我が人生ダントツの不快感は、ピアノを弾こうとしても、右手の指と左手の指に異なる動きをさせられない、あのいわく言いがたいイライラ感である。
だいたいピアノ演奏を断念する人の多くは、私と同じ壁にぶつかって砕け散っているような気がする。というか、むしろ、左右別々に指を動かせる人がいること自体、私には信じがたいことだ。
ところが何事も「過ぎたるは、及ばざるがごとし」になってしまうもの。
医療サービスを手がけるアッキーは、子どもの頃、オルガン教室を追放された経歴を持つ女性だ。もちろんマジメに通っていたのに、である。
「私、右手と左手の速度が違うんです。左手は10小節目を弾いているのに、右手は12小節目くらいまで行ってるんですよ」。この話を聞かされた時、私はその情景がイメージできなかった。そんなことが本当にあるのだろうか。
本当にあるのだろう。結局、オルガン教室の先生も手に負えず、彼女に鍵盤演奏の夢を捨てるよう諭したらしい。先生も苦しかったと思う。ある種の才能を切り捨てるという意味においてもだが、それ以前に、来る日も来る日も得体の知れない不協和音を聴かされ続けたことが、である。
怖いもの見たさというか、怖いもの聴きたさというか、その類まれな演奏を一度くらい鑑賞したいものなのだが、本人はどうしても承諾してくれない。「腹がいっぱいになるまで豚足をごちそうするからさあ」と言っても、決して首を縦に振らないのだ。ちなみに豚足はアッキーの大好物。
まあ、私の性分をよく知る彼女だから、弾き出した途端、私が涙を流しながら笑い転げる図が想像できて、それでイヤなんだろうと思ったら、違った。
「右とか左とか考えるだけで、もうグッタリしちゃうんですよねえ」。そのセリフを聞いて思い出した事件がある。
アッキーの運転するクルマに乗せてもらった時のことだ。私が「次の交差点を左折してくれ」と言ったら、彼女は「左折ってどっちに曲がるんですか?」とスットンキョウなことを聞いてきたのだ。「何を言ってんだよ。左折だから左だろ」と言うと、「だから左はどっちかって聞いてるんですよ」と、ワケのわからないことを言い出す。「左は……左だよ。右じゃないほうだよ」とか何とか私が答えているうちにクルマはとうとう交差点に差しかかってしまい、結局直進する羽目になったのだった。
ちゃんとした専門家に解説してもらえば、この左右混濁状況のようなことにも理由があるのだろうが、素人の私にはさっぱりわけがわからない。
ただ、ひとつ推測できることはある。私は右利きだから、右と左の区別がつきやすいのではないかということだ。一方、彼女は両利きなのだ。どっちでも使えるなら、どっちかを意識する必要がないのかもしれない。
アッキーはマッサージの名手だ。両利きを生かし、2カ所を同時にマッサージできることはもちろん、右手と左手の強弱を自在に変えることもできる。この調子でもんでもらうと何とも心地がよい。
だから私は例によって例のごとく、「豚足食べ放題」をちらつかせて彼女にマッサージを頼み込む。で、お仕事完了後には、約束どおり彼女のお気に入りの中華料理店に出かけて豚足をたっぷり注文する。
「わ?。おいしそう。これ、みんな食べていいんですかあ」と目をキラキラさせるアッキーに私はこう答えるのが常である。「もちろん全部どうぞ。ただし、ひとつ目は左足を食べてね」と(笑)。大好物をつかむ寸前だった彼女の手がピタッと止まったまましばらく動かなくなるのも常である。どれが左足かなんて、本当は誰だってわからないのにねえ。
1959年生まれ。87年、株式会社タンク設立。97年、「アントレ」創刊に参加。以降、同誌編集デスクとして起業・独立支援に奔走。講演やセミナーを通じて年間1000人以上の経営者や起業家と出会い、アドバイスと激励を送り続けている。現在、(社)起業支援ネットワークNICeの代表としても活躍中。また、中小企業大学校講師、(財)女性労働協会講師、ドリームゲート「事業アイデア&プラン」ナビゲーター、USEN「ビジネス実務相談」回答者なども歴任。著書に『起業・独立の強化書』(朝日新聞社)、『正しく儲ける「起業術」』(アスコム)。ほか共著も多数。