引退やリストラ。
そんな人生において重大な選択に迫られた時、あなたはどのような決断をしますか?
転職や起業と積極的に新たな道に進む人もいれば、経験したことのない“未知の世界”に対して不安や恐怖を感じ、挑戦する前から「自分には無理だ」と決めつけてしまう人もいるのではないでしょうか。
ですが、それで仕事選びの幅を縮めてしまうのはもったいないと、今回お話を伺った元プロ野球選手の奥村武博さんは言います。
奥村さんは、プロ野球選手として阪神タイガースで4年間プレーした後、合格率約10%という公認会計士の試験に合格し、現在は一般社団法人アスリートデュアルキャリア推進機構の代表理事としてご活躍されています。
今回は、そんな困難な道を歩んできた自身の人生を振り返るとともに、新たなキャリアを築く際に大切なことをお聞きしました。
奥村武博(おくむら・たけひろ)さん
税理士法人オフィス921スーパーバイザー/一般社団法人アスリートデュアルキャリア推進機構代表理事
1979年生まれ、岐阜県出身の元プロ野球選手。
1997年のドラフト会議にて、阪神タイガースから6位指名を受けて入団。その後は1軍で登板することなく、2001年のシーズンオフに戦力外通告を言い渡され、現役を引退。2002年は阪神で打撃投手を務める。
2003年からはバーやホテルなどで働き、翌年から公認会計士の資格取得を目指すと、2013年に合格。翌年から優成監査法人に勤務し、2年間の実務経験と修了考査を終え、2017年6月に公認会計士登録。元プロ野球選手として初の公認会計士となる。
同年10月より税理士法人オフィス921にて会計士として勤務。それと同時に、一般社団法人アスリートデュアルキャリア推進機構を設立し、代表理事に就任する。
【著書】『高卒元プロ野球選手が公認会計士になった!』
公認会計士試験の合格率は10%、甲子園に出場できる確率、約1.67% ―数字の捉え方次第で、考え方は変わる
ー元プロ野球選手であり、現在は公認会計士として活躍されている奥村さん。現在に至るまでの経緯を教えてください。
3歳で野球を始めて、この頃からプロ野球選手を夢見て白球を追いかけていました。
中学生になってからは学校の軟式野球部でプレーしていたのですが、地元・岐阜県多治見市は野球熱が高く、チーム内にレベルの高い選手が数多く在籍していました。
その影響で「甲子園に行きたい」と思うようになり、高校は県内の強豪・岐阜県立土岐商業高校に進学したんです。
ただ、高校2年の春からエースナンバーを背負わせていただきましたが、夢だった甲子園の土を踏むことは叶いませんでした。
甲子園投手ではないですし、150kmを投げられるような豪腕でもなかったので、プロになるのは諦めて社会人で野球を続けようと決めていたんです。
そう思っていた矢先、1997年のドラフト会議で阪神タイガースから6位で指名していただきました。実際に指名されたことを知っても、半信半疑でしばらく信じられませんでしたね。
ープロ野球のスカウトの方は奥村さんの投球をしっかり評価されていたということですよね。夢だったプロの世界に入ってからはいかがでしたか?
やはり、プロの世界は甘くはありませんでした。
阪神では4年間プレーさせていただいたんですけど、結局1軍の公式戦で登板することなく、2001年のシーズン終了後に戦力外通告を受けてしまったんです。それを機に引退を決意しました。
当時は自分の中でそれなりに一生懸命プレーしていたんですが、心のどこかに「気の緩み」があったように思います。メニューは他の選手と同様にこなしても、練習に身が入っていなかったというか…。
ーなぜでしょう?
今振り返ると、幼少期から描いていたプロ野球選手になるという夢を実際に叶えたことで、満足してしまったから、なんじゃないかと思います。
あれから約20年経った今でも「もっとプロ意識を持つべきだった」と後悔していますね。
ーそうだったのですね。引退後、公認会計士を目指すきっかけは何だったのでしょう?
まず、引退してからは阪神で打撃投手を1年間務めて、その後は飲食店で働き始めました。
その時に「社会人としての自分の価値のなさ」に気がついたんです。
それまで野球しかやってこなかったこともあり、自分がいかに社会で何もできないのか、ということを痛感しました。
将来を考えて「このままでちゃんと生きていけるのだろうか…」と不安感と焦燥感に襲われました。
ですがそんな時、当時付き合っていた彼女(現在の妻)から「もっと視野を広げなさい」と、資格のガイドブックを手渡されたんです。
実際に読んでみると「世の中にはこんなにたくさんの資格や、仕事があるんだな」と。野球以外の世界を知るきっかけになったんですね。
そこでたまたま目にしたのが、公認会計士という資格でした。
ガイドを読みながら、これが簿記・会計の最高峰の資格であることを知った時、「これだ!」と思ったんです。
というのも、思えば僕は商業高校出身で、日商簿記2級の資格を取っていたんですよ。
なので、簿記の知識を活かし、公認会計士の世界でも活躍できる可能性があるんじゃないかと。そう思って、24歳から公認会計士を目指すことを決めたんです。
ーなるほど。ただ、公認会計士は「医師」「弁護士」と並ぶ日本の3大国家資格に数えられるほど難関だと言われています。簿記の知識があったとはいえ、なぜあえて困難な道を選択されたのでしょうか?
確かに当時の合格率は約10%、合格者数も約1000人程度で“超”難関資格と言われていました。
でも過去の野球人生を考えると「案外難しくないんじゃないかな…?」と思えたんですよね。
ーなぜでしょう?
そもそも、プロ野球選手になるということ自体がとても狭き門です。
しかも高校時代には岐阜県に約60以上もある高校の中から1校しか出場できない甲子園に、王手をかけた経験もある。
そう考えると甲子園を目指すよりも、確率的にそんなに低くはないと感じることができた。要するに、“数字をどう捉えるか”によって考え方はガラリと変わるんです。
具体的な数字で比較すると、岐阜県の高校で甲子園に行くにはだいたい60分の1で、約1.67%の確率しかありません。ですが、公認会計士試験の合格率は10%。確率だけで考えれば「10%もあるんだ。全然いけるじゃん!」と(笑)。
僕はそういう数字の捉え方をしたからこそ、たとえ厳しい道のりでも臆することなく挑戦できたんだと思います。