くじけそうになった時、何かを諦めそうになった時、あなたならどう立ち向かいますか?
それを乗り越えようにも、無謀な挑戦だと目の前の壁に背を向けてしまう人もいるでしょう。
ですが、今回お話を伺った柴田章吾さんは、ある難病と戦いながらもプロ野球選手になるという夢を叶え、現在はITコンサルタントとして活躍されています。
今回は、その激動の人生を振り返りつつ、柴田さんが数々の壁と向き合い、挑戦し続けるその生き様をご紹介します。
現在、将来の不安に苛まれ身動きが取れなくなっている、そんな方は必見です。きっと、その難題を乗り越えるためのヒントを得られるはずですから。
柴田章吾(しばた・しょうご)さん
1989年生まれ、三重県いなべ市出身の元プロ野球選手。
小学2年生から野球を始め、6年生の時にボーイズリーグで全国制覇を果たす。
中学3年生の時に厚生労働省指定の難病「ベーチェット病」を発症。闘病しながら愛知工業大学名電高等学校(以下、愛工大名電)で野球を続け、3年生の夏に甲子園に出場する。
明治大学卒業後、2011年にプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから育成3位で指名を受け、投手として入団。2014年のシーズンオフに戦力外通告を言い渡され、現役を引退。
読売ジャイアンツの球団職員を経て、現在はアクセンチュア株式会社にてITコンサルティング業に従事。
難病「ベーチェット病」発症も、甲子園のマウンドへ。病気と共に歩んだ夢への道のり
ー元プロ野球選手であり、現在はITコンサルタントとして働かれている柴田さん、現在に至るまでの経緯を教えてください。

野球を始めたのは小学2年生の時です。家の近くにあるグラウンドで1人で遊んでいたら、そこで練習をしている少年野球チームに「よかったら一緒にやらない?」って誘われたんです。
試しにボールを投げてみたら「すごい投げられるじゃん!」って褒めてもらえたんですよ。それが嬉しくて、その場でチームに入団することを決めました。
小学6年時には硬式野球のボーイズリーグに移って、チームの「エースで4番」として全国優勝を経験することができました。
ー野球選手として好スタートを切ったわけですね。

はい。そのまま中学校に進学してからも野球を続けて、中学3年時には日本代表にも選ばれました。
しかし、海外遠征を控えていた頃、突然ものすごい腹痛に襲われたんです。病院では胃腸炎と診断されたんですけど、1週間薬を飲み続けても回復する兆しが見えなくて…。
逆に症状は悪化し、40度の高熱が出て、さらには口内炎が20個ぐらいできました。
「これはさすがにおかしいな…」。そう思って、また病院に行ってしっかり検査してもらったんです。
その結果、厚生労働省指定の難病である「ベーチェット病」を発症していることがわかりました。その場ですぐに入院することが決まり、中学最後の1年間は出席日数の半分程度しか学校に行くことができなかったんです。
※ベーチェット病 口腔粘膜のアフタ性潰瘍、外陰部潰瘍、皮膚症状、眼症状の4つの症状を主症状とする慢性再発性の全身性炎症性疾患。副症状として消化器症状、神経症状、血管炎症状などが出現する場合があり、再燃と寛解を繰り返す病気。
ーそうだったんですか…。もう野球どころの話ではありませんよね。

そうですね。結局、日本代表も辞退しました。10分ぐらい歩いた程度で息切れしてしまうので、ほとんど運動できる状態ではありませんでした。
それに、薬としてステロイドを40mg飲まないといけなかったんですけど、これって服用するにはかなり多い量でして…。
ステロイドの量が多ければ多いほど副作用として免疫力が低下してしまうので、その影響で風邪やインフルエンザといった感染症にもかかりやすくなってしまいました。なので日常生活でマスクの着用は必須でしたね。
ーでは、野球は一度は諦めてしまったのでしょうか…?

いえ、病気にかかって野球から遠ざかったこともあり、逆に「野球をやりたい」という欲求が高まりました。めちゃくちゃアドレナリンが出ているような感じで(笑)。
それに僕はプロ野球選手になることへの憧れもありましたが、それ以上に甲子園に出ることが1番の夢だったので、高校3年間は絶対に野球をやろうと決めていました。
なので、「挑戦して死ぬんだったら本望だ!」と覚悟を決めて、高校野球の名門である名古屋の愛工大名電に進学したんです。
ーその状態でアドレナリンが出るって…本当に野球が好きなんですね。ただ、高校入学後も症状は続いていたのではないですか?

定期的に腹痛は起こしていましたね。
そういった体の状態から、入学当初は野球部で練習することは禁止されていましたし、体育の授業でさえ受けることができませんでした。
僕は普通科のスポーツコースに特待生として入ったんですけど、ずっとマスクをして体育だけ欠席しているので、周りからは「この人なんなの?」みたいな。しかも女子から聞こえるように言われていたので、思春期だった当時の僕からしたらキツかったですね(笑)。
ー誰も病気のことは知らずに…。

知らなかったと思います。ベーチェット病だと言ってもわからないと思うので、あえて言いませんでした。
ですが、野球部のチームメイトは違いました。同じく難病だということは伏せていたのですが、みんな「大変な病気なんだろうな」と察してくれていて。すごく配慮してくれたんです。
監督も相談に乗ってくれて、みんなと同じ練習量はこなせないので、体の状態に応じて僕だけのメニューを作ってくれました。
「今日は30分走れたから、明日は40分走ってみようか」という感じで。
そういった野球部の仲間や監督の支えもあり、少しずつですが投手として投げられるまでに回復していきました。高校2年になってからは試合に出られるようになり、高校3年時にはエースとしてマウンドに立てるまでになったんです。
ーそこからエースに上り詰めるなんて、すごいですね! 甲子園出場という夢は叶ったのでしょうか?

はい、おかげさまで高校生最後の夏に甲子園に出ることができました。出場が決まった瞬間は、もう涙が止まらなかったです。
憧れのマウンドで投げている時はすごく楽しくて、自分が投げたボールがどこまでも飛んでいくような感覚がありましたね。
勝利を挙げることはできませんでしたが、チームメイトや監督のおかげでここまで来ることができたと思うので、もう感謝の気持ちしかありません。
心の底から「このチームに来てよかったな」と思いましたね。
挑戦し続けた経験は、次の人生の糧になる
ー高校時代の仲間や、ともに歩んだ甲子園への道のりは、柴田さんにとって「かけがえのない財産」ですね。その後はどうされたのですか?

高校卒業後は、明治大学に進学して野球を続けました。
甲子園には出場できたものの、高校時代は周りと比べたらあまり練習できていなかったので、大学ではほとんど基礎練習に時間を費やしました。
結局、大学4年間で実績を残すことができないまま、2011年のドラフト会議を迎えたんです。
ー結果はどうだったんですか?

読売ジャイアンツから育成3位で指名していただけました。
周りの評価としては指名される確率は相当低く、よくて下位指名だと言われていたので、その数%の可能性にかけていたのですが。
実際に名前を呼ばれた時は、育成での指名という複雑な心境ではありましたが、「ここから這い上がってやろう」という気持ちでしたね。
ーすぐに1軍には行けなくても、憧れだったステージには立てますしね。実際にプロ野球の世界に入ってみて、いかがでしたか?

普通に頑張ればいいっていうものではないな、というのはすぐに感じましたね。
それに僕ら育成選手は、プロではあるけど、1軍や2軍の選手たちと同じ扱いはされません。
なので「ここから早く脱出してやる」というハングリー精神を持って、がむしゃらに練習するしかありませんでした。
結果的にプロで3年間挑戦して、1度も1軍のマウンドを踏めずに戦力外通告を言い渡されてしまうんですけど。不思議なことに、大学に入学してから引退するまで病気の症状が全く出なかったんです。
ーそうだったんですか!?

はい。ベーチェット病は完治する病気ではないのですが、担当の主治医にも理由がわからないらしくて(笑)。
僕が思うに、体に気を使って毎日3食バランスよく食事を摂り、野球で適度な運動をすることができていたので、すごく健康体になった。
加えて、好きな野球を毎日ワクワクしながら取り組んでいたので、ストレスもなく、充実したメンタルにつながったことが要因だと思うんです。
だから現役時代は育成選手の中で1番走れましたし、筋トレもできた。野球は上手くはならなかったけど、周りから「フィジカルが強い」と言われるぐらい健康になれた。
そういう意味でも、「完治しない難病」という壁を乗り越えられたこの3年間は、その後の僕の人生にとって本当に大きな経験となりましたね。
ーこの野球人生は、柴田さんと同じような難病にかかっている方たちに勇気を与えられるものですね。

ありがとうございます。僕の挑戦によって、少しでも勇気付けることができたらいいなと思います。
実際にこどもから手紙をもらうこともあるんですよ。
「僕も病気なんですけど、柴田選手の姿を見て、野球を頑張りたいと思いました」って。
そういうメッセージのおかげで立ち直れたことが何度もあったので、応援してくれる方がいたからこそ乗り越えられたプロ野球生活でもありましたね。
ーこどもたちの言葉も、野球を続けるモチベーションにつながっていたわけですね。引退後はどうされたのでしょう?

引退後は所属していたジャイアンツからお誘いをいただき、球団職員をすることになりました。
ですが、3年間のプロ野球生活で充実感や達成感を得られたこともあり、第2の人生は野球以外の世界に場所を移して挑戦したい気持ちが強く芽生え始めてきたんです。
なので球団職員は1年で退社し、その後は商社や広告代理店を中心に100人ほどOB訪問をさせていただき、たくさん話を聞いて回りました。
どうせ新しい世界で挑戦するのであれば、ビジネス関連で最高のスキルを学べる環境に身を置こう。そう思ってコンサルティング会社のアクセンチュア株式会社に照準を合わせたんです。OBから会社のことを学び、面接の特訓もやって、しっかり準備しましたね。
そして2016年に入社を決めることができ、ITコンサルタントとしてのキャリアをスタートさせました。
ー具体的なお仕事の内容をお聞かせいただけますか?

テクノロジーを使って、お客さまの経営上の戦略をどう実現していくかを考え、その課題に対してソリューションを提案、導入していく。お客さまの抱える課題の中に潜在化した課題が浮き彫りになればそこもケアし、常にプラスアルファのバリューを提供する。
それが僕の仕事になります。クライアント先に何カ月も常駐していることが多いですね。
ー野球一筋で人生を歩まれた柴田さんにとって、そこまでできるようになるには相当な苦労があったのではないですか?

確かに大変でした。はじめは仕事を覚えようにも内容が難しすぎて…。
「野球経験のない人が野球部に入ったらこんな感じなんだろうな」って思いましたね(笑)。
ただ、アクセンチュアは優秀な方ばかりだったので、僕に対して分かりやすく的確なアドバイスをしてくれたり、見習うべき姿を見て学び、自分の中に取り入れていきました。
そういったことを重ねていき、入社2年目からようやく自分の意見を持って上司やお客さまと接しながら能動的に働くことができるようになりました。3年目を迎えた今は、更にプロジェクトに貢献できるよう頑張っていきたいと思っています。
会社のために、そして、自分の挑戦を生きる糧としてくれたこどもたちの応援に恥じないように。
自身の心と相談し、納得のいくキャリアチェンジを
ー将来的に再び野球に携わることは考えているのでしょうか?

そうですね。実は今でも野球に携わっているんです。
というのも、現役を引退してから球団職員になるまで少し時間があったので、イギリスやフィリピンにホームステイしに行っていたんですね。
僕はもともと海外志向が強く、現地で英語を学びたい気持ちがありましたので。
そのフィリピンのホームステイ先に野球をやっているこどもたちがいたんです。僕はとっさに「野球を教えるので僕に英語を教えてください」と交渉してみることにしました。
そうしたら了承を得られたので、野球コーチをしながら英語を学ぶ、という生活を始めていったんです。
すると、噂が広まったのか「フィリピンの日本人学校で野球教室をやってほしい」と頼まれまして。
そういった依頼が増え、どんどん野球教室の規模を大きくしていったら、最終的には同国開催の10歳以下の全国大会でコーチをするまでに発展したんですよ(笑)。
ー野球が盛んではない東南アジアにとって、日本のプロ野球出身の柴田さんは大きな存在だったんでしょうね。

そうかもしれませんね。
指導を依頼されるようになってからは、連休を利用して海外に飛ぶようになりました。昨年はシンガポールにも行きましたし、今年はバンコクからも依頼されています。
あくまで英語を学ぶことが目的ではありますが、野球を教えるのは気分転換にもなるので、今後もこの活動は続けていきたいと思いますね。
ーでは、今後の展望をお聞かせください。

これは会社にも話していることなんですけど、将来的には海外で働きたいと思っているんです。
そして最終的には、メジャーリーグの経営に携わることを今は目標として掲げています。
現職で企業の経営課題や最先端のITトレンドについて勉強し、海外では英語や野球事情、コーチングを学んでいる。
その全てを生かすことができるのが、メジャーリーグでの経営・事業戦略のビジネスだと思っているので、そこを目指していきたいと思っています。
ー最後に、新たな道に進もうとしている人にメッセージをいただけますか?

はい。これは僕が実際に経験したことなのですが、キャリアについて考えている時って、自分自身と向き合える大切な時間だと思うんです。
転職や独立・起業といったキャリアチェンジって、やりたいことが明確にあったり、自分の可能性を広げたいっていう思いがある時に実行すると思うんですね。
僕自身もそうでしたが、その明確化された目的・内容に沿った会社を探している時は、自分の意思としっかり向き合うことができ、結果的に次に進むべき道を迷いなく導き出すことができた。
キャリアについて考えることは、自分を探す旅のようなものです。
これからキャリアチェンジを考えている方は、ちゃんと自分の心と会話しながら、納得のいく道を見つけてほしいなと思います。
(取材・文=佐藤主祥 https://twitter.com/kazu_vks)