誰もが抱いている、夢や願望。
でも「できる自信がない」「どうしたら実現できるのか分からない」と自分の中に閉じ込め、諦めてしまう人もいるのではないでしょうか。
今回お話を伺ったのは、元プロ野球選手のスポーツ科学博士・小林至さん。
小林さんは「史上3人目(1992年当時)の東京大学出身のプロ野球選手」として注目され、千葉ロッテマリーンズで2年間プレー。引退後はコロンビア大学経営大学院でMBAを取得し、現在はスポーツ科学博士としてさまざまな活動をされています。
そんな小林さんは、つねにやりたいことを公言し続けてきたからこそ、今の自分がいると言います。
今回は、小林さんの人生を振り返るとともに、好きなことを仕事にする上で大切なことを伺いました。
小林至(こばやし・いたる)さん
1968年生まれ、神奈川県逗子市出身の元プロ野球選手。神奈川県立多摩高校を卒業後、東京大学経済学部経営学科へ進学。同大でエースとして活躍したのち、練習生を経て、1992年に千葉ロッテマリーンズにドラフト8位で入団。翌年に自由契約となり、現役を引退。
渡米の後、コロンビア大学経営大学院修了(MBA取得)。
1996年、フロリダ州のケーブルテレビ局「ザ・ゴルフ・チャンネル」に入社。通訳、翻訳、解説に従事。2000年、同社を退社し帰国。
2001年、参議院議員選挙に東京選挙区から立候補するも落選。2002年、江戸川大学社会学部助教授就任、2006年に同教授に昇格し、今に至る。
2005~2014年、福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役、福岡ソフトバンクホークスマーケティング株式会社取締役を兼務。
2019年、スポーツ科学博士の学位を取得。
たった3カ月で偏差値を30上げ、東京大学に入学。そしてプロ野球へ。何事も、コツさえ掴めば一気に伸びる
ー元プロ野球選手であり、これまで江戸川大学教授や福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役を務めるなど、さまざまな活動をしてきた小林至さん。現在に至るまでの経緯を教えてください。
野球を始めたのは小学校の頃だったと思います。1970年代中頃で、当時、男の子は野球をやることが当たり前の時代でしたので。中学校は野球部がなかったので、卓球部に所属していました。高校では絶対に野球をやろうと、進学した神奈川県立多摩高校では入学と同時に野球部に入りました。
当時の多摩高校は決して強いチームではなかったので、甲子園に出場することは叶いませんでした。
ただそれ以前に、私はチームのレギュラーを獲得することもできませんでしたから、甲子園どころではなかったですね(笑)。
ですから当時はプロ野球選手になることなんて、夢のまた夢でした。
ーでは、高校生活を終える時点で野球への情熱は冷めてしまったのでしょうか…?
大学で活躍して、高校でレギュラーになれなかった悔しさを晴らそうと思いました。野球で負った傷は野球でしか癒やせませんから(笑)。とはいえ、高校でレギュラーになれないようでは、早稲田や慶応などの強豪校へ行っても試合に出られるチャンスはない。
そう考えていた私は、強豪ではありませんが、当時は全日本大学野球選手権に出場するなど力をつけてきていた大阪大学を目指すことに決めたんです。
ですが、2年半野球漬けの生活を送ってきたため、大阪大学に受かるまでの学力を身につけるにはあまりにも時間が足らず、大学受験はあえなく玉砕。浪人生活がスタートしました。
そこで私は、こう思ったんです。
「浪人するんだったら、東京大学を目指そう」と。
高校の時と違って勉強する時間はありますし、なにも大阪大学にこだわる必要がなくなった。それにやっぱり、東京大学はなんといっても花の東京六大学ですからね。レギュラーを獲得できるチャンスがあるな、とも思ったので。それからは予備校に通いながら必死に勉強しました。
通った予備校の先生は多士済々で、本当に多くのことを学びましたが、そのなかで、1つの問題に対して脳みそがちぎれるぐらい考える、2〜3時間考えて、それでも分からなかったら答えを見る。このやり方を繰り返したところ、2~3カ月もすると、問題がどんどん解ける実感がわいてきました。
そして迎えた夏の東大模試では、まさかのA判定でした。現役のときは偏差値が40台でしたから、半年もしないうちに偏差値が30以上も伸びたことになります。
野球もそうですが、何事も、とどのつまりはコツを掴むことなんですよ。
2005~2014年まで、福岡ソフトバンクホークスで仕事をしていたのですが、王貞治さんはじめ、秋山幸二さんなど、野球の世界で超一流となった方と仕事をご一緒しまして、これは実感です。
練習には、無理、無茶、ガムシャラな努力で量をこなす必要もあれば、徹底的に考えながら質を重視する必要もあります。ですが、全てはコツを掴むためのものであると。
人によっては「暗記が全てだ」という人もいますが、私の場合は「自分で理解できるまでひたすら考え抜く」方法を取り入れていました。
ーただ勉強するだけではなく、いかに自分の中でコツを見つけることができるか。これが重要なわけですね。その後、無事に東京大学に受かることはできたのでしょうか?
はい。一浪の末、東京大学に合格することができました。入学後、すぐに野球部の門を叩きました。大学2年時からリーグ戦に出場し始め、4年時にはエースとしてマウンドに立つことができました。
試合で1勝も挙げられなかったのは残念でしたが、東京六大学という舞台で、エースとしてチームを背負ってマウンドに立つことが出来たのは本当に嬉しかったですね。
ー先ほど、高校まではプロ野球選手になろうという気持ちがなかったと仰っていましたが、東大でエースを勝ち取ったことで、その想いに変化はありましたか?
ありましたね。東京大学のエースになったことで、またさらに野球が楽しくなり、「もっとプレーしたい」という想いが日に日に強くなりました。それから「プロに行きたい」という話を周りにするようになったんです。
すると、その話が巡り巡って、千葉ロッテマリーンズ監督の金田正一(当時)さんの耳に届き、「そんなに本気でプロに入りたいということなら、入団テストをしてあげよう」と声をかけていただきました。
そして、入団テストを受けて合格した私は、1992年にドラフト8位で同チームに入団し、本当にプロ野球選手になることができてしまいました。
ープロへの想いを公言したことが、その夢を引き寄せることにつながったのかもしれませんね。実際にプロ野球の世界に入ってみて、いかがでしたか?
やはり、プロの世界では全く通用しませんでした。球速やボールのキレを含め、あらゆる面で実力が足りないなと感じました。
結局、1993年のシーズン終了後に戦力外通告を言い渡され、1度も1軍の舞台で登板することなくユニホームを脱ぐことなりました。
ですが、この2年間は私にとってとても貴重な経験でもありましたし、今でも「元プロ野球選手」としていろいろなお話をいただけることは、本当に嬉しいです。