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セカンドキャリア

年々、人手不足が深刻化している物流業界。 荷物の運び手となる十分な人員数を採用することができず、ドライバー不足によって倒産する企業も相次いでいます。 そんな物流業界の問題を解消すべく立ち上がったのは、今回お話を伺った元プロサッカー選手の加藤大志さん。 (さらに…)
どんな世界でも、主役を支える上で欠かせない“名脇役”。 自分の役割に徹し、サポートしてくれる彼らの存在があるからこそ、主役は大きな光を放つことができます。 ビジネスシーンにしてもそう。主役である顧客が本当に望んでいること、進みたい方向性を理解し、パートナーとして支援する名脇役(企業)の存在は欠かせません。 (さらに…)
一見、華やかなプロ野球の世界。 活躍すれば、スター選手としての地位を確立することができ、膨大な報酬がもたらされます。 その反面、高年俸を稼ぐ選手はわずかひと握り。試合で結果を残せず、表舞台から身を引く選手の方が圧倒的に多いのです。 (さらに…)
誰もが抱いている、夢や願望。 でも「できる自信がない」「どうしたら実現できるのか分からない」と自分の中に閉じ込め、諦めてしまう人もいるのではないでしょうか。 今回お話を伺ったのは、元プロ野球選手のスポーツ科学博士・小林至さん。 (さらに…)
65歳以上の高齢者が増え続け、超高齢化社会を迎えている昨今。 年々、介護施設の役割は重要な位置を占めてきている。 2065年には人口は現在の3分の2に減り、65歳以上が総人口の38%以上になるとも言われているため、介護施設の存在は、今後さらに必要不可欠なものとなってくるだろう。 (さらに…)
くじけそうになった時、何かを諦めそうになった時、あなたならどう立ち向かいますか? それを乗り越えようにも、無謀な挑戦だと目の前の壁に背を向けてしまう人もいるでしょう。 ですが、今回お話を伺った柴田章吾さんは、ある難病と戦いながらもプロ野球選手になるという夢を叶え、現在はITコンサルタントとして活躍されています。 (さらに…)
あなたの強みは何ですか? 就職活動の面接で聞かれることの多いこの質問ですが、考えてみるとなかなか思いつかない人も多いのではないでしょうか。 今回お話を伺ったのは、元Jリーガーで現早稲田大学ア式蹴球部(サッカー部)監督の外池大亮さん。 外池さんはJリーガーとして活躍後、現在は早稲田大学ア式蹴球部監督と、スカパーJSATグループの社員という二足のわらじを履いています。 外池さんが監督を務める早稲田大学ア式蹴球部では、サッカーのスキルの良し悪しではなく、部員1人1人の強みを明確にして、部内、ひいては世の中でどのような活躍ができるかを考えているそうです。 今回は、外池さんの経歴を振り返るとともに、外池さんがア式蹴球部で実践されている監督像について伺いました。
<プロフィール> 外池大亮(とのいけ・だいすけ)43歳 早稲田大学ア式蹴球部監督/スカパーJSATグループ 神奈川県横浜市生まれの元プロサッカー選手。 1997年、早稲田大学からベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)に加入。 横浜F・マリノスやヴァンフォーレ甲府など複数のクラブを渡り歩き、2007年、湘南ベルマーレを最後に現役を引退。 現役引退後は広告代理店の電通に就職。サッカー日本代表のオフィシャルサポーターであるキリングループの担当営業を務め、サッカー事業に大きく貢献する。 その後はスカパーJSATグループに転職し、サッカーの試合中継や関連番組制作など、サッカーを発信する立場に身を置く。 2018年、母校早稲田大学ア式蹴球部監督に就任。 就任1年目にして、ア式蹴球部を関東大学サッカーリーグ戦で優勝に導く。 スカパーJSATグループと兼任しながら、早稲田大学、そして大学サッカー全体のレベルアップに日々奮闘中。

元Jリーガー・外池大亮が、現役時代にインターンに行った理由

ー元Jリーガーであり、現在は早稲田大学ア式蹴球部監督とスカパーJSATグループの社員を兼任されている外池さん。現在に至るまでの経緯を教えてください。
外池さん サッカーと初めて出合ったのは、小学生の時でした。小中学校とサッカーを続け、高校は早稲田実業高校に入学しました。 早稲田実業高校時代は、チームも高校サッカー選手権に出場できませんでしたし、私自身も特に期待されるような選手ではありませんでした。
ーそうなんですね。では、大学に進学されてからはどうだったのでしょうか?
外池さん 早稲田実業高校から、早稲田大学へ進学しました。 早稲田大学のサッカーのレベルが高いことは、入学前から分かっていたので「レギュラーメンバーとして試合に出るのは無理だろうな…」と思っていたんですが、たまたま1年生の時から試合に出るチャンスに恵まれて。 その試合で活躍することができてから、その後も少しずつですが試合に出られるようになったんです。 そしてその年に早稲田大学がインカレ(全日本大学サッカー選手権大会)で優勝することができ、私自身も優秀選手に選出されました。自分も試合に出ていた分、嬉しさと、もっとサッカーが上手くなりたいという気持ちが強くなりました。
ー大学サッカーでは、良いスタートダッシュを切ることができたんですね。
外池さん そうですね。そして4年生の時には、早稲田大学が20年ぶりに関東大学サッカーリーグ戦で優勝することができ、喜びもひとしおでした。しかし大学生活の4年間で、早稲田の伝統に疑問を持つようになりました。
ーそれはどういうことでしょう?
外池さん ア式蹴球部は早稲田大学の中でも特に伝統ある部活です。数多くのタイトルを獲得し、著名なサッカー選手を輩出してきました。現在でもJリーグのクラブや日本サッカー協会にはOBが大勢在籍しています。 ただ、マンモス校であり伝統があるが故に、たとえ先輩から理不尽なことを言われても「先輩の言うことは絶対」と言う雰囲気がありました。 例えば学校の授業が長引いた、など仕方ない理由で遅刻をしても、練習に遅れた罰としてグラウンド整備を3カ月やらされたり、走らされたりすることが、しょっちゅうでした。 それでも周りの人は「これが早稲田の伝統だから」と、すんなり受け入れてしまう。自分にとって早稲田大学ア式蹴球部は、次第に窮屈に感じるようになりました。 その後卒業も近くなったタイミングで、Jリーグのクラブからオファーをいただいたんですが、あえて早稲田大学のOBがいない、ベルマーレ平塚に入団することにしました。
ー早稲田大学との関わりがないクラブで、プロとしてのキャリアを歩み始めたのですね。プロの世界はどうでしたか?
外池さん プロの世界では、苦しいことの方が多かったと思います。 ベルマーレ平塚で活躍できて、2000年にビッククラブである横浜F・マリノスに移籍したんですが、低迷するチームの変換にあたって、2002年に戦力外通告を受けました。 2003年にヴァンフォーレ甲府のトライアウトを受けて入団しましたが、その後もいくつかのクラブを渡り歩くことになりました。 戦力外通告を受けて、次のクラブを探すのに苦労し、苦しい生活が続きましたが、Jリーガーとしての生活は私にとってとても貴重なものでした。 サッカーを通していろいろな場所に行ったり、いろいろな人と出会えたりして、常に自分にとって新しい環境に身を置くことができましたから。 そうやっていろいろな環境にいる中で、社会の中での「サッカーの立ち位置」を考えるようになっていったんです。
ー「サッカーの立ち位置」というと?
外池さん サッカーが、人々の生活の中でどのように扱われているかです。 例えば、人々の生活の中でサッカーがどのようにプロモーションされているか、それぞれのクラブがどれくらい地域の活性化に貢献しているか、などですね。 Jリーガーには、選手がサッカーに打ち込める充実したクラブハウスがあります。いろいろなクラブに在籍して、それを実感しました。 しかしJリーガーの価値は、ただ単に「サッカーが上手くて、チームの勝利に貢献すること」だけではないと思います。 サッカーが上手くてチームを勝たせるだけでなく、応援してくれるサポーターのために、そしてサポーターをより増やすために何ができるかを考えることができれば、その選手の価値はもっと上がると思います。 そのためにはJリーガー自身が、サッカー以外の世界を知ることがとても大事だと気づきました。
ー外池さんは、Jリーガーの新たな価値を作りだそうとしたんですね。具体的にどのようなことをされたのですか?
外池さん ヴァンフォーレ甲府のトライアウトを受けた2003年、同時に朝日新聞やアディダスなど、サッカー界と関わりがあるいろいろな企業のインターンに参加しました。 営業の仕事やスパイクなどの道具開発の現場をこの目で見ることによって、今まで選手としてだけしか関わってこられなかったサッカーのことを、複数の視点から見ることができるようになったんです。 しかしチームメイトからは、「引退後のことを考えてインターンに行ってる」と思われていたようで、「引退後のことを考えながらサッカーをしている人と一緒にプレーしたくない」と、冗談交じりに言われたこともあります。 でも実際は、当時のJリーガーとしての自分の価値を高めるためで、決して引退後のことを考えていたからではありませんでした。 例えば当時、応援してくれるサポーターのためにブログを開設しました。情報を発信することで、試合以外でもサポーターと触れ合うことができますし、もっと自分を深く知ってもらう良い機会だと思いました。

サッカーの上手さだけではない価値を生み出す。早稲田大学・ア式蹴球部が新たに目指すこと

ー外池さん独自の価値を示したのですね。では、いつから引退を意識したのでしょう?
外池さん これは私の持論ですが、Jリーガーは「選手としての価値がある時」に引退したほうがいいと思っています。 というのもプロサッカー選手の中には、監督との相性が良くないから、試合に出られないからといったネガティブな理由で、人知れず辞めていく選手も少なくありません。 だからこそ私が引退する時は、自分のサッカー人生を肯定できる、前向きな辞め方をしたかったんです。 Jリーグは日本サッカーの最高峰です。そこで自分ができる最高のパフォーマンスをして、チームに貢献したり給料以上の仕事ができたら、そこが辞め時だと思い、現役を続けてきました。 私にとって2007年のシーズン終了後がその時でした。2007年のシーズン終了後、11年間のプロ生活に終止符を打ちました。
ー有終の美を飾っての引退ということですね。引退後は、やはりサッカー関連の仕事に就こうと?
外池さん はい。選手としてはもちろん、インターンなどの仕事を通してサッカーと関わってみて、サッカーの価値を広めていくためには、スポンサーとメディアの役割が大きいと実感しました。 なので、引退後は(株)電通に入社しました。(株)電通とJリーグの関係は深く、知人の紹介での入社です。 (株)電通では、日本代表のオフィシャルサポーターであるキリングループの担当営業を務め、代表戦の運営やブランディングに携わりました。 (株)電通で5年間働いた後、今度は自分でサッカー関連番組を制作して、発信する立場になろうと思いました。そこで、(株)電通を退職して、現在も在籍しているスカパーJSATグループに転職しました。 そこで制作したのが、『Jリーグラボ』(https://soccer.skyperfectv.co.jp/relatedprograms/jleague_lab/)や『Jのミライ』(https://soccer.skyperfectv.co.jp/relatedprograms/jnomirai/)という番組です。
ーでは、早稲田大学ア式蹴球部の監督に就任するまでには、どのような経緯があったのですか?
外池さん 早稲田大学は昨年、関東大学サッカーリーグの2部に降格しました。そこでア式蹴球部のコーチの体制に変化を加えるべきという意見が広がりました。 そこでOBの間で、プロのサッカー選手だけでなく、社会で活躍できる人材を育てることができる指導者が必要という話になり、Jリーガーと社会人の両方の経験がある私に白羽の矢が立ったんです。
ーそうだったのですね。監督としての外池さんに求められていることは何だとお考えですか?
外池さん それぞれの学生が社会に出た時に、各々の形で社会に貢献できるようにすることです。 もっと言えば「日本をリードする存在になる」ことです。これは、今年のア式蹴球部のスローガンです。 大学サッカーではどうしてもサッカーの上手さ、つまりプロになれるかどうかで評価される傾向があります。 しかし、プロになることができる学生は一握り。大半の学生は企業に就職します。 プロに行く子も、企業に就職する子も、学生1人1人が部内での存在意義を見出せるような環境を作ることが、私のやるべきことです。 私が学生の時のように、早稲田の伝統に囚われて、考えることを止めてしまうような環境は作りたくありませんでした。 だから、ア式蹴球部での私の役割は、良い意味で早稲田の伝統を変えていくこと。今所属している学生たちだからこそ作れる、早稲田にしていくことです。 それぞれの部員の内に秘めている考えを引き出し、行動に移させるのも私の役割です。
ー部員たち1人1人が存在意義を見出だせる環境、とても素敵だと思います。そうした部を作っていくために取り組んでいることはありますか?
外池さん 定期的に学生と面談しています。1対1で話す場所を設けると、普段はあまり喋らない学生でも自分の考えをしっかり話してくれるようになります。 中には、面談に2時間かかった学生もいますね(笑)。 さらに、学生たちに好きなテーマでブログを書かせて、ツイッターで発信させるようにしています。それに私が必ずツイッター上でコメントするようにしています。 そうすることで自分の思いや考えもオープンに伝わりますし、そのブログが様々な人の目に触れる機会にもなります。 自分が思っていることを表現して、それを発信していくことは、大学の部活という狭い世界ではなく、社会という広い世界に身を置いている実感にも繋がります。

「日本をリードする存在」になるために、大学サッカーが担う役割

ー学生たちが価値を発揮できる場を積極的に作っているのですね。では、外池さんは大学サッカーにどのような魅力があるとお考えですか?
外池さん 大学生は、高校生や中学生と比べて時間がありますし、勉強や交友関係といった面で、今までとは違った発見がたくさんあるはずです。 その分、学生がサッカー選手として、人として大きく成長できる可能性が存分にあるのが大学です。そんな学生たちは将来の日本サッカー、そして日本社会の担い手です。 学びの場所、サッカーをするのに充実した場所である大学の価値や魅力を、スカパーの仕事で伝えていくこともまた、私の仕事だと思っています。実際に、早慶戦をライブ中継したりと、大学サッカーを発信する事業を始めています。
ー早稲田大学だけでなく、他の大学も将来の日本を担う可能性があるわけですね。
外池さん そうですね。今は早稲田が先頭に立って大学サッカーをリードすることを目指します。 もちろんそれぞれの大学に個性があると思うので、これから先、日本を盛り上げるコンテンツとして大学の魅力を発信していきたいと思います。
ー今後も早稲田大学ア式蹴球部、そして大学サッカー全体に要注目ですね。
外池さん はい。 早稲田大学としては、今年度の関東大学サッカーリーグでの優勝が大きなポイントです。 早稲田の伝統を変えて、新たなことにチャレンジしてきた成果としての優勝は、嬉しさが格別です。 そしてそれを見て、来年度以降、今の高校生たちが「早稲田って面白そうだな」、「大学サッカーって面白そうだな」と思って大学サッカーに挑戦してくれるようになれば、勝敗だけではない価値を生み出すことに繋がりますから。
引退やリストラ。 そんな人生において重大な選択に迫られた時、あなたはどのような決断をしますか? 転職や起業と積極的に新たな道に進む人もいれば、経験したことのない“未知の世界”に対して不安や恐怖を感じ、挑戦する前から「自分には無理だ」と決めつけてしまう人もいるのではないでしょうか。 (さらに…)

2018年12月18日

皆さんの、独立・起業へのモチベーションはなんですか? 会社員ではなく、雇われずに生きてみたい。ずっと前から興味のあった分野の仕事に挑戦してみたい。など、人それぞれ異なることでしょう。 今回お話を伺ったのは、長野県の白馬村でラーメン屋「高橋家」を営む、高橋恭平さん。 実は高橋さんは、数々の大会での優勝経験やナショナルチーム(日本代表)にも選ばれたことのある、凄腕の元プロスノーボーダー。 そんな高橋さんは現在、現役を引退し地元・白馬村でラーメン屋を営んでいます。 なぜプロスノーボーダーからラーメン屋へ転身したのでしょうか。今回は高橋さんの過去から、ラーメン屋にかける想いについて伺ってきました。
<プロフィール> 高橋恭平さん ラーメン屋「高橋家」店主/元プロスノーボーダー 10歳の時に長野県白馬村に移り住み、スノーボードに出合う。 16歳でJSBA(Japan SnowBoarding Association) のJrカテゴリーで優勝、18歳の時にJSBAが主催する全日本スノーボード選手権大会で最年少優勝の後、ナショナルチームにも選ばれる。 30歳で現役を引退し、現在は長野県白馬村でラーメン屋の経営をスタートさせる。地元の人々だけでなく、県外からも多数のお客さまが足を運び、人気を博している。

プロスノーボーダーとしての栄光と挫折。挫折の先に見つけた、感謝の気持ち

ー元プロスノーボーダーでありながら、現在は長野県白馬村でラーメン屋を経営されている高橋さん。プロ生活を引退後、ラーメン屋への転身は珍しいのではないかと思います。まずは、プロスノーボーダーになるまでの経緯から教えてください。
高橋さん 僕は山形県で生まれました。その後は親の転勤に伴って、東京で5年間過ごした後、10歳の時、この白馬村に引っ越してきました。 スノーボードと出合ったのも、この白馬村でした。 ご存知の通り、白馬はスノーボードに打ち込むには最適な環境だったので、どんどんスノーボードの面白さにのめり込み、腕を上げていきました。 中学、高校と進学する頃には様々な大会で優勝し、ナショナルチーム(国を代表するチーム)のジュニア枠にも選ばれました。 そして18歳の時に、プロ資格を取得。ここまでは比較的、順風満帆なスノーボード人生を歩んでいましたね。
ー念願のプロの世界に入ってからはどうだったのでしょうか?
高橋さん 20歳の時、スイスで行われたジュニアワールドカップに参加した際に、両方のかかとにヒビが入ってしまい、その年はケガで戦線離脱してしまいました。 このケガを経験してから、大会に参加しても優勝できなくなってしまったんです。
ー選手として、苦しい時期に差し掛かったのですね。
高橋さん かかとのケガから1年後、アメリカの大会に参加したのですが、その大会でも結果を残せないでいました。そして帰国した後の大会で今度は脳しんとうを起こしてしまい戦線離脱。 再び、ケガに悩まされる日々が始まりました。そしてこの時期ぐらいから、次第に自分のキャリアについて考えるようになりました。
ーその後はどのような活動をされていたのでしょう?
高橋さん 選手としての活動を全うできない時に、違う形でスノーボードと関わる方法もあるんだと認識し始めました。 例えば、プロスノーボーダーとして雑誌媒体に出たり、スノーボードのキャンプを開いてコーチを勤めたり、プレイヤーではない形でスノーボードと関わっていました。
ープレイヤーから一度離れてみて、いかがでしたか?
高橋さん この頃は、まず自分が培ってきたスノーボードの経験を活かすところから始まりましたが、次第にスノーボードに代わる何かしらのスキルを身に着けていきたいなと思うようになりました。 でもまだプレイヤーとしてやり残したことがあったので、脳しんとうから3年ほど経ってから、再びプレイヤーとしてアメリカの大会に挑戦することにしました。
ーケガから復帰して、なぜアメリカなのでしょう?
高橋さん まずアメリカは、スノーボードがとても盛んな国であるということ。そして自分が前回挑戦した時にケガをして断念してしまったことなどが、理由に挙げられます。 ケガの療養中にプレイヤー以外の経験を積んで、スタッフを始めとするいろいろな人に支えられて、スノーボードに打ち込むことができたんだと再確認しました。 だからこそ今回のアメリカは、人に頼らず自分の力だけ行こうと思いました。 飛行機のチケットを取って、ホテルを予約して、そして試合に臨む。とはいえ異国の地にたった1人で赴いた時、どうしても困ったことに遭遇することもあるんですよね。 そんな時はやっぱり助けてくれるんです。アメリカ人も、現地にいる日本人の方も。 やっぱり自分はいろんな人に助けられていることに、アメリカに来て改めて実感することができました。
ースノーボード以外で大きな発見があったんですね。
高橋さん そうですね。そしていつしかその「感謝の気持ち」が、僕の行動原理になっていくようになり、起業をする時のモチベーションにもなりました。 そしてもう1つ、スノーボード以外で大きな収穫がありました。 アメリカで現地の人に美味しいハンバーガー屋を紹介してもらったのですが、そこのハンバーガーがあまりにも美味しくて、滞在中はずっと通っていたんです。 その美味しさのあまり「日本に帰ったらハンバーガー屋を開きたい」と思うようになりました。 脳しんとうを起こしたくらいから、スノーボードを引退した後のことを考えていたので、まさにちょうどいいタイミングで出合うことができました。 そしてアメリカの大会を終え、帰国してライスバーガー屋を立ち上げたんです。

スノーボードもラーメンも本質は同じ。目的から逆算する力

ー最初はラーメン屋として開業したわけではなかったんですね(笑)。でもなぜ、ハンバーガー屋ではなくライスバーガー屋としてお店を立ち上げたのですか?
高橋さん 白馬村には、すでにたくさんのハンバーガー屋があったので(笑)。それならライスバーガーにしようと思って。
ーなるほど。では、どのようにライスバーガー屋を始めたのでしょうか?
高橋さん アメリカから帰ってきたばかりで、土地もお金もなかったので、最初はトラックを買って、自分で改造して移動式のライスバーガー屋を始めました。 夏場には、ラフティングやパラグライダーなどのアウトドアのインストラクターをしつつ、冬場はスノーボードとライスバーガー屋を営む生活をしていました。
ーでは、ライスバーガー屋からラーメン屋に切り替えたきっかけはなんだったのでしょうか?
高橋さん スノーボードを引退したことと、こどもが生まれたことです。 アメリカから帰ってきて、ライスバーガー屋をやりながらスノーボードも続けていたのですが、2年前に正式にプロスノーボーダーを引退しました。そして同時期に、こどもが生まれたんです。 こどもができたのはもちろん嬉しかったのですが、その反面しっかり家族を養っていかなければいけない、という自覚が芽生えました。 妻と2人ならまだしも、こどもを育てていくためには、移動式のライスバーガー屋や、夏場に短期の仕事をしているだけでは、正直不安定だなと思ったんです。 そこで安定した収入を得るために、1年中経営できる店を開きたいと考えました。そんな時ちょうど妻の知り合いから「居酒屋の居抜きがあるから、何か店を出さないか」というお話がありました。 このチャンスを逃すわけにはいかないと思い、すぐに申し出を受け、経営の準備に取り掛かりました。 白馬村は日本人だけでなく外国人もたくさん訪れますが、日本人にも外国人にも、ラーメンは人気があるので、思い切ってライスバーガーからラーメンに切り替えました。その居抜きに、ラーメン屋を開く条件が揃っていましたし。
ーラーメン屋への転身は、どうでしたか?
高橋さん 最初は毎日が、試行錯誤の繰り返しでした。プレオープンを経て正式に開店してからも、スープの味が決まらずに、ずっと悩んでましたから。
ーライスバーガー屋を営んでいたとはいえ、ラーメンは畑違いですからね。未経験の世界に飛び込むのはとても勇気のいることだと思います。
高橋さん たしかにやってることは違いますね。でも僕はスノーボードもラーメン屋も、本質は同じだと思っています。
ーどういうことでしょうか?
高橋さん 僕がやっていた「スノーボードクロス」という競技は、複数名と混走することが前提です。スピードは元より、技術や人との駆け引きなど総合的な滑走能力が試されます。 そして勝ち上がるためには、自分の欠点と長所を見極め、今どんな行動が必要かを考えます。 ラーメン屋も同じです。売り上げを増やすためには、何が足りていて、何が足りていないのかをしっかり把握する。そこから自分がすべきことを逆算して考えていくんです。 例えば、僕はライスバーガー屋を経営した経験があるので、店のマネジメントは強みです。逆に美味しいラーメンを作る技術は未熟だったので、店を出した後も、ラーメン作りに試行錯誤していました。 長所と短所を冷静に自分で分析できていたからこそ、美味しいラーメンを作ることに最大のリソースを割くことができた。 その結果、今ではお客さまに胸を張って出せるクオリティのラーメンが完成しました。そしてありがたいことに、多くのお客さまにご来店いただけるようになりました。

お客さまにとって居心地がいいお店にしたい。それが、故郷・白馬村への恩返し

ー経営に必要な目的から逆算して行動する力は、スノーボーダーとしての経験で培われていたんですね。ところで、ライスバーガー屋の時から「白馬村」で商売をする、ということにこだわっているように思いますが、なぜでしょう?
高橋さん それは僕が白馬村が大好きで、この場所と人に感謝しているからですね。 白馬村は自分が育った場所であり、この環境があったからこそ、プロスノーボーダーになることができました。 先程も言いましたが、僕はいろいろな人に支えられて、スノーボードに打ち込めて、現役を引退した後もこうしてラーメン屋を営むことができています。 それは故郷である白馬村と、自分の周りにいる人たちのおかげです。 そんな白馬村に恩返しができるとするなら、それはきっと僕が営むラーメン屋がお客さまにとって居心地が良く、笑いが絶えない場所であり続けることだと思います。 そのために、単に美味しいラーメンを提供するだけではなく、気持ちの良い接客も心がけています。地元の方も観光で来られる方も、皆さんに「また行きたいな」と思っていただけるような店作りを目指しています。
ーでは最後に、独立を目指している人へアドバイスをお願いします。
高橋さん 独立は、誰にも縛られずに自分の意志であらゆることに挑戦できます。逆に言えば、自分から行動を起こさなければ何も始まりません。 それなら自分が「楽しそう」「面白そう」と思うことに積極的に挑戦してみた方がいいと思います。 僕自身、単身アメリカへ渡った時、そしてライスバーガー屋を経てラーメン屋を開いた時など、人生で幾度となくそういったターニングポイントを乗り越えてきました。 自分はそもそも何がしたいのか、そしてその何かを達成させるために何が必要で、何が足りないのか。それを分析し、行動することができれば自ずと結果はついてくるのではないかと思っています。

2018年12月12日

今の仕事から離れ、新しい職場に行く時ほど不安なものはありません。 転職にしろ、独立・起業にしろ、その選択が必ずしも「成功する」という保証はないからです。 ですが、若いうちからの地道な努力は今後の仕事の成功も呼び込むと、今回お話を伺った元プロサッカー選手の千代反田充さんは言います。 (さらに…)

2018年10月15日

あなたが夢中になれることは何ですか? 毎日仕事場と自宅の往復ばかりで「夢中になれるものがない」「夢中になるやり方を忘れてしまった…」という人も、多いのではないでしょうか。 もし、これから新たな道に進むなら「夢中になれることを探してほしい」と、今回お話を伺った元プロサッカー選手の阿部祐大朗さんは語ります。 (さらに…)
一見、華やかなプロ野球の世界。 活躍すれば、スター選手としての地位を確立することができ、膨大な報酬がもたらされます。 その反面、高年俸を稼ぐ選手はわずかひと握り。試合で結果を残せず、表舞台から身を引く選手の方が圧倒的に多いのです。 (さらに…)

アントレ

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