アリ・デナマキ/イラン・イスラム共和国テヘラン出身。1991年に来日し、1993年から老舗うなぎ店で10年間修業。退職後に一度帰郷。イラン料理も習得し、再来日後に開業。趣味はサッカーで、地元中学校のサッカー部コーチも務めている。
羊肉を焼き上げたクビデは、焼きトマトとミントとオニオンをナンにくるんで食べる。イラン料理のコースも人気で、1名3000円から。4名以上・要予約
22歳の時に友人から「日本で半年働けば、イランの1年分の給料が稼げる」と誘われて、就職先の当てもないのに来日しました。ところが、そんな仕事は見つからない。ようやく就いたのは、工事現場の足場の掃除作業員。10カ月この仕事を続け、イタリア料理のチェーン店に転職。厨房・洗い場で1年間働きました。その後、うなぎやスッポンのコース料理が有名な老舗「山吹」に入社。とはいえ、日本料理に特別な興味があったわけでもなく、イランでは自分で料理したこともない。でも、この選択が大きなターニングポイントとなりました。
最初の仕事は洗い場とフロアの清掃でしたが、そのうち、食材を吟味する目、仕入れ方、業者さんとの対応、仕入れ値から計算する料理の価格、うなぎやスッポンのさばき方、仕込み方、そして料理の技まで、ここで飲食業に必要となるすべてを教えてもらいました。もちろん誰かが優しく指導してくれるわけではなく、先輩たちの仕事ぶりを見て覚える。自分で考えて動きながら身に付けていくのです。見よう見まねでつくった“まかない料理”に始まって、先輩から「おいしいじゃないか。じゃあ、次はこれつくってみな」という感じで。揚げもの、煮もの、焼きものまで任されるようになりました。店の名物であるうなぎも、「串打ち3年、裂き8年、焼きは一生」といわれるほどの技が求められるのですが、5年目で“裂き”ができるようになっていました。
外観は居酒屋だが内装はイラン風。カウンター10席、6人が座れる部屋もある。日本酒、焼酎、イラン特産果実のサワーなど酒類も豊富。水煙草も吸える
ここの調理場に、高倉健さんのような料理人がいたんですよ(笑)。13歳年上の相馬さんという人で、正義感にあふれる心温かな人でした。最初の頃、日本語がうまく話せず無口だった自分に、「しゃべらないと覚えられないぞ」と、話すように促してくれたのも相馬さん。言葉足らずでも意味を拾いながら会話してくれました。仕事ぶりも見事で、団体客の50人分もの料理をつくる時も、誰よりも早く、おいしく、しかも調理場も汚さない。ロッカーの中まで常にきれいにしているような人でした。
もちろん仕事場では厳しくて、自分の持ち場の仕事が空いて休んでいた僕は、「自分で考えて動け!」としかられた。最初は意味がわからなかったけれど、スタッフ全員に言っていたんですね。料理人にありがちな「天狗になるな」と。技術を上げてどんな立場に就こうと、自分の手が空いたら、ほかの人をサポートしたり、掃除したり、どんなことでも何でも自分で見つけて動け!と。料理の技だけでなく、仕事のやり方、料理人としてのあり方、人としてのあり方を、相馬さんから学びましたね。
そして勤続10年目に、和食の店で独立しようと決意。開業前にイランに帰省して、せっかくだからこの機会にイラン料理も覚えようと故郷のレストランで働かせてもらいました。この時に習得した“クビデ”は、日本のうなぎと同じように、普通は2、3年店で修業して覚えるような技を要するイランの代表的な料理。羊肉と玉ねぎのすったものを棒状にして焼くのですが、その配合のバランスが難しくて、焼いている最中にかたちが崩れてしまう。自分でも驚きましたが、これをわずか2日で習得できてしまった。ところが、日本に戻ってつくってみたら、うまくできないんですよ。何度か試して気がついたのは、玉ねぎの種類がイランと日本では違うこと。一から配合をやり直して、商品として提供できるようになるまで、肉を50kgぐらい使って試行錯誤しました。
とはいえ、開業して2年間は和食のみで、イラン料理をメニューに載せたのは、常連の日本人のお客さんから「せっかくだからイラン料理も食べてみたい」と言われてからです。今では、日本料理の定食やおつまみ、うなぎ丼、スッポン料理、イラン料理、お任せのコースもあります。初めて来店してメニューを見たお客さんは不思議に思うようですが、和食もイラン料理もどちらも本場仕込みだし、おいしいと喜んでくれていますよ。自分もお客さんも互いに気持ちがいい店、それが自分の望みですから。好きな日本語“おつかれさん”のように、お互いを自然と気遣えるような、心が通う店であり続けたいです。
勤めていた時に、「1000万円の貯蓄ができたら退職して、自分で何か事業を始めよう」と考えていました。当時は特に飲食店とは定めずに、輸入会社でもいいなくらいの漠然とした気持ちでしたけど。勤めて10年目に目標額に達した時、自分の店を出してみたいと思い独立しました。
開業資金は250万円です。礼金・敷金、設備費などで約200万円。残りは運転資金です。物件探しに1カ月かかりましたが、とてもいい大家さんに出会い、駅から徒歩1分の商店街の物件を保証金なしで借りることができました。しかもここは元飲食店で、営業期間が短かったのか、店内には新品同様の厨房設備や業務用の大型冷蔵庫もそろっていて、カウンター席などもそのまま使えるものばかり。これだけの設備を新規にそろえたら、おそらく厨房内だけで500万円は必要だったと思います。幸運でした。
自己資金です。貯蓄を充てました。
勤めの料理人が独立することは、業界では自然なこと。社長も店のスタッフも「頑張れ」と応援してくれました。先輩の相馬さんは、「今はまだ不景気だから、もうしばらく勤めてからにすれば?」と心配してくれましたが、決意は変わりませんでした。妻も「いいんじゃない?」と賛成してくれました。
物件契約をしてから1カ月間くらいは、開店準備と心の準備をしていましたが、不安に感じるというよりは、「店を借りたからにはやるしかない!」という気持ちでした。「もし経営がうまくいかなくなったら、たためばいい。それでまた何か始めればいいんだし」とも思っていました。
日本料理に関しては、山吹に10年間勤めた経験。お米や日本酒、うなぎなどの仕入れ先は、山吹の時から付き合いのある業者さんです。イラン料理は、店を退職して半年間イランに戻った時に、友人の知り合いに口添えしてもらって、レストランで手伝いながら勉強させてもらいました。そのほかには、来日前にテヘランで勤めていた洋服製造会社の社長と、来日後は山吹のすべての人たち。特に高倉健さんのような先輩・相馬さんには大きな影響を受けました。
相談はしていません。独立する件に限らず、何ごともすべて自分で決めてから事後報告する性格なのです。
困ったというよりも、へこむのは、マナーが悪いお客さんに接する時ですね。開業して最初の3カ月は、どんなお客さんにも愛想良く対応していましたが、その分、ストレスを感じて7、8kgやせてしまったんです。ある晩、本来の自分なら我慢できない非常識なお客さんがいたんですよ。たまたま僕の妻が店に来ていて、その様子を見て、「我慢しなくていいんじゃない?」とGOを出してくれて(笑)。それ以来、お客さんだからと変に下手に出ないと決めて、はっきり言うようにしました。店主もお客さんも、どちらが上か下かではなく、当たり前の常識を持って互いに気持ち良い空間と時間を共有する。そんな関係であるべきだと思っていますから。
いい出会いがたくさんあることです。お客さんも店の周りの商店街も本当にいい人たちが多いです。それと、やはり「おいしい」と言われること。勤めていた山吹は料理人が多かったので、お客さんが褒めてくれても、自分ひとりがつくった料理ではない。でも今は自分ひとりですから、評価をダイレクトに自分のものと感じられる。ほかにも、評判を聞いたと来てくれたお客さんが、次に来店してくれた時も嬉しいです。1度目は他人の評判だけれど、2度目は自分が気に入ったということですからね。そうそう、つい最近テレビで紹介されて、それを見たと相馬さんから電話をもらったんです。直立不動でお話ししました(笑)。「うまくやってるようじゃないか」と喜んでくれたことも嬉しかったですね。
考えているだけでは何も始まりません。それと、外国人であれば、自国ではないことを自覚すべきです。「自分は外国人だから差別されている」と言う人が時々いますが、差別と区別は違います。自分の国に外国人がいれば少しは警戒するでしょ? それと同じ。外国人なのだから区別されるのは当然だし、どう接していいのかわからずに戸惑わせている=迷惑をかけているのだから、自ら発信してコミュニケーションを取るよう心掛けなくては。そのためにも、日本語が下手でもいいから、年上の人には敬語を使う、近所の人にちゃんとあいさつをする、馴れ馴れしくタメグチをきかない。そういう当たり前のことが大事です。これは、若い日本の起業家にも言えることだと思います。
独立した先輩の体験エピソード&独立支援情報