しまむら・ひろし/大阪府出身。小学生の頃からラジオや無線、リモコンなどの電子回路設計に興味を持つ。マイコンシステムハウス、大手電気メーカー系列製造会社を経て独立。産官学連携で行う「屋外ユビキタスネットワーク デバイスフィールド・サーバー」実用化に着手し、国際環境情報教育プロジェクトも展開。
創業予定日までの計画を“設計図”に。各種手続き、提出資料作成、営業先など時系列でルート化し、予定日、実行日なども明記して常に確認。赤ルートは期日厳守項目
在職中は業務が忙しく、実際に独立準備を始めたのは退職を決意した日からでした。まずはやるべきことを整理しようと、創業までの約3カ月の計画を“創業計画設計図”に。最初は何も浮かばず不安でしたが、いざ書き始めたら4、5時間で完成。頭の中では海図のように地図とシナリオはでき上がっていたのでしょうね。というのも、会社員時代、ごく自然に自分の興味と職務上必要だと考えて情報をキャッチしてきたので。新たな研究開発をする際、どんな公的支援や補助金があるのかも自然と目に入り記憶しており、管理職でしたから、事業提案力やマネジメント力を高めようと自己投資のつもりでベンチャービジネススクールを受講していました。そうやってMBA的発想や将来的な事業構築概念などの知識を得ていたのです。
“設計図”作成の次に、中小企業創造活動推進法認定とインキュベーション施設の入居審査を受けるために事業計画書を作成しました。潤沢な資金を用意して独立するわけではないし、社会的な信用もない。それを補うには、創造法認定とインキュベーション施設入居は必須だと考えたのです。
「フィールド・サーバー」の実機と、日本国内や海外の遠隔地からリアルタイムに届くデータ画面。GISと連携するデータベースプラットフォーム化するソフトも開発
事業は得意のマイコン応用設計と受託開発のほかに、「net家電プロトタイプ・量産化 超役立ち企業」を目指し、家電メーカーと、業務を14群にわけた専門企業とのアライアンスを組もうと考えました。「Net-Pyon」と命名し、テレビ会議も付加した自社システムのネットワークを活用して、離れていても最新データを共有。また、開発・設計・試作・量産化までの効率・精度をアップさせ、さらに多様な得意技術と知の集積、運用ノウハウの形成化も実現しました。営業面では会社員時代の人脈をひとまずは頼らず新規開拓。「独立したら頼むよ」と言ってもらっていましたが、私が企業側の人間なら、できたてのベンチャー企業のリスクを考えると取引には正直躊躇するはず。そんな負担はかけたくなかったですから。
周囲の協力に恵まれ、苦労のすえ創業1年目は売り上げが1億円を超えるほどに。でも、より持続的成長性を持つ企業となるには、事業提案力が必須要件と考えました。国策としての産学連携の動きが活発になっていた時期でもあり、三重大学を訪れ、基礎研究段階だった「フィールド・サーバー」と出合ったのです。三重大学との共同研究などを経て三重県ベンチャー補助金制度に応募。1位通過で研究開発費を得て、実用化を目指しました。
「フィールド・サーバー」とは、小型コンピュータ、カメラ、各種センサー、無線LANなどを搭載したユビキタスセンサーネットワーク機器で、これを農業現場に設置すると、リアルタイムな画像、気候・日照量・CO2・土壌データが収集できます。このデータを科学的に分析することで、これまで勘に頼ってきた農業を解明し、データベース化できるのです。生産調整、後継者問題や新規就農者の支援にも役立つし、画像とデータの可視化によって、地域ブランドの確立による地域活性化、食の安全をうたうトレーサビリティ、24時間の防犯・防災センサーにも利用できる。また、農業だけでなく、地球温暖化・環境問題のデータ共有・分析、子どもたちの学習教材にも生かされるなど、ハード&ソフト共に多様なビジネス分野に発展しています。
現在は国内をはじめヒマラヤ、アメリカ、中国など、海外7カ国の研究機関や大学、大手食品メーカーなどで活用されていますが、将来は、事業開発により市場顕在化を進め、量産化を図り、一般の農家でも購入できる5万円程度の価格を実現し、ITの知識がなくても利用できるようにしたいと考えています。さらに会社として今後5年間の事業計画書を作成し、情報プラットホームとセンサーデバイスを融合させた新規事業も進行中。最近ようやく、起業家から企業家になれたかなと感じているところです。
高校時代に“ユビキタスネットワーク”という言葉すらありませんでしたが、無線と電子機器が好きで、バイトの履歴書に「コンピュータとネットワークのつながりが今後は重要となる。だからここで仕事がしたい!」なんて書いていました(笑)。コンピュータネットワークの未来にずっと興味を持っていましたし、もっとユーザーインターフェイスや生活シーンへの存在にこだわったクリエイティブな製品づくりもしたかったんです。関連会社の工場がアジアへ移転するなど、日本のものづくりの環境が難しくなってきたと感じて、30年後の定年を考えた時、会社も業界の将来もわからないなと。同じ不透明ならば、自分の感覚を信じてやってみたいと独立を決意しました。
個人事業として創業した当時の開業資金は約200万円です。三重県のインキュベーション施設の入居費用などに70万円、運転資金に130万円。コンピュータ1台と21インチモニタA3カラープリンタ1台は手持ちのものを使いました。
少しの退職金と親類へのお願いです。
ありがたいことに会社の専務は引き留めてくれましたが、決意は変わりませんでした。妻は心配していたとは思いますが、会社勤めの頃も徹夜で仕事という日も多くありましたから、雇われの身の大変さも知っていてか、独立に反対はしませんでした。妻も盤システム設計と財務経験があるので、創業1年目の多忙な時期には図面を書いてくれたり、今も財務を担当してくれるなど戦力になってくれています。
起業して一攫千金を狙おうなんて野心もありませんでしたし、自分が社長の器かと考えると自信もなく、そもそも事業として成り立つかどうかが不安でした。でも、悩んでいても仕方がない。不安って、夜寝ようと思った時など、考える時間が多いとわき出てくるものです。そんな時は起きて仕事をする。何かしら仕事して疲れれば、眠れますから。不安になると、創業計画設計図や事業計画書を見直したり、書き足したり、今後の計画を練ることに没頭しました。その都度、できていること・できていないことが明確になるので、やるべきことだらけで不安が出現するヒマがなくなりますから。体力は消耗しますが負の精神的な消耗はなくなります。
会社の新規事業や自己スキルアップのためにと様々な情報を収集していたことが役立ちました。新規事業や研究開発の必要性を管理職でもあり会社の上層部に直訴、交渉する立場でしたから、公的な産業支援策や中小企業支援策を調べたり、経済産業省の政策提言書やシンクタンクの事業戦略論文などもよく読んでいましたね。事業推進や人材活性化に役立つだろうと、三重県ベンチャービジネススクールで受講した慶應大学の先端的なMBAコースも役立ちました。また独立を決めてからは、経済産業省・中部経済産業局の産業クラスター制度の「デジタルビット懇話会」に参加し、東海エリアの電子機器・情報処理会社の担当者と面識を持ったことも、営業面では有益でした。
三重県産業支援センターのインキュベーションマネジャーに創業計画設計図や事業計画書をチェックしてもらうなど、何かと相談をしてきました。創業1年目は、三重県ベンチャービジネススクールで知り合った経営者たちもいい相談相手になってくれました。
嬉しい悲鳴ですが、1年目は売り上げが順調すぎて、それだけに「イケイケどんどん的」だったと反省しています。特に顧客フォローの対応がまったくなってなかった。うちの会社にたまたま来ていた取引業者に「オレは電話番じゃないぞ」と言われたことも(笑)。出張中も私の携帯電話は朝から夜まで鳴りっぱなし。新幹線の移動中は通信が途切れるので、お客さまには本当にストレスをおかけしたと反省しています。
自分のやりたいことを考えながら、自己責任の中でできる自由があること。社会の存在の中で、自身が最大限活かせる生産活動をおこなっている実感があること。とはいえ、決して楽な話ではないのでつらいところです、日々精進でしょうか。自分で考える社会への役立ちとして「働く・つなげる・役立てる」というユビキタスネット事業をやりたいと思っていたことが現実になったこと自体は嬉しいです。それに、これまで別世界の人、と思っていたような人物に会えることは、独立したからこそかなったことだと思います。シリコンバレーで有名なアラン・ケイ博士とコラボレーションをさせていただくことなど、会社員の頃は想像すらできませんでしたから。
事業の大小を問わず、社会への役立ちを意識することが重要だと思います。それと、今はインターネットで得たい情報、会いたい人との出会いの可能性が高い時代ですから、大いに利用することだと思います。各専門分野のピラミッドの頂点に位置するような人と、じかに出会える機会など普通ありませんよね。でも、Googleなどで検索すれば、情報は容易に得られますし、メールでも電話でもコンタクトを取れる、対話力を醸成できればビジネスにつながる可能性だってあるんです。もちろんネットの情報量は膨大ですから真偽を見極める目も、情報を統合する能力も必要ですし、自身の中の情報量や計画を固めてからコンタクトを取るのは大前提ですけどね。
独立した先輩の体験エピソード&独立支援情報