年々、人手不足が深刻化している物流業界。
荷物の運び手となる十分な人員数を採用することができず、ドライバー不足によって倒産する企業も相次いでいます。
そんな物流業界の問題を解消すべく立ち上がったのは、今回お話を伺った元プロサッカー選手の加藤大志さん。
加藤さんは、Jリーガーとして8年間プレーし、引退後は実父が代表取締役を務めている物流企業の執行役員として活躍されています。
そんな加藤さんは、物流業界だけでなく、自身がプロサッカー選手として活動していたスポーツ業界の発展にも貢献しようと、前例のない新たな試みに挑戦しています。
今回は、加藤さんの経歴を振り返るとともに、その両業界の発展に向けた取り組みについて伺いました。
加藤大志(かとう・だいし)さん
1983年生まれ、埼玉県出身の元プロサッカー選手。
幼少期にサッカーを始め、中学生時に全国中学校サッカー大会に出場。桐光学園高校を経て2002年に湘南ベルマーレに加入し、1年目から公式戦27試合に出場するなど活躍。U-20日本代表、U-22日本代表にも選出された。
2005年に京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)に移籍。同シーズンにJ2優勝を果たし、J1昇格に貢献する。2009年には横浜FCに加入し、同シーズン終了後に現役を引退。
現在は父親が起業したアーティクルキャリー株式会社トーコーの執行役員/物流営業部統括部長として活躍中。Jリーグを引退した選手を受け入れるなどスポーツ事業の展開も進めている。
プロ入りは“家業を継ぐ”ことが条件だった。元Jリーガー・加藤大志が、引退後に物流業界へ就職したワケ
ー2002年から8年間Jリーガーとして活躍し、引退後は物流企業で働いている加藤大志さん。現在に至るまでの経緯を教えてください。
サッカーを始めたのは小学校2年生の時です。それまで姉と一緒にピアノ教室に通っていたんですけど、正直あまり好きじゃなかったので、「そろそろやめたいなぁ」と思っていたんです。
するとその時、たまたま地元の埼玉にあるスポーツ少年団サッカー部の募集チラシを見つけまして。母親に許可を得てそのチームに入団することにしました。
本音を言うと、ピアノ教室を辞められるなら、そのきっかけや理由は何でもよかったんです(笑)。でも今思えば、それがサッカーで本当によかったですね。
それからの学生時代はずっとサッカーに打ち込みました。
中学時代はレベルの高い選手たちが集まったこともあり、全国大会出場を経験。卒業後は神奈川の強豪・桐光学園高校に進学し、高校2年時にはインターハイに出場することができました。
ただ高校3年の時は神奈川県予選で負けてしまい、インターハイには出場できなかったので、本当に悔しかったですね。
ー強豪校ひしめく神奈川で、県大会を勝ち抜くのは至難の業ですもんね…。高校卒業後はどのようにしてプロチームに入られるのでしょう?
まず、僕はプロ入りを希望していたのですが、興味を示してくれるチームはあったものの、最後までオファーはいただけなかったんですね。
そこで高校時代の監督が、当時J2リーグだった湘南ベルマーレの関係者と先輩後輩の間柄だったこともあり、同クラブの練習に参加できるよう交渉してくれたんです。
そして4〜5日間、クラブに帯同する機会を得ることができました。
結果的に湘南ベルマーレに採用していただくことになった僕は、2002年から晴れてJリーガーとしての第1歩を踏み出したわけです。
高校時代の監督には、感謝してもしきれませんね。
ー練習生からクラブとの契約を勝ち取れる選手は一握りですから、本当にすごいことだと思います。Jリーガーになられてからはどうだったのでしょうか?
プロ1年目の途中からスタメンで出ることができたのですが、2試合目に相手選手との接触プレーでケガをしてしまって…。その後、2カ月間プレーすることができませんでした。
復帰してからも試合には出られたのですが、ほとんどが途中出場で。スタメンで起用されることが少なくなってしまったんです。「スタメンでフル出場」できないことに、悔しい思いもありました。
ただ、僕の武器は「足の速さ」と「ドリブル突破」。
後半途中から出場し、相手選手が体力を消耗したあたりで、一気に攻め込み得点を挙げるにはもってこいのタイプだったんです。
なので途中出場による試合を経験するうちに、「おっ、案外できるじゃん」って。自分のプレーに自信が持てるようになっていったんです。
ー試合の流れを変えるチームの“切り札”として活躍された、ということですね。
はい。そのプレースタイルが評価されて、2003年にはU-20日本代表や、アテネオリンピック出場を目指すU-22日本代表にも選出していただけました。
その時はケガもあってオリンピック本戦のメンバーには選ばれませんでしたが、素晴らしい経験をさせてもらったと思っています。
それから2005年には、湘南ベルマーレが低迷していたこともあり、より高いレベルへの挑戦や環境の変化を求めて京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)への移籍を決断しました。
ただやはり、予想以上にポジション争いが激しかったので、スタメンを勝ち取ることは厳しかったですね。
でもその代わり、京都パープルサンガでも後半から途中出場する“切り札”として定着。
僕が試合に出た際、サポーターの方々はいつも待ってましたと言わんばかりの大声援と拍手で迎えてくださいました。
今、思い返すだけでも胸が熱くなる瞬間です。
ーサポーターからも愛される存在だったのですね。その後はどうなっていくのでしょう?
ケガや監督の交代が影響して年々、出場機会は減っていき、2009年には横浜FCに移籍しました。
しかし、足首のケガにより13試合の出場に留まり、シーズンオフには戦力外通告を受けてしまったんです。
他のクラブからのオファーもありましたが、ケガも多くなってきましたし、20代後半に入ってからの自分の伸びしろを考えたら、これ以上プレーヤーとして活躍するのは厳しいかな、と。そう思って、同年に現役引退を表明しました。
それに実は、父親と「サッカー選手を引退したら、家業である物流企業を継ぐ」ことを約束していたんです。それを条件に、高校卒業後は大学に行かずにプロの世界に行くことを許してもらいましたから。
なので社員になるんだったら、20代のうちにビジネスパーソンとしての基礎能力を身に付け、会社の事業内容を覚えないといけない。
そういう気持ちもあったので、引退後はすぐに父親が代表取締役を務めている「アーティクルキャリー株式会社トーコー」に入社し、セカンドキャリアを歩み始めたんです。