で無口な老人たちの顔に笑みがこぼれ、驚くほど饒舌になる。奥山らが実践する音楽療法の評判は口コミで広がり、事業は順調に拡大を見せた。現在、同法人にはセラピストやアシスタントなど、30名ほどが在籍。高齢者に加え小中学校、障害児の放課後クラブ、精神科、成人更生施設を主領域に活動するほか、東京・大田区にあるオフィスでは、楽器で「遊ぶ」音楽教室、障害児のための「音楽療法教室」を開いている。自らを「野心家かも」と笑う彼女の当面の目標は、「音楽療法の存在と意義を社会に広めること」。そして、その視線の先には、今日まで常に人生の支柱になってきた音楽を超越した、ある構想も芽生えている。「活動を通じて自分自身が変わってきた」と言わしめるものとは、いったい何なのか。

心身を癒し、脳を活性化させる音楽の力で、「老い」や「心の病」をケア。

━ 子供の頃からずっと音楽を?

 はい。自然に続けてきて、気づいたら音大に入っていた、という感じですね。ところが卒業してみると、仕事がない。そもそも音大生って就職にはあまり縁のない人たちなんですけど(笑)、私はちゃんと働きたかった。さりとて、音楽からは離れたくないなぁと悩んでいる頃に、ちょうど日本でも少しずつ広がり始めていた音楽療法のことを知ったのです。

━ そもそも、音楽療法とはどのようなものなんでしょう。

 昔よく聴いた曲が流れたら、当時の思い出がよみがえったという経験、ありませんか?例えば、今朝のご飯のメニューは忘れちゃうお年寄りが、若い頃に親しんだ歌をちゃんと歌えたりする。つまり、心身を癒し、脳に刺激を与え、記憶を喚起するといった音楽の持つ効力を、医療や介護などの現場で計画的に活用するのが音楽療法です。 ただし、私たちの提供するプログラムは、歌ったり楽器を演奏したりするだけではありません。何より重視しているのは、会話。いろんな話をし、時にはクイズなんかも織り交ぜながら、自然に音楽に入っていけるように工夫しています。ちなみに中身はスタッフの知恵も借りながら、すべてオリジナルで作成しています。

━ 最初からNPOとして活動するには、苦労もあったかと……。

 一人では無理なので、まず学校の同級生に「こんな活動をやらないか」と声をかけたんですよ。ところが、みんな「いいね」と言うものの、手伝ってはくれない。私に人徳がなかったのかも(笑)。そこでネットで広く募集して、活動に共感してくれたスタッフを、まずは2人確保してスタートしたんです。 とはいえ、音楽療法そのものに対する認識が浅いなかでの営業は難しく、口で説明しても伝わらないので、施設には「とにかく一度やらせてください」とお願いして、仕事を取ったのが最初。そうやって1カ所で始めたら、自然に評判が立ってつながっていったのです。一つ一つの現場を大事にすれば機会は得られるということを、この時に学びましたね。

━ 高齢者施設以外にも、活動の幅を広げているようですが。

 今、力を入れているのが、ホームレスの自立支援施設での取り組みです。そこでは180名ほどの男性が、自立に向けて訓練を受けているのですが、「授業」では、例えばみんなでバイオリンを弾いたりするんです。おじさんたちのバイオリン演奏、一見の価値ありですよ(笑)。 もちろんここでも、音楽だけではなく、作業をしてもらったり、世の中にどんな仕事があるのか話をしてみたり、社会復帰に向けたプログラムも取り入れています。更生した方から「頑張って生き抜きたい」なんていうお手紙をもらうと、本当にやりがいを感じますね。

━ 今後の目標は何ですか?

 ホームレスの自立支援に携わるなか、彼らと向き合ってみて、私自身も変わりました。音楽は、社会的弱者と信頼関係をつくるための一つのツール。その先に様々な支援の仕方があるんだ、ということに気づかされたのです。 この領域は、高齢者や障害者などといったほかの福祉分野と比べると、公的支援がとても少ない。だから、私たちが新しい支援のかたちをつくらねばと、考え始めたのです。ようやくソーシャルベンチャーらしくなってきたかな(笑)。 実は施設を出ても、7割が路上生活に戻ってしまうという現実があります。そうならないよう、卒業者が集える場をつくり、うちのスタッフが日常的にケアできるような仕組みを構築したいのです。「前例がない」と動かない行政に、今、掛け合っているところなんですよ。

取材・文/南山武志 撮影/押山智良 構成/内田丘子

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NPO法人クロスフィールズ/東京都品川区

共同創業者・代表理事 小沼大地さん(34歳)

1982年、神奈川県生まれ。一橋大学社会学部卒業後、同大大学院に籍を置きながら青年海外協力隊(中東シリアの環境教育活動)に参加する。大学院修了後、マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社に入社。2011年、同社を退職し、共同創業者である松島由佳氏とNPO法人クロスフィールズを設立。現在、常勤スタッフは11名。企業向けに、社員を途上国支援のNGOに数カ月間派遣する「留職」プログラムを提供、これまでに12社の導入実績がある。中小企業、行政機関も対象に、プログラムの拡充を目指す。

2005年春、大学卒業を控えた小沼大地が青年海外協力隊に志願したのは、「教師になる前に社会経験を積んでおこう、という軽い気持ち」だった。ところが、貧しい国に貢献するつもりで赴任したシリアで出会ったのは、先進国の援助をひたすら待つ人々などではなく、「自分たちの力で国をつくっていくんだ」という気概に満ちあふれた人間たち。そこには、日本が見失った情熱があった。わずか2年程度の体験で、自国にそれを取り戻すことを人生の目標に定めた小沼のもとに、想いに賛同した仲間が集まる。そして試行錯誤の末、企業で働く若手を、途上国の抱える問題解決に取り組むNGOへと派遣する、留学ならぬ「留職」プログラムを考案した。 クロスフィールズを設立したのは2011年のこと。手探りのスタートではあったが、3年あまりですでに大企業12社が同プログラムを導入し、延べ25人がベトナム、インドネシアなどでの活動を経験した。途上国でもまれ、職場復帰した“情熱の種”は自ら花開くだけでなく、周囲にその熱き魂を伝播する役割を担っている。人を変え、企業を変え、そして日本を変えたい――異国の地で誓った想いは、着実にかたちになりつつある。


企業人が失いかけた理念や情熱を途上国の「熱き想い」でよみがえらせる。

━ シリアではどんな体験を?

「貧しい国を、自分の力で良くしたい」と真正面から語り、頑張っている現地の人が大勢いて、驚くやら圧倒されるやら。で、気づかされたんですよ、日本に一番足りないのは、目の前にいる人間たちが持っているような強くて熱い“想い”ではないのかと。 帰国してマッキンゼーに入ったのは、国際協力と企業活動をつなぐことができたら何か生まれるのでは、というひらめきがあったから。そのために、次はビジネスの最前線を知っておきたいと思ったのです。

━ 企業に「留職」の意義を理解してもらえましたか?

 最初は連戦連敗。知恵を絞って何とかパナソニックに導入してもらい、そこからは「あのパナソニックがやってるんですよ」と(笑)。でも事業を始めて改めて気づいたのは、日本企業のミッションは素晴らしい、ということ。どこも「当社は社会の発展のために存在する」っていう理念を堂々と掲げている。それと「留職」プログラムの目指すベクトルが合致したからこそ、採用する企業が順調に増えたのでしょう。  現実に目を向けると、自分が身を置く小さな世界で専門性を磨くうちに、ともすれば視野狭窄に陥り、本来持っていたはずのクリエイティビリティも失ってしまう人が非常に多いわけですね。 僕らがやりたいのは、まずそんな人たちに理念や情熱を思い出してもらうこと。実際、途上国ですさまじいまでの熱意を持ったリーダーと仕事をすると、どんな人でもスパークします。

━ 「スパーク」の例をぜひ(笑)。

日立製作所でパソコンの耐久性を高める仕事をしていた方が、ラオスで太陽光を使ったランタンの普及に取り組むNGOに派遣されました。ある時、実際にランタンを使っている村に行くと、照度が最低に設定されていて薄暗い。聞けば、「これはとても大切な光なので、明るくして故障すると困るから」と。その瞬間、彼は自分のやっている「耐久性を向上させる仕事」というのは、本来、こんなふうに暮らしている人たちの助けになるためのものなんだと、気づいたそうです。  彼は帰国後、「ただ品質向上を唱えていた僕は、エンジニアとして恥ずかしい。これからは、世の中の人たちにとって本当に役立つモノづくりとは何なのかを問い続けながら、挑戦していきたい」と語りました。やはり根っこには、途上国で奮闘する人たちと同じ“熱”が、日本の企業人の中にもあるのです。それを表に出しにくい空気感みたいなものも、この取り組みを通じて払拭していきたいと思っています。

━ 今後の課題を。

 今は大企業が主ですが、近い将来、中小企業や行政なども対象にした仕組みをつくり、「留職」の幅も数も増やす計画です。ゆくゆくは情熱を持った人たちに導かれた企業、行政、NPOが、協働して日本の直面する課題に立ち向かっていく社会を実現する―それが掲げるビジョンです。  実はマッキンゼーを辞めたのは、奇しくも2011年の3月11日。辞職のあいさつをメール送信しようとしていたら、揺れに襲われました。起業しようにもできる状況ではなくなり、2カ月ほど被災地支援に取り組みましたが、そこでもいろんな経験をさせてもらいました。 東北には、まさに「俺の手で復興を果たすんだ」という強い想いを持った方がいる。海外ばかりでなく、そうした人のところに「留職」してもらうのもアリだと思っています。それが実現できて初めて、僕にとっての3・11が単なるめぐり合わせではなく、明確な意味を持つものになるのかな、という気もしているのです

取材・文/南山武志 撮影/押山智良 構成/内田丘子

2016年11月30日

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NPO法人農スクール/横浜市中区

小島 希世子さん(35歳)

1979年、熊本県生まれ。2009年に(株)えと菜園を設立。農家と消費者を直接つなぐネットショップのほか、体験農園、農作物の自社生産事業を展開。一方、生活保護受給者などの就農支援プログラムで「横浜ビジネスグランプリ2011ソーシャル部門最優秀賞」を受賞したことで、活動を本格化させるべくNPO法人農スクールを設立。生きる意欲、働く意欲を取り戻すためのペアワーク、グループワーク、農業日誌など独自のプログラムを開発し、提供している。

熊本県に生まれた小島希世子が「将来は農業をやってみたい」という、同世代の人間たちとはちょっと違う夢を抱いたのには、その生育環境が影響している。幼い頃、遊び回っていた地には広々とした畑が一面に広がり、牛が草をはみ、軒先ではリタイアした老人が熊手を手づくりしている――。そんな風景が、「農家っていいな」という思いをはぐくんでいった。夢をかたちにし、(株)えと菜園を設立したのは、大学卒業後の2009年。現在は、契約農家の農作物を直販するネットショップ、体験農園、そして自らの畑での野菜の生産が事業の3本柱となっている。
憧れの道に足を踏み入れてみて、わかったことがあった。多くの農家が人手や後継者不足に直面しているという事実である。他方、大学生活を送るために出てきた東京には、田舎では目にしたことのないホームレスの存在があった。農家と働き場のない人たちを結びつければ、農業を通じた社会貢献が可能ではないか。そう直感した小島は、自立支援を目的とした活動を始め、2013年にNPO法人農スクールを設立した。これまでにスクールを巣立って職に就いた人は、非農家も含め12名。まかれた種は、着実に芽吹いている。


人手不足に悩む農家と、「働きたいのに職がない」人々をシンプルに結ぶ

━ ご両親は高校教師だったとか。

だからよけいに、トラクターを操って畑を耕している姿なんかがまぶしく映って(笑)。農業を志したきっかけは、そういう環境に加えて、小学生の時に、アフリカの子供たちを題材にしたドキュメンタリー番組を見たこと。自分と同じ年格好の子供たちが、食べ物がなくて餓死していくという内容は、衝撃的でした。 「砂漠地帯で作物を育てるためには、とても高い技術が必要だ」という母の言葉を聞いて、ならば自分が、それをできる農家になってやろうという気持ちが強く植え付けられたのです。

━ えと菜園の事業は、どのように始められたのでしょう?

やりたかったのは、無農薬で化学肥料なども使わない農業でした。ところが農家に話を聞きに行ったら、「今はやめたほうがいい」と。基本的に、評価基準は安心や味ではなく、「量」になる。どんなつくり方をしようが、自分で値段を決めることはできない。生産物に対する消費者の声も聞けない――。要するに、「今の流通システムでは、あなたのやりたいことはできないよ」ということです。 ならば、既存のルートに乗らず、直接、生産者と消費者をつなげばいいと、ネットショップを立ち上げたのです。その後、お客さんに生産の現場を理解してもらうための体験農園も始めました。もちろん自分でもつくっています。 雑草を抜かずに刈り取り、畑にまいて土に返すといった農法で。このほうが土壌微生物の活動が活発になって、実は土の状態がよくなるんですよ。

━ 農スクールについてうかがいます。ホームレスと農業とは、一見結びつきにくい気もするのですが。

上京して初めてそういう人たちを目にした時、ショックを受けたんです。で、路上で雑誌を売っているおじさんなんかに話しかけてみると、「働きたいけれど、雇ってはもらえない」と言うんですね。その言葉が、ネットショップの仕事で回った農家の多くが人手不足を嘆いていたことと、パッとリンクしたわけです。この人たちに農業に従事してもらえば、双方の問題が解決できるのではないか、と。   スクールでの「講義」は、3カ月1クールで、作物の種まき、苗・うねづくりといった作業を行ってもらいます。職を失った人は、自信も失っていることが多いんですよ。 栽培技術を磨くと同時に、グループで作業を行うことで、他者の目を通して長所を見いだしたり、農業日誌をつけることで自らを見つめ直してもらったり……といった、働く意欲を高めるためのプログラムを導入しています。

━ 参加者の様子に変化は?

初めは目を合わせて話さなかった方が、実際に何回か収穫を体験すると、目に見えて自信を取り戻していくんですよ。 農業日誌にも、どんどん自分をさらけ出すようになる。そういう姿を見て、意義のある取り組みだったのだと、私自身確信が持てました。 最近は“ニート率”が高まって、今はニート7名、生活保護受給者3名が参加しています。

━ 今後の課題を教えてください。

頭の痛いのが、活動資金です。働いていない人が就労して納税者になれば、「利益」を得るのは国や自治体なのですが、そこからお金をもらえるわけではありません。 将来的には、人材を紹介した先から報酬をいただけるようなスキームを確立させたいと考えています。そして何よりも、うちだけでやっていても「点」にもなりませんから、同じような取り組みをしたいという人たちが、全国津々浦々に生まれてくるような動きにしたいですね。 そのためにも、より多くの成功事例を発信できるような活動を繰り広げていかなければ、と思っています。

取材・文/南山武志 撮影/刑部友康 構成/内田丘子

2016年11月23日

社会企業家

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NPO法人ソーシャルコンシェルジュ/東京都港区

林 民子さん(45歳)

1969年、北海道生まれ。政府観光局や出版社勤務、欧米ファッションブランドの広報などを経て、2007年に社会問題の解決に取り組む団体を支援するNPO法人ソーシャルコンシェルジュを設立。翌2008年、チベット系民族が生産するヤクの毛を原料としたニットブランド「SHOKAY」の日本代表に就任したのを機に、ソーシャルビジネスを展開するダブルツリー株式会社を設立。NPOと株式会社の協働により、他者や社会、そして環境に配慮したライフスタイルを提案している。

子供の頃から「社会とのかかわり」を強く意識していた林民子が、勤務していた欧米ファッションブランド輸入会社の広報を辞め、NPO法人ソーシャルコンシェルジュを設立したのは2007年。社会問題の解決に取り組むNPOなどが、継続的に事業運営していけるためのコンサルティングやPR活動が目的だった。翌年には、チベット系民族の貧困解決や伝統的な暮らしを守るために生まれたニットブランド「SHOKAY(ショーケイ)」の事業を日本でスタート。同時にダブルツリー株式会社を設立した。現在は、NPOと株式会社の両輪で、社会貢献事業、関連ビジネスを展開している。 彼女が実行するプロジェクトは、例えば障がい者がつくる授産製品とデザイナーなどのクリエイターとのコラボだったり、パーマカルチャー(農業を軸とした持続可能なライフスタイル)を体験するイベントだったり、その活動はとても多彩である。「社会に新しい価値観をもたらすもの、そして“グッドアクション”だと思えるものは広く取り入れ、走り続けてきた7年間。あっという間でした」。そう振り返る林の究極の目標は、「自然や弱者に配慮するのが、ごく当たり前になる社会」の実現だ。


持続可能な未来のために"グッドアクション"を重ねていく

━ 社会貢献活動に目覚めたきっかけは?

10代の頃から社会派の映画やドキュメンタリーなどに興味津々で。そして、認知症のおばあちゃんの付き添いだとか、いろんなボランティアをしてきたのですが、私にはごく自然に、社会問題に目が向く素地があったようです。 ソーシャルコンシェルジュを立ち上げたのは、ひとことで言えば「世の中にそういうものがなかった」から。 ファッションブランドの広報をしている頃、例えば、新作発表会のプレス向けのお土産に授産製品を入れて、さりげなくPRするような活動をしていたんですよ。周りの人たちも理解や興味を示してくれたのですが、ファッション業界と障がい者施設、またそれを支援するNPOなどを、きちんとつなげる存在がなかった。だったら、自分でやろうと。

━ つまり、社会貢献が目的のNPOをサポートするわけですね。

はい。ただ現在は、活動が広がって、パーマカルチャーに関するワークショップの企画・運営や、社会貢献活動に関する情報発信などがメインになっています。 パーマカルチャー関連では、これまで土壌の専門家に技術指導をしていただいて、八ヶ岳の麓で持続可能な農業をベースにした生活の体験講座を、月1回のペースで行ってきました。 今年からは、そうした生活を実践している人のところに出かけるスタディツアーを行いたいと考えています。

━ ダブルツリーという株式会社を設立した理由を教えてください。

必要に迫られたという側面が大きいですね。「SHOKAY」というのは、チベット系民族がヤクという動物から手作業ですき取った毛を原料にしたニットブランドですが、この優れた製品群を日本で市場展開するためには、会社が必要だったのです。 これは現在、チベット系民族支援にとどまらず、東日本大震災の被災地で、SHOKAYのものづくりをサポートしてもらうプロジェクトにもつながっています。 被災地に住む女性を対象に、編み物のワークショップを開催する「SHOKAY for TOHOKU」というもの。被災地の女性たちに集まってもらい、一緒に編み物をすることで心を癒していただく。 同時に、収入源の限られるチベット系民族の支援にもなるという取り組みです。

━ 非営利と営利の連携、両者の位置づけは?

両方ともエシカルな、つまり人の営みや環境に配慮できる社会の実現を目指すというミッションは同じ。“車の両輪”だと考えています。ダブルツリーでは、エシカルなファッション製品などを扱うセレクトショップ「DGBH(Do Good,Be Happy!)」を運営していますが、ここで得た収益をNPOの活動資金として循環させていくという考え方です。 そうした仕組みを構築したいという意識は、当初からありました。私たちのように「楽しく社会貢献を」というNPOは、助成金や寄付に頼るのは難しいんですね。 一方で、資金を集めることに労力がかかりすぎて、活動が立ち行かなくなったNPOも見てきました。 両輪をうまく機能させることで、自分たちの活動が持続できるという新たなモデルを、社会に提案できればと思っています。

━ これからの目標は?

当面、実現させたいと思っている夢は、八ヶ岳で培ったノウハウを生かして、私の故郷である北海道に「エコビレッジ」をつくること。 ただ、世の中に新しい価値を提供できるもの、よりよい未来につながるもの、というのがコンセプトなので、何でもありなんですよ(笑)。そうした視点に立つプロジェクトを一つでも多く花開かせていきたいですね。

取材・文/南山武志 撮影/刑部友康 構成/内田丘子

2016年11月15日

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NPO法人放課後NPOアフタースクール/東京都港区

代表理事 平岩国泰 AGE.41

1974年、東京都生まれ。慶應義塾大学卒業後、丸井に入社。人事、経営企画などに携わり、2004年、長女の誕生をきっかけにアフタースクールの活動を始める。2年連続でグッドデザイン賞を受賞し、2009年、NPO法人化。追って2011年に会社を退職し、常設のアフタースクール開校を機に活動を加速させる。その数11校(2015年11月現在)となり、50社を超える企業との連携子育てプロジェクトも広がりを見せている。文部科学省中央教育審議会の専門委員も務める。

学校が終われば、ランドセルを放り投げて友達と自由に遊びに行く︱︱そんな古き良き小学生たちの光景は、すっかり鳴りを潜めてしまった。 子供を巻き込む凶悪事件の増加、激しさを増す中学受験など、子供たちの放課後は窮屈になるばかりだ。そこに危機感を覚え、「安全で豊かな放課後を届けよう」と改革に挑んでいるのが、平岩国泰率いる「放課後NPOアフタースクール」である。
 活動の柱は、小学校が有する安全性と様々な施設を活用したアフタースクールの運営で、提供するプログラムは実に400種類以上。地域の大人たちや、その道のプロが“市民先生”となり、衣食住にまつわることからスポーツ、文化、音楽など、子供たちにあらゆる本物の体験機会を提供する。加えて、学童保育の預かり機能という点で、待機児童の問題解決にも一役買う。また、企業や行政と連携した子育てプロジェクトも実績を重ね、加速しているところだ。
 娘の誕生を機に、平岩が活動を始めて10年。折々の困難を経てきただけに「やっとここまできた」と、その言葉は重い。小さな一歩でも志を掲げ、行動し続けることで、社会課題に一つ風穴を開けた手ごたえを、今感じている。

日本の小学校の「放課後改革」に挑戦する

━ 最初は大変だったとか。

アフタースクールは、アメリカの多くの小学校に存在し、放課後を支えるインフラとして機能しています。それを日本にも広げたいと考えたわけですが、前例がなく、こと行政や教育委員会相手の活動は実績重視になるので、入り口に立つまでが大変でした。 アフタースクールの趣旨に賛同してくれる地域の市民先生はすぐに見つかったものの、場所の提供を頼みに行った小学校はどこも門前払い。結局、公民館で始めることにしたんですけど、今度は肝心の子供たちが集まらない。 相当くじけていたところ……チラシを見た民生委員の方が「いい活動じゃない。子供を集めてあげるわよ」と、力添えをくださったのです。 第一回、公民館でやったのは3カ月間の「食のプログラム」で、和食の職人さんとともに体験する料理づくり。集まった子供は4人、本当に小さな一歩からのスタートでした。

━ 手ごたえを感じ始めたのは?

まず初回で、子供の確かな変化を目の当たりにしたこと。食のプログラムに、小4の男子が参加したんですけど、全然元気がなくて。でも途中で、実は思いの外食材に詳しいことがわかり、それを市民先生に褒められ、一番弟子に任命されたんですよ。自信がついたのか、プログラムが終わる頃には見違えるほど元気になり、親御さんからもすごく感謝されたのです。 子供たちの“いいとこ探し”をして、褒めて伸ばしていけば必ず真っすぐに育つ。親や先生とはまた違う第3の大人として、子供たちに豊かな放課後を提供する意義を確信できたのは大きかったです。だから、どんどんプログラムを増やしていきました。 参加した子供たちが友達を連れてくるようになり、市民先生をはじめとする支援者も増え、ようやく2年後には地元の小学校に入ることができた。そうなると学校側で参加募集をかけてくれるので、門前払いからすれば大進歩です(笑)。

━ 追って、常設のアフタースクールも開校されています。

法人化したのは2009年。「組織として活動を続けていく」覚悟をしてのことですが、この時、僕はまだ会社勤めをしていて、週1回の活動でしたし、さて具体的にどう展開していくか、なかなか先が見えなかったんですよ。志は強くても、結局は二足のわらじを履く自分が至らないのかと、自責の念に苦しむ時期もありました。  そんななか、最初に常設のアフタースクールを開校するチャンスをくれたのが私立の新渡戸文化小学校です。組織としてはまだ体を成していなかったのに、「毎日子供たちを見ていたい」という僕らの思いをすくい上げてくださった。 メディアによって後押しされたことも大きいです。やっぱり継続は力なりで、続けていればおのずと行く道は開かれるし、周囲もちゃんと認めてくれるものです。

━ 日本でも社会インフラとして機能するといいですよね。

はい、僕らが目指すところです。アフタースクールがすべてだとは思っていませんが、豊かな放課後づくりのための一策として、安全な場である小学校を使い、地域ぐるみで子供を育てるというこのモデルを広げていきたい。自分たちの組織をスケールアップさせることが目的ではなく、全国の方々が立ち上げられるよう支援していきたいのです。 そして、これからは 「放課後にもっと予算をつけましょう」という行政へのロビイングとともに、社会の問題意識を喚起していくような活動にも注力したいと思っています。 そもそもは、生まれた長女のために「人生をかけた最高のプレゼント」をしたくて始めた活動ですが、結果的には、それが自分の将来をもかける大仕事になったというわけです(笑)。

取材・文/内田丘子 撮影/押山智良

2016年11月2日

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NPO法人コモンビート/東京都世田谷区

理事長 安達 亮さん(33歳)

1981年、東京都生まれ。大学卒業後、そのまま就職することに違和感を抱き、2004年4月~7月、世界一周航海「ピースボート」に乗船。船内企画だった『A COMMON BEAT』にキャストとして参加し、その活動内容に感動する。2005年、同作品を日本で上演するNPO法人コモンビートの事務局長に。10年間の経験を生かし、2014年1月、理事長に就任。スローガン「個性が響きあう社会」を掲げ、ミュージカルプロジェクトを中心に国内外で様々な表現活動を展開している。また、同年9月より、日本ブラインドサッカー協会の理事も務める。

日本有数のコンサートホール、昭和女子大学人見記念講堂(東京都世田谷区)を満席にする、学生や社会人がつくり上げるミュージカルがある。毎年、顔ぶれの異なる100人のキャストが、100日間でつくり上げる『A COMMON BEAT』で表現されるのは、「ある日、異文化の存在を知り、戸惑い、争い、やがて……」という人類の雄大なヒストリーだ。このミュージカルの真価は、見る者を感動させることだけでなく、感動させるために研鑽を積む中で、100人が自らを見つめ直し、社会に目を開く“気づき”を得るところにある。 運営主体であるコモンビートが設立されたのは、2004年3月。現在は、東京ほか大阪、名古屋、石巻、福岡の各地でそれぞれキャストを集め、活動している。これまでに約80回の上演を行い、キャスト参加者は3000人、観客動員は10万人近くになった。2014年1月に新たに理事長に就いた安達亮は、「今後10年間で、キャスト経験者を1万人まで伸ばしたい」と意気込む。その安達が、今の活動にのめり込むようになったきっかけは、大学卒業後、就職活動を放棄して飛び乗った「ピースボート」にある。


表現活動を通じて、自分らしく、たくましく生きる個人を増やす。

━ 就活をしなかった理由は?

僕は、昔から学級委員をかって出たり、運動部の部長をやったり、輪があったら中心にいたいタイプなんですね。目立ちたいのではなくて、リーダーシップを取ることで、みんなの役に立ちたいという気持ちが強くて。 今思うと、そんな自分が「会社組織の一員になる」ということが、完全にミスマッチだったのでしょう、どうしても就職の実感が湧かないわけです。 で、やりたいことが見つかるまで就職活動はいったん休止すると決めたある日、「地球一周の船旅」っていう新聞広告が目に入った。もともと海外には興味があって、世界を巡れば何か得るものがあるのではと、参加を即断したのです。

━ そこでミュージカルに出合ったわけですね。

ピースボートって船の上で過ごす時間が長いから、そこで様々な活動が行われるのですが、その中に今、僕らが日本語で上演している作品を原作の英語のまま演じるという企画があったんです。 もちろん、ミュージカルなんて初めて。でも、やってみたら、これが楽しいわけです。歌って踊って自分を表現するという未知の充実感もさることながら、いろんな年代、職業の人たちと出会って世界が広がっていく感覚がすごくよかった。 僕が乗船したのは2004年ですが、ミュージカルへの取り組み自体はその4年前から始まっています。洋上だけでなく、2003年には初めて陸上での公演も行われており、この活動なら、「自分の能力を生かして、人の役に立つ」という、本当にやりたかったことができるのではないかと感じたのです。 なので乗船後、運営主体として設立されていたNPO法人の事務局長に手を挙げました。

━ 普通の「ミュージカルづくり」との違いは?

取り組んでいるのは「ミュージカルをつくる」ことではなくて、「それをすることによって社会をつくる」活動です。目指しているのは、多様な価値観を認め合える社会形成。その社会をつくるのは、構成員であるキャスト一人ひとりなので、自らを変えるだけでなく、周囲にも影響を与えられる人に成長できるような、独自のプログラムを組んでいるんですよ。 主軸になるのが、ストーリー展開に合わせたグループディスカッションで、例えば、祖先を顧みるシーンでは、「自分の祖先について調べよう」という課題を出し、発表し合う。自分の「来し方」に思いを馳せることは、その後の人生において何がしかの糧になるはずです。 キャストの大半は会社員ですが、初めは雰囲気もどんよりで(笑)、 「人前で歌うなんてとてもとても」という感じ。それが100日後には、大勢の観客の前で目を輝かせて自分を表現している。一番驚くのは見に来た友人たちで、その人たちが翌年の キャストに応募してくれる例が非常に多いんですよ。

━ ご自身は、やっぱり「就職」しなくてよかったですか?(笑)。

はい(笑)。人の役に立っていれば生きていけると思っている僕のような人間が、非営利のNPOという組織に出合えたこと自体、本当に幸運だったと感じています。キャストたちが、100日間で成長してくれるのは確かです。でも一方で、今までは「101日目」以降のフォローが弱かったかなという思いもあって。 実は、コモンビート「卒業者」には、経験や気づきをもとに組織を立ち上げ、社会貢献に力を注いでいる人も少なくありません。 今後は、そうした活動を積極的に紹介していきたいし、活動趣旨を理解してくれるほかのNPOなどとの連携も重要なテーマになるでしょう。 それらを通じて、社会に向けた歌声の輪をどんどん広げていくことが、僕に課せられた使命だと思っています。

取材・文/南山武志 撮影/刑部友康 構成/内田丘子

2016年10月26日

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米国NPO法人コペルニク/ニューヨーク市

共同創設者兼CEO 中村俊裕 AGE.41

1974年生まれ。主に大阪府で育つ。大学卒業後、英国ロンドン経済政治学院で修士号取得。マッキンゼー東京支社で経営コンサルタントとして活躍した後、学生時代からの夢だった国連へ。復興支援、ガバナンス改革などの業務に就く。2010年、国連の同僚だったエヴァ氏と、ニューヨーク市で非営利団体コペルニクを設立。現在、米国、インドネシア、日本に計4法人を置く。コペルニク自身でも新しいテクノロジー開発を行い、世界銀行、ユニセフなどの政府系機関とも連携、その活動を拡大させている。著書に『世界を巻き込む。』(ダイヤモンド社)がある。

国連職員として、途上国向けODA(政府開発援助)の現場にいた中村俊裕が、アメリカで非営利団体コペルニクを設立したのは2010年のことだ。 地動説を唱え、それまでの定説を覆した科学者の名から取った法人名には、ODAなどとはひと味違う途上国支援で、現地の人たちが余儀なくされている不便・不健康な生活環境を目に見えるかたちで変えたい、という思いを込めた。 試行錯誤の末に考え出した支援のモデルは、ある意味シンプル。途上国の生活向上に役立つ数々のテクノロジーを、コペルニクが見つけ出し、有用性を感じた現地パートナーとともに普及のためのプロジェクトを立ち上げる。 それを動かす資金は、趣旨に賛同する企業や個人の寄付によってまかなわれるのである。  活動スタートから5年、これまで24の国、30万人近い人々の手元に、簡易型浄水器、ソーラーライト、楽に水が運べるタンクなどの製品が届けられ、「暮らしのコペルニクス的転換」が実現した例も多く生まれた。  だが、「活動は、まだ構築途上にある」というのが、中村の認識である。“ラストマイル”――途上国でも最も支援が届きにくいところ――を制覇するまで、その挑戦は続く。


テクノロジーを、必要としている人に“ストレート”につなげる。

━ 国連に勤務するようになったきっかけを教えてください。

東西冷戦が終わったのは、高校時代でした。多感な時期に、国際情勢が大きな変動を迎えていたわけで、気づくと「外」に目が向くように。冷戦の後に待っていたのは、民族紛争。それを解決するうえで、大きくクローズアップされてきたのが国連でした。 元難民高等弁務官の緒方貞子さんや、明石康さんの活躍を知り、いつしか自分も国連の舞台に立ち、世界の貧困を解決したいという気持ちが強くなっていったのです。 大学卒業後、フランスでの語学留学中にインターンに応募し、採用され、その後民間企業での勤務を経て正式に国連のパスポートをもらったのが2002年、28歳の時でした。 独立間もない東ティモールで兵士の社会統合に取り組んだり、スマトラ沖地震の津波で被害を受けたインドネシアで復興プランを策定したり、とにかく援助が必要な現場に行き、そこで求められることを懸命にやりました。

━ コペルニクを設立したのは、国連の活動に限界を感じたから?

限界というか、もどかしさみたいなものですね。何かしようとする時に、いろんなプロセスが必要で、そこに不必要なお金や時間がかかっていたりする。もっとストレートに、困難にある普通の人たちの生活が改善できる手立てはないものだろうかと。 とはいえ、アイデアがすぐに浮かんだわけではないんですよ。コペルニクは、国連の同僚だった妻のエヴァと共同で設立したのですが、2、3年は二人で議論を重ねる日々でした。

━ どのような仕組みですか?

キーになるのは、テクノロジーです。なにもハイテクである必要はありません。欲しいのは、あくまでも暮らしの改善に貢献する技術です。例えば、途上国には、生活に使う水を毎日遠方から家まで運ばなければならない地域が多く存在します。それらは重労働にもかかわらず、たいていは女性と子供の仕事。そこで開発されたのが、太い「車輪型」のタンクです。これに水を満たし、転がしながら帰ってこられるというわけです。 世界には、こうした途上国向けの製品をつくっている企業がたくさんあるんですよ。僕らは、そうした製品を常にリサーチし、Webサイトなどを通じて紹介します。一方、各国には現場を支援しているNGOなどのパートナーがいるのですが、彼らがそれを見て、支援地域で役立ちそうな製品を見つけたら、僕らに対して普及に向けた提案をしてもらい、プロジェクトを立案するのです。
それに対して個人や企業からの寄付を募り、遂行のための資金を調達します。こうしてテクノロジーの開発・生産者と利用者、それに資金提供をする人たちを直に結ぶことで、より効率的でスピーディーな途上国支援ができるようになりました。
ちなみに、テクノロジーを探したり、現場のパートナーと一緒に仕事をするスタッフは約80名。彼らは現在、世界に4つ置いている法人のうち、インドネシアの拠点にいます。国連時代の仕事を通じて土地勘のある国で、最初のプロジェクトを立ち上げたのもここ。僕にとっても大切な場所です。

━ 今後の活動方針は?

設立以来、資金ショートで3度「倒産」寸前まで行きました(笑)。 さすがにその状態は脱しましたけど、僕のなかでは「まだほんの一里塚」という感覚なのです。 活動を本格化させていくためには、いかにインパクトの強い取り組みをかたちにできるかが勝負になる。 企業や国際機関とのパートナーシップを強め、ニーズの高いエネルギー、浄水関連の案件を横展開するのと同時に、農業、ヘルスケアといった分野の深掘りにもチャレンジしていきたいですね。

取材・文/内田丘子 撮影/押山智良

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NPO法人キーパーソン21/川崎市中原区

代表理事 朝山あつこさん(54歳)

1960年、神奈川県生まれ。清泉女子大学卒業後、すぐに結婚。3人の子育てをしながら、2000年、教育NPOとしてキーパーソン21を創設。小・中・高校生世代を対象にしたオリジナルのキャリア教育プログラムを開発し、生き方学習支援を続けている。2006年からは、企業や全国各地のNPO団体との連携事業を展開。企業のCSR教育プログラムのアドバイザー、講演や教員研修なども務める。

「高校には行かない」。中学2年だった長男が発したこの言葉が、朝山あつこを起業に導いた。当時、長男が通っていた中学校では学校崩壊が進んでおり、暴れる子供、逆にひどく無気力な子供たちを目の当たりにした朝山は、大きな危機感を抱いたのである。  子供たちの成長を引き出し、支える活動を始めたのが2000年。まだ、キャリア教育という言葉もなかった時代だ。手探りのなか、主に小・中・高校生を対象にした「将来の仕事や生き方を考える」ためのオリジナルプログラムを開発し、少しずつ、地道に教育現場で実践を重ねてきた。15年間におよぶ活動で、プログラムを受けた子供は約3万2000名(2015年4月現在)となり、その事業活動は大きな広がりを見せている。「キーパーソン21」の会員数は300名を超え、協賛・協力する企業や団体も着実に増えてきた。  キーワードは「わくわくエンジン?の発見」。子供の生きる力の源となる“わくわく感”を引き出すために、親や教員、企業人、大学生、シニアなどといった地域の大人たちが力を尽くす――子供たちの未来を応援するという朝山の志は、様々な立場にある大人を巻き込み、社会を動かしつつある。


子供たちの「生きる力」をはぐくむ、オリジナルの教育機会を提供

━ 専業主婦からの起業だとか。

ええ。わけもわからず走り出した感じで。息子は荒れはしなかったけれど、「高校に行ってもしょうがないじゃん」と、つまりは学校に希望を持てなくなっていたのです。報道で“キレる子供”が取り沙汰された頃で、息子の中学校でも、崩壊ぶりに頭を抱えていたんですね。保護者招集もかかったのですが、私には、学校にいる子供たちがとてもつまらなそうに見えた。暴れる子も無気力な子も、エネルギーを向ける先が見つかっていないのだと感じたのです。
 多くの子供たちがそんな状態では、日本の未来は暗いでしょう?自分の個性を知り、自信を持って生きていく力をはぐくむために、今でいうキャリア教育の場が必要だと思いました。現状の学校教育のあり方では、子供たちを自立させることは難しいと直観的に感じたから……。活動を始めたのは、 「助けて!」という、社会に対する母親の叫びでもあったんですよ。

━ キャリア教育プログラムは、どのように開発したのですか?

 徹底的に現場の声にこだわりました。学校の先生や親はもちろん、大学生、企業人など、いろんな立場の有志が集まって「子供のために、今現場で必要なものは何か」を考え抜き、体系化していったのです。子供が楽しめる、チームで取り組む、大人がかかわる。この3つを絶対ルールにして到達したのが、現在の「夢!自分!発見プログラム」。ここにしっかりしたベースがあるので、提供先に合わせたカスタマイズもできるのです。
 プログラムを通じてわくわくエンジン?を見つけた子供たちは、驚くほど目を輝かせます。そこから意欲や自信が生まれ、自分で選択したことにチャレンジするようにもなる。一方で、プログラムを 運営する先生や企業の社員たちも、子供たちのエネルギーに触れて、気持ちに変化が生まれる。終えたあと、生き生きとした表情になる大人も少なくありません。子供だけでなく、実は、大人のキャリア教育にもなっているんです。

━ ご苦労もあったかと……。

 「やめてやる」と思ったこと、いっぱいありますよ(笑)。最初の頃は、出前講座をしたいといろんな学校に相談しても、門前払い。理念を話せば総論OKなんだけど、決まって「教育委員会に話を通してください」と。だから、しばらくは市民会館などでプログラムを実践していました。
 風向きが変わったのは、4、5年たった頃。ニートやフリーターといった言葉が出てきて、教育のありようが社会問題として顕在化し、国が動き始めたのです。その時、私たちは経済産業省のモデル事業を受託し、神奈川県代表としてキャリア教育の基盤構築事業に携わりました。それで行政や教育委員会、学校の門戸も次第に開かれていったのです。
 途中、私のマネジメント力の弱さから「続けるのは無理かも」と思った時期もある。でも、いつも共感してくれる人々がいて、一緒にミッションを達成していくんだという仲間が支えてくれたのです。

━ 活動が広がってきましたね。

 時代が求めているというか、最近では学年まるごと、学校まるごとへのキャリア教育というオーダーも出てきました。また、個別進路サポートプログラムを開発し、個人向けの授業もスタートさせています。どの事業においても大切にしているのは、子供たちに寄り添いながら、一緒に、未来に希望を見いだしていくこと。
今、プログラムを支柱に展開していますけど、本当は、これが“社会の仕組み”として機能すべきだと思うのです。学校・教育改革は難題ではありますが、仕組みづくりに貢献できたといえるまで、私は力の限り走り続けたいですね。

取材・文/内田丘子 撮影/押山智良

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一般社団法人日本健康食育協会/東京都新宿区

代表理事 柏原幸代さん(41歳)

1973年、千葉県生まれ。共立女子大学食物学科卒業。2007年、栄養士の専門会社である「食ライフデザイン」を設立、2012年まで代表取締役を務める。現在は「日本健康食育協会」代表理事、「食アスリート協会」副代表理事に就く。また、定食屋チェーン大戸屋の食育プロジェクトのリーダーを務め、国内外で年間300回を超えるセミナーを主宰している。専門家養成、食と健康の事業コンサルティング、講演・執筆など、その活動は幅広い。

大学の管理栄養士コースを卒業後、食品スーパーに就職。以降、フィットネススクール、美容エステ企業、サプリメントメーカーと渡り歩き、「食と健康」にかかわる様々な経験を積んできた柏原幸代。そのすべてを糧とし、2007年に食ライフデザインを設立。栄養士の起業が珍しい中、柏原は、食と健康に関するセミナーや従業員の健康管理を目的とした企業向けコンサルなどの事業を展開し、時代のニーズを取り込んだ。その後、日本健康食育協会を新設、健康教育に特化し、さらなる社会貢献に臨んでいる。


「正しい食と健康」を啓蒙し、専門家の育成にも尽力

━ 栄養学などにはもともと興味があったのでしょうか。

 いいえ、全く(笑)。食べることは大好きでしたけど、食物学科を受験したのには、取り立てて深い意味はなかったんですよ。就活の時も同じで、食というよりは健康にかかわる仕事をしたいと漠然と思っていただけ。
でも自分がイメージしている仕事がなかったので、一つの領域に固執せず、社会に出てからはいろいろな分野を経験してみたいと考えていました。

━ 社会人になってからは、まさにそれを実践された。

 節目節目で周囲の人が助けてくれて、結果的にいろんな経験ができた、というのが実際のところです。自ら「次はあれにチャレンジしよう」と転職したことって、考えてみたら一度もない(笑)。
美容エステの会社では、25歳の時に取締役にしていただいて、ウェルネス事業部というのをつくったんですよ。「食と健康に関するコンサル承ります」という看板を掲げて。そうしたら、糖尿病の人向けのメニューを考えるお弁当屋さんとか、健康志向のラーメンを出したいという食堂とか、予想外のオファーがけっこう来た。で、気づいたんです。
世の中には「食と健康」に対する根強いニーズがある。にもかかわらず、それにこたえられる人がいないことに。当時、そんなスタンスで仕事をする栄養士は少なかったんです。

━ 起業のきっかけは?

 ある時、「食べるのが怖い」という拒食症の中学生の女子を紹介されました。「どうして食べなきゃいけないの?」という彼女の疑問に誰も答えられず、病院に行っても薬を渡されるだけ。
摂食障害など勉強したことがない私でしたが、どうしたら救いになるかと、自問自答を繰り返しまして。「あなたの体は食べ物でできているのよ」「人間は、太るために食べるんじゃないでしょう」と語り続けることで、結果的には、拒食症を克服させることができました。
彼女の父親が事業家で、この時私に「独立したら」と声をかけてくれたのです。戸惑う私に「起業できない理由は?」と聞くので、「貯蓄ゼロ、会社のつくり方も経営も知りません」と正直に……。
すると、資本金を出資してくれたばかりでなく、「経営は私が教えるから。娘を救ってくれた能力と情熱があれば大丈夫」と、背中を押してくれたのです。ありえないような幸運ですよね。

━ 柏原さんが提唱する「正しい食と健康」とは?

 健康ブームといわれて久しいですが、依然として「どうしたら健康になれるのか」に答えを出せる人は少ないし、残念ながら間違ったやり方も横行しています。一例を挙げれば、2008年に鳴り物入りで導入された「メタボ健診」。始まって以降の5年間の数値改善率って、10%に満たないくらいだったんですよ。対して、私がコンサルした企業では、約80%の改善率を達成した例もあります。
一番いけないのは、メタボの人に 「カロリー制限」をかけること。人は一時期我慢できても、どこかでドカ食いしてしまう。そもそも「食べてはいけない」というストレスが、肥満原因になっていることも多いのです。
今、最も必要とされているのは、正しい知識に基づいた「心と体が変わる食」の提案です。制約ばかりではなく、食が本来持つ力や楽しさを私は伝えていきたい。そのためにも、食と健康教育のエキスパートを多く養成し、発する声を大きくしていきたいのです。
食べることは、生きること――。かつて、拒食症の女の子と向き合う中で気づかされたこの本質を広め、人々の健康で豊かな人生に寄与する。それが、幸運の先にたどり着いた私の夢です。

取材・文/南山武志 撮影/押山智良 構成/内田丘子

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