いしい・しょういち/山梨県出身。高校卒業後、フリーターとなるが、父親の勧めで自動ドア設置会社に就職。設置技術の能力の高さから、5年後、自動ドア設置の下請けとして独立。2006年、下請けから脱却すべく、自ら新製品を開発して起業した。
ドア上部の装置で、ふすまを開ける感覚でドアが開閉する。ひじでちょんと押すだけでドアを開けられるので、動物を抱いた人でもひじで開けられると、動物病院でも採用されている
2004年のことでした。自動ドアの設置下請け会社としての限界を感じ、新しいことがやりたいという思いがウズウズしていた頃、回転ドアの事故が起き、その安全性が疑われ始めました。それで安全センサーを設置するという話がよく出たのですが、ドア開閉の赤外線センサーと干渉し合ってしまって、逆に動作しづらくなってしまう危険性も。同じ自動ドア業界で働いているからこそわかる課題が見えてきました。そこで、自動ドアの新しい仕組みをつくろうと参入を検討しましたが、自動ドアメーカーは大手2、3社がシェア70%を占める寡占市場。そこに新参者が乗り込んでも勝ち目はない。だったら、いっそ電力を使わない自動ドアという、まったく違った発想でチャレンジしてみよう。そう思ったのです。
無電力の自動ドアそのものの製造なんて、自分にとって初めてのチャレンジです。冗談に聞こえるでしょうが、最初の試作でドアを横滑りさせる動力に使ったのは、パンツのゴム(笑)。もちろん、全然話になりません。開くけど、閉まらない。重りをぶら下げてみたり、シーソー方式を試してみるもダメ。リニアモーターカーの原理を思いつき、磁石を並べてやってみた時は、ちょっとだけ動いて感動しちゃいましたけど……。でも、どうやっても途中で止まってしまう。もう小学生の工作とか実験の感覚ですよ。そんなことを従業員と夜な夜な実験していたわけです。早々に下請け業からも撤退していましたからね。何としても新製品を開発するんだという夢と信念だけが、自分を支えていました。
元印刷会社だった一軒家を改造したオフィスは、開発途中の製品など企業秘密いっぱいの工作室のよう。かたわらでは、鉄道会社に導入する新製品が耐久テスト中で、開閉を繰り返していた
光が見えたのは、後ろに引っ張って手を離すと走る、ぜんまい式のミニカーを手にした時です。この原理を応用したらイケるのではないかと。ミニカーのメーカーに、ぜんまい仕掛けを製造する会社を問い合わせましたが、教えてはくれませんでした。そこでネット検索をしていたら、ミニカーの改造を楽しむ人たちのファンクラブのWebサイトを見つけたんです。そこで何かヒントがないかと探していると、さすがマニアですね。そのミニカーに内蔵されているぜんまい製造会社の社名が載っていた。さっそくその会社に問い合わせをしたんです。ところが、サンプルをつくって実際に開閉テストまでこぎ着けたものの、ドアに応用するにはそのぜんまいでは耐久性が弱く断念。しかし、ぜんまいでイケるとわかったため、そこからさらに別のぜんまい製造会社を探し出して、試作品を依頼しました。
すると、そこの工場長、前出の会社でつくってもらったサンプルのぜんまいをくまなくチェックした後、ポイッと後ろに投げて「こんなもの、ぜんまいじゃねぇ!」と一喝。プロの目で見たそのぜんまいは、海外産のもので、だから耐久性も弱いということでした。「耐久性の高い国産品は、うちしかつくれない」。そう工場長は胸を張るのですが、こちらが依頼しているのは試作品ですから、必要数はせいぜい5、6個。ロットがあまりにも少ないため、つくれないと言うんです。職人としてのプライドもあったんだと思います。でも、ここでつくってもらえないと、こちらも製品ができないので、なんとか拝み倒してつくってもらいました。そこからは耐久テストを繰り返す日々。ドアを何万回と開閉させ、ぜんまいも何度も改良を重ね、これでイケると確信を得た2006年に法人化。AID(補助)とDoor(ドア)をつなげてつくった造語「AIDoor(エイドア)」ができ上がったのは、2008年5月のことでした。
しかし、製品ができても、売れなくては話になりません。夢を一緒に見て開発に没頭してきたメンバーの中にも、営業活動の段階でくじけて離れていった仲間もいますが、つくる力と売る力は全然違うんですよね。もともと技術屋ですから「いいものは売れる」と思い込んでいましたが、そんなことはない。最初はなかなかうまく販売にこぎ着けることができなかったのですが、福祉機器展に出展したり、自治体の中小企業支援機関からの誘いで、ビジネスプランコンテストに応募して賞をいただいたことで、徐々に知名度もアップ。病院や福祉施設などへの導入が少しずつ始まりました。
そして、2009年には東京メトロ・南北線の新型車両の車両連結部分のドアへの採用が決定。そこからJR東海や新京成線などの一部車両にも導入されました。さすがに、自分がつくったドアが搭載された地下鉄に家族で乗った時は、感動して涙が出ましたね。最近では韓国にある病院の病室のドアとして採用されたり、中国からもオファーが届いています。執念で開発してきましたが、結果的に部品はすべて国産メーカーに発注していますから、日本のものづくりの底力を感じます。ITでは世界から遅れを取っていますが、ものづくりでは負けない。小さいながらも製造業を行ういち企業として、新製品の開発を通して、日本のものづくり力を世界に発信していきたいと思っています。
先が見えちゃうと、つまんなくなっちゃうタイプなんですよね、私(笑)。自動ドア設置の下請けとして、下請けの組合に入っていたのですが、自分が次期組合長を務めるんだろうなというのもわかったし、下請け会社としての天井も見えてきた。つまんないな、と。そんな時に回転ドアやエレベーターの事故などが続き、同じような業界だからこそ課題もわかっていた。下請けから脱却して、自分の商品を持って勝負できる土俵に立ってみたい。そんな思いから、下請け業をいっさいやめ、起業する道を選びました。
開発に時間がかかっていますから、開業資金をどう表現するのが妥当か難しいですが、開発費と会社設立の資本金を開業資金とすると、合計3000万円くらいでしょうか。そのうちの900万円が資本金です。それとは別に、3年間の開発期間の人件費が3600万円ほどかかっていますね。
下請け会社としての売り上げと金融機関からの借り入れです。
親は勘当同然でしたよ。「下請けとしてやっていれば、安泰なのに」と。同業者も「バカなこと、やりだしたぞ!」と冷やかでした。でも、私は言いだしたら聞かないタイプですから、押し切っちゃいました。妻と3人の娘は応援してくれましたし、今でも最大の理解者です。家族の応援なくしてできませんね。
いっぱいあるあるあるある。ありまくりだし、いまだに不安ですよ(笑)。月末の支払いとか、毎月ドキドキしちゃうね。でも、もしも失敗したとしても、絶対に下請けに戻らないという決意で始めたので、何としても新製品を開発する覚悟でやってましたし、いいようになることしか考えないようにしていました。
何といっても、インターネット様々です。試作品や部品などをつくってもらう企業探しにも、インターネットを活用しました。ネットがなかった頃の人は、どうしてたんでしょうかね? また、自治体の中小企業支援機関にはホントお世話になりました。賞をいくつか受賞していますが、そういった情報を教えてもらったり、融資や特許取得に関する相談にも乗ってもらっています。
どっちかっていうと、私は相談しないクチ。事後報告ばっかりで、人の意見はあんまり聞かないんだよね。ただ、試作品をつくってもらった会社など技術的なことはもちろん、その会社に相談しましたし、先ほども話した融資や特許、PRなどの専門的なことは、自治体の中小企業支援機関に相談しています。
やっぱり一番はお金。開発期間の資金繰りは大変でしたね。その次に、販売力。自分たちはもともと技術屋だから、いいものをつくれば売れると思っている。でもそんなことはないわけで、起業して初めてマーケティングや営業力の弱さを思い知りました。
どんな大手企業とも対等でやり合えることかな。自分の商品があるということは、こんなにも企業の対応が違うのかと思いましたよ。また、自分たちがつくった商品が採用されて、いいものだと認められた時はやっぱりね、嬉しいですよ。
「明日のJYO(ジョー)」と呼んでいるんですが、この3つ、J・Y・Oをこれから起業して明日を目指したい人は大切にすべきと思います。Jは「情報」。情報不足というのは致命傷でしょう。ちゃんと調べて情報を得ていたら……と後悔しないように、常に情報収集を忘れないこと。Yは「役所」です。あなどれないですよ。自分が起業するまでは無縁だと思ってましたが、ちゃんと頼れば、ホントに手厚く応援してくれますから、使うべしです、しかも、支援制度の多くは無料です。最後のOは「お金」。これなくして起業はできないですし、継続も難しいですから、これこそうまく使うべしです。それと苦しい時でも自分の心を支えてくれるのは「信念」。絶対成功するんだという気持ちを忘れないことですね。
独立した先輩の体験エピソード&独立支援情報