さとう・りょうた/東京都出身。大学浪人中に人力車のアルバイトを経験し、街づくりに目覚める。営業力を養うため、情報会社に5年間勤務した後に独立。地元の「旧東海道品川宿」で人力車ガイドのほか、オリジナル人力車の製造販売も実現。2児の父でもある。
旧東海道にある観光所「品川宿交流館 本宿 無料お休み処」に人力車を駐車。人力車でのガイドは予約制で、客の要望に合わせ発着場所やコースもフレキシブルに対応
祖父も父も職人で、僕も子どもの頃から何かひとつのことに没頭できる職人になりたかったんです。自分で設計を手がけた建築物で街をつくりたいと、芸大の建築学科を目指しながら、浅草で人力車のアルバイトをしていました。今思うと、このバイト経験が現在の僕をかたちづくった原点。一生懸命走ってガイドすると、頑張った分、お客さんが感動しているのがリアルタイムで感じられる。喜ばれると「もっと頑張ろう、120%の力を出そう」と思える。これは、ほかのバイトでは味わったことがない達成感でした。
当時、浅草近くにかつて遊廓街があることを知ったんです。車夫仲間に聞いても誰も知らないし、案内もしていないと。調べてみると、歴史も文化もあり、昔ながらの街並みも残っている。お客さんを案内したら喜ばれるんじゃないかと、独学してガイドをするように。お客さんにも好評でしたし、何よりも、何度か人力車で走るうち、街の雰囲気が変わってきたことに気づいた。少し殺伐とした印象だった街が、人力車を走らせると、「観光客が見に来る」という意識が住民に芽生えたのか、どことなく空気が変化したんです。建築物で街づくりがしたいと芸大を目指していましたが、人力車ひとつでも街を活性化できることを体感。学科変更も考えましたが、主体的に街づくりにかかわるほうが面白いと、進学自体をやめることにしました。自分の地元の品川で街づくりを実行したら、もっと面白いんじゃないか。でも、今の自分には何もない。社会人としてのスキルを身に付けようと、まずは会社に入って営業を経験することに。
オリジナル人力車製造を目指した日に記したメモ書き。試行錯誤の末、従来型に比べ価格は3分の1、重量は約20kg減を実現。受注生産で9月から国内外で発売
ところが、熱い志を書きつづった履歴書を送った情報会社からいっこうに採用通知が来ないんです(笑)。納得できず、電話して問いただしましたがまったくらちがあかない。こんなところであきらめてなるものかと、「必ずトップセールスになります!」とさらに熱いPR文を長々書いて再度トライ。珍しい奴と思われたからか、やっと採用されました(笑)。もちろん有言実行せねばと、すぐにトップセールスとなり、営業激戦エリアのリーダーになりました。でも、就職して4年目、このまま日々の仕事に追われていては当初の目的に反すると思い、まずは自分の地元を知ることから始めようと。夢に向かって動きだしたのです。
ちょうどゴールデンウィークでした。自分の地元に何があって、何が足りないのか、自分の目で調べようと街を散策している時に、旧東海道の地元商店街で、道行く人にお茶を配っている集団に出会ったんです。それが、「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」の皆さんでした。会長さんと話したら、「じゃ、月1回のミーティングに出ておいで」と誘ってもらって。協議会とかかわるうち、ここには歴史も文化も風情もある、盛り上げようと頑張っている先輩たちもいる、そして、地元の人さえ知らない魅力がたくさんあることもわかったんです。かつて人力車のバイトの時に、外からの観光客を呼ぶことで街の空気が変わったように、この品川宿で人力車を走らせたら何か刺激になるんじゃないか、面白くできるんじゃないか。そうひらめいて、協議会のみんなに人力車の話をしたんです。その反応が予想以上に良くて。自分で言ったからには実行しなくてはと、人力車事業での独立を決意しました。
とはいえ、すぐに会社を退社するわけにもいかないので、まずは人力車職人を探して会いに行き、格安でリンタクを入手。人力車そのものを新たにつくってビジネス展開しようと、休日を利用して職人のもとへ毎月通い、構造の基礎を教えてもらいました。協議会の会長の紹介で、東京都立産業技術高等専門学校の教授からも技術協力。そしてメッキ職人である父の紹介で、大田区の溶接工場のオヤジさんと出会い、「今までにない多用途で使える人力車をつくって世界中で走らせよう」と意気投合。この開発の本格始動を機に退職し、ガイドをスタートしました。まずは、地域イベントに積極的に参加して、地元の皆さんに無料で乗車体験してもらいました。これまで2000人以上、地元の子どもたちはほぼ全員に乗車してもらったでしょうか。観光スポットだけでなく、地元の僕だからこそできる生活感ある品川の魅力をガイドするため、商店街や住宅地の路地も走ります。住人の皆さんに受け入れていただくことが第一歩だと考えたのです。
そして構想から1年後の2010年5月、オリジナルの「品川人力車」が完成。従来価格は200万円しますが3分の1に抑え、地域振興で頑張る小さな団体や自治体でも購入できる金額に。今後もさらに安価に提供できるよう、改良を続けていきます。この「品川人力車」を日本中に、世界中に広げて、地元貢献につながるようブランド化したい。このほか、前職を生かした広告制作業、レバレッジ事業の3本柱で展開中です。まだまだ動きだしたばかりですし、僕ひとりでは限界もあります。でも、協議会や町工場、街の皆さんの応援が背中を押してくれるんです。それが、住民が助け合ってきた宿場町の良さ、地元の魅力でしょうね。自分の地元だからこそできること、経験を生かしてできることは何でもやろうと、この街の温かな空気を肌で感じながら、精いっぱい走り続けたいと思っています。
地元に貢献したい、街づくりがしたいと漠然と思っていましたが、具体的なビジョンがないまま会社勤めを続けていました。情報会社では飲食情報誌の営業をしていたので、その経験を生かしてカフェや飲食店での独立を考えたことも。何にせよ、まずは地元を知ろうと、たまたま散策している時、地元の商店街の皆さんで活動している「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」に出会い、会長さんの勧めで僕も協議会の定例会に参加することに。かつて浅草でバイトしていた経験から、「人力車をここで走らせたら面白いのでは?」と話したら、みんなが「それはいい! 面白い!」と乗ってくれて。自分が言いだしたからには自分でやろうと、独立を決意しました。
開業資金は200万円です。オリジナル人力車の開発に150万円、法人設立の手続き、リンタクの購入、Webサイト作成などに50万円です。
これまでの貯蓄を充てました。
子どもがふたりいますので、妻は生活を心配して最初は驚いていましたが、応援してくれました。勤務先には退職する半年前に申し出ましたが、人力車をやりたいと言うと「子どもがいるのに!」と反対されそうだったので(笑)、退職理由を「家業を助けるため」と伝えたので納得してくれました。一番驚いていたのが、地元の協議会の皆さんです。「自分たちが賛同したせいで会社を辞めたのか」と責任を感じたのか、かなり心配してくれました(笑)。
人力車のバイト経験が2年あるとはいえ、実際にどう入手するのかも知らず、経営の知識もまったくなかったので不安でした。地元で人力車を走らせたい、それにより街づくりに貢献したいという思いだけでしたから。でも、このまま会社勤めをしていたら、事業計画もできず、経営の勉強をする時間もないのは当然です。準備する時間がないのを言い訳に、このままずるずると勤めを続けてしまうだろうと思い、「始めてしまえ!」と決断したんです。長男がちょうど5歳になるのも、いい節目だと考えるように努めました。
お客さんへのサービスに関しては浅草でのバイト経験が大きいですが、オリジナルの「品川人力車」完成に関しては多くの人の応援や専門家の知識があってこそ。従来にはない新しい人力車をつくりたかったし、パーツも特殊なので、町工場を20〜30軒訪ね回りました。協議会の会長や父、高専の教授、友人、ものづくり職人の皆さん、行政の担当者、地元の住民の皆さん、そういう人たちとの出会いがなかったら、絶対に実現できなかったでしょう。また、前職は営業も制作業務もひとりで担うスタイルだったので、広告宣伝やPRのノウハウも身に付いたと思いますし、かつて建築学科を目指してデザインの基礎を学んでいたことも役立っています。
大勢います。ものづくり職人である父には、ものづくり、経営の方向性に関して相談しましたし、経営者であり地域の情報通であり、地元への愛情が深い協議会の会長や仲間は、何でも一緒になって本気で考えてくれました。そして、「品川人力車」製造では、図面の書き方から技術的なこと、メーカーとしての考え方まで、相談に乗ってくれる町工場のオヤジさん。今でも、誰ひとり僕には欠かせない相談相手です。
予約時にお客さんの要望を聞き、ご案内するコースを提案するのですが、いざご案内したら終了予定時刻を20分オーバーしてしまったことがありました。自分の読みが甘くてご迷惑をかけてしまったので反省しています。また、品川区の友好都市であるジュネーブやニューヨークでの人力車走行のために下準備もしていますが、昨年提案したニューヨークでは反応も法的問題もクリアできそうなのですが、ヨーロッパは馬車文化なので、人力車に抵抗があることがわかりました。この日本の伝統文化をどう伝え、理解してもらえるか、目下の課題です。
自分が目指す姿に向かって思ったとおりに動けることが嬉しい半面、もちろん大変ですが、雇われの身とはこんなにやりがいが違うものかと実感しています。長男が「うちのお父さんは人力車やっているんだよ」と自慢げに言っていることも嬉しいですね。何よりも、街の皆さんの応援や協力があること。浅草のバイト時には住民との距離感がありましたが、ここでお客さんを乗せて走っていると、街の方々が「頑張って!」「今日もよく走っているね〜」と声をかけてくださるんです。やはり地元で始めたことは間違っていなかったんだ、自分の地元で独立して良かった、よけいに頑張ろうと思える。それが一番の喜びです。
自分がやりたいことの中で、できることだけを考える方法もあるでしょうが、それだけだと、それ以上のものは生まれないと思うんです。僕は、できるかどうかわからないけれど、多くの人に自分の夢を語ることで、知恵やアドバイスをたくさんもらって、オリジナルの人力車完成にたどり着きました。誰かに言ったからには有言実行しなくちゃと、自分にプレッシャーをかけているんですね。また、やりたいことが見えていないのなら、まず自分にできることは何だろうと整理して、そこから少し背伸びしたら何に手が届きそうかを想像してみる。どうせムリだとあきらめずに、周りの人に公言してみてください。きっと、何かにつながっていくと思います。
独立した先輩の体験エピソード&独立支援情報