おおくぼ・まさとし / 大阪府出身。1985年にネパール・ヒマラヤの処女峰6966mのドルジェ・ラクパ登頂。大阪労山雑木の会、大阪府建築士会、男の茶会、角田だんじり保存会に所属。妻と娘3人のハーレム(?)暮らし。念願だったパラグライダーに夢中。
パソコンの壁紙は剱岳の写真。高校時代に初めて登った山であり、独立の年に“復活の山”として思いを込めて再び登り、それを社名にした。
36歳の時、独立したいと会社へ伝えましたが、「ちょっと待て、その前に○○営業所を立て直してほしい。君しかおらへん」と留められました。まぁ最後の奉公だと思って引き受けたのですが、無事に成功させて戻ってくると、「大きなプロジェクトが決まった。君しかおらへん」と言うんです。そんな「君しかおらへん」の繰り返しで7年が過ぎてしまいました。もう限界だ、独立したいと言うと、「後任者を見つけるからあと3年」と言われて。もういい加減アカン。断りました。「じゃせめて半年。そうしたら会社を挙げて送り出してやるから」って。ところが退職直前に、会社の態度は一変したんです。社を挙げて送るどころか、「独立しても絶対に仕事は回さない、全力で阻止してやる」とまで言われてしまい、そのうえいわれのない悪評を同業者にまで流されました。
事務所に神棚を奉り、開所式では110人を招いて奉鎮祭・入居清払い式を行った。翌月にパソコン出火。水害だけで済んだのは御利益かも?
悔しくて眠れない夜もありました。でも、会社が流した僕の悪評は予想外の宣伝効果になったんです。前の会社との関係が完全に切れたなら、「ぜひに」と、かつての競合会社からも仕事の依頼が来ましたから。僕の仕事ぶりを見る人はちゃんと見ていてくれた、認めていてくれた、ありがたかったですね。会社組織の冷たさが身にしみてわかりましたが、いろんな面の体力・技術を付けさせてもらったのも事実です。24年間勤めた会社ですけど、なんの未練もなくスッと忘れ、縁を切ることが出来ました。今の僕を育ててくれた会社に感謝しています。
独立して数カ月後に、勤めていた会社から仕事依頼の電話が入ったんです。ちょうど翌月の仕事予定がなく不安な時期でしたけれど、いつかこの日が来たらと心に決めていた一言を伝えました。「お断りします」とね。その晩、飲んだビールは格別でした。
会社員の頃は、退職から独立までの手順を思い描いていました。ボーナス直後に退職して、退職直前に消化する有給休暇中に独立準備をして、事業が波に乗るまでは前の会社から下請けして、と。それが"脱サラの特権"だと当たり前のように考えていたんです。それが、まさかまさかの展開でしたけどね。
登山家なら誰も夢見るヒマラヤ登頂に成功した時、実感したんです。夢は思い続けていたら必ずかなうんだって。独立も、山登りと一緒だと思いました。ひとつのルートが閉ざされたなら、別のルートを見つければいい。挑戦したいなら、一歩ずつ前進するのみ!だとね。
「なぜ登るのか。そこに山があるからだ」というのと同じで、一生、会社員ではない生き方があると知っている以上、独立の道を選ぶのは自然なことに思えました。建築士の仕事にやりがいを感じていたし、給料も悪くはなかったけれど、会社員は年とともに定年までの道のりが見えてくる。僕は、好きな仕事を自分の道で歩みたいと思ったんです。茶道の精神でいう道・学・実です。好きなこと、やりたいこと、つまり自分の進みたい道を見つけたら、まっしぐらに進み、学び続け、さらに知識だけでなく実践し続けること。その道・学・実で、建築道を極めたいと。今でもそう思っています。
設立時の資本金は500万円。実際の開業資金で使ったのは、そのうち400万円くらい。事務所を借りたり、事務機器や社用車をそろえた費用です。当初は事務所など借りずに、自宅の一室を改装して始めようとかと思っていましたが、妻が「あれこれ考えているより、いっそのこと事務所借りたほうが早いし、スッキリする。自宅だとメリハリつかへんから」と言うので事務所を構えました。そのアドバイスは大正解でした。事務所がある、株式会社である、というのはお客さんからの信用度が予想以上に高いと実感しましたから。
退職金が500万円、それを全額充てて資本金にしました。最低資本金規制の特例制度というのを利用して、確認株式会社というかたちで設立しました。これはいつか増資して、自然消滅ではなくこの「確認」を外すのが目標でしたが、2007年7月に達成。退職金を全額つぎ込むことに妻も反対しませんでした。会社員の時があまりにもひどい状況で、3、4日続けて徹夜で帰宅できないなんてこともざらでしたから。僕は妻へ、「会社つくって忙しくなったらお金があるということ。暇になったらなったで一緒にいられる時間ができるということだ」と言ったんです。気持ち良く応援してくれました。
家族は大賛成。円満退社できなかった前の会社からの攻撃はキツかったけど、かつて競合だった会社や同業者からはエールをもらいました。独立してすぐ、僕からあいさつに行く前に、「仕事があるから早く顔出しに来い」と言ってくれるお客さんもいましたし。それと、会社員当時の取引企業も、たぶん前の会社に遠慮していたんだと思いますけど、1年くらいたってから、そろそろ解禁だろうという感じで連絡があり、仕事の付き合いが始まりました。しかもその社長、自分は経営者の先輩だからと、僕にいろいろアドバイスもしてくれる。うれしいですよ。
不安だらけでした。前の会社から下請けで仕事をして、なんて夢見ていたのに、それが全くない状態でしたから。しかも、悪い評判を流されてのスタートですからね。だから一日も早く会社を起こして、営業を開始したかった。12月27日の仕事納めで退職して、1月7日に会社を設立したんです。お正月も徹夜で書類を書いたりしましたが、それまで会社で徹夜続きなんてざらでしたから、同じ徹夜でも念願の独立。これは楽しいものです。今でも不安な時はありますよ。でも起業家に限らず誰でも将来は不安でしょう? どんな状況でも「楽しまなきゃしゃーないな、何とかなるで」という心境でしたし、今もそう思いながらやっています。
大阪市が産業創造館で開催していた「創業塾」の講義です。1回1000円くらいで週に1、2回で全8回。独立準備期間もなく、退職する12月になってから講義を受け始めたので、すべて受けきれずに会社設立後も受講しましたけれど。そのほかには以前から、会社をつくる本とか、経営者の精神論的な本は30冊くらい読んでいましたが、いざ会社登記する段で具体的な実務はわからないことばかりでした。それと、失業保険も早期就業援助金も受け取るための知識がなかったので、退職して即、起業してしまいました。退職からある程度の期間を開けていれば受け取れたのに。後から知って、損したなぁと思いました。
講義を受けた大阪市の産業創造館が、ネットでも面談でも個別に相談を受けてくれました。起業の全体的な道筋についての相談というよりも、税金とか保険とか、わからないことに直面するたびに相談しに行きました。専門家が無料で相談に乗ってくれるので、今でも相談しに行きます。特に税金関係やお金のことは、本を見ても数字ばかりで理解しにくいでしょう? 実際に直面して、わからないので相談に行く。そこで聞いて初めて、本に書いてあったのはこういう意味かとわかることも多いです。それと、妻も良き相談相手です。
お金です。僕ひとりなら、お客さんからの支払いが現金入金でなく手形でも構わないのですが、従業員がいるので月々きちんと給料を支払わなければいけない。だから、現金が必要なんですよ。それが、いつもは現金入金なのに、先方の手違いで手形になっていたことがあって、その時が一番焦りました。自分の貯蓄はもちろんですが、それでも足りなくて銀行に借金しに行きましたよ。2度目の時は銀行も貸してくれなくて、国民生活金融公庫に駆け込みました。
やっぱりお金です。会社の福利厚生で、保養施設と契約したんですよ。先日も淡路島にある保養施設へ行ったのですが、ふっと我に返ってみると、こういう場所で休暇できる会社にできたこと、保養施設と契約できる=お金があるっていいなぁと。給料だけでやっていた会社員の時と比べると、お金があることの余裕もそのスケールも違います。「できて間もない会社なのに保養施設があるなんて、お前の会社っていい会社だな」と、うちの従業員が誰かに言われたらしくて、その話を小耳に挟んだ時はなおさらうれしかったですね。
チャンスを逃すな。漠然と待っていて来るものではないから、ずっと思い続けることです。僕は独立するなら36歳と決めていましたが、これは自分が昭和36年生まれで、ゴルフのハンディも36。ちょうどゴロがいいという理由。結局、計画どおりにはいかずに時間がかかってしまいましたけれど、その期間も経験を積めたわけだから無駄ではなかったし、思い続けていたからあきらめずに踏み出せた。最初の一歩を踏み出さないと何も始まらない、一歩踏み出せばもう後戻りできない、進むのみになりますから。最初の一歩、その勇気を持てと言いたいです。
独立した先輩の体験エピソード&独立支援情報