2013年に書籍化、2015年には映画化も果たし一世を風靡した「ビリギャル」。
学年ビリのギャルが偏差値を40上げて慶應義塾大学に合格したサクセスストーリーは、多くの人に希望を与えてくれる作品となりました。
そんな「ビリギャル」のモデルとなったのは、小林さやかさん。
慶應義塾大学を卒業した後は、ウェディングプランナーとして就職。「ビリギャル」の本・映画と人気を博したことで、講演の依頼を受けるようになりました。
そして2017年「今しかできないことに挑戦」するために「ビリギャル」を卒業し、起業を果たします。
今回は小林さやかさんに、「ビリギャル」ヒットのその後のお話や講演活動・それに伴う学校教育の課題について、そして起業に至るまでの経緯をお聞きしました。
小林さやか坪田信貴著『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』の主人公「ビリギャル」本人。現在29歳。
自身の経験を活かして、現在は全国の中高生や親御さまを中心に講演活動を行うなど、幅広く活動中。2017年10月には、クラウドファンディングにも挑戦、見事達成し、結婚式場を貸し切ったイベントの開催なども行った。
また、独自の熱い子育て論を持つ母(通称ああちゃん)と『ダメ親と呼ばれても学年ビリの3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話』を共著で出版。
「失敗作」だと言われた母の教育は、決して間違っていなかった
―さやかさんと言えば、やはり「ビリギャル」の実話モデルになった人というイメージが強いですが、「ビリギャル」が人気を博して以降、何か変わったことはありましたか?
いきなり生活がガラリと変わるようなことはありませんでしたね。書籍化されたのが2013年末のことだったのですが、当時私は26歳でウェディングプランナーの仕事をしている普通の会社員でした。
しかし「ビリギャル」が映画化される頃には、全国から私に「講演をしてほしい」という依頼が舞い込むほど、反響も大きくなっていきました。
ちょうど自身の結婚も重なったことを機に、会社を辞めてフリーランスとして仕事をするようになったんです。以前と比べて変わったことというとそれくらいですかね(笑)。
―ご本人的にはフリーランスとしての仕事がウェディングプランナーの他に、講演活動が増えたくらい、という実感なんですね。さやかさんの周りの人はどうでしょう?
「ビリギャル」が有名になって、私の母の教育について知りたい、という声をいただくことが多くなりました。「ビリギャル」劇中でも描かれていますが、私の家は3人兄妹で、3人ともいろいろあったので、周りの人から母があまやかした結果の「失敗作」だ、と言われることもありましたから。
―「失敗作」とは、強烈な批判ですね…。
私は学年ビリのギャルでしたし、野球一筋だった弟は父のスパルタ教育に耐えられなくなって非行に走ったこともありますし、6歳下の妹は不登校だった時期がありました。それでも私の母は、周りの人からどんな批判を受けようとも、私たち3人を信じ続けてくれました。
その結果、私は慶應義塾大学に無事受かることができましたし、弟はちゃんと更生して就職をし、とてもいい奥さんと2人のこどもに恵まれて幸せに暮らしています。
そして妹はニュージランドに留学後上智大学に入学して、今では一社会人として立派に働いています。
それに加え「ビリギャル」が有名になったことで、私たちと一緒に困難を乗り越えてくれた母の教育に、耳を傾けてくれる人が増えました。
「失敗作」だと言われた母の教育は、決して間違っていなかった、と周りの人から認められた気がして、素直に嬉しかったですね。
―ずっとさやかさんたち3人を信じ続けた、お母さまの教育とは、どんなものなのでしょうか?
私の中でお父さんやお母さんって、「勉強しなさい!」とこどもに言っているイメージがあるんですが、私の母はその対極だったと思います。「勉強しなさい」なんて一度も言われたことありません。母はよく、私たちに「自分が”ワクワクできること”を見つける力を持ってほしい」と言っていました。
私は、坪田先生に出会ったときに「こういう面白い大人になりたい!」と思って、そこから「東京に行ってみたいな」「慶應義塾大学に行ってみたいな」と、”ワクワク”したんです。
その時に初めて、母がずっと言っていた「”ワクワクできること”を見つける」という教えを理解できました。
そしてその教えは、今の人生にも大きく影響しています。
こどもたちはもちろん、大人も”ワクワク”するかどうか、すなわち「動機づけ」が全てだなって思うようになったんです。