やまざき・こういち/山口県出身。18歳でフランス料理のシェフ になることを決意し、国内外で修業。26歳で故郷にUターンし、 町営「竜崎温泉」施設内にレストランを開業。現在、島内に宿 泊施設2軒、島内外に飲食店6軒を展開。趣味は食べ歩きとブログ。
周防大島の料理人が結集し、新鮮な魚介類と名産のみ かんを生かして新しい郷土料理として誕生した「周防 大島みかん鍋」。島内13の加盟店で提供。通販もあり
国立大受験に失敗した時、どうすれば父が喜ぶか、本人に聞いてみたんです。子どもの頃から父を尊敬しているので、将来は故郷の周防大島(すおうおおしま)に戻り、親孝行したいとずっと思っていました。父の答えは、「大工か料理人になってほしい」と。父は公務員ですが、本当は料理人になりたかったらしいのです。自分の夢を託したのかもしれません。18歳だった私は、そんな父を喜ばせたい一心で、フランス料理のシェフになることを決意しました。「3年間は絶対にやめずに頑張ってくる」と言った私に、父は「じゃ、3年後には島に店を出そう」と返してくれて。その言葉を励みに料理の世界へ入りました。
3年間は広島で、その後、本場フランスへ渡り、帰国後はパティシエの学校に通いながら東京のレストランで修業。いずれ独立することを考え、フランス料理にはパンも欠かせないとパン専門店でも修業を重ねました。その頃に、先輩が独立して店を出すことになり、頼まれて半年ほどサポート。ですが、独立したての苦労と後輩への甘えなのか、彼が私に八つ当たりするようになったんです。「このままでは先輩との人間関係さえも壊れる」と思い、その後の進路も未定のまま退職して島に帰りました。その頃になって初めて、「3年後には島に店を出そう」と言っていた父の言葉が、私を励ますためだけの言葉だと悟りました。それまで帰省するたびに、「このあたりに店を出そうか。よしっ、土地を買っておこう」なんて言ってくれましたが、よくよく考えれば、公務員の父にそんな金があるわけがない。半分だまされた気がしますが(笑)、料理人を目指した当時の自分には、何よりの励みだったと今では感謝しています。
終戦翌年3人の子どもと中国から帰国した祖母が創業 した「旅館 千鳥本店」。その志をも受け継ぐ証か、 引き上げ時の3本の水筒が今も大切に飾られている
周防大島へUターンしてしばらくは、母が経営する旅館を手伝いました。といっても、お客さまに出す料理に私の一品を加える程度。ちょうど弟も帰郷して、「それじゃ一緒にやろう」と地元の仲間にも声をかけ、5人で周防大島町営「竜崎温泉」にレストランを出すことに。これで愛する故郷に貢献できる。何よりも仲間と一緒に働けることが嬉しかったですね。各人が5年後には店長になれるよう、5年後5店舗展開を目標にして着手。当初の計画は、カレーやハンバーグをメインにした洋食店でした。が、温泉に来る客層と海の幸に恵まれた地域性を考え、急きょ和食に方向転換。開店前の数カ月間は柳井市の和食店に勤め、改めて和食の技を修業。そして釜飯をメインにした和食の店をオープンしたのです。
予想では1日の来店数は20人ぐらいだと見込んでいました。が、いざ開店すると、温泉ブームの後押しもあり、日に200、300人のお客さまが押し寄せた。嬉しい悲鳴でしたが、同時に、繁盛する私たちの店を快く思わない人たちも出てきました。父が役場に勤めているので、何か裏に秘密があるんじゃないかとうわさされたり。また、5年後5店舗展開を目標にしたので、焦ってがむしゃらに働く自分と、スタッフとの間に温度差が生じたり。それでも祖母が創業した旅館を借り受け、新たな飲食店を出店するなど、経営は順調でした。そんな日々を重ねる中で、自分は料理人を極めるのか、経営者を目指すのか、迷うことが多々ありました。
そんな島の中の様々なしがらみがイヤになり、こっそり光市にイタリア料理の店を出し、私はそこで仕事をするように。そうしたら、島のお年寄りが私を見つけて「アンタのあの釜飯が食べたい」と。嬉しかったですよ。島から来てくれるお年寄りに裏メニューで釜飯を出すようになったら、クチコミで広まっちゃって(笑)。その頃から腹をくくって、島内での活動も再び積極的に参加するようになりました。商工会の青年部や観光協会の役員、旅館部会の部会長も務め、「出る杭を打ちたいなら、打ってみろ」というぐらいの気概で今も取り組んでいます。
島というのはやはり閉鎖的な面もあります。今でも風当たりは強いですが、たたかれついでに、島の若い人たち、後輩たちの盾になれるのではないかと考えるようになりました。自分が島にいること、スタッフを育てること、事業を発展させること。その難しさと大切さを体験から学びましたし、同時進行させる必要性から、心のタフさも身に付いたと思うんです。父をはじめ、島の人たちがどうすれば喜んでくれるか、料理やサービスの指導でもっと人を動かせるようになりたいと強く思うようになりました。今は島内で旅館を2軒、島内外に飲食店を6軒経営していますが、さらに事業を拡大していく計画です。島から発信すること、島の外から発信すること、その二刀流で、故郷に貢献していきます。打たれてもびくともしないほどでかい杭になって、もっと島を元気にしていきたいと思っていますから。
フランス料理のシェフとなるべく、広島で3年間、その後、フランスにも留学し、大阪、東京、横浜の8軒の店で修業。いずれ自分の店を持ち独立することは自然な考えでした。とはいえ、26歳で帰郷し、町営の「竜崎温泉」にレストランを開業した時は、そこを弟の働き場にして、そのうち自分は島を出ようと考えていました。ところがいざ開店してみると、予想を反してけた違いの客数で、弟だけに任せられない状態に。また、その店を始めた5人の仲間ひとりずつに5年後には店を各自に持ってもらいたいという思いもあった。そのためには自分が頑張らなくてはと、開業翌年に有限会社を設立しました。
300万円です。厨房設備費に150万円、備品に40万円、運転資金に110万円です。
すべて銀行からの借り入れです。
島に帰ってきたことだけでも両親は喜んでくれたと思いますし、同級生や仲間も応援してくれました。子どもの頃から近所のお年寄りのみなさんにかわいがってもらっていたので、「よく島に帰ってきてくれたなぁ」と喜んでいただけました。でも、中には、出店を面白く思わない人もいて、“出る杭は打たれる”ことを実感しています。この島だけに限らない話で、どんなコミュニティでもあることだとは思いますが。
もちろん、たくさんありました。経営が成り立つかという不安ではなく、古くから島で経営している飲食店に対して、弱い者いじめになってしまうことが不安だったのです。フランス料理、スイーツ、パン、和食と修業を積んできたので、料理に関してはそれなりの自信がありましたから。でも、島内で成功させて、モデルケースをつくり、雇用と産業の創出につなげることが、自分の責務だと考えて、不安を払拭してきました。現在もです。
料理に関してはこれまでの実践経験です。8店舗で修業してきましたから、技はもちろん、それぞれの店で経営者やリーダーのあるべき姿も学んできたつもりです。実際は試行錯誤の繰り返しで、料理人としてよりも経営者としての自覚が芽生えたのは30歳を超えてからです。経営者セミナーなどに参加するようになったのも最近です。
父や先輩起業家です。
2006年にリニューアルオープンし、2007年に指定管理者となった「竜崎温泉潮風の湯」が、施設営業停止命令を受けたことです。安全性からプラントの修理をしたことと、13ある浴槽のうち2つにお客さまの満足度を高めるため施設内に表示もして白濁入浴剤を入れたことなどが、町との協定条項に反しているという理由で、3日間の営業停止に。何の事前通知もなかったので、困りました。予約のお客さまには電話で事情を説明してお断りしたのですが、連絡がつかずに来館されるお客さまも多くて……。町営施設なので、町長や議会のメンバーが変わると、それまで円滑だった関係も変わる。以前は了承されていたことも問題視される。“出る杭は打たれる”ことを実感したできごとでした。
自分の意思で方向性を決められることだと思います。また、お客さまやスタッフに教わる・励まされることの多さ、スタッフの成長を目の当たりにできることも喜びです。経営者の自覚を持たせてくれたのはスタッフのひと言なんです。私はフレンドリーな社長でいたかったので、「社長と呼ぶな、店長と呼べ」とずっと言ってきたのですが、何度言っても「社長」と呼ぶスタッフがいたんです。なぜかと聞いてみたら、「いつまでも自分らが真の店長にはなれないでしょう」と。私は経営者なのだと気づかせてくれた、もう一段成長せねばと思えた言葉でした。
人との出会いで、人生は大きく変わると感じています。ですから、いかに多くの人と出会うか、その努力を自分自身ですることをおすすめします。若いうちにしか経験できないことは多いですし、年齢とともに感動する気持ちも薄れると思うので、夢があるのなら早期に、ともかく動いてみることが大事です。早く動き始めれば、それだけ早く失敗からも学べ、自分に必要なことや不足していることに気がつきますから。
独立した先輩の体験エピソード&独立支援情報