独立・開業をする理由。
今よりももっと収入を増やしたい。自由な働き方をしたい。新しい価値を世の中に提供したい……。
その目的は事業者によってさまざまです。そしてその中には「お金を稼ぎたい」以外のモチベーションで独立・開業を選択する人も少なくありません。
今回お話を伺った「カフェおきもと」の店主・久保愛美さんもその1人。
久保さんは、ある理由から隣人の洋館(旧沖本邸)を譲り受け、その洋館をカフェに改装し開業しました。
洋館を残すために、独立・開業という選択をしたと語る、久保さん。
今回はそんな久保さんが「カフェおきもと」を開業するまで、そして開業してから1年が経った今、思うことを伺いました。
久保愛美さん
カフェおきもと・店主
東京都国分寺市に残る、昭和初期に建てられた洋風建築「沖本邸」。そこに住んでいた沖本京子さん、智子さん姉妹とは隣人として20年以上に渡り交友があった。
京子さんが亡くなったことをきっかけに、5年前、久保さんの娘さんが洋館を譲り受ける。洋館を取り壊すのではなく、残していくために、カフェの開業を決意する。
都内の専門学校でカフェ経営のノウハウを身につけた後、2020年に「カフェおきもと」を開業。
歴史ある建物と雰囲気のある内装、趣向の凝らしたメニューが人気を博し、開店以来行列が絶えない。また洋館の持つ物語性や開業にまつわるエピソード性から、メディアからの取材も多く受けている。
“物語”があるこの洋館を残していくために。久保さんが「カフェおきもと」を開業した理由
――国分寺にお店を構える「カフェおきもと」。まずは、開業までの経緯を伺いたいのですが、この洋館(旧沖本邸※)は、元々はお隣さんの家だったとか。
はい。この旧沖本邸はかつて、2人のおばあちゃま(姉・沖本京子さん、妹・智子さん)の家(お2人が実際に住んでいたのは、洋館の隣にある、木造平屋建ての和館)でした。
私たち家族はというと、元はこの2人のおばあちゃまの隣の家に住む、ただの隣人だったんです。
私たちがこの近くに越してきたのが、20年ほど前のことなので、お2人とはそれ以来ずっと家族ぐるみで仲良くさせていただいて。
1932年(昭和7年)、広島県出身の貿易商・土井内蔵氏の別荘として建築される。同氏の甥であり、カリフォルニア大学で建築を学んだ川崎忍氏によって設計された。下見板張りのアーリーアメリカンスタイルの木造2階建て。
その5年後、海軍少将だった沖本至氏が土井氏から建物を譲り受ける。沖本氏は洋館の隣に木造平屋建ての和館を作り、渡り廊下で2つの建物を繋いだ。
その後、沖本氏の娘である京子さん、智子さんの姉妹が土地と建物の所有者となった。
築90年近く経つ、歴史ある洋館。ただし洋館には、ずっと人が住んでいなかったため、草木が生い茂っていてまるでジャングルのようだったそう。カフェを開業するに至って、一斉に清掃された。
――ご近所付き合いから、お2人との交流が始まったと。でもなぜ、洋館を譲り受けることに?
京子さんが亡くなられた時に、この土地と建物をどうするかという話になったんです。
智子さんもご高齢ですし、お2人には後継ぎがいませんでした。そして智子さんから私の娘に「この土地と洋館を譲りたい」と、お話をいただいたんです。
――そういった経緯があったのですね。
とはいえ当時まだ娘も20歳そこそこだったので、土地や建物の管理も難しいよね、ということになり……。その上、維持するにしても固定資産税もかかるので、どうするべきかを主人も含め、家族でいろいろ話し合ったんです。
最初は「洋館を壊して更地にして、土地を売ってしまうのはどうか」とも考えたのですが……。
京子さんの遺品整理をしている中で、だんだんこの洋館に愛着を持ってしまって。そしてそれと同時期に、この建物の上記のような「歴史」が、徐々に分かってきたんです。
歴史のある洋館を取り壊してしまうのは、なんだかとっても、もったいないなと思うようになっていきました。それは洋館の所有者である娘も同じ気持ちで。
しかしただ残すにしても、それはそれでお金がかかってしまう……。
そこで思いついたのは「この洋館で、カフェを開くのはどうか」ということでした。
――洋館を残したい。そのためにカフェを開業をしよう。「カフェおきもと」はそこから始まったんですね。
はい。だから語弊を恐れずに言うと、私はビジネスがやりたくて、事業を起こしたわけではないんです。
どうにかしてこの洋館を残したい。そのためには維持費をきちんと払っていけるくらい、事業を立ち上げるなり何なりして、収入を得ないといけませんでした。
ある意味、必要に迫られて立ち上げた感じですね……(笑)。
そのスタンスは開業して1年経った今も変わっていません。私の独立・開業の原点ですね。
お金儲けが目的じゃないけど、遊びでカフェ運営をやっているわけでもない。
――とはいえ、飲食業や事業を立ち上げた経験は……?
もちろん、ありませんでしたよ(笑)。
仕事も、会社での勤務経験はありましたけど、結婚出産をした後はずっと普通の主婦をしていましたし、後はパートをしていたくらいで。
カフェを開業するためには、お客さまに提供できる一定レベルの料理の腕はもちろん、店舗経営のイロハについて学ぶ必要があるなと。
そこで、目黒にある料理の専門学校に通うことにしたんです。
――では料理の専門学校を出てすぐに開業を?
いえ。実はカフェを開業しようと決めてから、かなりいろいろありました。
専門学校で勉強する傍ら、智子さんの介護があったり……。多忙のあまり、私も大病を患ってしまって。
娘は娘で、大学の勉強や仕事がありますから、カフェについては(特に立ち上げ期に関しては)基本的に全て私が1人で手を動かしていました。
そうしたトラブルもありながらも、どうにか2020年の10月、無事に「カフェおきもと」をオープンすることができたんです。
――オープン当初は店外にまで大行列ができ、また多数のメディアで取り上げられたりと、大盛況だったと伺いました。
ありがたいことに、想像以上にたくさんのお客さまに来ていただくことができました。
でもまさか、正直ここまで盛況するとは思っていなくて……。だから早い段階から、スタッフの人員や席数を増やしたり、現在は営業日も週5日に増やしました。
加えて、ありがたいことにこの洋館のこうした「物語」を面白がっていただけたのか、雑誌や新聞、テレビの密着取材があったりしました。
開業してから半年くらいは、慣れないことの連続だったので、本当に大変で。
定休日の2日間も仕込みを行っているのでほぼ休みはありませんし、最初の頃はスタッフも多くいなかったので、仕込みを全て私1人でやっていました。
さすがに今は、そんなことなくなりましたけど、気がついたら明け方で睡眠時間が数時間、ということも全然ありましたよ。
――それほどに大変だったんですね……。
開業を決意した頃の想定とは、かなり大きく異なりました。
最初は私とスタッフ2人、計3人くらいでお店を回そうとしていたんです。それが今やスタッフは13人。
私はこの洋館の周りの木や庭が大好きなので、ガーデニングをしながら、ひっそりとカフェを運営して洋館の維持費を稼いでいけたら、くらいに思って開業したんですけどね(笑)。
――たくさんの方に愛していただいているが故の、難しい悩みかもしれません。開業して1年、何か思うところはありますか?
そうですね。このお店を愛して、求めてくださる方がいるなら、なるべくその人たちの期待や希望に、これからもお応えしていきたいと思っています。
ただ私も一度大きな病気を経験した身なので、もちろん無理のない範囲でとはなってしまいますが……。
お金儲けがしたくて始めたお店ではないですけど、だからといって遊びでお店運営をやっているわけではありません。
今はたくさんのスタッフが働いてくれていますし、彼ら彼女らの生活を守るといったら大袈裟かもしれませんが……ここで働いていて良かったと思える環境が作りたいんです。
そして、これまでおばあちゃまたちと私たち家族しか関わることがなかったこの洋館に、今ではこうしてたくさんの人が来てくださっている。
きっとこの洋館も喜んでいるんじゃないかと、そんなふうに思うんです。
事業は続かないと意味がない。これからも「カフェおきもと」を続けていくために
――久保さんのこれからの展望を教えてください。
やりたいことがたくさんありますね。
ここ国分寺市の遺跡から発見された「赤米」と呼ばれる古代米の栽培もしたいですし、新しいメニューの開発、提供もやりたいです。
あとはせっかく歴史のある洋館なので、結婚式の顔合わせや食事会としても活用いただけるよう、いろんな幅を持たせられたらと思っています。
――最後に、読者の方へメッセージをお願いします。
開業して1年が経ち、改めて思うのは「事業は続けないと意味がない」ということです。
専門学校時代によく言われていたのですが、こうして専門学校を卒業しても自分のお店を開業するのはその中の1割にも満たない、と。そして開業したお店を続けていけるのは、もっと少ない数だそうです。
その言葉通り、お店を続けていくことは簡単な話ではありません。
この素敵な洋館を残すためにも、地に足をつけて、事業をちゃんと継続していかないといけないなと、改めて背筋が伸びる思いです。
そして事業を続けていくためには、私1人の努力では足りません。
手伝ってくれるスタッフたち、さまざまな面で支えてくださるご近所の方々、そしてお店にお越しくださるお客さまがいてこそ、事業を続けることができます。
今後も、いろんな方に愛してもらえるような「カフェおきもと」を作っていけるよう、邁進したいと思います。
取材・文・撮影=内藤 祐介