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「水曜どうでしょう」藤村・嬉野Dが“フリーより自由な会社員”になれた理由_前編

生ボイス

北海道テレビ(HTB)のディレクター藤村忠寿さん・嬉野雅道さんが手掛ける「水曜どうでしょう」は、鈴井貴之さん(企画・出演)と大泉洋さん(出演)の4人が繰り広げる軽妙なやり取りと、何が起きるか読めない現場での対応などから見えてくる彼らの人間性や関係性が視聴者を惹きつけ、HTBを代表する人気番組となって久しい。番組が始まったのは1996年。2002年レギュラー放送終了後の現在も、様々な放送局・インターネットで再放送を重ねている。番組開始から間もなく30周年を迎える今もなお、番組を再編集したDVDが発売され、新作を待ち望むファンの心を離さない。

現在、お2人は「水曜どうでしょう」のDVDやグッズ制作・販売のみならず、イベントをしたり、個々人でインターネット販売をしたり、YouTubeを始めたりと数々の“副業”をしている。今回はお2人が手にした「自由な会社員生活」についてお伺いしました。

<プロフィール>

藤村忠寿さん
北海道テレビ放送株式会社コンテンツ事業局クリエイティブフェロー ・「水曜どうでしょう」チーフディレクター(1965年生・愛知県出身)

北海道テレビ放送(HTB)の東京支社編成業務部、本社の制作部を経て、1996年にチーフディレクターとして「水曜どうでしょう」を立ち上げる。大泉洋主演ドラマ「歓喜の歌」、安田顕主演ドラマ「ミエルヒ」(ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、文化庁芸術祭賞 テレビ・ドラマ部門優秀賞)、HTB開局50周年ドラマ「チャンネルはそのまま!」(2019年日本民間放送連盟賞テレビ部門グランプリ)の演出などを手掛ける。役者としてドラマや舞台に立つほか、劇団“藤村源五郎一座”も旗揚げするなど幅広い活動を行う。著作は「けもの道」(KADOKAWA)、「笑ってる場合かヒゲ 水曜どうでしょう的思考」(朝日新聞出版)など多数。

嬉野雅道さん
番組ディレクター・「水曜どうでしょう」カメラ担当ディレクター(1959年生・佐賀県出身)

映像会社、フリーランスを経て1996年にエイチ・テー・ビー映像株式会社に入社。その半年後には「水曜どうでしょう」のカメラ担当ディレクターとなる。定年退職後も北海道テレビ放送(HTB)コンテンツ事業室に嘱託職として所属中。大泉洋主演ドラマ「歓喜の歌」ではプロデューサーを、安田顕主演ドラマ「ミエルヒ」(ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、文化庁芸術祭賞 テレビ・ドラマ部門優秀賞)では企画・プロデュースを務める。著書は「ひらあやまり」(角川文庫)、「ぬかよろこび」(KADOKAWA)、「思い出リゾート 【別冊】ロケの手応えゼロだった「水曜どうでしょう」の新作はなぜおもしろかったのか」(光文社)など多数。

お2人の公式ホームページはコチラ

番組のレギュラー放送終了後も変わらない会社との関係

―まずは現在のお二方の働き方についてお伺いできますか?

嬉野さん)定年を過ぎましたけどね、会社との関係は全く変わらないで、もらうものをもらってるっていう感じなので、会社員のときと変わらないですね。

藤村さん)我々はね、特にね、定年もない感じなんですよ。

毎年更新で、会社から条件が提示されているんです。僕も今年の5月で60歳になるので定年なんですけど、会社からは我々だけ基本的には定年という概念がないって言われていて、今の給与のまんまずっと、役職定年もないんですよ。

我々から会社に、具体的な条件とかは言ってなかったけど、まあ、昔から給料に関してごねていましたからね(笑)。

会社の人たちからすると「なんで彼らだけあんな好き勝手にやってんだ、会社も来やしねぇし」みたいな感じなんですけど、我々が会社外でYouTubeやったり、ニコニコ動画やったり、いろんなことをやっていることで、北海道テレビ“HTB”(以下、HTB)っていう会社も「水曜どうでしょう」っていう番組も、広く認知されているということを、会社も認めてくれているから、もう何をやるにしても、会社に申請も出してない(笑)。

嬉野さん)そう言えば、出張申請とか会社に出してないです。

藤村さん)新しい取り組みとかも、本当に事後報告。

嬉野さん)会社に出張申請を出すっていうルールを、よく分かっていないで出張していたもんですから、そのまま今になっちゃっているんです。

藤村さん)うん。色んな申請は、もう出さなくても良くなってる。

嬉野さん)HTBの体質として、一回、「まぁ、いいか」ってなったら、もうそのままダラーっといく(笑)。

藤村さん)そういうところ、ありますよね。

嬉野さん)ね。なし崩し的に。

藤村さん)そう。なし崩しで自由になっていくところがありますよね。

来年、「水曜どうでしょう」も30周年みたいな感じなんですけど、ここ10年ぐらいですかね。会社がそうやって、本当にもう「好き勝手にやっていいよ」みたいな感じになってきた。

 

―「水曜どうでしょう」が、うまくいったなって思ったのはどれぐらいの時期ですか?

嬉野さん)もう最初っから。最初のロケに行った時から。

藤村さん)番組の上がりとして最初から満足していたところがあるんじゃないですかね。

嬉野さん)ありました、ありました。
「イケてるよね」みたいな感じじゃなかったですか?

藤村さん)うん。番組は人気になるよなっていう風に思っていたから、たまに視聴率が悪かったりすると、本当に「おっかしいなぁ?お客さんの方がおかしいんじゃないかぁ?」ぐらいに思っていましたからね。あんまりお客さんの反応っていうのは、そこまで気にしていなかった。番組が始まって2年経った1997年に「ヨーロッパ21ヵ国完全制覇 」企画をしていたぐらいの頃には視聴率もね、どんどん上がっていったし。

嬉野さん)視聴率が一番良かったのは多分ね、その頃だね。

藤村さん)1999年からは秋田朝日放送でも番組が流れるようになって。そりゃあ、面白いと思うよな、みんな(笑)っていうのは思ってましたから。

10年近く会社に掛け合った結果、フリーランスよりフリーになれた

―「水曜どうでしょう」が会社にすごい利益をもたらすようになってから、働きやすくなったとか、会社に意見を言いやすくなったとか変化はありましたか?

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