ふるや・ちかこ / 東京都出身。美術大学で油絵を専攻。素潜り漁の手伝いをしながら潜水士、1級小型船舶操縦士の資格を取得。広告・雑誌・出版物の撮影・執筆で活躍し、全国で個展も多く開催。海と同じくらい猫も大好きだが、今は飼えず我慢中 。
学生時代は少林寺拳法、トライアスロン、モトクロスで心身を鍛えてきた。自分の弱さを自覚することは強くなれるチャンスというのが持論
15歳の夏に家族旅行で沖縄を訪れた時、将来ここに住みたいと思ったのがそもそもの始まりです。大学生の頃にも全国各地の海を自転車で回って潜っていましたが、やっぱり一番好きなのは沖縄の海。大学を卒業して1年会社勤めをした後に、念願の沖縄へ移住したんです。素潜り漁をする年輩の海人(ウミンチュ:沖縄の漁師)の手伝いを始めて、すっかりその世界に魅せられました。
でも3年たった頃、私は漁師になるためにここに来たのか?と自問するように。もちろん、この時の漁の経験は今に生きています。海人を撮る時に、漁の邪魔にならないよう動きを察して先回りしたり、息継ぎのタイミングを計って撮れるのも、この経験が役立っていますから。でも当時は、そんな将来の計算をしていたわけではないんです。
海人の海中撮影では、浮きにもなる防水のクーラーボックスと腰をロープでしっかりと結んで、カメラ2台をたすき掛けにして潜りながら行う
本格的に写真を学ぼうと決めてすぐ東京へ戻ったものの、どこで何をしたらいいかわかりませんでした。それでまずカメラ雑誌を買ってきて、求人広告をチェックしたんです。カメラ機材に触れられそうなスタジオアシスタントがいいと思ったけれど、これには年齢制限があって、だいたいが25歳まで。私はすでに27歳。ダメ元で、取りあえずじかに頭を下げて頼もうと、一番大きな求人広告を掲載していたスタジオを訪ねました。 その頃の私は、どこの国の人?っていうくらい真っ黒に日焼けしていたので、それもインパクトがあったのか、必死に頭下げて頼み込んで、情熱だけで押したら、通じたって感じです。1年後にはスタジオを持っているフォトグラファーのアシスタントになりましたが、「独立? どうぞどうぞ大歓迎」という恵まれた環境だったので、アシスタントしながら単独の仕事も始めるようになりました。
お金と時間さえあれば、仕事ではないけど沖縄へ、東京で稼いだらまた沖縄へ、というのが2年くらい続いたでしょうか。その間も、東京の実家には頼りませんでした。親の大反対を押し切って沖縄に移住したので、意地もあったし、甘えたくなかったんです。東京の家賃とカメラ機材購入で経済的には苦しかったはずですが、これって私の性格なんでしょうか、苦には感じませんでした。
ひとつのことに夢中になると、とにかく前進。趣味も仕事も一緒で、そのすべてが生活になっちゃう性格なんです。移住と写真家を目指す順番が、はたから見れば遠回りだろうし、自分でも不器用だと思います。でも、自分のやり方で貫くことが、何より頑張れる力になったし、これからも変わらないでしょう。
91年に最初に沖縄に移住した時、写真家になるとは予想もしていませんでした。ダイビングインストラクターの資格も持っていましたけれど、海とは誠実に付き合いたいと思って、素潜り漁の手伝いを始めたんです。素潜りで道具も使わずに魚介類を捕り、セリに出す。そのシンプルさにひかれました。3年間近く漁の手伝いをするうちに、変わりゆく海・減りゆく海人を目の当たりにして、今この瞬間を表現したい、残しておきたい、それなら写真だ。写真家になろうと決意したわけです。すぐに東京へ戻り、スタジオアシスタントから始めて2年半ほど修業。東京の出版社から沖縄の海を撮る仕事が入ったのを機に、99年に再び沖縄へ移住しました。
約60万円。これは写真家として沖縄に再移住した99年が独立開業の年で、その時の引っ越し費用と暗室制作費。暗室は自分で手づくりしたので、そのための工具と材料代です。カメラ機材は、写真家を目指して一度東京に戻ってアシスタントを始めた時から、少しずつ買いそろえていたので、開業資金には含んでいません。再移住するまでにカメラ機材に投じていた総額は150万円くらいです。
東京でアシスタントを始めて1年半後くらいに、フォトグラファーとしての仕事も入り始めていたので、その時の報酬をためていました 。ほかにも、開業資金という項目に含まれないと思いますが、独立後も経費はかなりかかります。カメラ機材は一度買いそろえて終わりではありませんから。年数たてば買い替えが必要ですし、水中撮影は特殊な機材も多い。デジタル化でカメラや周辺機器も進化するし、バージョンアップも必要になる。独立前も今も、収入のほとんどがカメラ機材代に消えてしまいます。
写真家として再移住する以前から、東京と沖縄を往来していたので、東京のスタジオの仲間も先輩も海人も、私自身さえ、"独立"を特に意識することはありませんでした。両親は、勘当とまではいきませんが、最初の移住の時に大反対。一人暮らしをするのも初めてでしたから、母は泣いて止めたし、沖縄まで連れ戻しに来たことも数回ありました。友人たちも、どうせ反対しても聞かないし、いずれ泣いて帰ってくるだろう、と考えていたと思います。写真というかたちに見える仕事をすることになりましたが、当時はなぜ私が沖縄で漁をしているのか、全く意味がわからなかったでしょうね。でも、今はみんな応援してくれています。
不安って、ふと立ち止まった時に考えるものでしょう? ずっと突っ走ってきたので、不安に思う余裕もなかったです。ここ最近でしょうか、仕事がない時にふと不安に思うようになったのは。年齢的な不安も正直、感じ始めています。一生この仕事を続けていきたいので、依頼でいただく仕事以外に、自分のペースで仕事ができるよう、企画から持ち込めるような仕事を始めたいと考えています。それと、写真に限らず海をリスペクトする仲間と一緒にプロジェクトを立ち上げて 、活動を始めたところです。メッセージ性のあるツールをつくって販売も始めました。
カメラの専門誌、それと、東京で活動していた時のスタジオや撮影現場です。スタジオにはフォトグラファーはもちろん、デザイナー、出版社や印刷会社、写真にかかわるいろんなジャンルの人が集まるので、たくさんの役立つ情報が手に入りました。そこで情報も仕事も得られたし、私が海好き・沖縄好きというのも自然と知られて、再移住した際、沖縄での仕事にもつながりましたし。技術面では、先輩の仕事ぶりを見て、くんで、生かすこと。情報や知識だけではなく、自分で実践して身につけたことが一番役に立ちます。
その時その時で身近な人に相談していたと思いますが、私の場合それは相談じゃなく、確認だったんだと思います。「でも、もう決めているんでしょ? 自分に確認したいだけでしょう?」みたいな。もちろん人の意見を聞くのは大事だけれど、人の意見を決め手にして、もし失敗したらすごく後悔すると思うんです。最終決定するのはあくまでも自分。直感を信じて進んできたし、これからもそう。組織に属さない、ひとりでやっているフリーランスだからこそ、自分ひとりで決められる良さもあると思いますし。
仕事の依頼は先着順で受ける、というルールを私は守る性格なので、後から打診されたうれしい仕事でも、断らざるを得ないことがあります。複数の依頼が重なったり、逆にぽっかり空くといった時期的な波も生じます。一度引き受けたら、自分の都合で変更や時間調整はできないので、徹夜や寝不足もざら。どれもフリーランス にはありがちな悩みなので、なるべくそれによって精神的に乱れないよう努めています。それと、自分ひとりでいかにクオリティを高めていくかも難しい課題だし、東京と沖縄でギャラに格差があるので、正直、困るというか痛いです。
出版物や個展、テレビなどで私や作品が紹介されて、身近な人が喜んでくれること。2007年8月にTBS系の番組『情熱大陸』に出演した時、放送直後に母から一番に電話があって、「良かったー」って喜んでいました。見知らぬ人からのエールもうれしいですが、やっぱり家族や友人、海人のおじぃやおばぁといった私の大切な身近な人たちに、評価ではなく、ただただ純粋に喜んでもらえるのが何よりうれしい。ひとりで突っ走ってきたけれど、ひとりじゃないと思えます。
強い思いを持つこと、思いは通じると信じることです。これはモトクロスをやっていた経験からですが、崖っぷちのライン取りもそう。落ちるかなと思うと落ちる、行けると勢いつけるとうまく行ける。人間にありがちな、変なというか、余計な感情のフィルターをはずせるかが勝負。表現者なら、なおさら大切だと思います。それに人は痛い思いをして育つ、成長すると思うんです。たとえ途中で失敗したり挫折しても、それを乗り越えればもっと強くなれるのですから。信じて進むことです。
独立した先輩の体験エピソード&独立支援情報