コミュニティとは「共通の趣味や価値観を持つ人々の集団」のこと。
この「コミュニティ」という言葉を新聞やテレビで見かけるようになったのは、おそらく2010年代の前半だろうか。
SNSが普及し個人の趣味嗜好が目に見えるようになった現代では様々なコミュニティが生まれ、組織や年齢の垣根を越えて人々が集まっている。
このコミュニティに人々が集まるきっかけを作ったり、コミュニティを円滑に育成したりするのが、コミュニティビルダーの役割だ。
飲食複合型のコミュニティスペースBETTARA STAND 日本橋(ベッタラスタンド)でマネジャーとして活動していた熊谷さんもコミュニティビルダーの1人。
商社で営業をしていた熊谷さんは、BETTARA STAND 日本橋で働いた2年間で400回以上のイベントを開催してきた。
人と人がつながるきっかけを作るコミュニティビルダーとは、どのような仕事なのだろうか?
熊谷賢輔さん一部上場の商社を退職後、自転車で日本一周を実行。
続いてアラスカ→カナダ→アメリカ西海岸→メキシコ間の11,000kmを11カ月かけて走破。帰国後は、コミュニティスペースBETTARA STAND 日本橋の店長・統括マネジャーとして活動する。2年間で400回以上のイベントを運営し、現在はクリエイティブユニットYADOKARI株式会社のコミュニティビルダーとして働く。
非日常も、ずっと続けていれば日常になってしまう。志半ばで帰国した自転車世界一周旅行
– まずは、コミュニティビルダーになるまでの職歴について聞かせてください。
僕は新卒で一部上場の商社に入社して、工場や工事現場で使う製品の営業をしていました。その商社には東京で3年、札幌に転勤して3年、計6年間勤めていたんです。全国でも上位の売上を残せましたし、人間関係も仕事もそこそこ順調でした。でも、6年目に脱サラして自転車で世界一周の旅に出たんです。
– なぜ世界一周に行こうと思ったんですか?
学生時代から自転車で旅をするのが好きだったんです。会社員になってからも休みを使って、東京〜大阪間、札幌〜函館間を自転車で走ったこともあります。小さい頃から「人とは違うことをしたい」と考えていて、入社したときに「6年経ったら会社をやめよう」と思っていました。それと、会社員時代に石田ゆうすけさんの「行かずに死ねるか!」(7年半かけて自転車で世界を1周した時の旅行記)を読んで、世界一周こそ、僕が「やりたいこと」かつ「やるべきこと」だと感じていたんです。
だから自転車日本一周をした後、海外自転車旅に出て、アラスカのアンカレッジからメキシコのラパスまで1万1000kmを走ることにしました。
提供:熊谷さん<世界旅行中の写真>
– 1万km以上とは!すごいですね!
いやぁ、やってみると分かるんですけど、出発さえしてしまえば誰でもできることなんですよ。毎日目的地を決めて、ペダルを漕げばいいだけなので。
出発当初は毎日が刺激的でした。家ひとつない荒野を200km進んだり、野犬に追いかけられたり、道中助けてくれる人がいたり、日本じゃありえないような常識の外側にあるものに、毎日出会う。
でも、そんな旅もずっと続けていくとさすがに飽きてくるんです。それで世界一周の予定を変えて帰国することにしました。
– なぜ帰国されたのでしょうか?
なんというか、非日常が日常になってしまったんです。メキシコに到着した時に「この旅をあと数年続けるのか」と考えたら、モチベーションが続かなくなってしまって。でも、日本の友達に「世界一周してくる」と伝えて出発したので後ろめたかったですね。
自分で決めたことなのに完遂できなかったですし、応援してくれた人たちの期待に応えられなかった申し訳なさも重なって…。
念願だった世界一周に、脱サラしてまで挑戦したにも関わらず志半ばで帰ってきてしまったことで、それまで持っていた自信が一気に崩れました。
– 帰国してからコミュニティビルダーになるまでに、どのようなことがあったんでしょうか?
帰国後はずっと悶々としていて、全く行動できなかったんです。旅をしていた時から始めたライターの仕事を細々と続けていましたが、今後「何をしたい、何をするか」という指針は見えなかった。
そんな時に、飲食複合型のコミュニティスペースBETTARA STAND 日本橋のマネジャーをやってみないかと誘われました。
– どういった経緯で誘われたのですか?
BETTARA STAND 日本橋の運営母体はYADOKARIという会社なんですが、その代表が大学の同級生だったんです。YADOKARIはWebメディアを運営していて、僕もYADOKARIの記事を書いていたので縁が続いていたんですよね。
そこに開店の話が舞い込んで、「熊谷くん、マネジャーやってみない?」と誘われました。
写真引用:http://bettara.jp/ <企画段階のコンセプト画像>
– じゃあやってみようかと。
自信がない状態だったので一度は断ったんですが、代表が何度も声をかけてくれましたし、自分も「何かしないと」と感じていたのでやってみようと思って。それが32歳の時です。