「おもしろい時計が作れれば、それでいいんです。」
そう語るのは、時計“作家”の篠原康治さん。篠原さんは多くの弟子から慕われる時計作りの師であり、日本手造り腕時計協会(JHA)の経営者でもあります。
篠原さんの考えの根幹にあるものは「おもしろい時計を作る」姿勢でした。時計“作家”としてさまざまな作品作りに挑戦するのも、会社を経営するのも、おもしろい時計を作ることをまず第1にしているからです。
篠原さんは、なぜ時計作家になったのか。時計作りへのこだわり、弟子への思いに至るまで、流行にとらわれず、自分の感性に従って時計を作り続ける篠原さんの生き方に迫ります。
大学卒業後、商社に就職。香港やシンガポールの海外営業を担当。香港の時計メーカーを訪れた際、手作業で時計を組み立てる現場を見て衝撃を受け、時計作家になることを決意。29歳で商社を辞めて吉祥寺に時計工房を開業する。
紙製の時計など独創的な手作り時計が話題となり、時計作家志望の若者が集まるように。
時計作家の支援を目的に「日本手造り腕時計協会(Japan Handcraft-Watch Association)」を立ち上げ、国内のハンドクラフトウォッチ制作の基盤を築いた。
人と同じことはやらない! 時代に逆行してでもやりたかった時計作り
——篠原さんは30年以上、手作り腕時計の作家として活躍されています。まずは、篠原さんが時計作りに出合った経緯を教えてください。
30年以上前、僕はもともと商社に勤めていました。ちょうどその頃は、香港やシンガポールなどで工場生産が盛んだった時代です。そんななか、僕は安く大量生産された製品を日本に輸入する海外営業の仕事をしていました。
初めて時計産業と出合ったのは、香港の小さな時計メーカーを訪ねたときのこと。工場を覗いてみると、人がひとつひとつ手作業で時計を組み立てていました。僕はその光景を見てびっくりしたのと同時に、「自分も作ってみたい」と思ったのです。
実は昔から時計が好きだったので、商社マンとして、いつか海外製の時計を扱う商売をやってみたいという気持ちはあったんです。それがまさか自分で時計を作るようになるとは思ってもみませんでしたけどね。
——現場を見たことがきっかけで、作り手としての意識に目覚めたのですね。時計作りを始めることに関して、周囲の人たちの反応はどうでしたか?
当然、周りの人たちには反対されました。時代の流れに合わせて海外製の安い商品を仕入れて国内で売る仕事をしていたというのに、それとは逆に、手間暇かけて1個ずつこの手で時計を作ろうというのですから。
決して商社の仕事が嫌だったわけではありません。時計作りの現場を見たあのとき、心に火がついたというか、直感的に惹かれてしまったんです。
子どもの頃から図画工作だけは得意だったので、あらためて思い返すと、僕はやっぱりモノを作る側の人間だったんだなと感じます。
それに、時代や世間の流れに逆行する心地よさみたいなものもありました。人と同じことをやりたくないという気持ちがどこかにあったのでしょうね。
——時計作家として身を立てられるようになるまでは、商社勤めを続けたのでしょうか?
いいえ。時計作りに専念したかったので、香港の工場を見た数ヶ月後には会社を辞めて、工房を開きました。
それが29歳のときのことです。実際に時計が売れるようになるまでには、1年ほどかかりましたね。
——時計の作り方はどのように学んだのですか?
香港に通いながら、基礎的な作り方についてはメーカーの方に教えてもらいました。あとは全部独学ですよ。時計作りを教えてくれるような場所はありませんでしたから。
時計作りといっても、最初は香港で教わったように、パーツを仕入れて時計を組み立てる程度のものです。そこから徐々に評判が広がって、雑誌の読者プレゼントやセールスプロモーション用のカスタム時計を受注するようになりました。
とにかく、おもしろい時計ってどんなものだろうと考えながら試行錯誤して。そして自分なりの手作り時計を制作するようになったんです。