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マスメディアが報道できない映像を、個人の力が集まって、伝えていく

テレビ局の仕事を辞め、フリーの映像ディレクターという仕事を選び、東日本大震災後の福島を描いたドキュメンタリー映画「Life 生きてゆく」を5年半の長い撮影を経て完成させた笠井千晶さん。その作品は口コミで広がり、全国で有志が主催する上映会も行われている。クラウドファンディングでもたくさんの支援者が集まった。

ドキュメンタリー映画「Life 生きてゆく」は、東日本大震災後の福島県で、家族を亡くした男性と、その妻、そして震災後に生まれた娘との生活を5年半密着取材して生まれた。
山本美香記念国際ジャーナリスト賞を2018年5月に受賞。

マスメディアが報道できない映像を、個人の力が集まって、伝えている。大手テレビ局の仕事を辞め、フリーの映像ディレクターの道を選んだ笠井千晶さんの活動について、話を伺った。

<プロフィール>

笠井千晶さん

15年以上のテレビ報道記者勤務を経て独立。フリーの映像ディレクターとして、撮影〜編集までを手がけ、テレビ・映画のドキュメンタリーを制作。震災後の福島に通い、原発周辺の街で映像記録を続ける。
また死刑囚の再審請求事件「袴田事件」を十数年に亘り取材。死刑囚・袴田巌さんが2014年に釈放された瞬間に同行し、47年ぶりに自由の身となった直後の様子を記録した。裁判所組織を描いたものなど司法に関するテーマが多い。

会社員時代に、日本民間放送連盟賞テレビ報道番組部門 最優秀賞 (2004年度)、「地方の時代」映像祭 優秀賞 (2006年度)、石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞 奨励賞 (2010年度) などを受賞。独立後に、山本美香記念国際ジャーナリスト賞 (2018年度) を受賞。

フリーの映像ディレクターとして笠井千晶が伝えたいこととは

ー「山本美香記念国際ジャーナリスト賞」、受賞おめでとうございます。まずは、受賞の経緯と感想を聞かせてください。

笠井さん
ありがとうございます!
「山本美香記念国際ジャーナリスト賞」は、2012年に中東のシリアで取材中、銃弾に斃れた山本美香さんのジャーナリスト精神を引き継ぎ、果敢かつ誠実な国際報道につとめた個人に対して贈られる賞なのですが、今回私が福島の被災地で5年半かけて撮り続けた映像をまとめたドキュメンタリー映画「Life 生きてゆく」を選んでいただきました。時間をかけて撮り続けた東日本大震災後の福島を描いたドキュメンタリーですが、家族を奪った津波、そして原発事故。失意の底から立ち上がろうとする被災者とともに、「長い時間をかけて紡ぎ出した作品」と評価していただきました。関係者の皆さまのおかげです。大変嬉しい受賞となりました。

ー笠井千晶さんが被災後の状況を撮り始めたきっかけを教えてください。

笠井さん
中京テレビに勤めていたとき、取材として、震災直後の被災地に行くことがありました。
そのときに感じたことは、被災後の今だけではなく、継続してこの現状を誰かが記録しなければいけないんじゃないかと思ったのです。
ですが、報道の仕事は取材対象もたくさんありますから、被災後の状況だけを撮り続けることができません。そして、思い立って会社の仕事ではなく、私個人として被災地に行き、記録を撮り続けることにしました。
最初はテレビの仕事をしながら週末などの休みの日や仕事を終えたあと、プライベートの活動として夜行バスに乗って東北まで脚を運び、また、会社の始業に間に合うように、夜行バスで戻ってくる生活を続けました。仕事の合間に、名古屋から東北、東北から名古屋という往復です。

ー休みのない大変な生活ですね。では、笠井千晶さんが独立したきっかけを教えてください。

笠井さん
会社の仕事ではなく、個人として撮影することで、放送する、番組を作るという視点に囚われずに、状況を映像として残し伝えることができるかもしれないという気持ちで、会社の仕事と並行して撮影を続けていました。ドキュメンタリーの映像を撮ってもその報酬があるわけではありません。ですが、体力的にも時間的にも無理があると感じて、思い切って会社を辞め、フリー映像ディレクターとなりました。固定収入は無くなりますが、私しか撮れないものを撮るための時間を作ろうと。

マスメディアでの報道で伝えられない現実を映像に

ーマスメディアでの報道で伝えられないというお話がありましたが、もう少し詳しく教えていただけますか?

笠井さん
報道の仕事では、企画を決め、何分の番組で、どのくらいの予算で作るというのを決めて、撮影に入ることが多いのですが、被災地の状況を映像で撮るのは、ゴールが明確ではありません。
時間も予算も予測できないのです。今後いつ何が起こって、どういう結果になるのか分かりませんから。
そのため、番組の企画としては成立しづらいのです。

ただ、私個人として、この状況は映像として残して伝えていく必要があると思ったのです。もう1つ私が撮影している袴田巖さんについてもゴールが明確ではありません。ですが、記録として残して伝えていくべきだと感じたので、記録し続けているのです。

ードキュメンタリーの映像は撮るのが大変ではないですか?

笠井さん
はい。人を撮っていますから、信頼関係がなければできません。また、人生の転機となるような場面はどのタイミングで訪れるか分かりませんから、足繁く通うことになります。私が今取材しているのは、被災後の福島の状況と静岡で47年ぶりに釈放された死刑囚袴田巖さんです。ですから、静岡と福島を往復して映像を撮影する生活を送っています。

マスメディアが報道できない映像を、個人の力が集まって、伝えていく

ーフリー映像ディレクターとして、収入はどうやって得るのでしょうか?

笠井さん
Readyforでクラウドファンディングしたことで支援者の皆さまから資金が集まりました。また、経産省の創業・第二創業促進補助金に採択され、機材の購入費用も補助していただきました。撮影・編集機材はテレビ局の仕事で使えるレベルの機材です。本当に皆さまのおかげです。私自身は映像のこと以外は詳しくないので、応援してくださる皆さまのおかげで、ここまできました。上映会を開催することによる収入があります。

ドキュメンタリー映画「Life 生きてゆく」トレーラー

舞台は震災後の福島県沿岸部。
これは、2011年3月11日、津波に見舞われた南相馬市萱浜(かいはま)地区に生きる、ある家族と”命”の物語です。
震災から7年。
いまだ届かぬ声が、ここにー。

監督・撮影・編集/笠井千晶

ー笠井さんの映像作品はその上映会で見られるのですか?

笠井さん
はい。有志の方が上映をフェイスブックページから申し込んで主催してくださっています。その上映会で作品を見た方がまた他の場所で主催するという口コミが伝播する形で、全国に広がっています。ボランティア活動を東北で経験した方や、福島出身の大学生がご自身の通う関東の大学で開催してくださったり、自治体単位でも上映をしてくださっています。ありがたいことです。

ー笠井千晶さんがこのドキュメンタリーの映像で伝えたいことは何ですか?

笠井さん
ドキュメンタリーの映像を見てもらって現実を感じてもらえればと思っています。感動してもらうとか、泣いてもらおうという意図ではありません。演出的なことは全くしていませんが、置かれた過酷な現状、現実をそのまま、伝えたいのです。


ー最後に、起業を考えている読者にひとこと、お願いします。

笠井さん
私が起業家として成功しているわけではないので、起業家の皆さんにアドバイスできる立場ではありません。ただ私が心がけているのは、仕事に妥協しないことです。私は誰にでもできる仕事ではなく、自分だからできる仕事を見つけたら、その仕事に妥協しないということで、撮り続けてきました。
撮影や編集というスキルは色々なニーズもありますが、私しかできないドキュメンタリーを撮り続けてきました。
お金を得るために自分のスキルを安売りしないこと、自分しかできないことを続けることが大事だったんだなぁと今になれば思います。
もちろん、経済的には楽ではありませんが、どうしてもやりたいことのために使う時間を奪われないように。

自分しかやれないことを続けていれば、いつか誰かがその価値を見つけてくれると信じています。

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日本が世界に誇る「Kawaii文化」。

その発信地として有名なのが、東京・原宿。古着やキャラ物、ロリータ、ゴシックなどに代表される「原宿系ファッション」は若者を中心に根強い人気を誇っています。

今回お話を伺ったのは、そんな原宿の「Kawaii文化」の最前線を走る、株式会社ACDCのデザイナー/店長の土居麟馬さん。

ACDCの運営する直営店「ACDC RAG」は、原宿の直営店4店舗構える他、取扱店が国内に約20店舗、海外に約30店舗を展開する人気アパレルショップです。

日本はもちろん、海外の人からも絶大な人気を誇るACDCの商品。

今回はACDCの商品デザインを担う土居さんのキャリアを振り返るとともに、なぜACDCが世界から注目されるのか、その理由をお聞きしました。

<プロフィール>
土居 麟馬(どい・りんま)さん
株式会社ACDC デザイナー/店長

1991年生まれ、横浜市出身。
2010年、法政大学国際文化学部に入学。株式会社ACDCの創設者である父の影響で、服飾関係の仕事に興味を持つ。

大学2年時に上海への語学留学を経験し、3年時に1年間大学を休学し、ロンドンでの語学留学を経験。ロンドンでは、株式会社ACDC商品の販売も手がける。

2015年に大学を卒業後、株式会社ACDCに入社。同社の直営店「ACDC RAG」のデザイナー/店長として、日本のみならず世界を舞台に活躍中。

学生時代にロンドンへ留学するも、挫折。「恵まれた環境」があったからこそ感じた、自分の無力感

―まずは土居さんの経歴から教えてください。現在は株式会社ACDCのデザイナーとして活躍されていますが、もともと服飾関係の仕事に興味があったのでしょうか?

土居さん
いえ、本格的にこの仕事に興味を持ち始めたのは大学生の時です。

それまでは中学でサッカー、高校でアメリカンフットボールに打ち込む普通の学生でした。

―なぜ大学生の時にこの仕事に興味を持ったのでしょう?

土居さん
現在勤めている株式会社ACDC(以下、ACDC)は、父が起業したアパレル会社です。

父が会社を立ち上げたのが、今から38年前。まだ表参道に歩行者天国があった時代に、渋谷で洋服屋を開きました。

そんな父の背中を幼い頃から見てきて、漠然とですが自分がどんな仕事をしていきたいのか、考え始めたのが大学生の頃だったんです。

大学のアメフト部からの誘いを断り、独学でアクセサリーを作り始め、原宿の路上で販売し始めました。大学1年生の夏のことです。

―18歳でそこまで覚悟を決めていたんですね。アメフト部と両立しながら仕事をする、という選択肢はなかったのでしょうか?

土居さん
高校時代もそうでしたが、アメフト部に在籍していると、生活の9割以上の時間をアメフトに捧げなければなりません。

大学の体育会系なら余計に、アメフト漬けの毎日になってしまいます。

ただ、父から起業の話を聞いて、僕自身「お店を立ち上げたい」「何かものづくりで成功したい」という思いが強くなっていました。

とはいえ、アメフトも、高校時代にキャプテンを務めるほど力を入れて取り組んでいたので、当時はアメフトを続けるべきか、相当悩みましたね。

それでも自分の夢を叶えるために、アメフトを辞めてものづくりへの道に進むことを決めました。

―その後はどうされたのでしょう?

土居さん
大学の傍ら、アクセサリー製作・販売、ACDCの仕事を手伝っていました。

その後、大学2年時に4カ月間上海へ、3年時に1年間大学を休学してロンドンへ、語学留学に行きました。

ロンドンでは語学留学をしながら、ACDCの商品を現地で販売しました。

「ロンドンの原宿」とも呼ばれるカムデンタウンにお店を出したり、イギリス最大の日本文化総合博覧会「HYPER JAPAN」への出展などを経験しました。

―当時はまだ学生であったのにもかかわらず、大活躍ですね。

土居さん
しかしそうでもなかったんです。

「日本から商品を送ってもらって、現地で売ること」が、当時の僕の仕事だったわけですが実際はそんな簡単なものじゃないんですよね。

言語も違えば文化も違いますし、現地に頼れる人がいるわけでもなければ、特別なコネがあるわけでもない。

カムデンタウンも「HYPER JAPAN」も、結局ACDCという会社の土台があっただけで、自分の力で何か結果を出せたわけではありませんでした。

留学から帰ってきて残ったのは、何もできなかった自分への不甲斐なさだったんです。

帰国後は、ACDCの仕事に打ち込みました。そして大学を卒業して、そのままACDCに入社し現在に至ります。

年齢も国籍も、性別も宗教も、関係ない。ACDCが世界から支持される理由

―大学を卒業後、入社して取り組んだことはなんでしょう?

土居さん
デザイナーとして商品を企画、デザインする傍ら、ACDCの直営店「ACDC RAG」の店長も兼任しました。

学業との二足のわらじを終え、実際に仕事をして思ったのは「自分が会社を変えていかなければならない」ということでした。

―なぜでしょう?

土居さん
これまでACDCは、海外への進出が十分にできていませんでした。

僕は留学での経験もありましたし、ACDCを海外で流行らせたいという気持ちがあったからです。

とはいえ課題は山積みでした。

まずは世界各国のファッションショーへの出展や、ACDCの商品を扱っていただける、取扱店の拡大など、露出や流通経路の確保をしなければなりません。

そして世界を相手に戦っていくためには、そもそもACDCの商品の企画、デザインがより良質でなければならない。

僕はデザイナーとして、ACDCというブランドを認識してもらうための商品作りを徹底して考えるようになり、また海外へのアプローチも地道に進めていきました。

―昨今、日本の「Kawaii文化」がSNSを中心に世界的に人気を博しています。原宿に直営店があり、数々の個性的なデザインの商品を扱うACDCはいわば「Kawaii文化」の一端を担っているのではないかと思うのですが、そもそもなぜこの「Kawaii文化」は海外に受け入れられているのでしょうか?

土居さん
2000年代に流行した「ファストファッション」のカウンターカルチャーなのではないか、など、様々な理由が考えられます。

これは個人的な意見ですが、僕が海外の方と接してて思うのは、世界的にジェンダーや年齢といったものがどんどん自由になっているから、でしょうか。

原宿に勤める「ジェンダーレス男子」のショップ店員などが話題になりましたが、原宿だけでなく世界的にそういった風潮が広まっているように感じます。

「Kawaii文化」と言われるファッションや音楽には、性別や年齢、国籍といった枠組みから自由になる、という考え方と近しいものがあるのかもしれません。

―なるほど。では、その中でACDCはどのような位置づけをしているのでしょう?

土居さん
ACDCは「No Borders」(無境界)をブランドコンセプトとして、掲げています。

このコンセプトには「年齢・国籍・性別・宗教といったものは関係なく、自分の好きなものを着よう」といった意味合いが込められており、着物から洋服、キャラクター服までありとあらゆるジャンルの服を扱っています。

―たしかに着物からセーラー服、チャイナ服、オーバーサイズのパーカー、キャラ物など多種多様な商品がありますね。商品を企画する上で、特に気をつけていることはなんでしょう?

土居さん
1つの国のものや、1つのコンセプトにこだわりすぎないよう、様々な国や文化のファッションと組み合わせを考えてデザインするように心がけています。

自分の着想に基づいて作りたい服をデザインすることが多いですが、その根底にはあくまでも「売れるもの(お客さまに求められるもの)を作る」という視点を忘れないようにしています。

僕の独りよがりにならないよう、スタッフの意見やお客さまの反応、反響には特に耳を傾け、より求めていただける商品を作れるよう試行錯誤しています。

「No Borders」というコンセプトへの共鳴、そして多種多様な商品展開を実践の甲斐があってか、とてもありがたいことにアメリカや中国、ヨーロッパを始めとする多くの海外のお客さまから支持を得ることができました。

いきなり「すごい人」になんてなれない。どんな人も必ずゼロから始まる

―土居さんの今後の展望について教えてください。

土居さん
まずは、もっと様々な国でACDCの服を着る機会を創出していきたいですね。

そのためにはもっとたくさんのイベントに参加して、現地のお店とコラボレーションをしていく必要がある。

地道さが求められますが、コツコツと自分の足で稼いで1人でも多くの人にACDCの服を着てもらいたいですね。

またここ数年で、お客さまの層がかなり広がってきたので、ブランドラインを増やしていきたいですね。

現在の「多ジャンル低価格」ラインは残しつつ、今後はこども向けのキッズラインや、高級路線のハイグレードラインも展開できるよう、視野を広げていきたいです。

―最後に読者の方へ、アドバイスをいただけますか?

土居さん
僕は、父の影響でこの道を選びました。

僕が物心つく前から、父は社長で自分のお店を持っていたのですが、そんな父も最初から自分のお店を持っていたわけではありません。

起業してゼロから始めて、今があるんです。

何か始めようと思うと、つい他の人の「完成形」とゼロの自分とを比べてしまって、気疲れしてしまうことがありますが、どんな人も必ずゼロから始まっています。

僕の場合も同じです。ロンドンに留学した時は、何もできない自分にとても悔しい思いをしました。

だからこそACDCが今までできなかった海外へ挑戦し、コツコツと実績を積み上げてきました。

そして、僕の挑戦はまだまだ続きます。

誰しも、いきなり「すごい人」になんてなれません。挫折してしんどい思いをすることもあると思いますが、1歩ずつがんばっていきましょう。

<「ACDC RAG」デザイナー・土居麟馬さんが、写真展を開催!>

期間:2018年11月28日(水)-12月2日(日)
開場時間:12:00 - 21:00 (2日は18:00まで)
場所:東京都渋谷区神南1-10-7テルス神南301
入場料:無料
特典:限定ステッカーと中国茶
Web:www.rimmadoi.com

2018年11月20日

企業では10月から12月にかけて、年末調整を行うことと思います。年末調整のやり方というのは企業によって若干変わるかもしれませんが、だいたいが従業員に年末調整のための書類を記載してもらって会社側でチェックするという方式ではないでしょうか。
(さらに…)

2018年11月19日

大人になれば誰しも1つは持っているお財布。

お金との付き合い方は人それぞれなように、お財布との付き合い方も人によって異なる。デザインや容量など、特徴の異なる一品を持っている人もいるだろう。

私事ではあるが、筆者はm+(エムピウ)というブランドの「ミッレフォッリエ」という財布を使っている。

これは小銭、お札、カードがコンパクトにまとめられる財布。気づけば10年ほどの付き合いで、現在は同じモデルの2代目を使用中だ。

ミッレフォッリエは根強いファンの多い財布で、同じモデルを使い続ける人が多く、発売から14年が経った今でも、月に800個は出荷されるという。

このお財布を生み出したエムピウの代表・村上雄一郎さんは、元・建築士という異色のキャリアの持ち主。彼は、一級建築士から革製品のデザイナーへと、どのように転身を果たしたのだろうか?

<プロフィール>
村上雄一郎さん

バッグ/革小物デザイナー。建築事務所に勤務していたが、素材としての革に興味を持ちバッグ・革小物のデザインを開始し、2001年「m+」(エムピウ)をスタート。設立から4年後、創業支援施設台東デザイナーズビレッジに1期生として入居。
台東区での業務の利便性を感じ、蔵前に拠点を構える。

遊ぶものは自給自足、ものづくりの楽しさを学んだ幼少期

− まずは村上さんが建築士になるまでをお聞きしたいです。建築士と革製品のデザイナーはプロダクトを生み出すという点で共通していますよね。ものづくりは昔からお好きだったのですか?

村上雄一郎さん(以下、村上さん)
幼少時代から好きでしたね。田舎に生まれて遊ぶものがないから、自分で作るのが当たり前だったの。拾ってきた真鍮を磨いてピカピカにしたり、木片で工作をしたり、手を動かして結果が現れるのが楽しかった。そうするうちにものづくりが好きになってしまったんだよね。

建築の道に進んだのも作ることに興味があったから。大学で建築を学んで、そのまま設計事務所に入ったんです。

− 事務所ではどのようなお仕事をされていたのですか?

村上さん
就職した事務所は建物だけじゃなく、都市計画やマップ、時には建物のなかで使う家具など、幅広く空間をデザインしている場所でした。

当時は幅広く様々な分野のアシスタントとして働いて、3年目から建築設計に携わりましたね。建築設計はよくドラマとかで出てくる、図面や模型を作る仕事です。でも、僕はその仕事に違和感を抱いてしまったんです。

「ものづくりがしたかったのに」という思いで始めた革工芸

− なぜ違和感を抱いてしまったのでしょうか?

村上さん
端的に言うと、ものづくりに関われなかったから。その事務所では、僕たちは設計とディレクション、施工は職人さんに分業されていて、現場と接する時間が少なかった。

ものづくりがしたいと思って建築業界に入ったのに、作る現場に携われないから「なんか違うな」と思うわけです。

自分は施工の現場を知らないのに、クライアントには図面や模型を前にして、「素材はこれがいいですよ」とか、まるで自分の目で見てきたようにプレゼンしないといけない。家も建物も一生の買い物ですよね。そういう性質のものを、想像だけで提案してしまうのが怖かったんです。

− そのモヤモヤが革製品を手がけるきっかけになったのでしょうか?

村上さん
その通り。ものづくりがしたいなら自分の手を動かせばいいんだと思って、革工芸を始めたんですよ。

− なぜ革だったのでしょうか? 木とか鉄とか、素材は色々ありますよね?

村上さん
革は手軽にできるんです。たとえば家具を作ろうとしたら、広い工房が必要でしょ? 機材もいるし、音が出るから都心では難しい。革なら大きな機械はいらないし、音も出ない。当時は設計事務所の仕事終わりに車のなかでコツコツ製作してましたね。

− それをお仕事にしようと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

村上さん
事務所の先輩に見せたことかな。作ったものは誰かに見てもらいたいじゃない。だから設計事務所の先輩を捕まえて、完成した小物を見せていたんです。

そうしたら褒められて。クリエイターはものを見る目がありますよね? そんな人に褒められたのが嬉しくってね。

作っては見せ、作っては見せを繰り返していたら、「お前こっちの方が向いてるんじゃないか? やるならイタリアの工房で修行して箔つけてこい!」って言われてその気になっちゃいました(笑)。

− いよいよエムピウが生まれるお話が聞けそうです。ちなみにその時、ご結婚はされていました? 奥さんがいると、説得も必要ですよね?

村上さん
結婚は建築事務所時代にしていました。イタリア行きはカミさんに黙って行くわけにもいかないので、相談したら「行ってらっしゃい」とお許しが出て。それで事務所を退職し、家族を日本に残してフィレンツェの職業訓練校に入学することにしたんです。

イタリア修行とエムピウの誕生、帰国直後は二足のわらじを履いていた

− イタリアに修行に出かけた村上さんですが、イタリア語は話せたのでしょうか?

村上さん
イタリア語どころか英語も話せなかったね。でも革工芸の基礎的なことは日本で一通り学んで行ったから、実技は見ていれば分かる。だから困ることはなかったかな。

職業訓練校を卒業した後は、イタリアの代表的な革ブランド「ベネトン」の工房に入ることができて、そこで1年間修行することができました。

1年経つと、今度は別の工房から引き抜きの話が来たんです。技術にも自信を持ち始めていたし、いよいよ日本にいる家族をイタリアに呼べると思っていたんだけれど、カミさんに相談したら「そろそろ戻ってらっしゃい」と言われちゃって。カミさんには逆らえませんよね、それで日本に帰国したんです。

− 志半ばという感じでしょうか?

村上さん
そうでもないんだけどね。でも、革のデザインを仕事にしたいという思いはあって。帰国後はすぐにでも自分のブランドを立ち上げたかったんだけど、家庭もあるし、取引先もなかったから、設計事務所に戻って建築士と革デザイナーを掛け持ちしてたの。

当時は革製品のメーカーから委託でデザインを請け負っていたりしてた。そのなかで、クライアントと打ち合わせをしたり、製品を作って卸したり、ブランドを運営するうえで一連の流れは勉強できたんだけど、やっぱり自分の作りたいものを手がけたい気持ちが強くなってきて。

自分のブランドが必要だと思って2001年にエムピウを設立したんです。

− エムピウとして最初のお仕事はどのようなものだったのでしょうか?

村上さん
最初に発注してくれたのは、銀座にある文具専門店でしたね。
製図用のA3サイズのバッグを作って提案したら置かせてもらえるようになった。でもそのバッグは5万円したから、全然売れなくってね(笑)。

色んなところに売り込みをかけながら製作を続けていたんだけれど、2004年には活動の幅を広げようと思って、台東区にあるファッションやデザインの創業支援施設「デザイナーズビレッジ」の第1期生に応募してみた。

無事選出されて、エムピウ1本で活動できるようになって、財布やペンケース、キーケースなどを、デパートの催事場などに置かせてもらって売り込みをかけていたんです。

看板商品ミッレフォッリエ、ヒットのきっかけは新聞記事だった

− ところで、看板商品の「ミッレフォッリエ」はいつ頃生まれたんですか? 今日はそのお話も聞きたくって!

村上さん
2004年にはもう販売していたね。ミッレフォッリエは発売して14年経つけれど、いまだに月間800個は出荷されていく。エムピウが続いているのもこの財布のおかげですよ。

− 根強いファンが多いお財布ですけれど、看板商品になるまでにはどのような経緯があったのでしょうか?

村上さん
ヒットは新聞記事がきっかけでしたね。松屋百貨店の催事場でミッレフォッリエを見た新聞記者がコラム枠で紹介してくれて、電話やFAXで問い合わせがじゃんじゃん来たの。それから先は口コミでファンが増えていったんです。

その時は、メディアの力ってすごいなと思いましたね。狙ってやったわけではないんだけど、人の目に触れさせることって大事なんだなと。

ミッレフォッリエはその後、パクリ製品が出るくらい人気になりました。お客さんから「パクられてますよ!」ってお怒りの電話がかかってくるんですよ(笑)。心境は複雑だったけれど、それだけお客さんから愛されているのは嬉しかったですね。

− 村上さんは蔵前に工房とショップを構えていますけど、お店はいつごろ構えられたんですか?

村上さん
2006年のことだったね。店はデザイナーズビレッジを卒業するときに事務所兼ショールームが必要になって構えたの。製品が売れるようになったら大家さんが2階も貸してくれるようになって、1階がショップ、2階が工房兼事務所という現在の形になりました。

承継は考えていない、エムピウは僕一代のブランドです

− エムピウは、財布以外にキーケースやペンケース、バッグなども手がけていますよね。これらの製品はどのようにデザインされているのでしょうか?

村上さん
うーん、ものによって様々だけど、基本的には自分が必要なもの、欲しいと思うものをデザインしてます。「デザインを考えてくれませんか?」という依頼もないことはないんだけど、納期を決められちゃうと嫌なんです。自分が興味関心を感じられるものじゃないと作れない。

製品が生まれるまではだいたい生みの苦しみがあるんだよね。うんうん唸って、長いこと悩んで。でも、生まれる瞬間は、頭に寝かせておいたアイデアや構造が組み合わさって腑に落ちるんです。「おっ! これだっ!」ってね。

村上さん
それをスケッチに落とし込んで、試作品を作って、あとは微調整かな。「うーん、ここのアールが違うな」とか(笑)。楽しいですよ。

− そんな風に作られているんですね。これだけ評判になると、ブランドは村上さん1人では運営しきれないですよね? 全国にお取引先もあると思いますし、組織としてはどのようにされているのでしょうか?

村上さん
言っても小さなチームですよ。営業はいないし、店舗の運営と受発注の作業だけスタッフに手伝ってもらっています。生産は工場に委託しているので、僕は工房でデザインしたり、お取引先や工場と打ち合わせをしたりすることが多いですね。

− 最後に、これからのエムピウについてお聞きしたいです。事業は軌道に乗っていますが、誰かに受け継いだりなどは考えていませんか?

村上さん
実はあまり考えていないんです。「m+(エムピウ)」は、村上の「m」と、使う人を表す「+」を合わせた名前。だから、僕がいなくなったら違う名前にするべきだと思っている。他の人が考えたデザインに「エムピウの商品です」って言うのも嫌だしね(笑)。

ブランドとしてはミッレフォッリエに負けない看板商品をもうひとつ生み出したいと思っています。色々試行錯誤はしているんだけれど、これを超えるものはなかなか生まれなくって。だから当面の目標はそこですね。

<インタビュー終わり>

このインタビューのなかで、「エムピウは僕一代のブランドです」という言葉が印象に残った。

なにか事業を始めて、それが軌道に乗ると、事業承継は考えずにはいられない問題だ。けれど村上さんはきっぱりと「承継は考えていません」と話してくれた。きっとその決定は、デザイナーであり職人である自分を大切にしたから生まれたものなのだろう。

仕事は大切なものだけれど、なぜ自分がその仕事をしたいのかは無視できないもの。
独立する前には一度立ち止まって、ゆっくりと考えてみたい。

M+(エムピウ)
住所:東京都台東区蔵前3−4−5
URL:http://m-piu.com/

<執筆・撮影:鈴木雅矩>

2018年11月16日

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