勇気と知恵を注入します!独立ビタミンの「増田堂」
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  第8回 何でもやります!
「何でもやる」のどこが悪い!?

 その昔、就職氷河期などと呼ばれる以前の時代は、面接を受けた会社に何が何でも就職したいと思えば、「何でもします。やります。ですので、どうか採用してください」と訴えたものでした。

 ところが最近は、うっかりそのセリフを口にしようものなら、「何でもします、なんていうヤツに限って、何もできないんだよなあ」などと、嘲笑の的にされるのがオチです。面接官はこう言います。「何でもやるんじゃなくて、何ができるのかを言ってみろ」と。しかし、新卒だったり未経験分野への転職だったりすれば、「何ができるか?」なんて聞かれても、「何もできない」としか答えようがありません。あるいは「何がしたいのかね?」なんて聞かれても、複数の職業をじっくり経験してみなければ、本当にしたい仕事なんてわかりません。

 企業が人を育てる意欲を喪失した。そういうことなのでしょうか。「何でもします」という言葉は、「やってみたい仕事があるとしても、経験のない自分がそれを先輩社員のようにこなせるとは思いません。だからより好みは言いません。いつかは憧れの仕事に就きたいけど、入社早々は、たとえ自分には適していない、あるいはやりたくない仕事でも文句を言わずやります。だから仲間に入れてください。チャンスをください」。そういう意味ですよね。

 本当に何でもしたいからそう言うわけではなく、未熟者ゆえ、そう言わざるを得なかったのです。その殺し文句を封じられてしまっては、未熟者は立つ瀬がありません。いきおい、適性検査だの何だのに頼って、「自分はこういう仕事に向いている(はず)」と、実感の伴わない進路選びをするようになるのでしょう。何だかなあ……ってやつです。


私の社会人1年生時代

 私は社会人の1年目を、とある地方新聞社で迎えました。タブロイド版の朝刊のみという、それはそれは小さな新聞社でした。「記者募集」の広告を見て応募したのです。実際、会社を訪ねてみると、私と何歳も違わない20代の記者たちが、いかにも「ブンヤ」という感じで社屋を出たり入ったりする姿に出くわしました。「やりてえ」、そして「(いつかは)やれそうだ」と思いました。

 筆記試験の成績はまあまあだったと思います。問題は面接でした。社長は私にこう切り出しました。「すぐに編集部に配属するわけにはいかない。最初は販売を担当してもらうことになる。それでもいいか」と。販売とは、要するに部数拡張のためにセールスをするということです。配達エリア内の住居や職場を一軒一軒訪問して、「すみません。ウチの新聞を取ってもらえませんか。何とかお願いしますよ〜」とアタマを下げて回るアレです。

 言うまでもなく内心ではイヤでした。が、それを断れば、記者への道は確実に断たれます。今もそうでしょうが、その当時も記者を公募している新聞社など、全国に何社もなかったはずですから。


記者志望が、最後まで販売畑一筋

 「やります。何でもやります!」。迷っているはずの心中とは関係なく、口が勝手にそう動いていました。数日後、内定が出て、ほどなく正式採用となりました。配属はやはり営業部販売課でした。入社の喜びと職種への不安が入り乱れ落ち着かない気分だったことを今でも覚えています。

 私の新聞社勤務は、結局2年9カ月で終わりました。その間、編集部に配属されることはついぞありませんでした。販売一筋。ただし、退職時の私の肩書は「販売部部長」でした。まだ20代前半。大半の部下が人生の先輩たちでした。詳細は省きますが、退職前の私の責任の大きさや労働量の多さは想像を絶するものがありました。正直言って、起業して経営者になってからの苦労のほうがよっぽどラクです。当時、それだけの任務を受け止めるには、やはり私は若すぎたのです。私は潰れるようにして新聞社を去りました。

 しかし、記者志望の若造が、わずか3年弱で不承不承始めた販売のトップになるというのだから、これはちょっとしたニュースですよね。今思えば、無理な人事だったと思います。でも、それなりの理由もあるにはあったのです。


口だけでなく、実際に何でもやった!

 ひとつには、実際、私はほかの誰よりも売りました。もちろん、何度も何度も「飛び込み営業はもういやだ」と挫折しかかりました。が、経営陣から叱咤激励を受けては、またまた売り続けたのです。

 もうひとつは、私は本当に「何でもやった」のです。販売はもちろん、配達も集金も広告営業もやりました。印刷も手伝いました。写真現像も製版も原稿校正も紙面レイアウトもやりました。頼まれれば何でも手伝ったし、頼まれなければ自分から他部署へ押しかけて様々な仕事を手伝わせてもらいました。実はセールスがつらかったので、セールス以外の仕事で気持ちを紛らわせたかったのです。

 そして時には記事も書きました。役所や警察署の記者クラブあたりでダラダラしている記者なんぞより、一日中、町の中を歩き回っている私のほうがよっぽどリアルな情報を持っていたのです。私の書いた記事が1 面トップを飾った時は、そりゃ胸がすきました(笑)。「ほらみろ。本当は私こそ記者向きなんだ」と。結局、私は零細企業であるその新聞社にとって不可欠な人材になっていたのです。それが私の急激な昇進の背景にもなったと思います。

 ですが、すでに書いたように私は潰れました。「たくさんは売れません。ほかの仕事なんて手伝えません。それよりも早く編集部に異動させてください」。そう訴えていれば、恐らく私は潰れなかったでしょう。


何でもやったから、私は起業家になれた

 潰れなかったとすれば、いまだにその新聞社に在籍しているはずで、私は起業をしていなかったでしょう。と同時に、潰れるほどあれもこれも、つまり「何でもやった」ので、マルチな能力を要求される経営者という仕事におびえることもなかったし、仕事上、「何ができて何ができないか」や、「何が好きで何が嫌いか」もよくわかっていたので、進出分野を決定する際にも自信が持てたのです。

 若い時分は「新聞社のいいようにこき使われた」と思っていました。が、今振り返ってみると、それは起業・独立を果たすための学校のような職場だったことに気づきます。何でもやって、イヤなこともやって、本当に良かったと。

 今どき、私のように「何でもやります」で、採用してくれる企業はめったにないかもしれません。であるなら、せめて入社後、職場のあちこちに顔を出したり、職場以外の場所に作業を求めたりして、少しでも多くの仕事に真剣にかかわってほしいと思います。その体験が、起業・独立を決めた時の自信と、起業・独立を果たした後の武器になることは間違いありません。まだお勤めしている皆さん、できる限りでいいから、今からでもいいから、何でもやりましょう!
Profile
増田氏写真
増田紀彦
株式会社タンク代表取締役
1959年生まれ。87年、株式会社タンク設立。97年、「アントレ」創刊に参加。以降、同誌および別冊「独立事典」編集デスクとして起業・独立支援に奔走。また、経済産業省後援プロジェクト・ドリームゲートでは、「ビジネスアイデア&プラン」ナビゲーターとして活躍。講演やセミナーを通じて年間1000人以上の経営者や起業家と出会う。現在、厚生労働省・女性起業家支援検討委員、中小企業大学校講師、(財)女性労働協会・女性起業家支援セミナー検討委員などを務める。また06年4月からは、USEN「ビジネス・ステーション」のパーソナリティーとしても活動中。著書に『正しく儲ける「起業術」』(アスコム)、『小さくても強いビジネス、教えます!起業・独立の強化書』(朝日新聞社)。ほか共著も多数。


   

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