おおわ・としお / 長野県出身。高校卒業後、伝説のギターファクトリー「マツモク」に就職し、数多くの名器を開発・製造。その経験を生かし独立。GOTOH販売代理店も務め、松原正樹氏プレミアムギターを2007年発表。趣味はプレミアリーグの観戦。
松原正樹氏デビュー30周年記念プレミアムギター「MD」シリーズをはじめ、エレクトリックアップライトベースのLandscapeなど全楽器を大和さんが自ら仕上げる
今でこそ楽器職人でありプロデューサーですが、こうなったきっかけは業界内でも異色なんです。実は、サッカーを続けたいという理由で社会人チームがあった「マツモク」に入社したのですから。「ミシン部か楽器部、どちらの事業部が希望か?」と聞かれ、兄貴の影響でアコースティックギターを弾いていたこともあり、軽い気持ちで「じゃ楽器部で」と。これが運命の分かれ道。そして24歳の頃、マツモクから荒井貿易へ出向辞令があり、国内外のプロミュージシャンの楽器メンテナンス担当を命ぜられたのが、さらに大きな岐路となりました。この時出会ったのが、同じ歳のギタリスト、松原正樹や渡辺香津美たちです。
サッカーをやりながら製造現場で働いていましたから、もちろん楽器づくりはお手のもの。さらに、実際にスタジオやライブの現場で、プロの楽器を短時間でケアするという経験は本当に得がたいものとなりました。技術の向上はもちろん、何よりもミュージシャンが何を望んでいるかを把握することができましたから。2年後に本社へ戻り、開発にかかわった際の大きな財産となりましたね。
本社は名古屋市内だが、2008年5月、故郷・塩尻に工房を新設。現在はこちらを本拠地に。この日はちょうどクレイジーケンバンド・洞口氏のLandscapeを改造中
代表的なものとして、USAギブソン社が世界で販売したEPIPHONE、ALVAREZ、ARIA、FERNANDESなど、マツモクがOEM供給していた楽器開発に僕はほとんどにかかわっています。世界の著名ミュージシャンと共同で開発したオリジナルも多々あります。ところが1987年に親会社の経営方針で、当時8000本も受注があったにもかかわらず、マツモクは営業停止となり閉鎖。青春時代を過ごした愛着ある会社でしたから悲しかったですよ。
その後、しばらく鉄鋼会社に籍を置いた後、もう一度楽器業界に戻ろうと荒井貿易に転職。ここで数々の新製品の開発と貿易業務を覚えました。でも、やはり「自分が思う楽器づくりを貫きたい」と独立を決意。当時の社内ではそれなりの立場でしたから、在職中は仕事に全力投球。実質的な独立準備は、勤務先を退職してから自分の会社を設立するまでの3カ月間だけです。その間は、国内外の工場やパーツ会社にあいさつ回りのツアーをして、同時に生産をお願いして、会社設立の翌月に販売活動をスタートしました。
独立後に、世界的なペグメーカーGOTOHさんの販売代理店になれたのも、多くのギター関連企業に協力してもらえたのも、海外のエージェントを広げられたのも、マツモク勤務時代の経験が生かされています。僕は楽器の企画・開発だけではなく、ペグやパーツの開発にも深く関わっていたし、海外にも足しげく通った。そうやって培ってきた信頼関係があったからこそ。いつも目の前の仕事に一生懸命打ち込んできたことは間違いではなかったということです。
松原正樹(有名なギタリスト)とも話したんですけど、「50年後オレたち死んでいるだろうけど、50年後も誰かが愛用してくれるギターをつくろうぜ」とね。日本のものづくりの素晴らしさを海外はもちろん、国内にも発信していきたいんです。ギター好きなら少しは知っているかもしれませんが、当時マツモクがOEM供給したギターのブランド名は公にはされていませんでした。でもあえて、これからはそれも力説していこうと。メイドインジャパンをきちんと後世に伝え残すことは、僕ら世代の責任でもあるわけですから。
独立を決意するまでにいくつかの段階があるんです。マツモクが閉鎖された時に独立するつもりはありませんでした。当時、全国大会出場の可能性がある少年サッカーチームの監督もしていたので地元を離れるわけにいかず、ひとまず近くの鉄鋼会社に転職。無事に全国大会出場を果たし、ずっとオファーをもらっていた楽器の貿易会社へ企画室長として転職しました。当時はバンドブームで楽器の売れ行きは絶好調。でも、売れればいいという方針がつまらなく、我慢できなくなった。やはり自分のオリジナルで、プロが愛用したくなる楽器をつくり続けたい。この思いが日に日に大きくなり、これまでのすべてのキャリアを生かして楽器づくりをする決意が固まったんです。
資本金は550万円です。開業資金としては事務所開設費で10万円、残りはほとんど運転資金です。楽器づくりが趣味でもあったので、製作に必要な器具などを新たに購入する必要はありませんでした。
僕と当時の従業員4名の出資です。自分の貯蓄を充てました。
これまでの関係者のほとんどは快く協力してくれました。ペグのGOTOHをはじめ、銘木を譲ってくれる材木会社、「1年間は言い値でつくってやるよ」と言ってくれたギターケースメーカーの社長、夜なべで生産してくれた韓国の会社もあって、本当にありがたかったです。長い付き合いがあるミュージシャンも、僕の所属組織が変わることに何ら抵抗なく、逆に応援してくれました。
無我夢中で、不安に思っている暇はなかったですよ。必死だったという印象しかないですね。
楽器づくりに関しては、これまでの自分の経験・人脈が何よりの情報源です。会社設立に関しては、司法書士に一度会いに行って、登記の方法などを教えてもらったくらい。書類なども自分で作成して法務局に提出しました。最近になってやっと、異業種交流会などに参加してみようかと考えています。
やはり、今まで一緒に仕事をしてきた業界の先輩や仲間です。ペグのGOTOHの先代や専務、ギターパーツのKMS商会の社長、ARIAやFERNANDESを共に開発してきた仲間、海外のエージェントなどなど。独立前の相談というよりも、「独立したので頼みます!」というような話ですけどね。プロミュージシャンとは、これからの日本の音楽、日本の楽器づくりの在り方など、当時も今も飲みながらよく話しますよ。
独立を公言した時に、部下を含めて何人かが僕の後を追って辞めてしまって……。みんなを雇う余裕はなかったので4人だけ入社させました。資金面で困ったのは、独立3年後に決算ミスで追徴課税を取られたこと。税理士の責任ではあるのですが、高い授業料でしたね(笑)。今困っているのは人材です。入社希望者は多いのですが、楽器を弾くのが好きなだけだったり、音楽業界に憧れて、という人ばかりで。思ったほど派手な業界ではないし、楽器をバラして勉強するくらいのハングリーさと、マニアックに楽器への思いを熱く語れる人でないと務まりませんから。
多くの仲間が自分にとって最高の財産だと、今でもつくづく思えることです。あとはやはりライブ会場のアンプから、自分たちがつくった楽器の納得できる音が聴けた時。そしてライブ終了後に「これいいね?」とミュージシャンに言ってもらえて、一杯飲む時間(笑)。それと、今までは本社を置いた名古屋に単身赴任でしたが、2008年5月に長野県塩尻の自宅に工房を新設できたこと。この周辺は楽器製造やパーツメーカーが世界の中でも多い土地柄で、僕も仕事がしやすいし、“ミュージシャンの楽器駆け込み寺”としてみんなにも喜んでもらえていることです。
夢実現の思いを貫くことです。独立したら実際に苦しいこと、つらいことは多いだろうけれど、一つ一つ実行していけば次第にかたちになっていくものです。僕だって、何度へこんだことか(笑)。そのたびに、友人や仲間と酒を飲んで夢を語ってきた。自分が目指す楽器づくり、音づくりについてね。へこんでも、その芯にある思いがひとつなら、乗り越えられるものですよ。昨年完成した松原正樹のプレミアムギターだって、ふたりで20年来語り合ってきた夢だったんですよ。あとは常日頃から、自分が成し遂げたい思いを忘れずにいること、夢を語り合える多くの仲間を大切にしておくことです。
独立した先輩の体験エピソード&独立支援情報