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やりたいことを公言し続ける。元プロ野球選手・小林至の、仕事を引き寄せる方法

誰もが抱いている、夢や願望。

でも「できる自信がない」「どうしたら実現できるのか分からない」と自分の中に閉じ込め、諦めてしまう人もいるのではないでしょうか。

今回お話を伺ったのは、元プロ野球選手のスポーツ科学博士・小林至さん。

小林さんは「史上3人目(1992年当時)の東京大学出身のプロ野球選手」として注目され、千葉ロッテマリーンズで2年間プレー。引退後はコロンビア大学経営大学院でMBAを取得し、現在はスポーツ科学博士としてさまざまな活動をされています。

そんな小林さんは、つねにやりたいことを公言し続けてきたからこそ、今の自分がいると言います。

今回は、小林さんの人生を振り返るとともに、好きなことを仕事にする上で大切なことを伺いました。

<プロフィール>
小林至(こばやし・いたる)さん
1968年生まれ、神奈川県逗子市出身の元プロ野球選手。

神奈川県立多摩高校を卒業後、東京大学経済学部経営学科へ進学。同大でエースとして活躍したのち、練習生を経て、1992年に千葉ロッテマリーンズにドラフト8位で入団。翌年に自由契約となり、現役を引退。

渡米の後、コロンビア大学経営大学院修了(MBA取得)。

1996年、フロリダ州のケーブルテレビ局「ザ・ゴルフ・チャンネル」に入社。通訳、翻訳、解説に従事。2000年、同社を退社し帰国。

2001年、参議院議員選挙に東京選挙区から立候補するも落選。2002年、江戸川大学社会学部助教授就任、2006年に同教授に昇格し、今に至る。

2005~2014年、福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役、福岡ソフトバンクホークスマーケティング株式会社取締役を兼務。

2019年、スポーツ科学博士の学位を取得。

たった3カ月で偏差値を30上げ、東京大学に入学。そしてプロ野球へ。何事も、コツさえ掴めば一気に伸びる

ー元プロ野球選手であり、これまで江戸川大学教授や福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役を務めるなど、さまざまな活動をしてきた小林至さん。現在に至るまでの経緯を教えてください。

小林さん
野球を始めたのは小学校の頃だったと思います。1970年代中頃で、当時、男の子は野球をやることが当たり前の時代でしたので。

中学校は野球部がなかったので、卓球部に所属していました。高校では絶対に野球をやろうと、進学した神奈川県立多摩高校では入学と同時に野球部に入りました。

当時の多摩高校は決して強いチームではなかったので、甲子園に出場することは叶いませんでした。

ただそれ以前に、私はチームのレギュラーを獲得することもできませんでしたから、甲子園どころではなかったですね(笑)。

ですから当時はプロ野球選手になることなんて、夢のまた夢でした。

ーでは、高校生活を終える時点で野球への情熱は冷めてしまったのでしょうか…?

小林さん
大学で活躍して、高校でレギュラーになれなかった悔しさを晴らそうと思いました。野球で負った傷は野球でしか癒やせませんから(笑)。

とはいえ、高校でレギュラーになれないようでは、早稲田や慶応などの強豪校へ行っても試合に出られるチャンスはない。

そう考えていた私は、強豪ではありませんが、当時は全日本大学野球選手権に出場するなど力をつけてきていた大阪大学を目指すことに決めたんです。

ですが、2年半野球漬けの生活を送ってきたため、大阪大学に受かるまでの学力を身につけるにはあまりにも時間が足らず、大学受験はあえなく玉砕。浪人生活がスタートしました。

そこで私は、こう思ったんです。

「浪人するんだったら、東京大学を目指そう」と。

小林さん
高校の時と違って勉強する時間はありますし、なにも大阪大学にこだわる必要がなくなった。それにやっぱり、東京大学はなんといっても花の東京六大学ですからね。レギュラーを獲得できるチャンスがあるな、とも思ったので。

それからは予備校に通いながら必死に勉強しました。

通った予備校の先生は多士済々で、本当に多くのことを学びましたが、そのなかで、1つの問題に対して脳みそがちぎれるぐらい考える、2〜3時間考えて、それでも分からなかったら答えを見る。このやり方を繰り返したところ、2~3カ月もすると、問題がどんどん解ける実感がわいてきました。

そして迎えた夏の東大模試では、まさかのA判定でした。現役のときは偏差値が40台でしたから、半年もしないうちに偏差値が30以上も伸びたことになります。

野球もそうですが、何事も、とどのつまりはコツを掴むことなんですよ。

2005~2014年まで、福岡ソフトバンクホークスで仕事をしていたのですが、王貞治さんはじめ、秋山幸二さんなど、野球の世界で超一流となった方と仕事をご一緒しまして、これは実感です。

練習には、無理、無茶、ガムシャラな努力で量をこなす必要もあれば、徹底的に考えながら質を重視する必要もあります。ですが、全てはコツを掴むためのものであると。

人によっては「暗記が全てだ」という人もいますが、私の場合は「自分で理解できるまでひたすら考え抜く」方法を取り入れていました。

ーただ勉強するだけではなく、いかに自分の中でコツを見つけることができるか。これが重要なわけですね。その後、無事に東京大学に受かることはできたのでしょうか?

小林さん
はい。一浪の末、東京大学に合格することができました。

入学後、すぐに野球部の門を叩きました。大学2年時からリーグ戦に出場し始め、4年時にはエースとしてマウンドに立つことができました。

試合で1勝も挙げられなかったのは残念でしたが、東京六大学という舞台で、エースとしてチームを背負ってマウンドに立つことが出来たのは本当に嬉しかったですね。

ー先ほど、高校まではプロ野球選手になろうという気持ちがなかったと仰っていましたが、東大でエースを勝ち取ったことで、その想いに変化はありましたか?

小林さん
ありましたね。東京大学のエースになったことで、またさらに野球が楽しくなり、「もっとプレーしたい」という想いが日に日に強くなりました。

それから「プロに行きたい」という話を周りにするようになったんです。

すると、その話が巡り巡って、千葉ロッテマリーンズ監督の金田正一(当時)さんの耳に届き、「そんなに本気でプロに入りたいということなら、入団テストをしてあげよう」と声をかけていただきました。

そして、入団テストを受けて合格した私は、1992年にドラフト8位で同チームに入団し、本当にプロ野球選手になることができてしまいました。

ープロへの想いを公言したことが、その夢を引き寄せることにつながったのかもしれませんね。実際にプロ野球の世界に入ってみて、いかがでしたか?

小林さん
やはり、プロの世界では全く通用しませんでした。

球速やボールのキレを含め、あらゆる面で実力が足りないなと感じました。

結局、1993年のシーズン終了後に戦力外通告を言い渡され、1度も1軍の舞台で登板することなくユニホームを脱ぐことなりました。

ですが、この2年間は私にとってとても貴重な経験でもありましたし、今でも「元プロ野球選手」としていろいろなお話をいただけることは、本当に嬉しいです。

やりたいことを公言し、好きな仕事を引き寄せる。小林至が実践してきた、新しい道を拓き続ける方法

ー引退後はどうされたのでしょう?

小林さん
コロンビア大学の経営大学院に入学しました。

理由としては、1度は海外に行ってみたかったというのと、進路について相談した複数の方から「どうせ海外に行くんだったら、学位を取ってきたら?」とアドバイスを受けたことが挙げられます。

加えて、現役を引退してから漠然と「将来的にプロ野球球団の経営者になりたい」と思っていたことも動機の1つですね。

それで、経営学を修めたものに対して授与される専門職学位「MBA」の取得を目指し、コロンビア大学への進学を決めたんです。

試験勉強はかなり苦痛でしたが、浪人時代に勉強のコツを掴んでいたのでしょう。成績は短期間で伸びまして、アメリカの大学に留学するために必要なTOEFL、MBAの入学適正試験のGMATともに合格ラインをクリアすることができました。

1996年には大学院を修了し、無事にMBAを取得しました。

ープロに入って勉強からは遠ざかっていたはずなのに、すごいですね(笑)。大学院を修了されてからはどうされたのですか?

小林さん
2000年末まで、フロリダ州のケーブルテレビ局「ザ・ゴルフ・チャンネル」に就職し、通訳・翻訳・解説などをしていました。

コロンビア大学時代を含めると、計7年間アメリカに住んでいましたね。

日本に帰国してからは、2001年に当時の自由連合党首・徳田虎雄さんからお誘いをいただき、落選してしまいしたが、参議院議員選挙に立候補もしました。

2002年には、「大学教授になりたい」と周囲に相談していたところ、その話を耳にした江戸川大学の学長が同大学の助教授として招いてくださったりと、さまざまなことがありました。

そして、2004年に大きな転機が訪れました。

大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブが合併する「プロ野球再編問題」です。

研究者としてのキャリアをスタートしていた私は、この出来事をもとにプロ野球の経営を分析する学術書を書こうと思いました。

そこで球界に強い影響力を持つ読売新聞グループ本社代表取締役の渡邉恒雄さんにお話を伺おうと、同社に取材を申し込んだところ、断られてしまいました。

当時は、プロ野球再編問題に関しては渦中の方であり、かつ、政財界にも強い影響力を持つような方ですから、インタビューに応じないのは当然のことなのですが、あのときはなんとなく、自分の本気の思いを伝えれば、取材を受けてくださるような気がしました。

「お前がプロ野球選手?」と笑われながらも、臆せず公言し続けた私に、金田正一さんがチャンスをくれた経験も、頭の片隅にはありました。

そして「渡邉さんは、本人宛の手紙は必ず目を通す」という、真偽のほどは全く分からない噂を頼りに、2日間徹夜して、手紙を書きました。

取材したい旨とその想いを綴ったその手紙を送ったところ、本当に取材を受けてくださることになったんです。

2時間もインタビューにお付き合いくださり、本当に感激しましたね。

ー想いを伝えようという小林さんの熱意や行動力が、取材の実現につながったんですね。本の反響はいかがでしたか?

小林さん
あまり売れませんでしたね。内容は、自分で言うのもなんですが、良書だと思いましたし、実際、発刊から15年経た今でも、球団経営に携わる方は、必ず一読するという、手前味噌ですが、球団経営のバイブル的な位置づけになっているのですが、売れ行きは伸びませんでした。

想像しますに、当時のマスコミの論調とは一線を画していたこともあるかもしれませんし、『合併、売却、新規参入…たかが、されどプロ野球』というタイトルも、いかがわしいと感じられてしまったのかもしれません。

それはそれとして、このあと、劇的な展開がありました。

渡邉さんは、この本の内容をとても高く評価してくださいまして、300冊購入してくださったばかりか、政治家や経営者など、たくさんの知り合いに配ってくれました。

その中の1人が、ソフトバンクグループの創業者である孫正義さんでした。

2004年末、孫さんの秘書から電話があったときはびっくりしました。孫さん率いるソフトバンクが、ダイエーからホークス球団を買収することを発表してほどなくしてのことでした。

野球について色々と勉強したいから、会って話をしたい旨の連絡をいただきました。嬉しかったですよ。あの孫さんですからね。

そして年明け早々、お会いして、2~3時間、ざっくばらんにお話した後、「ホークスの経営を手伝って欲しい」というオファーを頂きました。

ーその日にですか!?(笑)。

小林さん
はい(笑)。私も驚きました。

スポーツビジネスの研究者は当時でも沢山いましたが、英語が話せるという点と、MBAを持っていることを非常に評価してくれたんです。

そしてその瞬間、コロンビア大学に入学する理由の1つであった「プロ野球球団の経営者になりたい」という夢を、MBAを取得してから9年越しに叶えることができました。

正直、コロンビア大学時代は、MBAというものを全く理解していなかったんですよ。

MBAは修士号という学位ではありますが、取得する目的は、99.9%の人にとってはキャリアアップです。

有名大学でMBAを取得して、ゴールドマン・サックスなどの世界的な外資投資銀行に就職することを夢見る人たちがほとんどという世界です。

ところが私は、そのゴールドマンの存在すら知らなかったほど何も分かっていなかった。在学中もようやくその名を知ったくらいで、英語がうまくなればいいやと、ゴルフをして遊んでいたんですよ(笑)。

大学院修了後も、MBAを必要としない英語の通訳や翻訳の仕事に就いたりしましたから。

MBAとはなんぞやということは、卒業してしばらく発って、各地から友人たちの活躍ぶり、というか稼ぎぶりを聞いてからです。

「そうか、そういう世界への切符を手に入れるための場所だったんだ」と。

もちろん知っていたところで投資銀行に行ったかどうか、それは分かりませんが、世界を実質的に動かしているウォール街で働くとはどういうことか、覗いてみたかったですよ。

その後悔は、MBA取得後の9年間も、今でもありますね。

もちろん覆水盆に還りませんので、そんなことを言っても詮無いことですが、孫さんに、ホークスの取締役として声を掛けていただいたことで巡り巡ってMBAを活かすことができた気がします。

ーお話をお聞きしていると、プロ野球選手になれたこと、江戸川大学の教授になれたこと、そして孫さんからお声がけいただいたこと、その全てが、これまでやりたいことを公言し続けてきたからこそ実現できたことなのかなと思えます。

小林さん
確かにそうですね。

何かやりたいことがあっても、実際に言葉にし、行動しなければ、誰も知ってくれませんよね。

当たり前のことですが、人は1人では生きていくことは出来ず、必ず誰かの協力が必要になります。つまり、他人に自分の考えを知ってもらうことなしに、前に進むということはあり得ないことです。

だからどんな世界でも、自分から発信することはとても大切なことだと思いますね。

選手たちに徹底的に歩み寄る。王貞治会長から学んだ「人に動いてもらう」ために必要なこと

ーホークスには2005〜2014年まで10年間、経営に携わられていますが、具体的にどのようなことをされたのでしょう?

小林さん
私は経営企画・編成育成・広報担当など、さまざまな役職を兼任しながら仕事を行ってきました。

その中でも特に大きな成果として挙げられるのが、2011年に、プロ野球史上初の「3軍制度」を導入したことですね。

従来、日本のプロ野球には、ファーム組織は1つしかありませんでした。いわゆる2軍ですね。

しかし2軍は、選手の育成には必ずしも適した場所ではありません。何かあれば1軍に呼ばれるレベルの選手の調整が大きな役割ですからね。中長期的かつ計画的な選手育成には3軍あるいは更にその下が必要なのです。

実際、MLBはどのチームも最低7軍、300人以上の選手を抱えています。そこで、ホークスは、選手数を従来の70人前後から、3軍を創設して90人に増やすことにしました。

この3軍制度を導入することになって、ドラフトで指名する選手の数を一気に増やしたのが2010年のドラフトで、柳田悠岐、甲斐拓也、千賀滉大、牧原大成と、現在のホークスの主力4人がこの2010年組です。

柳田、甲斐、千賀は、ホークスの主力であるばかりか日本代表です。このなかで、柳田は2位指名ですので、ホークスが取らなければどこかが取っていたでしょうが、千賀、甲斐、牧原は、いずれもホークス以外、指名の意思を表明していた球団はありませんでしたから、3軍制度を始めていなければ、進路は大学か社会人になっていた選手です。

導入を提案した当時は、それまで前例のないことでしたので、球団内からも本社からも戸惑いの声が多く聞かれました。「大丈夫かよ?」と。

そこを救ってくれたのが、王貞治会長でした。

私がいくら理を唱えても、「う~ん、そんなの日本で本当に必要なの?」「それよりもスーパースターを獲得する方が手っ取り早いのじゃないの?」「金の使い方間違っていない?」などの懐疑的な意見が少なくない中、孫オーナーとの御前会議でも、「こういう制度は必要です」と。

「野球の神様がそう言うなら」と孫さんも、ニッコリでした。

この3軍制度の創設は、手前味噌ですが、ホークスがこの5年で日本一に4回輝いている原動力のひとつだと思います。

やってみればMLBでもやっているし、あって当たり前のことなのですが、そんな当たり前も前例がない新たな試みの段階ではいくら合理的な説明をしても、多くの人が懐疑的になるのだと思います。

孫さんがよくおっしゃっている「“いかがわしい”は誉め言葉だと思え」というのは本当にそうだと思います。

この点においても、王会長には心から敬服しています。だって、数々の栄光に彩られた人生をお過ごしになり、ご自分の時代になかったような新しいものを受け入れる必要もないなかで、「やってみればいいじゃないか」と、チャレンジを後押ししてくれたのですから。

ー王さんは監督時代も、自ら選手に歩み寄り、つねに選手たちとコミュニケーションを取っていたとお聞きします。小林さんにとって、そういった王さんの存在はとても大きかったのではないでしょうか。

小林さん
そうですね。

王さんからはいろいろなことを学びましたが、特に「人に動いてもらう」方法は、経営に携わる立場としてはとても役に立ちました。

世の中には経営に関するリーダーシップ論の本がたくさん出ていますが、重要なのは結局、「人がついてきてくれるかどうか」だけなんです。

王さんはその点においても、卓越したリーダーシップをお持ちだったと思います。特にホークスの監督時代は、野球をするのは選手である、という方針を徹底していました。

そのために、選手に歩み寄り、やる気を引き出していた様子を見ていました。

王さんは、野球を知らない人でもその存在を知っている偉人ですが、野球界では神様ですから、選手たちはみんな萎縮してしまうわけですよね。

巨人の監督時代は、それでだいぶ苦しんだそうです。王さんが選手のために、選手が育つようにと、叱咤激励を繰り返しても、選手からするとそれが出来るから王さんなわけで、「俺たちには無理、理想が高過ぎて理解できない」という距離がどうしてもあったと言います。

それがホークスの監督のときには、「なぜ出来ないんだ」から「出来るようになるためにはどうするか」に考え方を変えたそうです。

そのための方法が、選手に歩み寄ってコミュニケーションをとることができるか、どうすれば主役である選手の力を最大限に引き出してあげられるか、ということを常に最優先するということだったと。

そんな王さんの姿勢に選手たちは感激し、「優勝して監督を胴上げしよう」と必死になってプレーしていました。

そういった王さんの姿勢・考え方は、私はまだまだ足元にも及びませんが、こういうヒトになりたいといつも思っています。

ーあれほど偉大な方でも、野球で言えば選手、企業で言えば社員と同じ目線で接してくれるとなれば、誰でも「ついていきたい!」と思いますよね。さて、『アントレ』の読者には独立・起業など新たな道に進もうとしている方が多くいらっしゃいます。そういった方々に向けて、最後にアドバイスをいただけますか?

小林さん
はい。もし今、本当にやりたいことがあるのでしたら、すぐに行動に移すべきだと思います。

年齢を重ねれば重ねるほどチャンスは狭まりますから。

まだ若いうちにやっておいた方が、たとえ失敗したとしても、その経験やノウハウが蓄積されて、その後の人生に活かされますしね。何年後かに振り返った時に「やっておいて良かった」と必ず思うはずです。

だから今、思い描く夢や目標があれば、すぐにチャレンジすることをおすすめします。

(取材・文=佐藤主祥 https://twitter.com/kazu_vks

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1971年。

今から48年前、日本を代表する人気コンテンツ『仮面ライダー』が産声を上げた年です。

『仮面ライダー』の制作に携わり、現在に至るまで様々な映像作品・舞台などで主にアクションの側面から人気コンテンツを支えてきた会社が、株式会社ジャパンアクションエンタープライズ。

今回は同社の代表取締役社長・金田治さんにお話を伺いました。

特撮界の巨匠として、数々の作品に携わってきた金田さん。

今回は金田さんがアクションの世界に入った理由から、作品作り・後続育成をする上で大切にしているものを伺いました。

<プロフィール>
金田治さん
株式会社ジャパンアクションエンタープライズ代表取締役社長

21歳の時に千葉真一さんが立ち上げたジャパンアクションクラブに入門し、その後アクション俳優、スタントマンとして活躍。

現在は株式会社ジャパンアクションエンタープライズ代表取締役社長を務める傍ら、テレビや映画で監督として活躍を続けている。

『特捜ロボジャンパーソン』で監督デビュー。『仮面ライダー電王』『仮面ライダー鎧武』などの仮面ライダーシリーズ、『特命戦隊ゴーバスターズ』などのスーパー戦隊シリーズほか、さまざまなアクション作品の監督を務める。

巨匠・金田治が、アクションの世界へ踏み出した意外な理由

―仮面ライダーシリーズやスーパー戦隊シリーズを始め、多くのアクション作品の監督を務めている金田さん。もともとはスタントマン、アクション俳優だったそうですが、なぜアクションを志したのですか?

金田さん
最初のきっかけは、ズバリお金が欲しかったからです(笑)。

高校を卒業して進路を考える頃、大学に行って勉強するのは嫌、会社員になって働くのも嫌だったので、専門学校に進学することを口実に東京へ出てきました。

専門学校に行きながらアルバイトで食いつないでいたある時、兄がエキストラの仕事をしていた関係で、千葉真一さんが主宰する「ジャパンアクションクラブ」(以下、JAC)の存在を知りました。

幼い頃からテレビも映画もあまり見てこなかったので、正直良くわからなかったのですが、なんでもアメリカのハリウッド映画でアクションをこなすスタントマンは、1回のアクションで何十万円ももらえるらしいと聞きまして。

「スタントマンていうのはお金になるのか!」と思い、兄に紹介してもらい21歳でJACの門下生となったのがきっかけです。

―なんというか、ものすごい生々しい理由でアクションの道に進まれたのですね…(笑)。

金田さん
当時の僕は、特に「将来何になりたい、こんなことがしたい」みたいな目標がなかったんですよ。

とりあえず大金を稼げる方法としてスタントマンの仕事があった。だからそれに挑戦してみた、という流れです(笑)。

―そしてその流れが現在にもつながるわけですが、JAC入所当時はどうでしたか?

金田さん
入所してから東映のテレビや映画のアクション、藤岡弘さん演じる「仮面ライダー1号」のトランポリンアクションなどに出演してました。

当時は実際に藤岡さんご本人が仮面ライダーのスーツを着ていたのですが、トランポリンを使うアクションの時はスタントマンがスーツアクターを演じていたんですよ。

真夏の撮影で、汗だくになりながらも必死でしたね。当時は僕も駆け出しでしたから、諸先輩方に怒られながら経験を積んでいったんです。

―やはりアクションの道は生易しいものではなかったんですね。それでも大変な分、当初の目的通りお金を稼ぐことはできたのではないですか?

金田さん
それが意外と稼げなかったんです。やはりアメリカと日本の制作予算の差なんですかね、想定外でした(笑)。

お金がちゃんと稼げていないことに疑問を感じつつも、とにかく多忙を極めていたので仕事に没頭していました。

―大変な現場を任されていたのにも関わらず、収入が伴わないのであれば、いっそ辞めてしまうという選択肢もありそうですが、なぜ続けられたのでしょう?

金田さん
んー…、なんとなく周りに流されてしまって(笑)。

たしかにおっしゃる通り、過酷な現場で当時はまだ薄給でしたから、僕より先に入った先輩たち、特に家庭を持っていた方の多くは辞めてしまったんです。

JACに入った仲間内では、僕が年長者だったこともあり、気がついたら同期や後輩の中で僕が1番年齢が上になっていました。

知らず知らずのうちに、みんなが「かねさん、かねさん」って慕ってくれるようになってからは、もう辞めるに辞められなくなってしまって。本当はお金がもっと稼げるところに行きたかったんですけど(笑)。

ちょうどその頃『ロボット刑事』という作品で主人公のスーツアクターを担当することになり、当初の期待とは程遠いものの、徐々に安定してお金も稼ぐことができるようになっていきました。

アクションはあくまで、表現の1手段。芝居を最優先に考える“金田イズム”

―アクション俳優・スタントマン・スーツアクターとして活躍し、JAC内でも頭角を現していった金田さんですが、監督業を始められたきっかけは?

金田さん
JACに入所してから4年ほどでしょうか。『正義のシンボル コンドールマン』という作品で初めてアクション監督(技斗、殺陣師)としてデビューしました。

最初は見よう見まねでしたね。これまでの撮影でアクション監督がどういった仕事をしてきたかを思い出しながら、自分なりに考えて。

その後アクション監督を務め経験を積み『特捜ロボ ジャンパーソン』で監督デビューしました。

『ジャンパーソン』の後は『重甲ビーファイター』や『仮面ライダークウガ』から始まる、平成仮面ライダーシリーズを中心に、監督として作品作りに携わってきました。

―監督業の傍ら、1996年にはJACの代表取締役に就任、2001年には「株式会社ジャパンアクションエンタープライズ」(以下、JAE)に社名を改称します。経営者としての仕事もされている金田さんですが、JAEとはどんな会社なのでしょう?

金田さん
主にアクション俳優、スタントマンのマネジメントをしており、会社全体では140名ほどが在籍しています。

ありがたいことに映画やドラマといった映像系の仕事から、舞台やライブといった各方面からお仕事をいただいております。

加えて、アクション俳優・スタントマンを育成する養成所(JAE養成部)も運営しています。現在第一線で活躍する俳優たちのマネジメントと、次世代に活躍する新しい才能を育てるのが会社の主な役割ですね。

―金田さんが作品を作る時、もしくは経営者として次世代の才能を育てていく時に心がけていらっしゃることがあれば教えてください。

金田さん
僕は、アクションとはあくまで「表現の1つの手段に過ぎない」と思っています。

作品作りにおいても「ただアクションがかっこよければいい」というわけではなく、より根幹の「芝居」の1表現としてアクションが成り立つと、考えているんです。

JAE養成部では主にアクションを中心に勉強するわけですが、そもそも前提として「芝居」ができなければ意味がありません。

作品作りも育成も、アクションの根底にある「芝居」は特に意識していますね。

―「芝居」を最優先に考える“金田イズム”が浸透しているからこそ、JAEには素晴らしい俳優さんが募るんですね。

金田さん
そうだといいですね(笑)。

映像作品や舞台、ライブなど様々なお仕事に、ウチの所属する俳優たちを呼んでいただける理由が、そのスタンスと技術を評価してくださってのことなら、とても嬉しいですね。

僕は顔を出す俳優も、スーツアクターやスタントマンとして顔を出さない俳優も、カメラの前に立ったら同じ「役者」だと思っています。

役者である以上、芝居をする。アクションの奥にある、感情や想いを伝えられる作品を1つでも多く作っていきたいですね。

何が自分に向いているかなんて、分かっている人の方が少ない

―金田さんがこれから挑戦したいものを教えてください。

金田さん
スタントマンによる「アクションライブパフォーマンス」を現在構想中です。

映像作品においてCGの技術が発達し、昔ほど生身の人間のアクションが重要視されなくなった現在だからこそ、俳優たちが全力で演じ、派手なアクションを魅せるという試みに挑戦したいんです。

映画の1シーンで見るような迫力のあるアクションを、生で見られる舞台をこれから作っていきたいですね。

―これから何かにチャレンジしたいと思っている読者へ、メッセージを頂けますか?

金田さん
その都度その都度で、やりたいことがあったらやってみるのが1番だと思います。

僕はJAEに所属する俳優たちやスタッフたちに対して、その人自身が最も活躍できる場所を作ってあげたいと思っています。

例えば今、俳優をやっている人はもしかしたら後続の指導に向いているかもしれないし、作品作りのアクション監督、演出家、監督に向いているかもしれない。

何が自分に向いているかなんて、意外と当人は分からなかったりするものなんです。だからこそ周りにいる人が、その人にいろんなチャンスを与えてみる。

僕自身、アクション俳優をやってみたり、監督をやってみたり経営者をやってみたり。周りにいた人たちにいろんな誘いをいただいたから、今こうしているんです(笑)。

自分が昔そうだったように、僕もまた誰かにいろんなチャンスを与えられる人でありたい。

だからこそ「何かをやってみたい」と思ったら、行動を起こしてみる。周りの人に勧められて気づくこともあれば、自分で行動を起こして気づくこともある。

少しずつでも活躍の場所が広がっていけば、自ずと自分の進むべき方向も分かってくるんじゃないでしょうか。

2019年6月13日

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