就農するきっかけは人それぞれ。
実家を継いで農家になる人もいれば、脱サラして農業を始める人、希望を持って就農する人もいます。
神奈川県藤沢市の「湘南佐藤農園」の園主、佐藤智哉さんは結婚を機に就農。前向きな気持ちで農業に取り組んでいたものの、今に至るまでにたくさんの困難、決断の場面に直面してきました。
佐藤さんは会社員と農家を行き来し、最終的に選んだのは100年近く続く農園を継ぐという道でした。今、どうすべきかを考え、困難に立ち向かってきた佐藤さんは、農業に対してどんな思いを抱いているのでしょうか。
佐藤智哉さん・湘南佐藤農園代表1979年神奈川県藤沢市生まれ。
大学卒業後専門商社、大手外資系の人材派遣会社で勤務。2009年妻の実家で就農も2011年自然災害で離農、食品メーカーに勤務。
2014年義父の他界で再度就農、現在に至る。家族経営からの脱却、先進技術の導入を通して経営の効率化を図り、売上拡大中。
他に援農ボランティア養成講座の講師やアイメック栽培の栽培指導、藤沢市農業委員会の農地最適化推進委員など活動は多岐に渡る。
天災でハウスが全滅して、離農。それでも、100年続く農園を守りたかった
——佐藤さんは、今となってはこのように湘南佐藤農園の園主として農業をしていますが、これまで何度か会社勤めをされているそうですね。まずは現在に至るまでの経緯について教えてください。
私の実家は農家ではありません。大学を出てからは専門商社に就職し、普通に会社員として働いていました。農業をやるようになったのは、妻の実家が農家だったからです。妻の実家は4人姉妹で後継ぎがいなかったので、私がそこへ婿入りしたというわけですね。
結婚する前から、彼女の実家の農作業を手伝う機会がしばしばありました。それで、会社員とは対極的な仕事に触れるうちに、「農業っていいな」と思うようになっていったんです。
そして、結婚するタイミングで「うちで農業をやってくれない?」という妻の提案を、軽い気持ちで受け入れ、まずは兼業から農家を始めました(笑)。仕事のかたわらで農業をやる生活は、体力的にはきついけれど楽しくて、充実した日々でしたね。
——専業農家になったのは?
義父が病気で農業が満足にできなくなってしまったことが、専業になるきっかけでした。2009年、30歳の時です。実はその1年くらい前に、ほかの仕事もやってみたいと思い、商社から人材派遣の会社に転職していたんですが(笑)。
いずれ農家になることは決めていましたから、3年くらい経験できれば、というつもりでしたが、事情が変わったので予定を早めて本格的に就農したわけです。
——なるほど。しかしその後、いったん離農されたとお聞きしました。
はい、専業になって2年半経った2011年のことです。原因は竜巻災害でした。トマトを栽培していた1,200坪あったビニールハウスの3/4が使えなくなってしまったんです。
単純に整地すればいい、というものではなく、ガラス片が土に混ざってしまったせいで農地としては壊滅的なダメージを受けました。
農園の収入はハウス栽培の作物が頼りでしたから、このままでは義父母と私たち夫婦、こども、3世帯分の家計を支えられない、ということになって。
私はすぐに働き口を探し、食品メーカーに就職しました。
——いずれまた農業に戻るつもりだったのでしょうか?
いえ、そのときはもう農業に戻るつもりはありませんでした。戻りたい気持ちはあったのですが、ハウスのガラス片などでぐちゃぐちゃになった農地を回復させるだけのお金や労力といったコストを考えると、現実的に難しかったんです。
私が外で働いている間に、妻と病気の義父、義母の3人で少しずつ災害の片付けや野菜作りを続けてくれていたのですが、そう簡単にはもと通りにならないんですよね。
——そんな中、再び農業に戻ってきたのはどうしてですか?
農園を守りたい、という責任感のようなものが自分の中で芽生え始めていたんです。義父が病気で亡くなってしまい、農園もいよいよ終わりかと思われました。親戚で集まって話し、妻も「もう農業はやらなくていいよ」と言っていました。
ですが、「家業を潰してはいけない」という気持ちが、就農した時点でどこかにあったんです。妻の家が代々、100年近く続けてきた農園を終わらせていいものかと。
農業は数年でどうにかなるものじゃないんです。土地を開拓して、少しずつ土作りをしたりハウスを建てたり、長い時間をかけて作り上げるもの。それが僕達の代で失われるなんて、悔しいじゃないですか。
天災は仕方ないことですが、私にとって本格的に農業を始めた矢先の災害でしたから、何かやり残したような感覚がして。
そして災害から2年半ほど経った2014年、35歳の頃に私は再び就農しました。