人が相手から受ける印象の4割が聴覚の情報、「声」だといわれています。
プレゼンテーションなどで少しでもイメージをよくしたいと考えるビジネスパーソンの間で昨今、話題になっているのが「ボイストレーニング」。
ボイストレーナーの仕事はクライアントの声の悩みを解消し、その夢や目的のために、指導する人のこと。
ゆえに発声技術を習得することは、歌う人など「声」を仕事にしている人だけの特別なものではなくなりつつあります。
今回はボイストレーナーとして活躍されている岩井さんに、自身のスキルをビジネスに変える方法をお聞きしました。
岩井翔平さん
テノール歌手・ボイストレーナー
島根大学教育学部にて中学校・高等学校教諭一種免許状(音楽)取得後、東京藝術大学音楽学部声楽科を受験。
卒業後は、ボイストレーナーとして新宿駅から2駅の幡ヶ谷でレッスンを行う。
レッスンでは、理論と感覚両方を用いて説明することを心がけており、その分かりやすい指導には定評がある。
テノール歌手として、ソロリサイタルやオペラの公演にも多く出演。
2つの大学を卒業? 岩井さんが「音楽」と「教育」を掛け算する理由
――ボイストレーナーとして活躍されていますが、まずは音楽との出合いを教えていただけますでしょうか?
音楽が好きなのは生まれつきだと思うんですが、熱中するようになったのはヤマハ音楽教室に通ったのがきっかけでした。
ぜんそくをもっていることもあって、あまり運動ができなかったんですよ。
小学校のブラスバンドにも入っていたんですけど、その頃はサッカーなどのスポーツが人気で、男子が音楽をやることはアウェーな雰囲気で……。男子部員が10年ぶりだったのを覚えています。
最初は、小学校の卒業文集にも電子オルガンでプロになるって書いているくらい、電子オルガンにのめり込んでいました。
――では、そのまま音楽の道を順調に歩まれたという感じでしょうか?
中学3年のときに『のだめカンタービレ(二ノ宮 知子 著/講談社)』がブームになったこともあって、その頃から音楽大学に行きたいっていうのがありました。
ただ、実家が割烹料理店を営んでいるのですが、両親は自営業は社会情勢によって売り上げが安定しないことを身をもって感じていることもあって、音大進学への進学には慎重でした。
音楽をやること自体には理解を示してくれていたものの、もし将来僕が「音楽家」になったら、稼ぎが不安定になることを親として心配してくれたんです。
さらに、高校が進学校だったこともあって、学校側からもちゃんと勉強して就職したほうがいいんじゃないかという話になったんです。
――そこで島根大学に進学を決めたということでしょうか?
僕のキーワードは「音楽」と「教育」の2つなんです。「音楽」は前述の通りなのですが、「教育」っていうのは、僕は3人兄妹の長男で、面倒見がよく、わりとまじめでしっかりしたこどもだったんです(笑)。それもあって、教えるのはもともと上手かった。
僕が妹に、ピアノを教えているところを見た母親から「教えるの、すごく上手いね!」って言われたり。
島根大学教育学部時代、他の学生の模擬授業を聞いていて、「もっとこうしたらわかりやすいのに……」と思っていたら、教授も僕が思っていたことと同じ指摘をされていたり。
自分は多分、教えることに向いているんだろうなって。
「音楽」と「教育」で大学を絞っていった結果、島根大学教育学部学校教育過程Ⅱ類音楽教育専攻へ進学しました。
――ただ島根大学を卒業後、東京藝術大学音楽学部声楽科も受験されていますよね?
音楽をやっている僕の姿を両親が見て、「音楽をやっているときのほうが輝いている」って思ったようで、改めて音楽家を目指してもよかったかもってなったんです。
ただ、島根大学に入ったからには、ちゃんと卒業したいというのもありました。
そこで4年間しっかり勉強して教員免許を取得してから、島根大学4年生のときに東京藝術大学音楽学部声楽科を受験し、合格しました。
「実力」と「お金」も足りない状態、どっちの問題を先に解決する?
――大学生活は合計8年ということですね。2018年に東京芸術大学を卒業してからは、すぐにボイストレーナーになったのでしょうか?
ボイストレーニング自体は、実は学生の頃から始めていました。人からの紹介で「歌を教えてほしい」と頼まれることが、ちょこちょことあって。
ただそれが本業というわけでもなく、大学卒業当初はただのフリーターでした(笑)。
音楽大学を卒業して、翌月からすぐに演奏だけで食べていける人はほぼいません。僕もその例に漏れず、2018年に卒業してすぐはまだ「実力もお金もない」状態で。
ただ人としゃべるのが得意だったので、「若い音楽家を応援したい」という方に興味を持ってもらえて、コミュニティが広がっていきました。
2019年はカフェでのアルバイトもやりつつ、本番を月に3〜4本、10作品くらいのオペラに出演させていただいたんです。
――アルバイトと掛け持ちしつつも、卒業してかなり早い段階で「音楽を仕事」することができたんですね。
こう聞くと「オペラの仕事が入ってよかったね」と、思われるかもしれないんですけど……。
初めから大きな役柄の仕事をいただけるほど、まだ私の実力や経験が備わっているわけはありませんでした。それでもそういう現場に関わらせていただくことで、とても有意義な経験を積ませていただきました。
しかし、演奏のお仕事の合間にアルバイトをしてたくさん働いても、収入は生活するのでやっと、という感じで……。
――月に3〜4本も舞台で歌われているのに?
意外かもしれませんが「ステージの経験を積めば積むほど、歌が上手くなるか」と言われると、僕の場合、アルバイトの合間を縫って出演する状態が続き、演奏の仕事を「こなす」ようになっていました。
だから冷静に考えたら、2018年の「実力もお金もない」という状況と、2019年も何も変わっていなかったんです。
「実力」と「お金」どっちを先に解決するべきかを、考えました。
その結果、僕が出した答えは「お金」。
生活できるだけのお金を作れば、時間が生まれる。時間ができれば練習ができたり、レッスンに通ったりして、「実力」をつけることができるという結論に至ったんです。
1にも2にも「納得感」が不可欠。“通い続けたくなる教室”の作り方
――「お金」を優先させると言っても、すぐに「歌」で生活できるだけの稼ぎを得られたわけではないんですよね……?
はい。ですのでまずは、学習塾の講師のアルバイトを始めました。
「教育学部卒」という、他の音楽家にはなかなかない経歴を持っているわけですから、そのアドバンテージを存分に活かせるんじゃないかと。
その傍らでボイストレーナーも2016年からコツコツと続けてきたんですが、実は2020年にちょっとした転機が訪れました。ある生徒さんの口コミのおかげで、生徒数が一気に増えたんです。
そこで学習塾の講師を退職し、ボイストレーナーの仕事に専念することになりました。
――生徒さんを増やすことだけでなく、その生徒さんに「通い続けてもらうこと」が、経営を安定させる上ではとても大切なことだと思います。その点で岩井さんがされている取り組みがあれば、教えてください。
レッスンへ通うことへの「納得感」を、とにかく大切にしています。
レッスンの具体的な実務面のお話を、少し例に挙げましょう。
僕のレッスンでは、いくつかの「教具」(歌の指導する際に用いる模型など)を上手く使い、論理的かつ科学的な、分かりやすい説明をするようにしています。
学生の頃、よく音楽で「お腹から声を出して」とか「頭のてっぺんから声が出るように」とか、教わった経験はありませんか?「正直いまいちピンときていなかった」という方も少なくないと思います。
例えば「背中に息を入れて歌いましょう」と指導するとします。
僕の場合はそこからさらに踏み込んで、実際に肺がどのようにできていて、どういった仕組みになっていて、なぜ「息が背中まで入るのか」まで、教具を使って説明するようにしています。
肺って、よく見ると心臓がある関係で右側より、左側の方が小さくできています。そして前だけではなく、背中側にも肺はあるんです。
実際に教具を見せて「まさに“ココ”を膨らませるように息を入れていきましょう」と、可能な限り視覚的にも分かりやすいようにしています。
――たしかに、実際に肺のモデルがあった方がイメージしやすいかもしれません。
抽象度を高いまま教えるのではなく、なるべく可視化できるものは可視化して、分かりやすくしようと。
まず納得感を持って練習していただくことが歌の上達への近道ですし、レッスンへの満足度にもつながると思います。
ボイストレーニングは1回指導を受けて完結するものではありませんから、多くの場合は継続となりますし、比較的回数多くレッスンを受けられる生徒さん向けに、継続割引のある月単位でのサブスクリプションの仕組みも導入しています。
経営的な観点からも、生徒の「納得感」を担保することを最優先に、レッスンを展開するよう心がけています。
夢追い人ほど、お金をないがしろにしがち? 「実力」と「お金」が比例するとは限らない理由
――岩井さんの今後の展望を教えてください。
動画制作や集団教室など、レッスン業の拡充としてやりたいことはいろいろあるのですが……これまで通りボイストレーニング教室に力を入れていきつつも、歌手活動も再び積極的に行っていきたいですね。
社会人になりたての僕に足りなかった「実力」と「お金」。優先したのは「お金」でした。まずはこの「お金」を生み出すため、まずは納得感のある質の高いボイストレーニング教室を作ることに日々邁進しています。
その反面、舞台に立つ機会というのは、2019年と比べると少なくなってしまいました(昨今の流行病の影響もありますが)。
2022年は改めて1人の歌手、プレイヤーとして、舞台に立つ機会を増やしていきたいと思っています。
――独立やフリーランスを考えている方へ、アドバイスをお願いします。
音楽大学を卒業して思うことは、夢を追う人ほど、「お金は実力の後についてくる」と考えている気がします。
「コンクールでいい結果を出したり、オーディションに合格すれば、実力が認められる。」「お金が足りないのは、実力が足りないからだ」といった考え方をしている方が多いなと。
確かに本当に実力があって、その実力に伴ってお金も稼いでいる人もいますが、残念ながら大多数はそうではないと、僕は思います。
語弊を恐れずに言えば「実力」と「お金」は比例するとは限りません。
ポップスの世界でもおそらく、売れているアーティスト=実力順とは違うものだと思います。
――「実力」と「お金」は別物だと。
僕にとって「プロ」とは、卓越した技術や知識、スキルを持っている人のことだと思っています。
でもその技術や知識、スキルを持ち合わせているのと「お金を稼ぐ能力」というのは、全く次元の違う別の話です。
「演奏で自分のスケジュールが埋まっている状態」だからと言って、それが「きちんとお金が稼げている状態である」とは言い切れません。
もし自分のスキルを使って独立を考えているのなら、そこの切り分けは必要不可欠だと思います。
いろんな考え方があるとは思いますが、僕の場合まずは「お金」を作ることを優先させました。
ある程度お金を生み出して、時間的・財産的自由を手に入れられれば、少しずつでも「実力」も高めていく方向へ持っていけます。
「お金」と「実力」どちらも諦めないために、まずはどちらかを選ぶ。自分の軸を貫き通す覚悟が、独立・起業には必要なのかもしれません。
取材・撮影=内藤 祐介