日本人初のプロゲーマー・ウメハラ(梅原大吾)さん。海外ではBeast(野獣)のニックネームで崇められる天才プロゲーマー。若干15歳で日本を制し、17歳で世界チャンピオンのタイトルを獲得。以来、格闘ゲーム界のカリスマとして、20年以上にわたり世界の頂点に立ち続け、その戦績はギネスブックにものるほどだ。日本のみならず世界で“神”と崇められるウメハラさんに今回はお話を伺いました。
eスポーツという言葉はもちろんなく、ゲームセンターに行くことすら禁じられ、ゲームがいくら上手でも仕事にならなかった平成の時代に、ゲームで結ばれた仲間からの熱い要望に応えた結果、世界に飛び出したウメハラさん。世界大会優勝など輝かしい戦歴を残し日本人初のプロゲーマーとなるものの、常に“この仕事がなくなったら……”と、未だに恐怖と戦っているという。それでも前人未到の道を進むのは“やらなった後悔の方が失敗するよりも納得がいく”と静かに話すうウメハラさん。長い間、自分の得手不得手と向き合い、多くを望まず、しかしながら自分で納得のいく道を選んできている彼だからこその力強さがある言葉だ。
自分はおろか人の気持ちに気付いてしまうからこそ。これまで辛い思いをしたのかもしれない。その分、ゲームでは、心理戦に勝てたのかもしれない。一人孤独に戦い続けるトッププレイヤー・ウメハラの生きざまが垣間見えたインタビューでした。
ゲーム中毒で恥ずかしい、と思っていた自分が世界一に
―プロゲーマーとなったきっかけは何でしたか?
Mad Catzっていうアメリカの会社がスポンサーについてくれたことです。
ゲームに初めて触れたのは10歳、11歳ぐらいでした。そこから、のめり込んで15歳ぐらいの時に全国大会とか当時、日米対決といわれている試合で勝ったりして名前は売れていました。
ただ、仕事にならない世界だったんで、22歳の時に、毎年夏にラスベガスで開かれる世界大会の「Evolution Championship Series(通称EVO)」に出たらゲームを止めよう、と決めて出場して、そこで優勝した後は完全にゲームから離れたんです。アルバイト先の同じ年の同僚たちが22歳で就職を機にアルバイトもゲームもやめていくのを見て愕然としたんです。「あぁそうか、社会に出るってこういうことか」と。自分も本当になんとかしなきゃいけない。今ゲームを止めないと、人生本当にどうにかなってしまう、って。かといって、自分には学歴もなければ、特別なスキルもなく、自分の人生をどう設計したらいいかなんて、考えることすらできず、ただただ不安でいっぱいでした。
でも数年後に、新しいタイトルが出て、思いも寄らない大きな転機を迎えるんです。ゲームを止めてから4年近く、一度もゲームセンターに足を踏み入れなかったんですが、「10年ぶりの新タイトルだ、一回だけでもやってみるべきだ」という友達の執拗な誘いもあって断りきれずにゲームセンターでゲームをしてみたら「Daigo(※)が帰って来たぞ」みたいな感じで海外で大騒ぎになった。「あのDaigoが帰ってきたんだから、ゲームイベントに招待しよう」ということになったようで、日本とアメリカと韓国のチャンピオンが一堂に会して戦うっていうアメリカで開かれたイベントだったんですけど、そこに特別に追加で呼んでいただいて、3か国のチャンピオンと自分の4人で、リーグ戦をやって勝ったら、今度はその年の夏のEVOに招待いただいたんです。
当時は介護職員だったんで、お休みをいただいて参加をしたんですが、勝ってしまったんで、また仕事を休んで世界大会に出場するという状況でした。ゲーム好きたちが「ブランクがあっても優勝するなんて、アイツはすごい!」って盛り上がってくれたのを見ていたMad Catzが僕のゲームを離れた理由や生活のことを気にして、話を聞いてくれて「それなら自分たちがサポートするから一緒にやってみないか」とスポンサーになってくれました。
※海外ではDaigoと呼ばれている
―プロゲーマーになることに対する不安はありましたか?
介護の仕事を辞めて別の道に方向転換するのが怖いとか、日本では前例のないプロゲーマーという仕事だから不安だということは、ありませんでした。
初期投資も一切なくて、身一つでやる仕事なんで、金銭的なリスクもないし、人材不足の介護職にも戻ろうと思えば戻れると思ったんで、キャリアを諦めるというようなリスクもなかったんですね。
はたから見ると、輝かしい戦績ではあったんですけど、仕事にならないことだったんで、「ゲームを止めなきゃ、一体いつ自分はゲームを止められるんだろう」って、最初に全国大会優勝した15歳ぐらいからずっと葛藤していました。全国大会で優勝したことで有名になって、自分は特別な存在かのような気分になれたけど、それが自分の将来をむしばむというか。
いくらゲームがうまくても、社会では一切役に立たないことだし、いつか終わる娯楽だから“ゲームを止めなきゃ、止めなきゃ”って思いつつ、ゲームのコミュニティは楽しい場所だったし、やりがいもあったから、止められずにいる状態が続いていたので、「ゲーム中毒になっちゃっていて恥ずかしい」というような気持ちもあったんですよね。
ーなぜ、プロゲーマーになる道を選んだのですか?
もし自分みたいな人間が何かを成し遂げることができるとしたら、ゲームしかないだろうなっていう確信があったからです。
ゲームから離れてからは、生きていく手段が分からず、プロを目指して麻雀をしていました。2年半から3年ぐらいかかって、ようやく芽が出てきて、「この世界でもやっていけそうだな」と思ったのですが、色々あって、そこから1年ぐらいで辞めて、飲食店で働くとか色々な仕事をしてみたんですけど、とにかく社会に馴染めなくて苦労したんです。その頃は仕事もできないし、ゲームをしていた頃に味わっていたような特別感は全くなくて、自己肯定感が下がる一方の生活でしたね。
でも、20代後半ぐらいで介護職に就いてから、ようやく社会一般の“まっとうな感覚”に慣れてきたというか、例えるなら、それまではもう“油ギトギトで濃い味付けの食事じゃないとダメだった人間が薄味でも満足できるようになったという感じ”でした。
だから、最初にプロになるオファーを頂いたときは、ありがたいという思いよりも先に「せっかく一般社会に慣れてきたのに」っていう感じがあったんですよね。社会人としてやっていかなきゃいけない!という想いではなくて、一般社会で生きていくことが本当に苦痛だったんです。小さなころから集団行動や、きっちり決まったことをやっていくってことが苦手なんですけど、社会に出ると、それを求められる。だから、当時は自分は根性なしだとか、だらしがないんだとか思って、自分を責めていました。でも、ある程度時間が経って視野が広がってきたら、自分が悪いということもあるけど、生まれつきの性質で、自分は集団行動に向いていないと気付いたんです。自分みたいな人間からすると、集団行動が得意な人もいれば苦手な人もいるのに、全員が一緒くたにされて、みんなそうなるべきだ、っていうところに身を置かなくちゃいけなかったのが、不幸の始まりだったと思うんですよね。今考えると、ずいぶんと長いこと、自分を責め続けていたと思います。
ただ、初めてその一般的な仕事で「介護職だったら何とかやっていけるな。あぁ良かった。これはきっと、長年のリハビリの効果だろう」と思いながら、毎日淡々と平穏な生活をしていたんですけど、そこにまたゲームっていう刺激物に触れてしまうと、せっかく築き上げた生活が台無しになってしまうんじゃないかと不安がよぎりました。
だから、ゲームの世界でうまくいくかどうかは別として、またどっぷりゲームに浸かってしまったら、“社会に馴染めるようになるまで、また時間をかけることになってしまう”というのが、一番の恐怖だったんですよ。
プロゲーマーの仕事が、うまくいくかどうかについては、「どうせ、うまくいかないだろう」と思っていました。ただ、一方で「うまくいかない可能性の方が高いけど、もし自分みたいな人間が何かを成し遂げることができるとしたら、それはもうゲームしかないだろうな」っていう確信もあったので、葛藤しましたね。
今は“eスポーツ”と呼ばれ、社会に受け入れられていますけど、当時は、本当にゲーム好きは社会と遮断されているような、やっちゃいけない趣味をしている人みたいな扱いでした。自分がプロになる頃には、そういう風潮が少し薄れ始めていたとはいえ、10代の頃は本当に人に言えない趣味だったんで、知り合いには内緒でゲーム好きが集まるというようなコミュニティでしたし。
―久々にゲームをしてみた時は、どういう感覚だったのですか?