もり・たかひろ/埼玉県出身。サッカー少年で、高校時代は島根県の学校で寮生活。卒業後、レストランやバーなどで修業し、26歳で独立。5年後に、昭和の薫り残る古民家に2軒目を出店。プライベートで飲む酒は和洋問わず何でも。月1でフットサルにも興じる。
自身の舌で厳選したウイスキーを中心に、酒は600種類。店にドリンクメニューはなく、要望、その日の気分、好きな色、好みの味などをていねいに聞いてつくってくれる
高校3年生の時、先輩がバーに連れていってくれたんです。もちろん未成年ですから酒は飲めませんでしたが、そこで初めて見たバーテンダーの姿に憧れまして。それで卒業後、バーテンダー養成の専門学校に進学しようと、その学費を稼ぐために工事現場や100円ショップなどでアルバイトを開始。バイトの理由を先輩や友人に言うと、「飲食店でバイトすればいいのに」とか「専門学校に行くよりも、バーで修業したほうが近道なんじゃないか?」と。でも、未経験で雇ってくれる店なんてないと思っていました。たまたま花火大会の帰りに終電がなくなって、友人と公園でたむろしていた時に(笑)、落ちていた求人誌を拾って見たら、あったんですよ! 未経験可のバーの求人が。でも古い求人誌で、応募締め切り日も過ぎていました。ダメもとで電話したら、「前回の求人ではいい人が見つからなくて、まだ募集している」と。それで面接に行き、合格。修業の第一歩が始まったんです。
そこは東京・銀座のレストランバーで、約1年勤め、本格的なバーで働くため退職。最初から「いずれはバーを開きたい」と伝えて入社したので、退職を申し出た時も店長は快く受けてくれました。そして2軒目の修業先が、浅草にある老舗バー「Barley」です。有名バーテンダーの佐野繁雄さんの下で、本格的な勉強をさせてもらいました。4年目になって、「そろそろほかの店でも修業してみたい」と考え、「1年後に退職したい」と申し出ておいたんです。急に辞めるのは不義理ですから。その頃、店によく来ていたお客さんが、「お前のマティーニを飲んだから、今度は、俺のを飲みに来い」と。その人は、作家の開高健さんが常連客だったことでも有名な赤坂のバー「木下家(こかげ)」のバーテンダーでした。
昭和初期建造の古民家を改装し、柱や建具なども再利用した趣のある一軒家。客は靴を脱いで入店する。カウンターと玄関の足場は、銀杏の一枚板。火曜定休
仕事帰りに遊びに行くようになって間もなく、その方が脳梗塞で倒れ、半身不随に……。「うちに手伝いに来てくれないか」とオファーをいただいたのです。ほかにも、この業界の特性なのか、いろんな店のオーナーから「うちでやってくれないか」とお誘いはあるんです。でも、「この人の下でやりたい。勉強したい」と本気で思えるかどうかを自分に問いかけながらステップアップしないと。その時は、「木下家」のオヤジさんならばと即決。とはいえ、まだ「Barley」との約束の期限が残っていたので、それを待って、3軒目の修業先となる赤坂へ。浅草とはまた違う土地柄や客層への対応術を、1年間みっちり学ばせてもらいました。
「木下家」を退職後、3カ月間アメリカを旅してきました。ボストン、ケンタッキーなど、バーボンのメッカへ行き、醸造所や地元のバーなどを回りました。勤めているとなかなか行けないので、「勤めの区切りの時を狙って、本場を自分の目で見てこよう」と前々から決めていたんです。やはり、本場の土地で見聞き体感するのはとても勉強になりました。帰国後、浅草のなじみのバーで飲んでいたら、オーナーが「店を閉めようと思っている。君、この後やらないか?」と声をかけてくれたんです。居抜き物件で、土地勘のある浅草ですから、断る理由は何もない。知り合いの大工さんに改装を頼み、自分でも内壁を塗ったりして、2カ月後にオープンしました。経営が安定するまではなるべく経費をかけないよう、実家から通勤。明け方に店を閉め、埼玉の越谷の実家まで帰るのですが、電車の中で寝過ごしたことも数回(笑)。ようやく2年後にめどが立ち、浅草に自宅を移しました。
そして、たまたま自宅近所を歩いていて、見つけた物件が2軒目となるこの店です。この辺りはいわゆる花柳街で、もともとは踊りのお師匠さんの稽古場兼ご自宅でした。大家さんは、住居使用の借り主を希望されていたようですが、店に来てくださり、話しているうちに貸してくださることに。僕以外にも希望者があったようですが、「あなたのバーは静かでいい」と。1軒目の店と同じ浅草で場所も近いから、常連さんにも来ていただける。周辺には飲食店も多く、はしご客も見込めると、2軒目を開く覚悟を決めました。が、ここからは体力勝負でした(苦笑)。夕方から深夜まで店の営業をしつつ、昼間は2軒目の内装工事や打ち合わせや手続きで、平均睡眠時間は2時間の日々。体重が7kg落ち、さすがに途中から営業時間を短縮せざるを得ませんでした。それでも何とか2カ月後に無事オープン。僕はここを本店とし、1軒目の店は知り合いに任せ、毎夕立ち寄るくらいです。
バーテンダーの世界は意外と狭くて、連帯感のような仲間意識があるんです。修業してきた店でも、また僕がよく行く店でも、「森君が新しい店を開いたよ」と喜んで口コミ宣伝をしてくれる。本当にありがたいなぁと思います。ここは浅草の中でも住宅街に近く、ご近所の人も同業者も来てくれるし、中には「ここで昔、踊りのお稽古をしてもらった。また中に入れて嬉しい。残してくれてありがとう」と涙ぐむ芸者さんも。思い切って2軒目を開いて良かったと思っています。今は1階だけですが、2階もあるのでいずれ何かに生かしたい。一歩一歩ステップアップしてここまで来たように、ここも少しずつ手を加えて、より寛げる空間へと進化させていきたいですね。
バーテンダーの世界では、雇われの身を続けるのではなく、オーナーバーテンダーを目指すのは自然なこと。それに僕は、20代で独立することを最初から目標にしていました。とはいえ、赤坂の店を辞めて3カ月間アメリカを見てこようと思った時も、帰国後に独立しようと決めていたわけではありません。帰国後に、たまたまよく行っていた店のオーナーから、「店を畳むつもりなので、ここでやらない?」と声をかけてもらったのがきっかけです。「いずれは自分の店を持つんだ」と、ことあるごとに宣言し続けたことが、いい話をいただける大きな要因になったと思います。
最初の店の開業資金は500万円です。店舗取得費に200万円、内装工事に150万円、酒などの仕入れに70万から80万円です。ちなみに、2軒目のこの店の開店資金は1000万円です。
全額、国民生活金融公庫(現・日本政策金融公庫)からの融資でまかないました。2軒目の時も、日本政策金融公庫から全額借りましたが、1軒目の500万円は全額返済済みだったので、快く満額貸してくれました。
これまで勤めていた店の関係者も、お客さんも、みんな応援してくれました。いずれは自分の店を持つことが自然な業界ですから、周囲の抵抗などまったくなく、逆に宣伝してくれています。父親は建築会社の経営者で、僕は長男ですが、後を継がずにこの道を選んだことに何ひとつ反対せず、内装工事なども知り合いの業者に口利きしてくれたりと応援してくれています。ただ、僕の地元、埼玉の越谷の友人たちからは、「越谷で店を開いてくれたらいつでも遊びに行けるのに〜」という苦情も(笑)。それでも浅草までちょくちょく来てくれますけれどね。
不安はありませんでした。もしダメだったら、またどこかのバーで働いて、勉強させてもらおうぐらいに思っていましたから。ただ、収益が安定するまでの2年間は、実家から通って生活費を節約しました。これはしんどかった(笑)。
自分の経験と探究心でしょうか。最初に勤めたレストランバーも、本格バーではありませんでしたが飲食業のイロハを実践で学べましたし、その後のバーでは、お酒の知識はもちろん、おつまみや料理のつくり方、どのお客さんにどの席に座っていただくか、複数の常連さんが重なった場合にどう対応するかといった接客術など、細かな気遣いの仕方、地域性まで、徹底的に勉強させてもらいました。全国的なカクテルコンペなどの大会にも積極的に出場し、技を磨きましたよ。またプライベートでもバーはもちろん、あらゆる飲食店の飲み歩きもしますし、スコットランド、アイルランド、アメリカなどの本場を回ったことも役立っています。仕事として実践を学び、また客として学び、同業者同士で情報を交換し、協力し合う。そんなすべてのことが役立っています。
相談というか話し相手は同業者やお客さんでした。勤めていた時に、「将来どんな店がいいだろうか」などとよく話をしていましたので、そこからヒントをいただくことは多かったです。海洋冒険家でヨットセーラーでもある原健(はら・たけし)さんもそんなお客さんのひとりで、「いつか自分の店を持った時に、何かいい店名はないでしょうか?」と聞いて、いただいたのが「Forest on the sea」です。物件探しにしても、働きながら探すのは難しいですが、人に語っておくと向こうからオファーがくるもの。そんなふうに高校3年生の時から、独立することを決めてずっと公言してきたので、そのつどそのつどで、周りの人たちが皆いい相談相手であり、情報提供者になってくれたと感謝しています。
ある程度、お客さんを見る目は肥えているとは思うのですが、無銭飲食の常習犯は見抜けられませんでした(苦笑)。身なりも普通でしたが、捕まりたかったのか、本人から「無銭飲食だから警察を呼んでくれ」と。警官が来て調べたら、どうも常習犯だったようです。もちろん飲食代は戻ってきません、泣き寝入りです。
長年の夢でしたから、やはり自分の店を持てたこと。お客さんが寛いでいる様子を見ること。店を気に入ってくれたお客さんの口コミで、また新たなお客さんが来てくれること。それが何よりの喜びです。それと、修業時代のお店もお客さんも、僕がよく行くお店の人も、みんなが口コミで広めてくれて、実際に来店してくださるのは本当にありがたいですし、嬉しいことです。
夢を持った後の初めの一歩は、いろんな人に語ることです。「自分はこうなりたい」と話す程度でいい。そこから具体的なことを考え始めるんです。夢を語っていれば、迷ったり悩んだりしても、教えてくれる人はたくさんいる。それを素直に聞くことです。人に語ることで、アドバイスや有益情報を教えてもらえるし、もちろん、自分自身の決意がさらに固まる。それと、「いつかはやりたい」ではなく、いついつまでにと具体的な時期も目標にすることが大事だと思います。そうすると、今の自分に必要なものをどう会得していけばいいか、より具体的な階段が見えてきますから。僕のように働きながら修業し、独立に向けて勉強をして、一歩ずつステップアップする方法も大いにありだと思います。
独立した先輩の体験エピソード&独立支援情報