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国民の4人に1人が外国生まれ
オーストラリアと聞いて何をイメージするだろう? カンガルー、エアーズロックなどなど。動物や広大な自然のイメージが強いオーストラリアだが、実は世界有数の移民国家であるということをご存じだろうか?
オーストラリアの都市であるシドニーとブリスベンでタクシーに10回乗って、すべてのドライバーに出身地がどこかを聞いてみた。イギリス、ニュージーランド、パキスタン、ソマリア、パレスチナなどなど、世界中のあちこちの国の名前があがってきた。その中でオーストラリア出身のドライバーは10人中、たったの2人。日本では考えられないことである。
実際の数値を調べてみると、オーストラリア在住の移民数は、今や26%を超えるという。移民の国といえばまずアメリカを思い浮かべる人が多いと思うが、世界ナンバーワンは、実はイスラエル。オーストラリアはそれに続く、なんと世界第2位の移民国家だったのだ。国民の4人に1人が外国生まれであるというから、その多さがうかがい知れる。
起業家に移民が多いワケ。彼らが持つ2つの資質
さて、以前にもこのコラムで話したが、移民が多い国ほど、起業家が多いという考え方がある。なぜか? 2つの側面が考えられる。一つは発想に関する資質。もう一つは行動に関する資質。移民は、この2つの起業家に必要とされる資質を兼ね備えているのだ。
まずは発想に関する資質から分析してみよう。起業家にはこれまでにない価値を世の中に創出していく力が求められる。既存市場には大手企業がひしめいている。ベンチャー企業が大手企業と同じ商品を市場に投入しても勝てるはずがない。そこで、それまでにない斬新なアイデアを創出できる起業家が生き残っていくことになる。
移民は、もともと異なった環境で生まれ育っているため、その国に住んでいる人とは全く違う発想を生み出しやすい。頭の中に入っているデータベースが異なるため、移民起業家は、その国にこれまでになかった斬新なアイデアを生み出しやすいのだ。シリコンバレーの経営者の4分の1が移民であるというのもうなずける。
次に行動に関する資質だ。先ほどのタクシー運転手の中にソマリア出身者がいた。「どうしてオーストラリアに来たの?」という質問に対し、「あなたは知らないかもしれないが、ソマリアは内戦に巻き込まれたんだよ」と、そのドライバーは答えた。
もちろん知っている。1991年に発生し、新聞、テレビをにぎわしたあのソマリア内戦の犠牲者が目の前にいる。「大変だったでしょうね?」という質問に対し、「言葉に表すのも大変なぐらいにね」というそのドライバーの答えは確かに重みがあった。彼は、自分の国を捨て、命からがらオーストラリアに渡ってきたのだ。それから苦労して家族、親戚をすべてオーストラリアに呼び寄せたという。世界には、日本では考えられないような苦労をくぐり抜けてきた移民がいる。
移民、ソマリア出身のドライバーの場合は、難民と言うほうが正しいが、彼らはとても強い精神力を持っている。起業すれば当然のことながら、押し寄せてくる様々な困難に立ち向かわなければならない。そんな苦労も命をかけて自分の国を捨ててきた移民からしてみれば、さしたる困難ではないのだろう。このような強力な精神力を持つことが、移民が起業家として向いている2つ目の理由なのだ。
18歳で豪州へ渡った日本人移民
私たちの国、日本が移民国家であるというイメージはない。しかし、日本から海外に出ていく人の数は毎年増えており、留学生も含めると、今や年間10万人を超える人々が海外へと旅立っている。
今でこそ、普通になりつつある海外への渡航であるが、今から100年以上も前の1889年のこと。オーストラリアに向けて、一人の友達とともに船で渡ろうとした若者がいる。和歌山県勝浦で生まれた大江栄太郎という男だ。栄太郎は18歳の若さで、当時はまだ日本人移民の受け入れなど全くなかったオーストラリアへと向かう決意をした。1868年に明治維新が起こり、89年年に大日本帝国憲法が発布され、日本は立憲君主国へと転換を図ろうとしている大変革の時期であった。長男として家庭を支えなければならなかった栄太郎は、時代の変化を敏感に感じ取り、このまま農業をしているだけでは将来は明るくないと考え、海外へ成功の可能性を求めたのだ。
当時のオーストラリアはまだイギリスの属領であり、ゴールドラッシュの好景気にわいていた。このあたりの情報も栄太郎の耳に入っていたのかもしれない。しかし皮肉なことに、そのゴールドラッシュは栄太郎がオーストラリアに到着する頃に、ちょうど終焉を迎えようとしていた。その代わりにゴールドラッシュ以降に起きた経済的な不安要因を移民に向けようとする動きが国内に広がっていた。これが、アジア系移民を排除しようとする、悪名高い「白豪主義」の始まりである。若い栄太郎は、自分がそのような逆境に飛び込んでいこうとしていることは知る由もなかった。
差別に耐え抜き、事業家への道を進む
オーストラリアで移民を受け入れる通過ポイントとなっている木曜島に到着した栄太郎は、現実の厳しさをまざまざと知らされることとなる。アジア人であるというだけで、まともな仕事には就けなかった。当時、中国人の移民は数多くいたが、日本人など見たことも聞いたこともない。そんな白人からの差別は、筆舌に尽くしがたいものであったという。
なんとか仕事にありつけたとしても、厳しく苦しい仕事ばかり。飲食店の皿洗い、クリーニングの裏方など、栄太郎はいわゆる3Kの仕事を文句も言わずに一所懸命こなし続けた。そしてコツコツとお金をため、頑張り抜き、多くの移民がそうであったように、彼もまたためたお金を次の仕事へと投資していった。弱音をはかずに継続したおかげで、少しずつではあるが、栄太郎の生活レベルは向上していった。
30年の月日が流れ、栄太郎は自分自身の果樹園を経営するほどになっていた。差別の壁を打ち破り、事業家としての成功を手に入れた彼の胸中はいかほどのものであっただろうか? アジア人でありながら、オーストラリアで自家用車を所有し、しゃれたパナマ帽をかぶった真っ白なスーツ姿でほほ笑む栄太郎の写真が、今も和歌山県の生家に残されているという。
起業移民として大海原へ飛び出せ
実はこの大江栄太郎とは、私の祖父である。私は子供の頃から、この祖父の立身出世ストーリーを何度も聞かされていた。彼から譲り受けたDNAのせいなのか、話しを聞かされたことによる刷り込みのせいなのかわからないが、私自身も24歳の時にアメリカへと移り住むことになった。
生きて帰れる保証は何もない時代に外国へ行くのと、たかだか数年間、アメリカの大学で学生たちに指導を行ってきたのでは、その重みは違うであろう。しかし、祖父が海の向こうに何を期待し、何を求めていったのかはわかるような気がする。
たかだか数年間ではあったが、海外の地に足を踏み入れ、現地で生活をしてきた立場、そして起業して10年目になる立場から、起業することと、海外に移り住むことの2つを比較してみると、本質的に同じ魅力を持っていると思われる。
両者が我々に与えてくれるもの、それは「無限に広がる可能性」である。何の保証もなく、大きな不安に押しつぶされそうになっても我々を前に前に押しやってくれる原動力とは何なのか? それは両者が、我々に人生を費やしてもよいと思えるだけの可能性を与えてくれるからにほかならない。
あなたが今、自身が置かれている環境に限界を感じ、時代の大きな変化を感じ取っているのなら、「起業移民」になることをお勧めする。
昔のように命をかけて海外へと向かう必要はない。起業家として大海原に乗り出していけばいいのだ。祖父のように30年の月日を待つ必要もない。弱音をはかず、一つ一つのことをやり遂げていけば、数年でパナマ帽をかぶれる日がやってくるかもしれない。
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アクティブラーニングスクール代表
羽根拓也 |
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ハーバード大学などで語学専任講師として活躍。独自の教授法が高い評価を受け、94年、ハーバード大学より優秀指導教授賞(Certificate of Distinction in Teaching)を受賞。日米10年以上の教育活動の集大成として、97年、東京で「アクティブラーニングスクール」開校。これまで日本になかった「学ぶ力」を指導育成する教育機関として各界より高い評価を得る。新世代教育の旗手として教育機関、政府関係機関、有名企業などから指導依頼がたえない。現在は、デジタルハリウッド大学・大学院専任教授兼CLOも兼任。
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