料理を作る、文字を綴る、物を売る。
たとえやっている仕事の本質は変わらずとも、職業というのはその時代や媒体に合わせて形を変えていきます。
こうしてスマートフォンやPCで読むインタビューを書く仕事は、当然100年前にはありませんでした。
自分の仕事が、時代に適合しているかどうかは、独立・起業をする上でも重要な観点と言えるでしょう。
今回お話を伺ったのは、アール/野田龍太郎さん。
野田さんは現在eスポーツと呼ばれる市場の中で、格闘ゲームの大会やイベントのキャスターとして活躍し、多くのゲームファンから熱い支持を受けています。
しかし野田さんが活動を始めた頃、まだこの世には「eスポーツキャスター/実況者」という職業はありませんでした。
野田さんはどのようにして「eスポーツキャスター/実況者」という職業を生み出したのでしょうか。そこには大きな覚悟と決意、そして家族の物語がありました。
アール/野田龍太郎
プロeスポーツ実況者
10代の頃からゲームセンターで格闘ゲームに熱中する。
大学を卒業後、ゲーム関連の雑誌の編集者を経験。その際に格闘ゲームの大会などで実況を行うようになる。
結婚を機に会社を退職後、実家が経営する会社に就職。しばらくゲーム業界の一線からは身を引くが、プロゲーマー・ウメハラの活躍に一念発起し、実況者としてのキャリアをスタートする。その後「Twitch」への就職を経て、独立。
自身の格闘ゲーマーとしての経験から、実況の的確さには定評があり多くの格闘ゲームファンから熱い支持を受けている。
きっかけは中学受験の失敗。ゲームセンターが僕という人間を成長させてくれた
——現在プロeスポーツ実況者として活躍されている野田さん。野田さんがゲームに目覚めたきっかけから教えていただけますか?
きっかけは大きく2つあります。
1つ目は、中学受験に失敗したこと。
がんばって勉強したんですが、残念ながら受験は全部落ちてしまって。公立の中学校に入ることになったんです。
2つ目は当時『ストリートファイター2』(株式会社カプコン)が大ブームとなり、ゲームセンターが乱立していったこと。
受験の反動とブームの後押しもあり、ゲームセンターに通うようになっていったんです。
——勉強よりもゲームの方に力を入れるようになったのですね。今の職業を考えるとそれは「正しい選択」のように思えますが、当時はなかなか理解されなかったのでは?
そうですね(笑)。
僕は、世代的にはいわゆる「ロスジェネ世代」(※)なんですが、当時あった「とにかく勉強していい学校に行って、いい会社に入る」という風潮が自分の中でしっくり来ていなくて。
高校に入るタイミングでバブルが崩壊して、世の中が混乱を極めていく様を学生でありながらずっと見ていたんです。
そのうち、だんだん「本当に大人の言ってることって正しいの?」と思うようになっていって。
※「ロスト・ジェネレーション」の略。一般に1970年~1982年頃に生まれた世代で、 バブル崩壊後から約10年間の期間に就職活動をした人たちのこと。
——いわゆる社会の風潮や価値観よりも、ゲームの方が自分に合っていたと。
ゲームセンターには、いろんな人がいました。
年齢や就いている職業も千差万別ですが、みんなが「ゲーム」というツールでつながっている。
僕と同じように社会に対して疑問を持っていた人が、行くあてもなくゲームセンターという場所に集まって来て。
僕にとってゲームセンターは、ゲームを楽しむ場所であるのと同時に、「リアルな社会」で働いている人たちの声を身近に聞ける場所でもあったんです。
——中学卒業以降はどのような進路を?
高校、浪人生活を経て都内の大学へ進学しました。
当時は今のようにオンラインで対戦できるシステムもなかったので、強いプレイヤーを探すために、都内のゲームセンターに行きたかった。
そのための交通手段(定期券)が必要だったんです。
——つまり、大学進学はゲームのため……?
正直そのウェイトはかなり大きいですね(笑)。
大学時代はもう、ひたすらゲームにのめり込みました。ウメハラ(※)と出会ったのもこの時期だったと思います。
大学を卒業した後は飲食業を営むベンチャー企業に就職したんですが、数カ月で退職。ゲーム関連の雑誌媒体を扱う会社に編集者として転職しました。
※梅原大吾。日本初のプロゲーマー。
結婚、そして子育て。ゲームの世界の第一線から退くも、再起を賭けたワケ
——ここで一度仕事としてゲームと関わっているのですね。当時はゲームをプレイや実況をして生活している人はいらっしゃいましたか?
いませんでしたね。まだeスポーツという言葉もできる以前の時代でしたから。
ただこのタイミングで編集業の傍ら、週末に行われる格闘ゲームの大会やイベントなどで、実況も担当させてもらえるようになって。
自分の好きなジャンルを書かせてもらったり、取材させてもらえていたので仕事そのものは楽しかったですね。
ただ平日は編集部にこもり、週末はイベントへ行く生活が続いていたので、結婚を機にその会社も退職。こどもも生まれ、仕事は実家の会社の手伝いをするようになりました。
ゲームは、子育てをしながらちょくちょくイベントのネット配信を見る、くらいの距離感になっていきましたね。それでもたまにイベントに呼ばれて遊び感覚で実況はしていました。
——結婚と子育てから、ゲームの世界の第一線から退いた野田さん。ゲーム業界への復帰のきっかけは何だったのでしょう?
大きく2つあります。
1つ目は2010年、ウメハラが日本初のプロゲーマーになったこと。
プロゲーマーは、ゲームをすることでお金がもらえます。プロですから。
今では当たり前のことになっていますが当時はものすごく衝撃を覚えました。すごい時代になったなと。
どちらかというと今までゲームセンターってアンダーグラウンドな印象がありました。そういった風潮があったにも関わらず、世間に認められつつある。それは本当にすごいことだなと思ったんです。
2つ目は2011年に起こった、東日本大震災。
当たり前のように生きているようで、人はある日突然の出来事で死んでしまう。死というものを急に身近に実感しました。
そして「自分の好きなことをやらずに、死ぬことだってある」ということに気付いてしまったんです。
でも今、結婚して子育てもしている。実家の会社の手伝いはゲームほど熱中できないけれど、家庭が最優先。
だから自分が少し我慢をすれば全てが上手くいく、とも思っていました。
——たしかにそうかもしれませんね。
でも自分の心の中ではずっとゲームへの想いがくすぶっていたんです。そしてそんな話を嫁に打ち明け、相談してみました。
——奥様は、なんとおっしゃったのですか?
「ようやく気付いた?」と言われました。
そして「毎日死んだような顔をして家にいるんじゃないよ」「ゲームの仕事、やりたいならやってみればいいじゃない」と言ってくれたんです。
——奥様、すごい……。しかしなぜ奥様は野田さんの背中を押したのでしょうか?
実はまだ結婚をする前の編集者時代に、嫁にイベントの仕事を手伝ってもらったことがありました。
その時に、大きな舞台で大勢の前でゲームの試合の実況をしていた僕の姿を見て、嫁は「こんなに楽しそうな顔してしゃべっている人が、成功しないわけがない」。そんな風に思ってくれていたそうです。
だからノータイムで僕を肯定してくれた。嫁はあの時、僕以上に僕のことを信じてくれていました。
上の子がまだ3歳くらいの時で、ゲームを仕事にするとなると経済的に不安定になるのは間違いないにも関わらず。
だからこそ僕の中で覚悟と決意が生まれました。
大切な家族をちゃんと食わせていくために、歯を食いしばってやっていこう、と。
それが今の仕事の原点かもしれません。
まだ世にない職業ならプロの定義を考える。「プロeスポーツ実況者」アールは、こうして生まれた
——こうしてプロeスポーツ実況者としてのキャリアを本格的に始められたんですね。
はい。震災以降、ニコニコ超会議(株式会社ドワンゴ)といったイベントも増え、さらにそのイベントがインターネットで配信されるようになりました。
またプロゲーマーも、ウメハラを皮切りに少しずつ増えていったんです。
始めの頃はゲームセンターでアルバイトをしながら、イベントや大会に実況者としてマイクを持たせていただく機会が増えていきました。
——プロゲーマーという職業がようやく確立されつつあったということは、プロeスポーツ実況者という仕事もまだ完全には確立されていなかったんですよね?
ええ、そうですね。
プロとしてお金をいただいていましたが、それだけで生活していける職業という認識はありませんでした。
だから僕は実況を職業として確立することに挑戦しました。
——「プロeスポーツ実況者」になるために心がけたことは何ですか?
「プロeスポーツ実況者」という職業をする人がどんな人か、自分の中で定義を決めてみました。
というのも、ゲーム雑誌の編集者になる前に飲食業を営むベンチャー企業に勤めていたんですが、そこで一緒に仕事をした一流の料理人に「一流の料理人とそうでない料理人の違い」について聞いたことがあったんです。
その料理人は「短時間で美味しい料理を出せること、そして味がブレることなくできる限り長い時間、高いパフォーマンスができる人」と答えました。
つまり高いクオリティを出すのは大前提で、それをいかに早く・長く行えるか。「スピードと耐久力」が必要だということでした。
これは「プロeスポーツ実況者」になる上でも同じだなと。
——「プロeスポーツ実況者」の定義とは?
定義をする大前提として、ゲームの内容についての言及のスタイルと、プロとして備わっているべきフィジカルがあると考えました。
フィジカル面を定義するなら、僕は「どれだけ長い時間、実況していても失言がなく面白い、かつ声を枯らさず疲れを見せないフィジカルを持っている人」だと考えました。
そして自分がそのレベルに達することができるよう、努力を重ねてきたんです。
例えば実況者と並行して働くアルバイトとして、ゲームセンターのクレーンゲーム機コーナーでのマイクパフォーマンスを選びました。
実況の仕事をしていない時も、常にマイクに触っていたかった。自分にとって理想のプロeスポーツ実況者になるために、アルバイトの時間も使って下地を作っていましたね。
——もしまだこの世にない職業を作るとしたら、自分でその職業の「プロ」がどんな人か、定義付けをするということが大切なのですね。
はい。
もしこの記事を読んでくださる方が、何かこれまでにない仕事を生み出そうとしているなら、自分の中で「プロ」の定義付けをしてみるのもいい方法だと思います。
どれだけ新しい、時代にあった職業を選ぼうとしても、結局は自分に力やスキルがないとやっていけませんから。
まず1つの分野で、徹底的にスキルを身につけて腕を上げる。専門性の高い職業で独立・起業を目指すなら、それがファーストステップです。
そしてスキルを身につけた上で、どう長く生き残っていくか。その続きは後編でお話ししたいと思います。
取材・文・撮影=内藤 祐介
「二度目の独立」を果たしたアール/野田龍太郎が、今なお“シンカ”を続ける理由