笑いと気づきの人間讃歌! おとぼけ起業家列伝

笑いと気づきの人間賛歌! おとぼけ起業家列伝

第24回 挿入しない女


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イラスト / 本田佳世

小学生の頃、祖母から「お経(きょう)を唱えたら10円やる」とそそのかされ、南無阿弥陀仏の発声を完璧に会得したものの、御仏の教えに関しては一片も会得していない私である。しかし「諸行無常」くらいは聞いたことがある。世のすべての物事は、姿かたちだけでなく本質においてさえも変化するという世界観だ。

真面目な話になるが、しからば人生の苦悩とは、自己の同一性を保とうとするあまりに外的変化との間に生じてしまう摩擦熱のようなものではないだろうか。

ならば「世の中だって何だって変わるんだから、自分だってどんどん変わって当たり前」。そう思えることが幸せかもしれない。たとえ、そのせいで他人から「いい加減な人だ」と言われても、である。

しかし現実にはそうは開き直れないものだ。やはり人から批判はされたくない。

ところが世の中は広い。外聞など恐れず、昨日は昨日、今日は今日、明日は明日と、諸行無常を地でいくように生きる人もいる。先週の会議では「Aだ」と熱弁をふるったのに、今週の会議では「Bだ」と力説するような人のことである。私は当初、こういうタイプの人は記憶力がよくないのかと思っていた。

セラピストグループを主宰するミホちゃんは、実際多くの人から記憶力を疑われている。「あれっていくらだっけ?」と質問をしてくるから、「あれではわかりませんよ。何のことですか?」と聞き返すと、「えっ? 何だっけ? 何の値段を聞こうと思ったのかなあ。忘れちゃった。ガハハハハ」なんてことは日常茶飯事だし、ものをどこにしまったかなんてことはほぼ覚えていない。そして夢中になってしゃべっていた話題をわずか数日後にはキレイサッパリ忘れていたりする。ついでに言うと、忘れるだけじゃなくてよく間違える。

彼女はカフェも経営している。そこでのやりとり。「すみません。キッシュください」とお客さん。卵料理のキッシュのことだ。ところが「ハーイ」と元気よく答えた彼女がしばらくしてお客さんに手渡したのは「ティッシュ」だった。その場に居合わせた私は笑いすぎてコメカミから血が出そうになったほどだ。後日、彼女が関係者にあてて書いた「そのせいで爆笑されてしまった」という趣旨のメールのオチが、「お客さんが要求したのはティッシュではなく、キャッシュだったのです(笑)」となっているのを見つけた時は、今度こそ確実にコメカミから出血すると思ったほどだ。ねえねえ、ミホちゃん、それじゃあ強盗じゃん(笑)!

しかし私は、そんな彼女を眺めているうちに、単に記憶力が弱いとかないとか、そういうのとは違うことに気づいた。彼女は、自分の人生の物差しにおいて重要ではない情報をどんどん脳から消去する能力に恵まれているのである。パソコンの入力モードにたとえるとわかりやすいかもしれない。彼女は挿入モードではなく、上書きモードを標準設定にしているのだ。たとえ話で補足してみたい。

「私はリンゴが好き」。でもリンゴよりおいしいものを翌日知ると、それが仮にマンゴーなら「私はマンゴーが好き」となる。それがミホちゃんだ。では普通の人はどうか。「私は昨日リンゴが好きだと言いましたけど、マンゴーを知ってそっちのほうがおいしいと思いました。だからといってリンゴがおいしくないと言っているのではありません」ってな具合だ。実際こんなややこしい言い方をする人はいないが、頭の中ではこういう展開になっているはず。

普通の人は、昨日の自分と今日の自分との同一性に固執する。だから上書きによる「更新」を恐れて何でもかんでも挿入したがる。そうなると考えがダラダラと間延びし、結果的に今の今、自分にとって本当は何が大事なのかさえわからなくなってしまうのだ。ミホちゃんはそういう煩悩から解放されている。

時に浄土宗では「十念」といって、くだんの南無阿弥陀仏を連続して10回唱えることを教えている。法事の時など、私はそれを唱えながら心の内でいつも同じ問答を繰り返している。「あれ、オレ今、何回目の『南無阿弥陀仏』を言ったんだっけ? 5回かなあ、6回かなあ?」。この世俗極まりない悩みには我ながらガッカリくるものがある。言うまでもなく、これもまた記憶力の問題ではない。

次回は2008年9月26日(金)更新予定。お楽しみに!

プロフィール

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増田紀彦
(社)起業支援ネットワークNICe
代表理事

1959年生まれ。87年、株式会社タンク設立。97年、「アントレ」創刊に参加。以降、同誌編集デスクとして起業・独立支援に奔走。講演やセミナーを通じて年間1000人以上の経営者や起業家と出会い、アドバイスと激励を送り続けている。現在、(社)起業支援ネットワークNICeの代表としても活躍中。また、中小企業大学校講師、(財)女性労働協会講師、ドリームゲート「事業アイデア&プラン」ナビゲーター、USEN「ビジネス実務相談」回答者なども歴任。著書に『起業・独立の強化書』(朝日新聞社)、『正しく儲ける「起業術」』(アスコム)。ほか共著も多数。

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