いけやま・のりゆき/愛知県出身。大学で考古学に没頭した後、渡米。車で暮らす生活を2年間経験し、帰国。父親が経営する歯のインプラント製造・販売会社に携わったことを機に、医療の世界に没頭。当初は泌尿器用医療技術を主力に起業した。
人工乳房の製作は、スタッフに任せる場面が増えてきたが、それでもまだまだ池山さん自身も製作の現場に携わる。色付けの指導などをすることも多いという
1995年に妹が乳ガンになり、左の乳房を切除しました。当時も人工乳房を製造する会社があったのですが、妹いわく「もっとフツーの乳房がほしい」と。どんなものがほしいのか聞くと、自然に見えて触れても違和感がないこと。今まで使っていたかわいいブラジャーが使えること。温泉に入れること。その3つの条件をクリアするものがあるなら、ほしいと言うのでした。ただ、型を取るなど兄の私に裸体を見せることには抵抗感があるというので「決心がついたらつくらせてほしい。それまでに研究を続けて、条件をクリアできるものをつくれるよう頑張るから」と話しました。というのも僕は、父親が経営するインプラント製造・販売会社に勤務する一方で、技工士の知人に協力してもらいながら、鼻や指などを失った方の人工ボディ製造をボランティアで行っていたのでした。
違和感のない人工乳房の外観や感触の再現に関しては、これまでの経験が生かせると思いました。温泉に入れるようにするには、それに適した接着剤をとにかく探せばいいと。最大の問題でありナゾだったのが、乳房を切除すると、パットを入れても、人工乳房にしても今まで使っていたブラジャーが使えず、乳ガン患者用ブラジャーを着けなくてはならないということでした。大手女性下着メーカーに問い合わせても、教えてくれませんでしたし、人工乳房を製造する他社にも問い合わせましたが、やはりいくら人工にしても乳ガン患者用ブラジャーでないといけないと。ただ、製造工程を調べると、ボディに合わすことを第一に考えたつくり方をしているとわかった。だったら、アプローチを変えて、患者がこれまで使っていたブラジャーを採寸して、ブラジャーに合わせた人工乳房をつくってしまえばいいじゃないかと発想。これならイケると。
名古屋市内にある工房には、台湾や中国からも顧客が訪れるとか。フルオーダー20万円台で、人工とは思えないクオリティの外観と感触のある乳房が手に入る
下着店に勤める女性販売員に頭を下げて自分がやろうとしていることを話し、おっぱいの型を取らせてほしいと依頼。女性販売員たちは快諾してくれて、型取りの練習を毎日のようにさせてもらいました。ホントに多くの女性に協力いただきましたね。僕は日本で一番、女性のおっぱいを見ている男じゃないかと思うくらい(笑)。型取りのやり方は歯科技術を活用し、できるだけ簡単にできる方法を探っていきました。ブラジャーに合わせた人工乳房の製造を普及させたいという思いがありましたから、それにはつくり手を増やす必要があります。乳房製造のキモとなる型取りの方法が、難しいものだと普及させられませんから。1年半近くおっぱいの研究を続けて、妹の条件をクリアする商品ができるようになり、そして妹が僕に「裸体を見せてもいい」と決心がついて初めて人工乳房を製造したのが、1998年のことでした。
その一方で、泌尿器科の医師と協力し、尿道ステントの技術を開発。外資の医療機器メーカーとの商品化の話が頓挫してしまったことを機に、泌尿器用医療の最新技術を生かしたクリニックを主力に、2003年、会社を設立。46人の仲間から出資を受けて、株式上場を目指し、人工乳房の製造を第二の柱として細々とやっていました。ところが、泌尿器用医療技術の実験がうまく進まず、追加実験の連続で、資本金を食いつぶすばかり。逆に、人工乳房の製造は提携病院もどんどん増えていき、顧客数も増加。ホットな市場になっていったのです。そこで、出資者たちを説得して、主力事業をシフトさせたのが、2005年。心機一転、人工乳房の製造会社としてリスタートしたのです。
それから、人工乳房を製作する職人を「ブレストケア・アーティスト」と名付け、女性限定の私塾を開校しました。乳ガン患者はほとんど女性。妹も手術痕は「夫と娘にしか見せたことがない」と言っていましたし、僕がつくった人工乳房を着けるまでは「友人と温泉旅行にも行かない」と言っていた。それだけ乳ガン患者は人に手術痕を見せることに抵抗感があるわけです。身内とはいえ、僕みたいなあやしい男に裸体を見せるなんて、もってのほか。他人の男性に体を見せるのもかなり勇気がいることですから、女性に限定して多くのアーティストを育てていきたいと考えています。
乳房を切除されて悩んでいる多くの女性を救いたいという気持ちがありますから、様々な学会やセミナー、イベントに参加してアピールを行うよう心がけています。2009年にはビジネスコンテスト「N-1グランプリ」に展示参加し、グランプリを受賞。それによってマスコミなどに取り上げられ、認知度も高まりました。でも、もっともっと、ですね。ニーズに対して、ブレストケア・アーティストの数が足りていませんし、株式上場できるくらいに大きくならないとね。多くの人に感謝されることを目指し、社会に役に立つ企業に育てていきたいと思っています。
父親が経営するインプラント製造・販売会社に勤める一方、泌尿器科の医師と共に、尿道ステントの技術を開発して特許を取得。それを知った大手製薬・医療機器メーカーからの依頼もあり、商品化の計画が進んでいました。主なマーケットはアメリカでしたので、ケタ違いビジネス。慎重に事を進めていたのですが、その話が9・11同時多発テロを機に頓挫。だったら、もう自分で起業してやろうじゃないかと。というわけで、当初は泌尿器科クリニック向けの機器メーカーとして起業したんです。社名の「ウロ」も「泌尿器」という意味ですしね。ところが、実験を重ねながらもなかなか商品化できず……。一方で、細々とやっていたオーダーメードの人工乳房販売が伸びてきて、主力をチェンジしたと。そういうわけです。
1億5000万円です。尿道ステントに関する実験費用とそれにかかわる人件費で、ほとんど消えました。
2000万円は自分の貯蓄で、残りの1億3000万円は46人からの出資です。当時、テレビ番組の「マネーの虎」がはやっていて、しっかりと自分のビジネスの素晴らしさを説明できれば、お金は集められるものだと思っていたんですよね。それに、3〜5年で株式上場するつもりでした。ちなみに、46人の出資者はすべてが男性。出にくい男性のオシッコを出す技術だと詳細に解説して、それがわかるのは男性だけだったんです(笑)。
特に家族には相談しませんでしたが、事業を始めてからも特に心配もされませんでした。友人・知人は、出資してくれる人も多かったですから、賛同者ということになりますね。
大手医療機器メーカーも食いついてきたわけですから、イケてると思っていましたよ。不安なんて何もなかったですね。それが甘かったんですけど(苦笑)。実験の連続ばかりで、「なかなか成果につながらない」となった時、初めて不安を感じました。
やはり、何といってもインターネットでしょう。医療の研究者にコネクションがなかったので、医療に関する情報を調べたり、研究者を探すにはネットの力が大きかったです。会社の設立方法に関しては、お世辞抜きで『アントレ』を参考にさせていただきました。本当に参考になりました。
出資してくれた仲間たちです。また、ベンチャーキャピタルからの出資も受け入れたので、その担当者にも相談しながら準備していきました。当時は、「起業とは上場させるのがゴールなんだな」と思い込んでいましたね。
投資家に「出資した資金を返してほしい」と言われたことです。その投資家たちはリーマンショックの影響を受けていて大変だったとは思うのですが、それでもやっぱりショックでした。オーダーメードの人口乳房販売がグッと伸びてきて、これから!という時でしたし、「信じてくれよ、待ってくれよ」と。心のどこかで、投資家とはお金ではなくて、志でつながっていると思っているところもありましたから。結果的に4000万円ほど返すことにしましたが、かなりせつなかったです。
アメリカで暮らしていた時、いつ死んでもおかしくないような、けっこうイリーガルに近いこともやって、どうにか毎日をしのいできました。そんな経験もあるので、「社会に恩返しをしなくてはいけない」という思いが非常に強いんですね。このビジネスはお客さまに感謝される機会が多く、「本当にいい仕事を選びましたね」と言われることも。ですから、「多少は社会に恩返しできているかな」と思えることが、このビジネスで起業して良かったことです。
あきらめないこと。これに尽きますね。最高な状況の妄想、最悪の事態の妄想をたくさんしたほうがいいと思います。起きたことが、想定外であればあるほど、ダメージって大きいじゃないですか。僕なんて9・11同時多発テロが自分に影響するなんて考えてもみませんでしたけど、実際、何十億円というビジネスの話がぶっ飛びましたからね。そんなの想定圏外ですよ。先々に対する様々な妄想をしておくと、それに対するアプローチ方法が考えられるもの。だから、ちょっと大変なことがあっても、あわてず、驚かず、冷静な判断ができます。それに、ずっと妄想をしていると、そのうち妄想からアイデアが生まれたりもしますから。妄想、あなどれませんよ!
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