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「死」を意識する人、しない人がいる
私が大学生の時に書いた卒業論文のタイトルは「死の意義性」である。タイトルだけを読んだ友人から、「死ぬのがいいことって言いたいわけ?」とちゃかされたこともあったが、もちろんそんな内容ではない。普通、否定的に受け取られる「死」ではあるが、実は我々の人生を豊かにする大きな役割があるのではないかという内容だった。
普通に生活をしている中で、我々は自分の「死」を意識するタイミングと出合うことはあまりない。しかし、いったん自分の生命の危機に直面するような体験、あるいは自分の家族など、近しい存在を死によって失ってしまう体験をした時、自分の人生をこれまでよりいっそう深く考えるようになり、その後の行動パターンが大きく変化することがある。
ちなみに、ワタミの渡邉美樹社長は、小学5年の時に母親を亡くしている。その経験から、人間は必ず死ぬということが意識の中に強く刷り込まれ、以降、常に大切なこと、やるべきことを先にやる習慣が身についたという。小学校の頃、夏休みの宿題はいつも7月中に済ませ、社長になった今も大切なことから先にやるということを徹底している。渡邉社長の机の上はいつもきれいに片付いているが、それもすべて仕事をその日のうちに終わらせないと気が済まないからだそうだ。
しかし、多くの人は渡邉社長のように「やるべきこと」をやっていない。むしろ、どうでもいいこと、やらなくてもいいことに日常の大半の時間を費やしている。「いつかは死ぬだろうが、今日死ぬわけではない。だったらまぁそんなにあわてなくても大丈夫。今日は今日で楽しいこと、面白いことをやっておけばいい」と、そんな具合だ。
実際、楽しいこと、面白いことができているならまだいいが、それすらできていない人が何と多いことか。ただ日常的に「やることになっていること」を繰り返しているだけ。「何事もなく毎日が過ぎていく。これでいいんだっけ?」ということには、薄々気づいている。「でも、まだ人生は長いので、別に今日、解決しなくてもいいか……」。そうやって今日もまた、いつもどおりの一日が過ぎていく。
満足していないので、今すぐには死ねない
前述の卒業論文を作成するにあたって、100人へのインタビュー調査を実施した。まずは「自分の死を素直に受け入れられるかどうか」について聞いてみた。私の予想に反して、大半の人が「受け入れられる」と答えた。人間いつか必ず死ぬのだから、死を恐れたり、不安に思っても仕方がないという回答が多かった。
そこで「受け入れられる」と答えた人に、「では、今すぐに死ななければならなくなったとしても受け入れられるか」と聞いてみた。今度は逆にほぼ全員が「受け入れられない」と答えた。将来のいつかのことなら受け入れられても、今すぐは困るという回答がほとんどであった。
「では、何をすれば死んでもいいと思うか」という質問には、「素敵な伴侶を得て、子供が大きくなったら」とか、「仕事で一番になることができたら」とか、「社会に何かを残すことができたら」などなど、多種多様な回答が返ってきた。一見、全く別々の回答のようにも思えるが、すべてに共通していることは、「自分が満足してから死にたい」ということであった。
そして、最後の質問。「ではあなたはその満足を得るために、日々、何をしているのですか」。誰もが「厳しいな」という目で私を見ながら、あいまいな回答ばかりを口にした。
「やっているともいえるし、やってないともいえる」「やろうと思っているがまだまだだと思う」「いつかやらなければならないと考えてはいるが、今はその準備期間と考えている」
いずれの回答も、一言でいうと「今はやってない」ということであった。
なぜだろう? なぜ多くの人は、渡邉社長のように、やるべきこと、大切なことに意識や労力を集中できないのだろうか?
デッドラインを可視化する
違いは「死に対する意識」の持ち方にある。別の言葉に言い換えれば、自分の「デッドライン(=締め切り)」を可視化できているかどうかに違いがあるといってもよい。渡邉社長にとって「死」は「今日であろうがなかろうが絶対に起きるもの」である。一般の人の意識では「いつかは起きるだろうが、今日は起きないもの」である。
前者は「絶対に起きるもの」であり、後者は「今日は起きないもの」という考え方だ。2つは同じものでありながら、全くの別のもの。その解釈の仕方に大きな違いがあるので、当然、毎日の行動にも大きな違いが出てしまう。
例えば、あなたが今住んでいる建物が崩壊するとしたらどういう行動を取るだろうか? もしも数分後に崩壊することがわかったら、あわてて着のみ着のまま飛び出すに違いない。1日後なら、大切なものをできるだけ効率よく運び出そうとするだろう。1カ月後なら? 1年後なら? もしも50年後だとしたらどうだろう? その建物を出ていく準備を始めるどころか、しばらくは住んでみてもいいと考える人が少なからず出てくるのではないか。
我々は同じ世界に住んでいる。しかし、実際には全く別の世界に住んでいるともいえる。同じものを見ていても、別物としてとらえているからだ。我々は解釈ひとつで世界を別物にすることができる。この世界をどうとらえ、どう解釈するか? そこにこそ、すべての根源にある「人間力」の違いが表れているといえる。
どんな仕事にも「寿命」がある
私は20代の頃、あまりにもルーズな自分の時間の使い方に嫌気がさして、ある言葉を書き記した紙を壁に張り出した。そこに書かれていたのは、「それは本当に重要なことか? そのやり方で満足なのか? もし明日死ぬとしてもそのやり方でやるのか?」という言葉だった。壁に張った紙に書かれたこの言葉は、毎日のように目に入ってくる。自然にその言葉が頭の中に刷り込まれていった。普段の何げない生活の中でもこの言葉がよみがえってくることがある。不必要なテレビを見ている時、意味もなく自室でだらだらしている時、そして何より、非生産的な仕事を繰り返している時、「それは本当に重要なことか? そのやり方で満足なのか? もしも明日死ぬとしてもそのやり方でやるのか?」と考えるようになったのである。
すると、仕事に対する意識が大きく変わり始めた。そして、ふとこんなことに気がついた。自分自身の人生だけではなく、日々の仕事の中にも必ず「終わり」があるということにだ。どんな仕事にも「節目」が来る。ある日突然、プロジェクトが打ち切られる時もあるし、うまくいって、次のステージに進んで終了ということもある。永続的な仕事などない。仕事にも寿命があるのだ。だったら今やっている仕事もこんなダラダラとしたやり方でいいわけがない。今、自分がやっている仕事が明日終わるかもしれないと思って取り組んでみよう。きっと、最高品質の仕事で終わりたいと考えるはずだ。自分自身の仕事のデッドラインを「可視化」できた時、我々の仕事の質は大きく変わっていく。
さて、6年間にわたって続けてきたこのコラムの連載も、次号をもって最終回となる。このコラムだって、永続的なものではないのだ。あと1回で最終回を迎えることで、私の意識も大きく変わった。最終回は、私からの最後の、そして最も重要なメッセージをお伝えしたい。お楽しみに!
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アクティブラーニングスクール代表 羽根拓也 |
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ハーバード大学などで語学専任講師として活躍。独自の教授法が高い評価を受け、94年、ハーバード大学より優秀指導教授賞(Certificate of Distinction in Teaching)を受賞。日米10年以上の教育活動の集大成として、97年、東京で「アクティブラーニングスクール」開校。これまで日本になかった「学ぶ力」を指導育成する教育機関として各界より高い評価を得る。新世代教育の旗手として教育機関、政府関係機関、有名企業などから指導依頼がたえない。現在は、デジタルハリウッド大学・大学院専任教授兼CLOも兼任。
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