千葉県で農業経営を展開する「株式会社アグリスリー」の代表・實川勝之さんは、かつてパティシエの夢を追いかける1人の青年でした。
しかしパティシエとして修行始めてからすぐに、家庭の事情で実家の農家を継ぐことになります。
そこで實川さんは、農業におけるさまざまな問題に直面します。その問題を解決するために、農業に新たな栽培品種を導入したり、会社の仲間を集めたりとあらゆる手段を用いてきました。
やがて實川さんの視野は、会社や地域、世界へと広がっていきます。地域の農業を担うようになって見つけた、彼の新しい目標とはいったいどんなものなのでしょうか。
千葉県で農業を営む實川家に生まれる。高校在学時から料理人を志し、調理師学校へ進学。お菓子作りに出合い、卒業後は洋菓子店に就職しパティシエとして働く。数年後、父親のケガをきっかけに就農。梨の栽培に着手するなど、積極的に農業経営を展開。2011年に「株式会社アグリスリー」を立ち上げ、農作物の生産から加工・流通まで事業を拡大中。
志半ばにして就農。夢と現実の間から生まれた、農業の「パティシエ」
——現在、實川さんはアグリスリーの経営者を務めていらっしゃいますが、以前から農業という分野に興味があったのでしょうか?
いえ、もともと農業をやるつもりはありませんでした。實川家では家族で農業を営んでいましたが、私は3人兄弟の次男です。後継ぎというわけでもないので、勝手ながら将来は自分の好きなことをやろう、と考えていました。
私は昔から料理が好きだったので、高校卒業後は料理人を目指して調理師学校に進学しました。
そこでお菓子作りを学んで、将来はパティシエになってカフェを開きたいと思うようになったんです。
——夢を追っていたはずが、どうして農家に戻ってきたのでしょうか?
きっかけは、父のケガでした。今ではすっかり元気になりましたが、当時は足を切断するかもしれないという容態だったんです。私はその頃、ケーキ屋に就職してパティシエとして働いていたのですが、慌てて実家へ戻って、父の代わりに農作業を手伝いました。
——ご兄弟の方と一緒に実家に戻って農業を始めたのでしょうか?
いえ、当時兄は大学4年生で春からの就職先が決まっていており、弟はまだ高校生だったので、私だけが戻ることになりました。
——農業をはじめてみて、いかがでしたか?
最初は事態が収束したらパティシエに戻ろうと思っていたのですが、父の代わりに仕事をしている中で「農業をやるのも悪くないな」と次第に思うようになりました。お天道様の下で働き、日が暮れたら仕事を終え、食事をとって風呂に入って、よく眠る。ケーキ屋での仕事がかなりハードだったこともあり、そんな人間らしい生活ができる農業に魅力を感じました。
——農業を本格的にやっていくことを決心したのはいつごろでしょう?
15年ほど前、農業を始めた年の冬にある出来事が起こりました。うちの農園で作った大根を市場に出荷したところ、13本入りの10キロ箱がたったの300円にしかならなかったんです。
当時は外国産の安い商品が出回り、市場はあふれていました。自分たちの作った野菜のほうが間違いなく良い品質なのに、市場任せの流通では、売れば売るほど農家が赤字になります。
ただでさえ市場流通では作り手・買い手の顔が見えません。買ってももらえない、買ってもらえても買い手の方が喜んでいる姿が見えない状況では、自信や愛情を持って農作物を育てることなんてできませんよね。
私はそんな現状にひどい悔しさを覚え「こんな農業ならやりたくない」と思いました。
そして私は「自分が作ったものを自分の手で売っていくこと」を決意しました。
本当に良いものを作ってみんなに届ける。まるで今まで職業にしていた”パティシエ”のように、自分が徹底的にこだわった商品(農作物)を作って、自分で売る。
そんな“農業のパティシエ”になることが私の目標になったんです。
——農業の厳しい現実を受け止め、立ち向かっていく道を選んだのですね。
はい。作るものには徹底的にこだわり、販売方法も市場流通に頼らず、パティシエが自分の店で作品を作って売る。そんな形を目指しました。
そのシステムを作るために栽培品種として導入したのが、梨です。
梨なら千葉の気候的にも合いますし、ありきたりな野菜や米よりもブランディングしやすいと考えたんです。
何より、甘くて美味しい梨は「パティシエが作るスイーツ」というイメージにもぴったりでしたから。
今では梨はアグリスリーの看板商品となりましたし、最近ではこの町の観光マップに梨のマークが生まれました。
農業は地域ありきの産業ですから、地域の人たちに認めてもらえたのはとても嬉しいことですよ。
振り返ってみると、梨を作ったことが私にとっての農業、アグリスリーのスタートになりました。