プロフィール:湯川治往(ゆかわ・はるゆき)
1961年生まれ、東京都出身。小学校時代をイタリア・ローマで過ごし中学生の時に帰国。3年の浪人と1年留年しながら学習院大学を卒業。ビクター音楽産業株式会社に入社。主に「ORQUESTA DEL SOL」、「LOVE PSYCHEDELICO」などのディレクターを務める。40代半ばで早期退職し07年に独立。レコード会社「Hot River Records(EUR Inc.)」を立ち上げる。「吾妻光良 & The Swinging Boppers」(以下、バッパーズ)などが在籍。
急激に寒くなった雨の日、待ち合わせの喫茶店にアロハシャツ姿で現れた湯川さん。大手レコード会社を40代で退職し独立、という「雇われない生き方」を実行する1人です。
なぜ大手企業から飛び出し、1人で音楽レーベルを設立するようになったのか、「儲かってないんですけど、本当に自分なんかの取材でいいんですかね?」と言いながら、人懐こい笑顔と、ユーモラスな口調でざっくばらんにお話ししてくださいました。
40代の転機。早期退職の募集を聞き、心に湧き上がったのは「まだ音楽作りたいな」という気持ち
――湯川さんが退職された07年ごろといえば、音楽業界も転機を迎えていた時期でしたが、実際はどんな状況だったんですか?
湯川:当時はアルバム1枚作るのに、広告宣伝費は別で1,200万円くらいかけれたんですよ。今は100万円ちょっとで「高いよ」っていう感覚です(笑)。規模が10分の1どころの騒ぎじゃないですよね。
――そういう変化を肌で感じていたんですね。
湯川:早期退職の募集があったんですよ。「1週間で決めて」と言われた。残ったら在籍していた制作部以外に行くことになるだろうし、「俺、制作以外できねえしなあ」ってちょっと考えましたね。
自分でレーベルをやるか、会社に残って音楽は趣味でやるか。どうしようか。でも“まだ音楽作りたいな”とは思ったんです。
――誰かに相談は?
湯川:周り、といっても会社に仲のいい奴はいなかったから、ミュージシャンとかに言ったら「辞めちゃうの?バカだろ!?」と。
相談はしてないんですけど、バッパーズの吾妻光良さん(以下、吾妻さん)にレーベルおこしたら移籍してくれるかって聞いたら「いいよ」って。じゃあ辞めちゃおうと(笑)
――吾妻さんは現在も「バッパーズ」として湯川さんのレーベルに在籍してますよね。
湯川:「バッパーズ」は自分が売り出したい!と引っ張ってきたバンドで、ほとんど1人で担当したんです。メンバーほぼ全員が会社員だったんで、イベントは土曜日のみ、プロモーションは一切できないという条件があったから、会社の上層部とかには「これなんだ?」「売れるのか?」と散々言われましたね。
でもノープロモーションで1アルバム2万枚売れたんです。彼らの音楽が響くファンがちゃんといるんですよね。自分が担当してきたバンドだったんで、ずっとやれたら、と思って吾妻に聞いてみたんです。
――勝算はあったんですか?
湯川:人を雇って開業するなら責任はありますけど、幸い自分1人。ギリギリでもなんとかやっていけたらいいか、と。そういえば、来年にはレーベル立ち上げて10周年だから自分たちでイベントでもやりたいね。
高校生で音楽にのめり込む。バンド活動に明け暮れた大学時代を経てレコード会社に入社
――湯川さんは小学校時代イタリアで暮らしていたんですよね。帰国後、私立暁星中学校に編入。
湯川:史上最低の帰国子女と呼ばれてました(笑)。漢字も書けない、地理もわからない。帰国時は英語とか覚えていたんですけど、すぐ忘れちゃいましたし(笑)。
――音楽との出合いは?
湯川:小さいころはオルガン教室に通ったり、クラシックギターを習ってました。オルガンは幼稚園生の時だけですけどね。
なんとなく「やろう!」と思ったのは高校生の時。中3か高1の時、ミーハーで恥ずかしいんだけど「Stuff(スタッフ)」というバンドが来日して。ドラマーがかっこよくてね。自分も“なれたら良いな?”ってそこからのめり込みましたね。
同級生も音楽好きが多くて、友達にレコードを借りる、返すっていうためだけに学校に行ってました。当時レコードは高かったしね。
――(笑)。その後は大学に進学。レコード会社に入ったきっかけはなんだったんですか?
湯川:大学に入る時も3年浪人し、大学では留年(笑)。バンド活動ばっかりやってたんです。だからなんとなく音楽の仕事をやろうかなと思って。ビクター音楽産業(株)を受けた時も当時、日本ビクターと同じ採用面接で、「ディレクターになれないなら帰ります」なんて言ったら、1人だけ別室に呼ばれて、受かって。
――会社員時代はどんな仕事をしていたんですか?
湯川:主にディレクター業ですね。特に最初の頃は、作曲家に「こういう音楽を作りましょう」と曲を作ってもらい、作詞家に発注して、アレンジャーに依頼、レコーディング。機材もアナログで手作業でしたね。僕らなんかがアナログ機材を使ってレコーディングしてた最後の世代なんじゃないかな。今はデジタルだから。
自分で聴く音楽を自分で作る。好きなことしかやっていないから続けられる。
――吾妻さんともその時期に出会ったんですね。
湯川:「バッパーズ」って楽ちんなんですよ。アイドルとかみたいに全部こっちで用意するんじゃなく、「こういう音楽をやりましょう」「こういう風にしましょう」と作り上げていくことができる。何よりも、スタジオに入ってバンドと一緒に作っていくという作業が楽しかった。
――一番楽しいことはレコーディング?
湯川:レコーディングはめちゃくちゃ楽しい。でも1番は自分がバンドなどで演奏すること。その次がスタジオで音楽を作ること。3番目が聴くことですね。
――それを叶えるために独立という道を選択したんですね。独立後の状況はどうですか?
湯川:ヒマな時にボーっとできるのが良いですね(笑)。今までそんな時間なかったからね。音楽業界は難しい。
成功しているのは一握りだと思います。でも「何か作りたいな」「何かやりたいな」と思っていたんです。自分が聴きたい音楽がないから、自分で作りたいんですよ。だから大変なことばかりでも耐えられる。
――07年にレーベルを立ち上げ、周囲の反応はどうでしたか?
湯川:「よく会社を辞めたね。大丈夫?」でした(笑)。もともと社外の人と付き合うことが多かったんで社外の人に言われたね。
会社で命令されたこと以外もしていたし、デスクは荷物置き場くらいにしか思っていなかったから会社に寄りつかないしで嫌われ者だったと思うけど、社外の人たちとは散々飲んでましたからね。社外で付き合いのあった連中は、今でも何かあると声をかけてくれるし、人を紹介してくれたりします。
独立するといろんな人と知り合える。今後は「作品をもっと作りたい」
――独立して良かったことは?
湯川:いろんな人と知り合えることですね。仲良くなれますよ。会社員の時は会社の看板をしょってたけど、それがなくても付き合ってくれる人がいる。友達になるのはそういう人ですね(笑)。
例えば、知り合いが自分の会社でイベント発券システムを持ってるんで、それを安く使わせてもらったり、また別の知り合いからライブ時の柵を格安で借りたりしてますよ(笑)
――湯川さんの人間性がなせる業ですね。
湯川:どうなんすかね。よく酒を呑んではいますけどね。「打ち合わせする」って言っても集まらない「バッパーズ」には、「居酒屋で飲むぞ」って言って呼んでますよ。メンバーが多いバンドでしょ、会社員時代は10万、20万って呑み代を財布に入れてたけど、今じゃ、100円単位で割り勘です(笑)。
――今後の展望を教えてもらえますか?
湯川:資金を集めて、もっと作品を作りたいです。僕の仕事はCDを作ること。今はお金かけないでもプロモーションできる時代ですから、ホームページ作りや映像の編集をやりたいですね。あとライブの音源化も。
――会社を10年間続ける秘訣はありますか?
湯川:適当だからですね(笑)。真面目だったら辞めてたかも。夢はあんまりないですけど、音楽で当てて打楽器を心置きなく叩ける家が欲しいです。
音楽への愛があふれる湯川さん。ご本人は否定されていましたが、壁を作らない気さくな人柄を感じました。
お話を伺い「きっと湯川さんのお人柄が仲間を集め、その仲間を助け、助けられ、やってこられたんでしょうね」と言うと「なんでしょうね」「そうなんですかね」と少し照れたように笑ってくださいました。始終自然体でしたが、撮影は照れっぱなし。「裏方ですから」という湯川さんにポーズをお願いすると「吾妻風」と言って手を広げ自身が手掛けたCDジャケットに載っている吾妻さんのポーズをしてくださいました。今後も湯川さんの手がける音楽に期待し取材を終えました。
更新日:2016/11/18取材・文・写真:磯部シゲマサ 撮影協力:holy