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第10回 「妥協」と「協調」 |
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『島耕作』にはモデルがいた!
漫画家の弘兼憲史さんとおしゃべりをしていて、話題が人気シリーズの『島耕作』に及んだ時のことでした。「実はね、島耕作にはモデルがいるんですよ」と弘兼さんが言いだしたのです。ビックリ! もう10年近く前のやりとりですが、当時、島耕作のモデルが実在しているなんて話は聞いたことがありませんでしたから。 「誰なんですか?」と聞いたら、あっさりお名前と肩書まで教えてくれて。それじゃあと、後日、ご本人を訪ねてインタビューまで行ったものです。顔は似ていませんでしたが、タイプは確かにそっくりでした。そのモデル氏、その頃は大手電器メーカー関連会社の役員に就任されていたと記憶しています。ちなみに当時、課長か部長だった島耕作は数年後、モデルが歩んだとおり役員に昇格しています。本当にモデルありきだったのです。 妥協と協調は前提が違う モデル氏と弘兼さんは若い頃、大手電器メーカーの同僚だったそうです。ところが「会議で意見が通らないとそれだけで会社に行くのがイヤになる」弘兼さんは、早々に勤務先を退職します。一方のモデル氏は、それこそ島耕作のごとく、企業の大海を泳ぎ切って人生を重ねていきます。そんなモデル氏を指して弘兼さんはこう言いました。「彼は決して妥協はしない。だけど決裂も避ける。あいつは協調できる人間なんですよ」と。 目からウロコが落ちました。「妥協」と「協調」の相違が瞬間的に理解できた気がしたものです。大人であれば、その2つの言葉の意味が異なることくらいわかっていて当然という気もしますが、私はあえてその2つを対比して考えたことがありませんでした。 そういう概念を頭に入れて人を見てみると、それが現実のビジネスシーンの中でどのような違いになって表れるのかがよくわかります。妥協とは「不本意だけど、結論を出さなければならないので、自分の主張を譲ることにする」というような意味です。そこには自己と他人との間に根本的な対立が存在します。一方、協調とは「複数の人間が譲り合い、助け合うことで結論を出そう」といった意味になるでしょうか。だとすれば、そこに対立関係は存在しません。 遂行に障害のある解決案は不毛 妥協する人は、できれば妥協しないで済みたいと思っているはずです。ということは、ひるがえせば自分が妥協しないで済むのなら、代わりに他人が妥協することを「よし」とすることになります。その結果得られた結論がどういう内容であろうと、こういうプロセスを経て得られた結論(要するに誰かが妥協して得られた結論)である以上、その遂行や実施においては少なからず障害を抱えることになります。 ビジネスにおいて遂行に弱点のある結論を出してしまうことほど不毛なことはありません。つまり、妥協をする人は、その結果から生まれる「次なるもの」への責任感が薄いと言わざるを得ません。 成功ありきで考える協調派 では協調する人とはどういう人か。それは結論を実践し、次へとつなげていくことを前提に物事を考えている人です。課題に対する自分の意見や主張はもちろん持っているのですが、それを他に認めさせること以上に、課題の解決を現実にやり遂げることのほうに主眼を置いている人と言ってもいいでしょう。課題解決に複数の人の力を要すると判断すれば、その人々が余さず力を発揮してくれる状態をどうつくり出すのかを重視しているわけです。 そもそも、課題に対する正解(解決法)はひとつやふたつではありません。自己の見解もいいかもしれませんが、他人の提案も悪いとは限りません。少なくともひとりの頭脳だけに頼るより、大勢の頭脳を使い回したほうがお得です。協調して物事に当たろうと考えれば、こうしたお得な方法を選択することもできるのです。 余談・「絶対矛盾の自己同一」 さて、かくいう私は「妥協派」なのか、それとも「協調派」なのか? 振り返ってみると、妥協することもあれば(ということは他人に妥協を強いることもある)、協調を図ることもあります。何だかいい加減というか、矛盾していますよね(笑)。 哲学者の西田幾太郎氏が「絶対矛盾の自己同一」という言葉で、要するにひとりの人間の中には矛盾するものがたくさん存在しているのだと教えてくれています。西田先生には大変恐縮なのですが、私は自分の中に矛盾を感じた時、あまりそのことを突き詰めると苦しくなるので、先生の言葉を思い出して「そういうわけだから、まあ、しょうがないや」と自問を打ち切るようにしています。本当にいい加減な男……。これは余談でした。 妥協と協調を使い分ける ところが、自分の中に妥協と協調という矛盾が発生する仕組みについては、思考を止めなければならないほど難しい問題ではありません。というか、簡単です。自分が関与しているグループの性質の違いによってそれは分かれます。 そのグループが私の仲間、つまり同じ志と同じ情熱を持って課題を解決しようとしているグループであれば、私はいかにグループ全体の協調を図るかを最優先に考えます。が、利害の一致しない人間が交ざるグループにおいては、私は妥協することも、それを人に強いることもあります。協調が善いことで、妥協が悪いことではありません。どちらも人が生きていくうえで必要不可欠な判断です。 協調したくなる場を有する幸福 大事なことは、協調を図ることが大切だと思える場を持っているかどうかです。もしあなたがそういう環境を持たず、何かにつけ妥協をするような日々を送っているのだとすれば、それは幸せな人生とはいえません。反対に、起業・独立した結果が、妥協を繰り返すような世界に突入してしまうのであれば、それも不幸なことです。人生いかにあるべきかを、妥協と協調という言葉の違いから少し考えてほしいと思いました。 ちなみに島耕作のモデル氏は勤務先のメーカーの人々を仲間だと考え、弘兼さんはそう思わなかったということでしょう。だから弘兼さんは退職し、新しい環境を求めました。幸せな独立です。もっとも漫画家になってからの弘兼さんが周囲と協調する人になったかどうかまでは尋ねませんでした。が、その環境にアシスタントとしてやってきた女性と後に結ばれたことを思うと、きっとそういう人になったはずです。あくまで推測ですが。 |
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