ビジネス誌や書籍をはじめ、アカデミックな場で語られるリーダー論。
理想やビジョンを掲げただけでは、人がついてくる保証はない。
リーダーは自ら行動し続けるからこそ、共鳴が生まれ、仲間が集まる。
今回は、公務員を経て40歳でサイエンスプロデューサーとして独立された
米村でんじろう氏を取材。勝算があったわけではない、手探りからのスタート。
経験を重ねながら見えてきた経営者としての視点を、語っていただいた。
プロフィール
米村でんじろう(サイエンスプロデューサー)
1955年、千葉県生まれ。東京学芸大学大学院理科教育専攻科修了。学校法人自由学園講師、都立高校教諭を務めたのち、科学の楽しさを広く伝える仕事を目指し、96年、サイエンスプロデューサーとして独立。同年、NHK『おれは日本のガリレオだ!!』に出演し、話題となる。98年、米村でんじろうサイエンスプロダクションを設立。科学実験の企画・開発、サイエンスショー、実験教室、研修会の企画・監修・出演、テレビ番組、雑誌の企画・監修・出演など、幅広いフィールドで活躍を続けている。
遊んだ野山と自然が、科学への興味を醸成した
――サイエンスプロデューサーとして活躍される米村さんですが、昔から理科が好きだったのですか。
米村:昭和30年代、僕が少年時代をすごした千葉県・市原市は何もない山奥の農村で、その頃の自宅は藁ぶき屋根、風呂をわかすのは薪でした。しかも、10㎞くらい歩かないと買い物もできない。でも今では道路が整備され、ゴルフ場も増え、小湊鉄道を見学する鉄道ファンが訪れるなど、けっこうにぎやかな場所になっています。
当時は小川や森林が周りにたくさんあって、魚や虫をとったり、秋は山菜とりをしたり、道に電灯がないから夜空もすごくきれいでね。手先が器用なほうでしたから、遊び道具も自分でつくっていました。天体望遠鏡とか木の枝にゴムを張ったパチンコとか、次第にエスカレートしてケガをすることもありました。その時の傷あとが、今も左手首に残っています(笑)。
そうやって野山で遊びながら、自然科学、理科にどんどん興味がわいていったんですね。それらについて教えてくれるのは、学校の理科の授業とNHKの実験番組。成績は、理科だけは5段階評価の5か4でしたが、ほかの教科はアヒル(2)ばかりでしたよ。
――大学は3浪の末、東京学芸大学に進学されています。
米村:当時の日本は高度経済成長の波に乗り、大学進学率が急上昇していました。両親からも「国公立なら」と言われて国立の理工系を目指していましたが、3浪(笑)。その間、工場で働くなど紆余曲折を経ながらも一人自宅で勉強を続けていました。結果、教師になる気もないのに、東京学芸大学の理科教育科へ進学。何とか滑り込みで、受かることができました。
2年までの教養課程はついていけましたが、僕が専攻していた物理学は3年以降、相対性理論や量子学など複雑で専門的になります。得意だった物理が全くわからず、どんどん落ちこぼれていきました。でも、卒業はしたいので研究室に入れてもらって、そこで、80年代初頭にやっと普及し始めたパソコンにはまるのです。
お金はないけど時間だけはあるから、毎日、朝から晩まで研究室のパソコンをいじっていました。そうすると当然研究室の誰よりも使えるようになって、物理現象のシミュレーションをするプログラムをつくったりするように。次第に先生たちから「これをプログラミングしてほしい」と頼まれるようになって、「自分もやればできるんだ」と思えるようになりました。落ちこぼれの自分が自信を取り戻せたという意味で、パソコンとの出合いは大きかったです。