あなたは、自分が成長していくために、どのようなことに取り組んでいますか?
何か1つのことを徹底的に学んで、誰よりも極めることができれば、その分野でトップの地位を確立することができるかもしれません。
しかし、単一の物事だけでは、成長するにも限界があります。
Aqua Timezのギターとして活躍し、現在は作曲家・編曲家として活動されているDaisukeさんは、どの分野でも成長するには外部から新しいモノを取り入れる姿勢が大事だと言います。
Aqua Timezといえば、『等身大のラブソング』や『決意の朝に』、そして『虹』など数多くのヒット曲を送り出してきたロックバンドですが、2018年の活動をもって解散し、その後はそれぞれの道を歩んでいます。
それまでメジャー音楽シーンの第一線で活躍し続けたにも関わらず、なぜ解散という決断に至ったのか。そして、10年続けるのも難しいと言われるバンド活動を15年も継続させ、つねに成長を続けることができた、その理由はなんなのか。
今回はその真意を、Daisukeさん本人に伺いました。
Daisuke Hasegawaさん
元Aqua Timezギター・プログラミング・コーラス担当/作曲家・編曲家
1977年生まれ、福島県出身。
5歳よりピアノを習い始め、13歳よりシーケンサーによる作曲を始める。それと同時にドラムもスタート。
兄の影響で14歳でギターを始める。この頃より「X JAPAN」のコピーバンドをスタートする。16歳の時、「METALLICA」のコピーバンドを結成。地元のバンドコンテストで優勝する。この頃からいくつかのバンドでギター・ベース・ドラムを担当。
大学へ進学後、軽音楽サークルへ入部。多ジャンルの曲をコピーし、いろいろな奏法を習得。
2003年に「Aqua Timez」へ加入。ギターとシーケンス(打ち込み系)を担当する。同年から2年連続で「新星堂バンドコンテスト」で関東大会優勝。
2005年「空いっぱいに奏でる祈り」をリリース。以降、メジャーデビューを経て13年間バンド活動を行う。
バンド活動において、ギター以外にも作曲・編曲なども担当。さらにはAqua Timez以外の音楽活動も行う。
2018年11月、ラストライブを横浜アリーナで行いバンドを解散。以後、作曲家・編曲家としての活動をはじめ、2019年1月から「Daisuke Hasegawa 作曲教室」にてDTMやギターなどのレッスン業務を開始。
初出演テレビがなんと「Mステ」だった! ギタリスト・Daisukeが語る、Aqua Timezメジャーデビュー秘話
ー2018年の活動をもって、ギタリストとして所属されていたバンド「Aqua Timez」が解散し、今年から作曲家・編曲家として新しく活動を始められたDaisukeさん。まずは15年間のバンド活動及び、昨年11月18日に横浜アリーナで開催されたラストライブ、本当にお疲れさまでした。
ありがとうございます。
Aqua Timezとしても、僕個人としても「バンドをやりきったな」と。素直にそう思えます。
ー今年からスタートされた「Daisuke Hasegawa 作曲教室」について伺っていく前に、まずはAqua Timezでの15年間の活動を振り返っていきたいのですが、バンド結成の経緯をお聞きしてもよろしいでしょうか?
はい。そもそも僕と、Aqua Timezのベース担当であるOKP-STAR(以下、OKP)は高校時代の同級生でして、当時は一緒に5人組バンドで活動していたんです。
高校卒業後も、上京してそれぞれ別の大学に進学したのですが、彼を僕の大学のバンドサークルに引き込んで一緒に音楽活動を続けていました。
ですが、バンドでデビューするなんて考えてもいなかったので、大学卒業後は自分のバンドを解散して、音楽活動をやめてしまったんです。
その後はやりたいことも特になく、2年間ほどフリーター生活を続けていました。当時の僕は、特に夢もなくちょっとやさぐれていました(笑)。
そんなある時、OKPから「今、楽曲制作活動をしているんだけど、ライブをやりたいからサポートメンバーとして来てくれない?」と連絡がありました。
当時OKPと音楽活動をしていたもう1人のメンバーというのが、Aqua Timezのボーカル担当となる太志だったんです。
僕はOKPから誘われたことをきっかけに音楽活動を再開。後に、そのバンドには他のメンバーも加入していきました。
それが僕が25歳のとき、5人でのAqua Timezの始まりです。
ー社会人として会社で働く道を選択してもおかしくない、25歳という年齢で結成されたというのが、とても勇気のいる決断だったように思えます。その後はバンド1本に絞って活動をしていこうと?
はじめはそう思っていました。
ですが、やはり結成当初はライブを開催してもお客さんは数人しかおらず、生計は成り立たない。
次第にその状況がつらくなってきてしまって…。結局、Aqua Timezを結成して1年後、26歳の時に一度会社に就職しました。
ーでは、それからは会社員として働きながらバンド活動を継続されていったのですか?
はい。2年間は仕事と並行してバンド活動をする時期が続きました。
そして、2005年8月に1stミニアルバム『空いっぱいに奏でる祈り』でインディーズデビューすることが決まったんです。
インディーズでCDをリリースするからといって、売れる保証なんてどこにもなかったのですが、よりバンド活動に力を入れるために当時の上司に退職を申し入れました。
しかし、引き継ぎの対応や何やらをこなしていたら、結局そこから半年くらい会社に出社していたんです。
仕事が終わったらスタジオに行ってレコーディング。その後は楽曲制作を遅くまでして、朝起きたら出勤。
毎日この繰り返しだったので、この半年間は人生で1番キツイ時期だったと思います(笑)。
ーメジャーデビュー後の方が大変な時期を過ごされているイメージを持っていたので、ちょっと意外でした(笑)。
もちろんメジャーデビュー後も大変なことはたくさんありましたよ。
でもやはり好きでやっている音楽だからか「音楽で忙しい」のはそこまで苦ではないんです。
ですが会社員とバンド活動を並行して、なおかつ家でも作曲に関わっていると、気持ちを切り替える時間がなくて、頭の中がゴチャゴチャになってしまうんですよね。
あの時の肉体的・精神的しんどさは人生でもトップレベルでした(笑)。
ーそうでしたか。CDの売れ行きはどうだったのでしょう?
正直、ほとんど売れませんでしたね。
なので会社を辞めてからも、生計を立てるために結局またアルバイトを始めて、仕事とバンド活動を両立するしかなかったんです。
そんな中、『空いっぱいに奏でる祈り』に収録されている『等身大のラブソング』が音楽放送サービス番組情報サイト「USEN(有線)」で取り上げられるようになり、それがきっかけで徐々に話題になっていったんです。
でも当時の僕らといったら「なんか有線で流されたらしいけど、人気とかよく分かんないから、とりあえず仕事しようぜ」みたいな(笑)。
楽曲とバンドが有名になっていく実感が全く湧いていなかったんです。
そんな感じで時が流れていったのですが、年が明けて2006年になった瞬間、思いもよらない出来事が起こりました。
ーどのようなことが起こったのでしょう?
テレビ朝日の「ミュージックステーション」(以下、Mステ)に出演することが決まったんです(笑)。
ーえ、いきなりMステですか!?
はい。
5人で初めて出演することになった番組がまさかのMステで(笑)。
それからは人気にさらに拍車がかかりました。
Mステで楽曲を披露させていただいてからは、その出演効果もあって、2006年2月に『空いっぱいに奏でる祈り』がオリコン週間アルバムチャートで1位を獲得したんです。
前年8月に出したアルバムなんですけれども、リリースから半年後に1位になるというのは、あまり前例のない異例の出来事なので、本当に驚きましたね。
そして、2006年4月に出した2ndミニアルバム『「七色の落書き」』で、念願のメジャーデビューをすることになりました。