なかむら・かよ / 茨城県出身。専門学校卒業後、生命保険会社、英会話教室を運営する会社を経て起業。現在は、茨城県認知症高齢者グループホーム協議会の理事、宅老所・グループホーム全国ネットワークの監事など、組織の要職を複数兼務。
入所者たちは、中村さんが外出先から帰って来ると、いつも「待っていたよ」という笑顔で迎えてくれる。その笑顔こそが何よりもやりがいにつながっている
生命保険会社に勤めていた時は営業とマネジメントを任されていましたが、あまりにも忙しくて退社しました。転職した先は英会話教室を運営する会社です。しかしそこでもすぐに支店長を任されて、それが結婚や出産と重なってしまいました。子どもとなかなか接することができない日々が続き、母親としてこれでいいのだろうかと深く考えてしまったんです。それで、しばらくはのんびり子どもと向き合いながら将来のことを考えることにしようと、その会社も退社しました。
それと同時に、当時老人保健施設に入所していた祖父母の面倒も見ることになりました。町の中から離れた施設でしたので、髪が伸びた祖父は、「あの床屋さんに行きたい」とか、歯が痛いから「○○先生に診てもらいたい」とか、地元の人たちのことばかり口にするんです。そんな様子を見るにつけ、みんな慣れ親しんだ土地で生活すべきだなと実感しましたね。
特養ホームの介護職を6年間経験してきたという経歴を買われ、設立当初からスタッフとして加わった大友啓二朗さんは、なくてはならない存在
認知症になった祖父は、「昨日はここにオバケがやってきたから退治したんだ」など、幻想的な言動をするようになっていました。小さな頃から一緒に暮らしてきた祖父は頑固一徹で、しかも地域のロータリークラブの会長を務めて皆さんに頼られるカッコいいおじいちゃん。だから、そのギャップがとてもショックでした。しかし、話題が地元のことに及ぶと意識がはっきりして生き生きとしてくるので、「これは絶対に地元で生活すべきだ」と。
そんな時に知ったのがグループホームの存在です。地域のお年寄りたちが複数人集まって、自宅にいるように生活できる大きな家。そんな地域に根差した施設を私がつくろう! そこで私の祖父母に住んでもらおうと決意しました。それでまず会社を設立したのが2001年の秋。幸いにして祖父が所有していた土地があったので、そこを活用して「グループホーム美里」をオープンしたのが2002年の8月です。
祖父は孫の私がグループホームを立ち上げることをすごく楽しみにしていたんです。オープン当日は熱で意識がもうろうとしていたにもかかわらず、自分がテープカットをするから背広を持ってこいと言って、無事にその大役を果たしてくれました。その1カ月後に83歳で他界してしまうのですが、何が何でも孫がやろうとしていることを見届けたかったんだなと思うと胸が熱くなりますね。
開設に当たっては、銀行からの多額な借り入れもありましたし、何としても地域に愛される、なくてはならない施設にしようと必死で頑張りました。嬉しいことに入所希望者はすぐに集まり、開所7カ月目で単月黒字化を実現できたんです。その後、「デイホーム楓」、居宅介護支援事業所の「わかさ」も開設しました。また、これらの事業をとおして、介護スタッフの育成がどんなに大切かを痛感したんですね。それで、人材育成や経営サポートを行う会社「わかさキャリアコンシェルジュ」を設立。今後の高度高齢化社会を担う若い人材の育成にも力をそそいでいます。
自宅から遠い施設に入っている祖父の様子から、住み慣れた町で、自宅にいるのと変わりない生活をさせてあげることの大切さを痛感したからです。介護に関してはまったくの素人でしたが、自分でグループホームを立ち上げると決意した後は、様々な施設を訪ね歩いて実例を見て回りました。また、介護関連のセミナーがあれば飛んでいって受講するなど、勉強を繰り返し、その中で、自分がやるべき方法や施設のスタイルを構築していきました。
1億1000万円です。そのうち8500万円がホームの建設費です。
2500万円が自己資金、8500万円は銀行からの借り入れです。ホームを建設する土地は祖父が所有していた土地を使うことができましたので、銀行側もそれだけの融資をしてくれたのです。でも金額が大きいので、収支のシミュレーションを何度も繰り返し、1カ月単位の詳細な収支計画を立てて返済額を計算しました。
まだ今のように介護そのものが世間に知られていませんでしたので、「一体何をしようとしているんだ」というような、地域の人たちの不安を強く感じていました。それに、祖父や父の協力があるからできたことでしたし、公的な仕事でもありましたから、「お嬢ちゃんがそんなことをしても……」、といったようなやっかみまで言われましたよ。しかし開設後は、ホームに入居されたお年寄りたちが地域の中で一緒に暮らしている様子、それにいつも穏やかな笑顔を絶やさない姿を見て、徐々に誤解が解けていきました。今では皆さん温かく見守ってくれるようになりました。
まず、人の命を預かるということの責任感の大きさ。それから借金がきちんと返せるだろうかということですね。まだ白髪ができる年齢でもなかったのに、初めの1カ月でびっくりするくらい白髪が増えました。それくらいの重圧を感じていたのでしょうね。
高齢者向けのいろいろな施設を実際に見て回ったことと、そこで見聞きしたものがそのまま有益な情報となりました。どんな小さなことでも質問を繰り返していたので、皆さんに私の熱意が伝わったようで、その時に知り合った方たちとのネットワークは今でも続いています。それから、毎日のようにインターネットで検索して介護に関する様々な情報を集め続けました。「そんなことまで知っていて、どこで勉強したの?」と言われるようになり、やがて県や全国の代表組織のメンバーにも推薦してもらえるほどになりました。
各施設の施設長さんや事務長さんやスタッフ、それにお医者さんなど、自分から出向いて行って、わからないことはこと細かに話を聞き続けました。というのも、介護や福祉に決まった方程式はないと考えていたので、とにかくいろいろなケースが知りたかったんです。様々なケースを総合して、こういうことが起きたらこう対処しようと、不安に感じていることについて、事前に一つ一つ対処法を想定していきました。
幸いにして軌道に乗るのが早かったので、短いスパンで規模を拡大できました。しかし、それに伴うスタッフの育成が行き届いていないこと、外部との折衝などに対応できるだけの組織体制が不十分だったことは否めません。また、スタッフそのものの不足は介護業界全体の悩みでもあり、当社に限らず質の良いスタッフを確保することが今も大きな課題になっています。そこでスタッフの教育や育成にも着手し始めたのですが、業務を拡大して、毎日あちこちを走り回っている私についてきてくれたスタッフには感謝しています。今、現場のリーダーとして大いに活躍してくれています。
それは第一にお年寄りからたくさんのことを教わったことです。それはもう、「皆さんが私を大人にしてくれた」という感謝の気持ちでいっぱいです。外出先から帰ってきた時も、笑顔で手を差し伸べてくれたり、忙しそうにしていると、「ちゃんとご飯は食べた?」などと聞いてくれたり。ご本人たちにとっては当たり前のことかもしれませんが、そういうやさしい心遣いや、人を思いやる気持ちの大切さを忘れてはいけないということを改めて教えてもらいました。
社長になると自分から何かを求めていかないと、ああしろこうしろと指示してくれる人はいません。社長になって初めて、会社員時代は、雇ってもらえて、上司もいて、やるべきことも指示されて、育ててもらっている環境下にいたのだなと。前進するためには、常に明確なビジョンを描き続けることが大切です。そのビジョンを実現するには何が必要かを考え、こういうことならあの人に聞こうとか、これはあそこに行って勉強しようと、必ず行動を起こして、一つずつクリアしていけば道は開けていきます。
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