転職したい、環境を変えたいと思いながらも、実際に行動することができないという人は少なくありません。
単純に今の仕事が忙しい人もいれば、次のキャリアに進むのに自信が持てない人もいるでしょう。
ですが、今回お話を伺ったカメラマンの松本時代(マツモト・ジェダイ)さんは、カメラの仕事はもちろんのこと、小説家やデザイナーとしても活躍されており、以前はお笑い芸人として活動されていた過去もお持ちです。
経歴を見るだけでも、その圧倒的な行動力で数々のキャリアを切り開いてこられた時代さんですが、行動力だけではどこかで必ず壁にぶつかってしまう、とも話しています。
時代さんがぶつかった壁とは何でしょうか?
今回は彼の数々のキャリアを振り返るとともに、何かを始めようと思っている皆さんのために必要なことを伺いました。
松本時代(マツモト・ジェダイ)さん
カメラマン/小説家/デザイナー1983年生まれ、和歌山県出身、京都造形芸術大学情報デザイン学科卒。元お笑い芸人。
大学卒業後、フォトスタジオに新卒で入社。アシスタント時代は女性ファッション誌をメインに、カメラマンとしては数々の音楽雑誌のページを撮影。
バンド「毛皮のマリーズ」の元専属カメラマン。毛皮のマリーズ志磨遼平とのデザイナーズユニット「サティスファクションズ」としても、CDジャケット等のデザインを多数手がける。
2008年によしもとクリエイティブ・エージェンシー大阪のお笑い芸人として活動を開始。
2010年に放送作家・かわら長介氏に芸名を「松本時代(ジェダイ)」へと改名させられる。2012年のR-1ぐらんぷりで準々決勝進出を果たす。
2012年にはお笑い芸人と並行して、元・毛皮のマリーズの志磨遼平率いるバンド「ドレスコーズ」の1stシングル「TRASH」のアーティスト撮影をきっかけに、4年振りにカメラマンとして仕事を開始。
2013年でよしもとを退社し、現在はカメラマン、小説家、デザイナー等さまざまな分野で活動中。
「自分の武器とは何か」を考える。カメラマンからお笑い芸人に転身後、再び写真を撮り始めた理由
ーカメラマンや小説家、デザイナーなどさまざまな活動をされている松本時代さん。現在に至るまでの経緯をお聞かせください。
もともと写真を撮ることが好きだったこともあって、高校を卒業してから芸術大学に進学し、4年間写真を学びました。大学卒業後は、カメラマンになるための第1歩としてフォトスタジオに入社し、プロの現場で経験を積みました。
一般的にカメラマンになるためは、フォトスタジオに勤務後プロカメラマンに弟子入りしてアシスタントとして働いた後に独立、というのが王道な流れだと言われています。
しかしその順を追っていくと、独立するのは26〜27歳になってしまう。
その時の僕はプロカメラマンになるためにそんな煩わしいプロセスは必要ないと、フォトスタジオを1年で退社し、その後そのままフリーランスになる道を選択したんです。
ーあえて王道のコースから外れる選択肢をとったのですね。独立されてからはどのような仕事をされていたのでしょう?
メインの仕事としては、「毛皮のマリーズ」というインディーズバンドの専属カメラマンをしていました。しばらくすると、運よくそのバンドが徐々にセールスや動員を伸ばし始めたので、相対的に僕の仕事も増えていったんです。
「このままいけば、もしかしたらこれからさらに大きな仕事が入ってくるかもしれない」。自己流のルートでカメラマンになった自分でも、王道コースを進んでプロになったカメラマンを超えることができるかもしれないと、期待が膨らみました。
ー自分が進んできた道は間違いではなかった、と。
はい。ですが、同時にプロとしての自分の立ち位置が分からなくなってしまいました。というのも、売れかけていたバンドにたまたまいいタイミングで携わっていただけで、自分のカメラマンとしての実力で仕事が増えたわけではなかったからです。
プロになるまでに順を追って修業をしていないので、余計に自分の実力が今どの程度なのか把握することができなくなって、返って悩むことになってしまったんです。
そのタイミングで「自分に合った仕事って何だろう?」と改めて考え始めたんです。
そこで気づいたのが、他のカメラマンと比べて自分は現場で誰よりも被写体を笑わせているということだったんです。僕は本当に単純な奴なので
「あっ、分かった! お笑い芸人が僕の天職だ!!」って(笑)。
お笑いは劇場でお客さんの前で芸を披露するので、面白いことを言えばすぐにお客さんからの「笑い」という形でレスポンスが返ってくるじゃないですか。
単純ですけど、その方が自分の実力が分かりやすいので、やりがいがあるなと思ったんです。とにかくその頃の自分は、すぐに掴める「手応え」が欲しかった。
ーそして、お笑い芸人の世界に飛び込んでいったわけですね。
はい。2008年から、よしもとクリエイティブ・エージェンシー大阪に所属し、24歳でお笑い芸人としてのキャリアをスタートさせました。活動を始めてからは、特に修業を積む間もなく、確か2ヶ月目で披露したネタが作家さんにウケて、テレビ出演などの仕事が、自分でも驚くほどトントン拍子で決まっていったんです。
ただ、これもカメラマンの時と同じで、下積みが少ない分、ネタがウケても何がどう面白いのか笑いの本質を、作っている当の自分があまり理解できていなかったんですね。
だから結果が出たのは最初のうちだけで、1〜2年もしたら完全に頭打ち状態になってしまったんです。
「またかよ」、と思いました。全てを捨てて飛び込んだ世界でもまた僕は「思いつき」で行動してしまっている、と。
自分が煩わしいと蔑ろにしていた修業や、プロセスが実は一番大事だと気づいたのがこの時期です。
その後は、お笑いに関してできる限りの努力はしたつもりです。毎日ネタを書いて毎日道頓堀の河原で深夜練習して。
修業を積み、満を持して出場した2012年のR-1ぐらんぷりで準々決勝敗退したところで、ようやく燃え尽きた、というか僕はその時初めて「悔しい」と思ったんです。初めてたくさんの努力をしたから。
ー準々決勝に進出するだけでもすごいと思うのですが…。そこからお笑い芸人としての活動は続けていくのでしょうか?
正直、迷いましたね。芸人としての自分の武器がなかなか見つからず、もがいていましたから。そのタイミングで、以前専属カメラマンとして撮影していた「毛皮のマリーズ」のスタッフからある日たまたま連絡がきたんです。
「バンドが解散するんだけど、そのボーカルを中心に新しいバンドを結成するから、またカメラマンとして東京に戻って来ない?」と。
その時に「俺の武器って、お笑いだけじゃなくない? カメラもできるじゃん。あれ、そもそも僕はなんでカメラマンを辞めたんだ? 写真が撮れることってすごい武器じゃないか!」と思ったんです。
ありがたいことにお話をいただいたことをきっかけにカメラマンとして再び活動していく決心をしたんです。
その後は2013年によしもとを退社し、2年間フリーランスとして芸人と並行しながらカメラマンとして仕事をしていたのですが、段々と撮影の仕事が軌道に乗り始めてきたので、2015年のR-1ぐらんぷりに出場したのを最後にお笑い芸人としての活動は終え、現在はカメラマンの仕事をメインにしています。