しんじょう・すなお/沖縄県出身、神奈川県育ち。高校時代に網膜色素変性症で失明し、大学の理療科教員養成施設を卒業。盲学校教員として24年間勤務する一方、視覚障害者のネットワーク設立や様々な商品開発にかかわる。3児の良きパパでもある。
同社開発のPC用点字キーボード「ブレッキー」。キー総数はわずか37個。点字は6つの点で表すため、文字入力キーも6個。PC操作を触覚に頼る視覚障害者に使いやすい商品
視覚障害者の就労の難しさが僕の原点です。幸い僕は盲学校の教員として勤務し、視覚障害のある子どもたちの能力や個性を広げることに奮闘してきました。しかし、一般の人々に障害理解がもっと進まないと彼らの受け皿が広がらない。そこで教員を続けながら、神奈川県内の視覚障害者や支援団体、企業、教育機関などをネットワークした神奈川県視覚障害者情報・雇用・福祉ネットワーク「神奈川県視覚障害者の雇用を進める会(現「NPO法人View-Net神奈川」)を立ち上げたのが、1977年のことです。その後ITの発展により、技術を身につけることで雇用機会が増えると、視覚障害者のIT技術習得にも力を注いできました。
携帯電話が一般化した頃です。教え子である視覚障害を持つ女子高生から「私もケータイを使いたい」という嘆きの声を聞きました。そこでマーケティングを勉強していた大学生に、視覚障害者の携帯電話のニーズに関する調査を依頼。そのデータをもとにNTTドコモに視覚障害者だけでなく、高齢者などにも使いやすいユニバーサルデザインの携帯電話の開発を提案。これが非常に勉強になりましたね。企業側は障害者や高齢者に配慮した商品をつくろうと思っても、どうつくればいいのかノウハウがないのでできない。なるほど、企業に「つくってください」と要望するだけでは通らないのはそういうことかと。企業と障害者が相互に理解し合いながら、一緒にものづくりをしていけば実現できることがわかったんです。「View-Net神奈川」のメンバーと意見交換したり、携帯電話の画面色のコントラストなどは弱視の人に見てもらったり、キーボードの操作性は全盲の人の意見を聞いたり……。それで誕生したのが、150万台の大ヒットとなった次機種の携帯電話「らくらくホン」。視覚障害を弱みではなく強みと考えれば、自分と人と社会に貢献する事業ができるはずだと。この一連のプロセスを経験したことで、独立への自信と勇気が芽生えてきたのです。
ハードウエア開発を担う長谷川浩一さん(左)、営業はお任せ!の原田全和さん(中央)と。オフィスは点字ブロックやチャイムを設置するなど、大家さんが配慮してくれた
教員時代、NTTドコモの「らくらくホン」のほか、起業後、当社で販売することになる活字文書を朗読するシステム「よみとも」や、PC用の点字キーボード「ブレッキー」などの開発にも無償で携わりました。しかし、このまま教員という立場のまま商品開発にかかわるよりも、本業としてやっていったほうがいいのではないかと考えるように。数々の共同商品開発によって、企業とのつながりや協力者も増えていました。また、自分が起業すれば教育の視点と企業経営の両方の視点で、企業が視覚障害者を雇用する際の環境づくりなど、どんな配慮をすればいいかを提案できる。それに、自分の会社に視覚障害者を採用すれば雇用促進になるはずだ。元教員、経営者、視覚障害者という立場をフルに生かして事業展開をしていくために、起業という結論を出しました。
幸いなことに、ソフトウエア開発が得意な仲間、ハードウエア開発が得意な仲間、営業力のある仲間、そしてこれまで共同開発でお世話になった企業も僕の夢に賛同してくれました。事業計画書を作成し、一緒にビジネスを始める仲間たちと何度もミーティングを重ねてブラッシュアップ。会社設立準備に半年間かける一方で、すでに商品化が決まっていた製品の開発も同時に進めていきました。また、オフィス物件探しは、商品開発に追われている状態だったので、事を急ぎすぎて納得のいかない物件をつかんでしまってはいけないと、まずは自宅でスタート。起業から5カ月後に現在の物件に入居しました。もともと学習塾だったワンフロアを大家さんがオフィス用物件として貸し出しており、引き戸のドアも僕には安全で気に入りました。それに大家さんのご好意で、点字ブロックやドアを開くとチャイムが鳴る器具なども設置してくれたんです。ありがたかったですね。
現在は、Webサイトやメール、Word、Excel、PDFに書き込まれた日本語と英語のテキスト情報を音声で読み上げる高性能音声出力ソフト「xpNavo」、Webページの情報を音声出力できる機能を実装するアプリケーション「Web合成音声配信システム:vds」の販売に力を入れています。いずれもワンタッチの操作でOK。視覚障害者だけでなく、障害者、高齢者、健常者などの分け隔てなく使いやすいユニバーサルデザインに配慮した製品です。また、商店街や医療機関など地域のユニバーサルデザイン化のサポートも積極的に行っています。
2009年2月に開催された「横浜ビジネスグランプリ2009」では最優秀賞を獲得し、それによって非常に多くの方から注目いただけるようになりました。企業だけでなく、行政や医療、地域など、様々なシーンでユニバーサルデザインは求められていますから、この賞獲得をしっかりとビジネスチャンスに変えなくてはいけないですね。ニーズに応えて実績を積んでいくことが、当社の事業継続にも、人々にも、社会にも役立つと信じていますから。かつて僕は、視覚障害者のシンボルのような白杖を持つことが恥ずかしかった。でも、障害もひとつの自分らしさなのだと考え、堂々と生きられるようになりました。だから、僕の強みは視覚障害があることだと公言し、この視点を生かした事業で、誰もが豊かに暮らせる社会づくりに貢献していきたいと思っています。
長く教員として視覚障害のある子どもたちの能力を生かす仕事をしてきたわけですが、現在の事業も視覚障害のある人の特性を生かしたり、高めたりするための商品開発。なので、基本的には「教育」か「事業」かの畑の違いでしかないと僕自身は思っています。ただ、教員時代に携わった数々の商品開発で、独立への勇気をもらいましたね。また、3人の子どもたちも成長していましたし、起業して収入が少なくなるなら、少ないなりに自分たちで知恵を絞って、自活を覚えさせるのも教育的に悪くないと。それに、自分の事業を支えてくれる仲間もいたので、きっと継続できると起業を決断しました。
3800万円です。全額、資本金に充てています。使ったのは、オフィスの物件取得費や設備・備品費に400万円。仕入れ代に300万円。開発費に1000万円。残りの2100万円は人件費と運転資金にしました。
2000万円は退職金で、1400万円は身内や知人から借りています。残りの400万円は取引先として予定していた企業からの出資です。
みんな、「勇気あるけど、無謀だよね」と驚いてましたよ。昔からの友人は2年以内につぶれると思っていたようですし。家族に関しては、……まぁ、僕は以前から好きなことばっかりしてますからね(笑)。半ばあきらめていました。
ちゃんと事業計画書どおりに売り上げは立つのかが当時も不安でしたし、今でもそれは同じです。スタッフもいますからね。ただ、大きな借金をして始めたわけではないので、返済に追われるプレッシャーはありませんでしたし、独立当初は目の前の開発を急がなくてはというプレッシャーのほうが強かったと思います。
インターネット検索で、事業計画書のつくり方などは調べましたが、それ以外の情報源は特に思い付かないなぁ。人に相談するほうが多くて、会社の監査役や取締役とはよく相談していました。そもそも経営の勉強をあまりせずに会社を立ち上げてしまったので。
先にも言ったように、一緒にビジネスをする監査役や取締役などの仲間。それと取引先や出資者にはよく相談していました。ビジネスを一緒にする仲間とは、起業を決めてから月に1回は顔を合わせてミーティングをしていましたね。
視覚障害があることで、書類にハンコを押すことや、お金の出し入れをスタッフに任せなくてはいけないなど、困ることはたくさんありますよ。コミュニケーションの難しさを感じることも時にはありますしね。スタッフたちには、まだ多くの給料を支払えないのに、僕の夢にかけてもらってサポートもしてもらっています。でも、長くやっていくには、夢だけでは続かない。利益をもっと上げていかなくてはと考えています。
何といっても、自分の力で稼げること。成功も失敗もすべて自分の責任。これが一番です。教員時代は「おまえは公務員で安定していて、いいよな」と言われることがプレッシャーで、けっこうツラかったんですよ。「人間としていきいきと生きること」が一番大事と思っているのですが、僕は今、いきいきしてますしね。その姿を子どもに見せられることが誇りでもあります。
僕が言えることは、ひとつだけです。視覚障害をメリットとして生かした事業をしていますが、弱点に思えることも発想を転換すれば必ず強みになるということです。自分が弱みと感じていることを、一度、見直してみてはいかがでしょうか。考え方の角度をちょっと変えるだけで、弱みは強みに変わり、事業の可能性が一気に広がっていくはずです。
独立した先輩の体験エピソード&独立支援情報