よしざわ・たかし/神奈川県出身。10代からロードレースに出場。レース資金確保のために葬儀設営のバイトを始め、5年後に独立。役者、音楽家など夢ある若者を積極的にスタッフ登録に勧誘。2007年にはさいたま市大宮区に葬儀社も開業。自称・パソコンおたく。
大宮で立ち上げた葬儀社「ウィルさいたま」では、無料の家族葬セミナーをほぼ毎週開催しているほか、季刊紙と月間かわら版の発行、清掃活動参加など地域密着を推進
プロのレーサーを目指して大学を中退し、オートバイレースに打ち込んできました。ところが所属していたチームのスポンサー企業が、バブル景気の崩壊後に次々に離脱。自分でレース資金を何とか稼ごうと、葬儀関連の人材派遣会社でバイトを始めたことが、後に起業するきっかけになりました。当時は今とは違って、ご自宅で葬儀を行う方が多く、バイトの仕事は、葬儀社や生花店からの依頼を受け、居間に祭壇を設営したり、お焼香の通路をつくったり、お清めの席のテントを庭に張ったりと、ほとんどが力仕事。1時間でも多く残業になれば「あのボルトが買える」「次のレース場へは下を走らず高速道路に乗れる」という感じで、ほかの職人がいやがるような仕事を進んでやり、必死に働きましたね。昼飯はバイト先で食べられるので、朝晩は食べずに我慢。すべてがレース資金のため、レーサーの夢をあきらめないためでした。
それが、5年もバイトを続けていると、バイト先の経営的な問題点や現場での改善点も多々見えてくるようになったんです。とはいえ、しょせん登録バイトの身で、20代の若造ですから(笑)、何か提案しても相手にされず、生意気としか思われない。そのうち競合他社が出てきて、バイト先の経営状態が悪化したんです。「このままではレース資金が稼げない!」との危機感から、自分で葬儀専門の人材派遣会社を始めようと思ったわけです。ちょうどこの頃、初めての子どもができたことも、独立を決意する原動力になりました。レーサーって、結婚や奥さんの出産を機に引退する人も多いんですよ。生活費のためにとか、レースは危険だからとか。私は、子どものせいにして夢をあきらめるのはいやだと、逆に、ますます頑張ろう、独立しようと思ったんです。もちろん、レーサーの夢はそのままで。
現在、大宮で単身赴任中の吉澤氏の自家用車には遊び用の80ccバイクが積載。仕事は24時間対応のため機会は少ないが、時折、川敷コースへ出向き走行することも
全日本選手権などのレース参戦の合間をぬって、3日に1日は徹夜覚悟で、自宅をオフィスにひとりで起業しました。元のバイト先にはスジをとおそうと決め、かつての取引先には一切営業せず、すべて新規開拓。ハガキやチラシを配り、飛び込み営業もしました。経営や経理面は、バイト時代にレースでけがをした時に事務仕事も経験していたので、事務効率をアップさせるため、独学で販売管理システムを構築。登録スタッフの確保は、私と同じように本業では食べていけないけれど、夢を持って生きている同世代はいっぱいいると考え、知り合いのレーサー仲間や劇団員に声をかけたんです。それがどんどんクチコミで広がって、ミュージシャン、漫画家なども加わり、みんな本当によく働いてくれました。私もですが、本人たちが本業だと思っていても、世間から見れば、それは道楽。そう思われていることに、どこか後ろめたさもあるんです。でも、うちは夢のある本業を応援するし、スタッフも堂々と“副業”で稼ぎながら本業に打ち込める。一石二鳥なわけです。
またバイト時の経験から、他社との差別化も明確にしました。今では珍しくないですが、スタッフ全員、現場には必ずスーツ姿で行くようにしたんです。作業は力仕事ですが、現場は厳粛な葬儀の場ですからね。それともうひとつ、「やりすぎる」をスローガンに徹底したこと。若くて夢のあるやつらばかりでしたから(笑)、「男はやりすぎぐらいがカッコいいんだ!」とばかりに、依頼主が期待した以上の仕事をすることを美学としたんです。夜は私の自宅で反省会、というかみんなで集まって復習し、ノウハウを共有。それが功を奏したのか、依頼も増え、スタッフも増え、「これは自分も責任を持って会社経営をしなくては」と思うように。社長という柄ではなかったですが、資本を投入すれば自分も後戻りできない、覚悟ができるだろうと、独立して3年目に法人化したのです。
葬儀のスタイルが変わってきたのは、2000年頃からでしょうか。これまではご自宅で、祭壇も豪華というのが主流でしたが、だんだんと葬儀社が大組織になり、自社で会場を持つようになったんです。でも、会場の広さと参列者の数のバランスが良くなかったり、葬儀もサービスも画一化されたものだったり……。本当にご本人やご家族が望んだ葬儀なのか、疑問を持つようになりました。それで、私もレースを引退し、経営に注力しようと、経営セミナーなどに参加するように。その中でカウンセリングを学んだことが、ひとつの転機になりました。葬儀プロデュースにカウンセリングを付加価値にして、見送る人に、見送られる人に、もっと寄りそったサービスが提供できる。これまでBtoBで培ったノウハウをBtoCでも生かせる。そういう小規模な葬儀社の必要性を強く感じ、2007年に新事業として葬儀社「ウィルさいたま」を立ち上げました。ただ、これまで顧客だった葬儀社からすれば、下請けだった当社が元請けになるわけですから反発も当然。ちゃんとスジをとおそうと、拠点としてきた神奈川エリアとは無縁の、しかもあえて葬儀社激戦区の大宮で始めたのです。
私を始めとする専門スタッフが、葬儀で見送られるご本人や見送る方々の生き方も応援する、そんな葬儀とすべく、ご本人の生前相談や家族葬、公共施設での葬儀など24時間体制のオーダーメードで受けています。これまでの経験から、葬儀社は地域密着型の小規模のほうが心温かなセレモニーを提供できると確信していますから。ゆくゆくはここをモデルケースにして、登録スタッフたちにも葬祭ディレクター技能だけでなくカウンセリング能力も習得してもらい、店長に育て、のれん分けのように展開できればと。それが、スタッフの将来を保証する仕組みになり、スタッフの生き方を今後もずっと応援できるのではないかと夢見ています。そうそう、一時引退したレースにも復帰しました。45歳までにもう一度、鈴鹿8時間耐久ロードレースに出場するのが個人的な夢です。気が付けば、本業とか副業とか今やもう区別はないですね。両方に新たな夢ができ、その両方の目標に向けてスロットル全開で臨んでいくだけです。
レース資金を稼ぐために就いた葬儀のバイト先で、改善すべき点や提案したいサービスを思い付くのですが、バイトの立場では意見を受け入れてもらえませんでした。だったら自分で事業を始めたほうがやりやすいし、レースを続けるためにも合理的な手段だと思えました。当時はレーサーが本業だと思っていましたから、自分が自分のスポンサーになるために起業を選択したわけです。登録スタッフが増え、依頼が増え、経営者としての責任を感じるようになり3年目に法人化。その後、時代と共に葬儀のスタイルが変わり、もっと本腰を入れて経営改革をせねばとレースを引退。カウンセリングを学んだことで、お客さまのニーズにじかに応えられると思い、人材派遣業以外に、2007年から葬儀業も始動しました。
開業資金はゼロです。自宅で始めましたし、チラシを自作したパソコンも私物ですから。
開業資金はかかっていませんが、法人化した時の資本金300万円のうち、50万円は父親に出資してもらい、残りの250万円は貯蓄を充てました。起業して以来、無借金経営です。
親には事後報告でしたが、「いいんじゃないか」と応援してくれました。バイト先では「お前にできるのか」と驚かれたというよりも、皆、あきれていました。後になって、「吉澤でもできるなら自分も」と、独立した人が5、6人いたそうですが、経営は続かなかったようです。登録スタッフとして声をかけたレース仲間や旧友たちは喜んでくれました。私もそうですが、当時はレーサーが本業だと思っていたんです。世間的には「道楽」ですが、本業の夢をあきらめないために、合理的な資金取得の手段として我が社で仕事をする。それを誰かが理解してくれるだけで嬉しいものなんです。だから同じような夢を持ったスタッフが集まり、真剣に仕事に打ち込んでくれるのだと思います。
不安はありませんでした。5年間のバイトで葬儀の現場のことも、事務業務も経験していましたし、バイト先ではやらなかった「あればいいのに、こうすればいいのに」と思ったサービスアイデアもたくさん持っていましたから。
5年間のバイト経験が大いに役立ったのはもちろんですが、意外にもレース体験が役に立ったんですよ。レースに欠かせないのは、徹底した準備と統計なんです。必要な部品があれば何としても入手する、応援者をつくることもレースと事業の共通点ですよね。起業して5年間はレース哲学がそのまま経営に通用しました。
いませんでした。というか、相談するのがへたな男なんです(笑)。なので、法的なこともひたすら本を読んで勉強しました。当時はまだインターネットで得られる情報も少なかったですし、勉強や調べものは仕事を終えてから。起業する時に、「3日に1日は寝ない!」という覚悟を決めたので、1年ほど無休と徹夜の日々でしたが、苦には感じませんでした。
困ったというか、一番ツライのは、スタッフが辞めることです。人材派遣業ですから、人の出入りは当然つきものですが、やはり心が痛みます。スタッフ一人ひとりの状況を私がひとりで把握できるのは、せいぜい80人くらいまでだと思います。一時は100人ほどのスタッフがいたのですが、2007年に新事業として葬儀業を開始する時に社内でも反発があり、20人ぐらいが一気に去っていきました。その時はさすがに落ち込みましたが、逆に言えば、残ってくれたスタッフには私の思いが通じたのだと感謝していますし、彼らのためにも頑張ろうと意欲がわいてきました。
やはり自分が努力した分、頑張った分、後に返ってくることです。特に、スタッフが育っていくのは経営者としては一番の喜びではないでしょうか。夢を持っているスタッフをこれからも支援していきたいです。また、葬儀社展開を始めたのも、彼らが安心して長く働けるような職場整備をしたいという思いがあったから。スタッフが成長するだけでなく、スタッフの存在もまた逆に、経営者を成長させてくれるのだと思いますね。
ビジネスプランをじっくり考えて、ある程度の自信を得てから独立するケースが多いでしょうが、それを待っていると、ほかの誰かがその事業を先に始めてしまうこともある。考える時間があるならば、とにかく始めてみることを勧めます。不安や問題を払拭するには、やってみないと答えは出ません。いいところ、悪いところ、始めてみれば、すぐに答えが見えてきます。いいところは伸ばす、悪いところは改善する。始めさえすれば、進むべき道は見えてくるものだと思います。
独立した先輩の体験エピソード&独立支援情報