1人ひとりの「個」が尊重される時代になりました。
高度成長期の頃はさまざまな製品が大量生産され、
「みんなと一緒」であることが美徳とされてきましたが、
現在では自分の個性を大切にし、
「人とは違う」「自分だけのもの」を求める人が増えています。
今回お話を伺ったのは、玉造清之さん。
大工だった父のもとでの修行からスタートし、
現在は株式会社solasioの社長として、
自然素材にこだわった「その人だけの家」をお客さまに提案し、形にしています。
会社が現在の形になるまでに何を考え、どう辿り着いたのか、お話をお聞きしました。
<プロフィール>
玉造 清之さん
株式会社solasio
代表取締役
1974年、神奈川県横浜市生まれ。
県立都岡高校(現在の県立旭陵高校)を中退後、
大工だった父親のもとで3年間大工の修行をし、
21歳の時に1人親方として独立。
27歳の時に有限会社玉造工務店を設立。
ハウスメーカーや不動産屋の下請けとして工事全般を請け負っていたが、
自然素材にこだわった「その人だけの家」を建てたいと考え、
32歳で株式会社solasioに組織変更。
現在は注文住宅や店舗などの設計施工のほか、
不動産事業や建売住宅の販売なども手がける。
大工の父から学んだ「技術」と「気持ち」の大切さ
-現在に至るまでの経緯を教えてください。
玉造さん
実は私、高校を中退しています。高校は毎日楽しすぎて、学校には行っているのに友だちと遊んでばかりいて自分の教室にいることが少なかったんです。
その後特にやりたいこともなかったですし、子どもの頃から何となくですが、父と同じ大工になるのかなと感じていたこともあり、父のもとで大工の修行を始めました。
父は「気配りができないやつはいい仕事ができない」という考えだったので、最初の1年は道具すら触らせてもらえず、お茶汲みや掃除、現場の片付けをしていました。そして徐々に仕事を覚え、3年経って大工の1人親方として独立しました。
-大工の仕事はどうやって獲得したのですか?
玉造さん
修業期間に知り合った人や組合などからの紹介もあり、いろいろ仕事をいただきました。
独立したての頃は大工の技術が未熟だった私は、仕事ができる大工の先輩たちに相場より高いお金を払って仕事をお願いし、その中で個人的に技術を教えてもらいました。
また私は負けず嫌いなので、建売住宅等の複数の家を同時に建てる多棟現場では、他の大工よりも早くてきれいな仕上がりにこだわって仕事をしていました。とにかく早く一人前になりたいと必死だったので、時には生意気な発言をして出入り禁止になる現場もありましたよ(笑)。
そうして大工として注文住宅や建売住宅の仕事を年間7~8棟担当するようになりましたが、次第に注文住宅とは名ばかりの、「同じような家」を作っていると感じるようになりました。「このままではつまらない。もっと真剣に住む人のことを考え、工夫をして仕事がしたい」と思った私は、大手ハウスメーカーから大工工事だけではなく住宅の施工を丸ごと請け負い、大工兼監督として家づくりに携わるようになりました。26歳の頃です。
-どうやってハウスメーカーから仕事を獲得したんですか?
玉造さん
自分で言うのも何ですが、当時の私は「ミスなくキレイな仕事を誰よりも早く」にこだわって仕事をしていたので評判がよかったこともあり、仕事で関わったさまざまな人たちから紹介していただきました。
私は父のもとで修行している頃から、この仕事で大切なのは「技術」と「気持ち」だと教えられ実践してきましたので、現場で関わる人たちとの関係がいい結果に表れたのだと思っています。