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ビリギャル第2章、始動―。「ビリギャル」小林さやかさんが起業する理由

2017年11月29日

2013年に書籍化、2015年には映画化も果たし一世を風靡した「ビリギャル」。

学年ビリのギャルが偏差値を40上げて慶應義塾大学に合格したサクセスストーリーは、多くの人に希望を与えてくれる作品となりました。

そんな「ビリギャル」のモデルとなったのは、小林さやかさん。

慶應義塾大学を卒業した後は、ウェディングプランナーとして就職。「ビリギャル」の本・映画と人気を博したことで、講演の依頼を受けるようになりました。

そして2017年「今しかできないことに挑戦」するために「ビリギャル」を卒業し、起業を果たします。

今回は小林さやかさんに、「ビリギャル」ヒットのその後のお話や講演活動・それに伴う学校教育の課題について、そして起業に至るまでの経緯をお聞きしました。

<プロフィール>
小林さやか

坪田信貴著『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』の主人公「ビリギャル」本人。現在29歳。

自身の経験を活かして、現在は全国の中高生や親御さまを中心に講演活動を行うなど、幅広く活動中。2017年10月には、クラウドファンディングにも挑戦、見事達成し、結婚式場を貸し切ったイベントの開催なども行った。

また、独自の熱い子育て論を持つ母(通称ああちゃん)と『ダメ親と呼ばれても学年ビリの3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話』を共著で出版。

「失敗作」だと言われた母の教育は、決して間違っていなかった

―さやかさんと言えば、やはり「ビリギャル」の実話モデルになった人というイメージが強いですが、「ビリギャル」が人気を博して以降、何か変わったことはありましたか?

小林さやかさん(以下、さやかさん)
いきなり生活がガラリと変わるようなことはありませんでしたね。

書籍化されたのが2013年末のことだったのですが、当時私は26歳でウェディングプランナーの仕事をしている普通の会社員でした。

しかし「ビリギャル」が映画化される頃には、全国から私に「講演をしてほしい」という依頼が舞い込むほど、反響も大きくなっていきました。

ちょうど自身の結婚も重なったことを機に、会社を辞めてフリーランスとして仕事をするようになったんです。以前と比べて変わったことというとそれくらいですかね(笑)。

―ご本人的にはフリーランスとしての仕事がウェディングプランナーの他に、講演活動が増えたくらい、という実感なんですね。さやかさんの周りの人はどうでしょう?

さやかさん
「ビリギャル」が有名になって、私の母の教育について知りたい、という声をいただくことが多くなりました。

「ビリギャル」劇中でも描かれていますが、私の家は3人兄妹で、3人ともいろいろあったので、周りの人から母があまやかした結果の「失敗作」だ、と言われることもありましたから。

―「失敗作」とは、強烈な批判ですね…。

さやかさん
私は学年ビリのギャルでしたし、野球一筋だった弟は父のスパルタ教育に耐えられなくなって非行に走ったこともありますし、6歳下の妹は不登校だった時期がありました。

それでも私の母は、周りの人からどんな批判を受けようとも、私たち3人を信じ続けてくれました。

その結果、私は慶應義塾大学に無事受かることができましたし、弟はちゃんと更生して就職をし、とてもいい奥さんと2人のこどもに恵まれて幸せに暮らしています。

そして妹はニュージランドに留学後上智大学に入学して、今では一社会人として立派に働いています。

それに加え「ビリギャル」が有名になったことで、私たちと一緒に困難を乗り越えてくれた母の教育に、耳を傾けてくれる人が増えました。

「失敗作」だと言われた母の教育は、決して間違っていなかった、と周りの人から認められた気がして、素直に嬉しかったですね。

―ずっとさやかさんたち3人を信じ続けた、お母さまの教育とは、どんなものなのでしょうか?

さやかさん
私の中でお父さんやお母さんって、「勉強しなさい!」とこどもに言っているイメージがあるんですが、私の母はその対極だったと思います。「勉強しなさい」なんて一度も言われたことありません。

母はよく、私たちに「自分が”ワクワクできること”を見つける力を持ってほしい」と言っていました。

私は、坪田先生に出会ったときに「こういう面白い大人になりたい!」と思って、そこから「東京に行ってみたいな」「慶應義塾大学に行ってみたいな」と、”ワクワク”したんです。

その時に初めて、母がずっと言っていた「”ワクワクできること”を見つける」という教えを理解できました。

そしてその教えは、今の人生にも大きく影響しています。

こどもたちはもちろん、大人も”ワクワク”するかどうか、すなわち「動機づけ」が全てだなって思うようになったんです。

こどもの”ワクワク”を見つけて、サポートする。今の教育現場に必要な”動機づけ”

―何のためにやるのか。動機づけは、自分の行動の理由であり軸ですからね。強力な動機づけがあると、それだけ強い行動力に直結します。

さやかさん
坪田先生は、その動機づけを促すのがとても上手なんです。

よく私は講演会で、学生たちから「あと1年で偏差値を20上げるにはどうしたらいいですか?」というような質問を受けるのですが、私は「偏差値を上げるための」勉強をしていたわけではありません。

あくまでも慶應に受かる為の勉強をしていた。

そしたら結果的に後で数えたら40上がっていた、というだけです。

偏差値を気にしながら勉強するなんてナンセンスです。その前に意識すべきことは、「ワクワクする目標を設定すること」です。

―坪田先生はどのように、さやかさんのやる気を引き出したのでしょうか?

さやかさん
坪田先生に出会ったのは高校2年生の夏のことだったんですが、当時私は勉強なんて中学1年生のときからやっていなかったので、学校の授業は全く理解できませんでした。

そんな私に坪田先生は、小学校4年生のドリルを手渡しました。

6割正解できるレベルのところからやることが、勉強を持続させるためのコツなんだそうです。小さな「できる」を大きな「やる気」に変えていくんです。

いくらビリでギャルと言っても、当時高校2年生ですから、すらすら解ける問題も多く、そのドリルを2週間でやりきりました。

すると坪田先生は私に「君すごくない? これ小学校4年生が1年かけてやるものを、たった2週間でできちゃったんだよ? 天才なんじゃない?」と、褒めてくれるんです。

きっと普通に勉強ができる方なら「それくらいできて当然」と思われるかもしれません。

ですが、学校や周りの大人から、ずっと勉強ができない落ちこぼれの烙印を押され続けていた当時の私にとって、たとえ小学校4年生のドリルの内容でも「勉強で褒めてもらえた」という経験はとても大きなものでした。

―坪田先生は、そんなさやかさんの状態を理解した上で、そういったポジティブな言葉をかけ続けていたんでしょうか?

さやかさん
そうだと思います。

坪田先生の考え通り、もっと褒めてほしいと思った私は「早く新しいドリルをちょうだい」と自分から勉強を進んでやるようになりました。

そんな感じで1つ1つできることを増やしていった結果、慶應義塾大学合格にまでたどり着くことができたんです。

だから「偏差値を20上げる勉強法を教えてほしい」と私に聞かれても、「基礎からやることです」としか言えません。

時に、自分のできるところに立ち戻る行為は、いろんな意味で大変かもしれませんが、ちゃんと今の現状を受け止めて諦めずに根気よく続けることが大切です。

それを達成するにはやはり、周りにいる人が本人のモチベーションが維持できるよう、刺激し続け、サポートをすることがとても重要だと思います。

―さやかさんの講演会では、ご自身の経験談からそんなお話をされるんですか?

さやかさん
そうですね。私がどのように勉強に取り組んだのか、という具体的な経験談から、こどもたちへ、そして周りでサポートする親や学校の先生たちへ自身の経験から得たことをお話します。

講演会では、こどもたちからはもちろん、親や学校の先生からも多く質問を受けることがあります。

私は今29歳ですが、まだこどもがいないので、「こどもの立場」から大人の皆さんにお話できることも多くあるように感じています。

こどもが言われて嬉しいこと、傷つくこと。それは私自身が言われて嬉しかったこと、傷ついたことにそのまま繋がります。

そして、坪田先生や母が私にしてくれた、「子どもの能力を引き出す言葉のかけ方」を私流にお話しています。

「ビリギャル」として得たワクワクで、みんなのワクワクを引き出したい。それが、今の私にしかできないこと

―そうすると、ウェディングプランナーとの両立が難しいように思えます。

さやかさん
私はウェディングプランナーの仕事が大好きなのですが、「ビリギャル」というコンテンツを通して、こうした教育の諸問題に対して取り組めるのは、きっと今しかないだろうな、とも思っています。

学生の皆さんと接することが増えて、気づいたこと、解決しなければいけないことも見えてきました。

そして、私の話を聞いて、「人生が変わった!」とたくさんの子が言ってくれるんです。

人の未来を明るくできる仕事なんて、そうないと思う。

だから、ウエディングのお仕事だけでなく、私にしかできないことも積極的に取り組んでいきたいと思うようになりました。

ありがたいことに今では月の半分は講演会をしていますが、今後は講演会だけでなくその他の活動もしていきたい。

それらの活動を通して、私がした経験を生かし一人でも多くの方を勇気付けてあげられるようなことができたらいいなと思っています。

―今回の起業はあくまで、さやかさんの挑戦を具現化するためのものなんですね。

さやかさん
そうですね。

「起業」というと新しいビジネスモデルがしっかりあって、利益を出して後々は会社を大きくしていく、というイメージがあるかもしれませんが、私の目的はそこではなく、自分がやりたいことを続けていくために、環境を整備するためのものだと思っています。

―具体的に動き出しているプロジェクトはありますか?

さやかさん
2017年10月に行われた『渋谷でママ大学』は、企業協賛を取らず、クラウドファンディングで資金を募り開催した親子イベントだったのですが、私自身大きな挑戦となりました。
https://readyfor.jp/projects/birigal

「自分の頭で考えて、自分の意思で、自分の言葉を持って、0から1を生み出す、という経験をしてほしい。

偏差値よりも経験値を積んでほしい」と普段、学生に偉そうに言っている私ですが、“そういえば、受験以来何かに挑戦したかな?”と思い返してみたんです。

すると、そんなに胸を張って、これに挑戦した!と言えることはないような気がしました。

これじゃいけない、と思い、学生に見える形で、リスクを背負って何かにチャレンジしたいと考えました。それで思いついたのが、クラウドファンディングです。

そして、集まった資金をどうするか。やっぱり、こどもたちのために使いたいと思いました。

“こどもたちにとって、何が1番嬉しいんだろう?”と考えた結果、1つしかなかった。「ママやパパが笑っていること」だと思いました。

普段、学生と話していても、やはり親御さんの存在は大きいと感じます。親御さんの在り方ひとつで、こどもたちの人生は大きく変わっていくことを実感しました。

だから、こども達のために、まずはパパやママを元気に、笑顔にしてあげられることがしたかった。

そこで、ウエディングプランナーの経験も生かし、結婚式場をまるまる貸し切って、ママたちが思いっきりワクワクできるイベントを作ってみよう!と仲間に呼びかけました。

当日は、ウエディングの仲間や、クラウドファンディングで支援してくれたボランティアスタッフの皆さん、そして協力企業の皆さんのおかげで、愛が溢れた温かいイベントが実現しました。

300組を超える参加者の方からは、「ぜひ2回目もやってほしい!」「こんなに楽しい親子イベントは初めてだった!」とたくさんの声を頂戴しています。

このイベントをきっかけに、いろんな企業や団体様から、親子や学生向けに何か一緒にやらないかとお話を頂戴するようになりました。

やっぱり、新しいことに挑戦することで、道は開けていくんだと実感しています。

―他に何か取り組んでいることはありますか?

さやかさん
以前、ふと思いつき、私の周りの生き生き楽しく働いている社会人の話を、学生50人に聞いてもらうセミナーを開きました。

それもまた好評で、社会人側からも学生側からも、またやってほしいと言われているので、続けていきたいなと思っています。

どうしてこのセミナーを開いたかというと、学生たちに「大人になるって、社会に出るって、面白そうだなあ」と思わせることが、何よりも英才教育になるって気づいたからです。

働き方が多様化する時代で、どうしたら学生たちが生き生きと社会で輝けるようになるか、そのヒントは「出会い」にあるのではないかと思いました。

特に「夢がなくて、将来が不安だ…」と自信をなくしている学生の目に光を宿すには、「ワクワクする出会い」が1番だと思ったんです。

思い返してみれば、私もそうでした。坪田先生に出会って、「こんなおもしろい大人に私もなりたい!」と思った瞬間に、世界が広がった。

だからそんな出会いを、今の学生たちにもさせてあげたい。そんな思いからでした。

―今まで講演会だけだったのが、リアルのイベントを通して時に大人側(世の親御さんや先生)時にこども側へと、立場に沿って異なるアプローチをしつづけていくんですね。

さやかさん
はい。講演会ももちろんやっていきますが、今後はこうしたイベント活動などにも力を入れていきたいですね。

「ビリギャル」として私が学んだワクワクから、今度は大人もこどももみんなのワクワクを引き出したい。この起業は、いわば「ビリギャル第2章」のスタートだと思っています。

ワクワクすることの楽しさを教えてもらった私だからこそ、伝えられることがある。大人もこどもも、1人でも多くの人にワクワクを感じてもらい、そのワクワクに向かって突き進められる環境を作っていけたら夢のようです。

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なぜプロスノーボーダーからラーメン屋へ転身したのでしょうか。今回は高橋さんの過去から、ラーメン屋にかける想いについて伺ってきました。

<プロフィール>
高橋恭平さん

ラーメン屋「高橋家」店主/元プロスノーボーダー

10歳の時に長野県白馬村に移り住み、スノーボードに出合う。

16歳でJSBA(Japan SnowBoarding Association) のJrカテゴリーで優勝、18歳の時にJSBAが主催する全日本スノーボード選手権大会で最年少優勝の後、ナショナルチームにも選ばれる。

30歳で現役を引退し、現在は長野県白馬村でラーメン屋の経営をスタートさせる。地元の人々だけでなく、県外からも多数のお客さまが足を運び、人気を博している。

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ー元プロスノーボーダーでありながら、現在は長野県白馬村でラーメン屋を経営されている高橋さん。プロ生活を引退後、ラーメン屋への転身は珍しいのではないかと思います。まずは、プロスノーボーダーになるまでの経緯から教えてください。

高橋さん
僕は山形県で生まれました。その後は親の転勤に伴って、東京で5年間過ごした後、10歳の時、この白馬村に引っ越してきました。

スノーボードと出合ったのも、この白馬村でした。

ご存知の通り、白馬はスノーボードに打ち込むには最適な環境だったので、どんどんスノーボードの面白さにのめり込み、腕を上げていきました。

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そして18歳の時に、プロ資格を取得。ここまでは比較的、順風満帆なスノーボード人生を歩んでいましたね。

ー念願のプロの世界に入ってからはどうだったのでしょうか?

高橋さん
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このケガを経験してから、大会に参加しても優勝できなくなってしまったんです。

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高橋さん
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再び、ケガに悩まされる日々が始まりました。そしてこの時期ぐらいから、次第に自分のキャリアについて考えるようになりました。

ーその後はどのような活動をされていたのでしょう?

高橋さん
選手としての活動を全うできない時に、違う形でスノーボードと関わる方法もあるんだと認識し始めました。

例えば、プロスノーボーダーとして雑誌媒体に出たり、スノーボードのキャンプを開いてコーチを勤めたり、プレイヤーではない形でスノーボードと関わっていました。

ープレイヤーから一度離れてみて、いかがでしたか?

高橋さん
この頃は、まず自分が培ってきたスノーボードの経験を活かすところから始まりましたが、次第にスノーボードに代わる何かしらのスキルを身に着けていきたいなと思うようになりました。

でもまだプレイヤーとしてやり残したことがあったので、脳しんとうから3年ほど経ってから、再びプレイヤーとしてアメリカの大会に挑戦することにしました。

ーケガから復帰して、なぜアメリカなのでしょう?

高橋さん
まずアメリカは、スノーボードがとても盛んな国であるということ。そして自分が前回挑戦した時にケガをして断念してしまったことなどが、理由に挙げられます。

ケガの療養中にプレイヤー以外の経験を積んで、スタッフを始めとするいろいろな人に支えられて、スノーボードに打ち込むことができたんだと再確認しました。

だからこそ今回のアメリカは、人に頼らず自分の力だけ行こうと思いました。

飛行機のチケットを取って、ホテルを予約して、そして試合に臨む。とはいえ異国の地にたった1人で赴いた時、どうしても困ったことに遭遇することもあるんですよね。

そんな時はやっぱり助けてくれるんです。アメリカ人も、現地にいる日本人の方も。

やっぱり自分はいろんな人に助けられていることに、アメリカに来て改めて実感することができました。

ースノーボード以外で大きな発見があったんですね。

高橋さん
そうですね。そしていつしかその「感謝の気持ち」が、僕の行動原理になっていくようになり、起業をする時のモチベーションにもなりました。

そしてもう1つ、スノーボード以外で大きな収穫がありました。

アメリカで現地の人に美味しいハンバーガー屋を紹介してもらったのですが、そこのハンバーガーがあまりにも美味しくて、滞在中はずっと通っていたんです。

その美味しさのあまり「日本に帰ったらハンバーガー屋を開きたい」と思うようになりました。

脳しんとうを起こしたくらいから、スノーボードを引退した後のことを考えていたので、まさにちょうどいいタイミングで出合うことができました。

そしてアメリカの大会を終え、帰国してライスバーガー屋を立ち上げたんです。

スノーボードもラーメンも本質は同じ。目的から逆算する力

ー最初はラーメン屋として開業したわけではなかったんですね(笑)。でもなぜ、ハンバーガー屋ではなくライスバーガー屋としてお店を立ち上げたのですか?

高橋さん
白馬村には、すでにたくさんのハンバーガー屋があったので(笑)。それならライスバーガーにしようと思って。

ーなるほど。では、どのようにライスバーガー屋を始めたのでしょうか?

高橋さん
アメリカから帰ってきたばかりで、土地もお金もなかったので、最初はトラックを買って、自分で改造して移動式のライスバーガー屋を始めました。

夏場には、ラフティングやパラグライダーなどのアウトドアのインストラクターをしつつ、冬場はスノーボードとライスバーガー屋を営む生活をしていました。

ーでは、ライスバーガー屋からラーメン屋に切り替えたきっかけはなんだったのでしょうか?

高橋さん
スノーボードを引退したことと、こどもが生まれたことです。

アメリカから帰ってきて、ライスバーガー屋をやりながらスノーボードも続けていたのですが、2年前に正式にプロスノーボーダーを引退しました。そして同時期に、こどもが生まれたんです。

こどもができたのはもちろん嬉しかったのですが、その反面しっかり家族を養っていかなければいけない、という自覚が芽生えました。

妻と2人ならまだしも、こどもを育てていくためには、移動式のライスバーガー屋や、夏場に短期の仕事をしているだけでは、正直不安定だなと思ったんです。

そこで安定した収入を得るために、1年中経営できる店を開きたいと考えました。そんな時ちょうど妻の知り合いから「居酒屋の居抜きがあるから、何か店を出さないか」というお話がありました。

このチャンスを逃すわけにはいかないと思い、すぐに申し出を受け、経営の準備に取り掛かりました。

白馬村は日本人だけでなく外国人もたくさん訪れますが、日本人にも外国人にも、ラーメンは人気があるので、思い切ってライスバーガーからラーメンに切り替えました。その居抜きに、ラーメン屋を開く条件が揃っていましたし。

ーラーメン屋への転身は、どうでしたか?

高橋さん
最初は毎日が、試行錯誤の繰り返しでした。プレオープンを経て正式に開店してからも、スープの味が決まらずに、ずっと悩んでましたから。

ーライスバーガー屋を営んでいたとはいえ、ラーメンは畑違いですからね。未経験の世界に飛び込むのはとても勇気のいることだと思います。

高橋さん
たしかにやってることは違いますね。でも僕はスノーボードもラーメン屋も、本質は同じだと思っています。

ーどういうことでしょうか?

高橋さん
僕がやっていた「スノーボードクロス」という競技は、複数名と混走することが前提です。スピードは元より、技術や人との駆け引きなど総合的な滑走能力が試されます。

そして勝ち上がるためには、自分の欠点と長所を見極め、今どんな行動が必要かを考えます。

ラーメン屋も同じです。売り上げを増やすためには、何が足りていて、何が足りていないのかをしっかり把握する。そこから自分がすべきことを逆算して考えていくんです。

例えば、僕はライスバーガー屋を経営した経験があるので、店のマネジメントは強みです。逆に美味しいラーメンを作る技術は未熟だったので、店を出した後も、ラーメン作りに試行錯誤していました。

長所と短所を冷静に自分で分析できていたからこそ、美味しいラーメンを作ることに最大のリソースを割くことができた。

その結果、今ではお客さまに胸を張って出せるクオリティのラーメンが完成しました。そしてありがたいことに、多くのお客さまにご来店いただけるようになりました。

お客さまにとって居心地がいいお店にしたい。それが、故郷・白馬村への恩返し

ー経営に必要な目的から逆算して行動する力は、スノーボーダーとしての経験で培われていたんですね。ところで、ライスバーガー屋の時から「白馬村」で商売をする、ということにこだわっているように思いますが、なぜでしょう?

高橋さん
それは僕が白馬村が大好きで、この場所と人に感謝しているからですね。

白馬村は自分が育った場所であり、この環境があったからこそ、プロスノーボーダーになることができました。

先程も言いましたが、僕はいろいろな人に支えられて、スノーボードに打ち込めて、現役を引退した後もこうしてラーメン屋を営むことができています。

それは故郷である白馬村と、自分の周りにいる人たちのおかげです。

そんな白馬村に恩返しができるとするなら、それはきっと僕が営むラーメン屋がお客さまにとって居心地が良く、笑いが絶えない場所であり続けることだと思います。

そのために、単に美味しいラーメンを提供するだけではなく、気持ちの良い接客も心がけています。地元の方も観光で来られる方も、皆さんに「また行きたいな」と思っていただけるような店作りを目指しています。

ーでは最後に、独立を目指している人へアドバイスをお願いします。

高橋さん
独立は、誰にも縛られずに自分の意志であらゆることに挑戦できます。逆に言えば、自分から行動を起こさなければ何も始まりません。

それなら自分が「楽しそう」「面白そう」と思うことに積極的に挑戦してみた方がいいと思います。

僕自身、単身アメリカへ渡った時、そしてライスバーガー屋を経てラーメン屋を開いた時など、人生で幾度となくそういったターニングポイントを乗り越えてきました。

自分はそもそも何がしたいのか、そしてその何かを達成させるために何が必要で、何が足りないのか。それを分析し、行動することができれば自ずと結果はついてくるのではないかと思っています。

2018年12月12日

PLOFILE

金谷宏さん(63歳)

(株)KDP/大阪市港区
高校卒業後、大阪で電車との接触事故を起こす。運送会社で働きながら賠償金を完済。別の運送会社を経て、「家族を養うため」物流関係の仕事で1991年に起業。その後、物流人材の派遣サービスに進出、現在に至る。自身は2009年に会長職についた。
(さらに…)

2018年12月11日

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