自宅のひと部屋に設けられた工房。作りかけの時計に真剣なまなざしを向けるのは、時計職人の宮井ありささんです。
宮井さんは時計作りに情熱を捧げる職人でありながら、「花屋」を営む夫を支える妻でもあり、ふたりのお子さんを育てる母親でもあります。出産・育児のために一旦は時計作りをリタイアしたものの、2年ほど前に復業しました。
一度は止まった時計が再び時を刻み始めたのは、ほかでもない、宮井さん自身の情熱によるもの。時計職人も子育ても真剣に向き合う。自分の感情に素直にしたがい導かれるようにたどり着いた“今”、彼女は何を思うのでしょうか。
スタイリストに憧れて専門学校に進学するが、その職業に対して疑問を抱くようになる。そして専門学校卒業後、語学留学でイギリスへ。帰国後、アクセサリーショップの販売員として就職。
無為な時間に焦りを感じていた頃、JHA(Japan Handcraft-watch Association)の社長を通じて時計作りに巡り合い、のちに20代半ばで時計職人として独立。結婚・出産を機に一旦は時計作りから離れたが、10年のブランクを経てふたたび時計作りを始めた。
クラフトウォッチとの出合い。そこから時間は動き始めた
——ふたりのお子さんを育てながら、ハンドクラフトウォッチを制作する時計職人である宮井さんですが、そもそもどのような経緯で腕時計作りをするようになったのですか?
実はもとから時計職人を目指していたわけではなく、昔はスタイリストになりたいと考えていたんです。雑誌なんかでモデルをスタイリングするような。そのために、バンタンデザイン研究所という専門学校へ通いました。
ですが当時、スタイリストという仕事がとても人気で。それはもう原宿に石を投げればスタイリストに当たる、というくらい(笑)。
そこで私は「これは人のスタイリングをやっている場合ではないな」と、思ってしまったんです。スタイリストという仕事の魅力が失われたような気がして、すっかり憧れから醒めてしまいました。
もともと「自分のためにお金を貯めて好きなことやろう」と思って、専門学校に通いながらバイトをしていました。卒業後、先も決まらぬまま何かを求めて語学留学という形で独りイギリスへ飛んだんです。
そして帰国後、販売員として恵比寿のアクセサリーショップに就職しました。
それでも自分のやりたいことがはっきり見つからなかった。販売の仕事もある程度までできるようになったのですが、そのうちに「私、ここで何やってるんだろう…」と思うようになって。
そんな時、時計作りに巡り合いました。
——仕事をしながら自分の好きなことを探しているうちに、やっと見つけたんですね。
はい。しかもハンドクラフトの時計を出品しているお店、JHAが私の職場の目の前にブースを出していたんです。それはもう目と鼻の先にありました(笑)。
それからは働きながら時計作りのレッスンに通いました。そして25歳のとき、時計作りの師匠が「そろそろ自分で作ってみるか?」と言ってくれたんです。こうして、会社を辞めて時計作家としてのキャリアが始まりました。