ほしの・さとる/新潟県出身。子どもの頃、ふるさとの妙高高原で野山を駆け回って遊ぶ。大学進学で上京し、都会の子どもの遊ぶ環境の違いにショックを受け、子どもたちとまちで学び、遊ぶ学生サークルを開設。その活動が基盤となり、2008年、NPO法人を設立。
コンクリートジャングルのまちの路地に現れる夢のトラック“移動式子ども基地”。今は路地で遊ぶこと自体が都会の子どもにとって新鮮(写真協力/コドモ・ワカモノまちing)
NPO法人を設立したのは2008年の10月ですが、この活動自体は大学院の1年次、2001年から開始していました。新潟県の妙高高原で育った僕の子ども時代といえば、川で泳いだり、釣れた魚を近所の猫に食べさせたりと、野外での遊びを大いに楽しんでいました。ところが、大学のある東京の千代田区では、外で遊んでいる子どもの姿さえ目にしなくて、それは相当ショックな事実でした。そこで、僕と同じように感じている大学生の仲間を募ってスタートしたのが「子どもと一緒にデザインしよう会」という学生サークル兼地域活動団体だったのです。
大学と大学院では建築を学び、卒業後は設計事務所に就職しましたが、「子どもと一緒にデザインしよう会」は、ボランティア活動としてそのまま継続。当時から、建築というのは建物だけを設計・デザインするのではなく、まちの人や文化、時間など、ソフトの部分もデザインするものだと考えていました。そして、そこには人の生活があり、人情でつながるものがあり、当然のように子どもたちが生き生きと遊ぶ姿もあると。やがて設計事務所を退職してまちづくり会社に転職し、その間に1級建築士の資格も取得しましたが、「コドモ・ワカモノまちing」と名称を変えてNPO法人を設立すると同時に退職。活動に本腰を入れて、持続・進展していける団体にしようと決意しました。
草木染め体験など、四季を通じて、里山で体験・交流する“感育学校”も実施。感性の芽を伸ばし、森羅万象に感謝する気持ちをはぐくむ(写真協力/コドモ・ワカモノまちing)
ボランティア団体時代から力を入れてやっていたのが、子どもの“たまり場”づくりです。拠点となったのは、“子ども基地”と称する、神田の路地にある一軒の木造長屋。2階は学生の住まいに、1階を子どもたちのたまり場にしました。そして、放課後に子どもたちがふらっと遊びに来られるように、いろいろな遊びやイベントを複数の学生ボランティア団体が曜日交代制で提供。たとえば、自由に壁にペイントしたり、工作したり、長屋前では昔ながらの路地遊びを。また、そこを拠点に、まちの中に繰り出して、まち探検や路上交流会も実施しました。
ところが、その長屋はマンション建設のために取り壊しされることになってしまったんです。ほかに借りられる古い家はないかと探しましたが、そう簡単に見つかるものではありません。そこで、発想を転換して、トラックによる“移動式子ども基地”を考えたんです。理想とするトラックがありました。それは、ペットボトル飲料を運んだり回収するための専用トラック。荷台の左右がスライド扉になっていて、中には棚がしつらえてあるので、遊び道具を積んで各地に赴くのに最適なんですよね。ところが、それがなかなか見つけられなくて……。しかし、熱望していたら幸運もやってくるもので、ネットオークションで出品されているのを偶然発見したんです。しかも、その1.5tのトラックを約70万円という格安で入手することができました。
学生のボランティア活動団体をNPO法人として継続させることができたのは、自分たちの努力もさることながら、何といってもまちの人たちの協力があったからこそです。神田・お茶の水界隈には、やはり江戸っ子気質というか、熱い大人がたくさんいます。また、夫婦の間でも「子はかすがい」なんて言いますが、最初は子どもが活動に参加するようになって、やがて、その子たちが親を巻き込んで、まちぐるみの活動へと発展していくんです。子どもたちに、どんなことがしたいかを聞くと、やはりまちで働く人たちとの交流を大いに求めているんですよね。好きな店のポスターをつくりたいとか、イベントのキャラクターをデザインしたいとか、お蕎麦屋さんのメニューを自分たちで考えるから店で出してほしいとか、大人顔負けのアイディアがいっぱいあります。それらは実際に実現しました。そのように、子どもとまちが有機的に結び付くことこそ、我々が願っていることなんです。さらに、これから力を注いでいきたいのは、自分の原風景でもある山や野原での活動。“旅育プロジェクト”と名付けて、田舎の農家体験や浜辺での地引網体験、雪国の森探検など年間を通じて農山漁村での体験を実施しています。
NPO法人を設立してまだ半年ですので戸惑いも多々あります。たとえば、「去年まで無料でお手伝いしていた地域イベントが、なぜ今年は有料なの?」といった疑問を持たれたり。末永く持続して活動していくためのものであることを理解していただくには、説得力のある活動、「やってくれて良かった」という活動にしなければなりません。幸いなことに、活動のスタート期から参加している子どもたちが成長して、「僕もボランティアスタッフとして何かやります」と手を挙げてくれるケースが続々。専従スタッフだけでなく、大勢の協力者によって成長させていく活動だということを日々実感しています。やがて、彼らがこの活動の、そしてまち自体の担い手になってくれることを夢に描いています。
学生時代から続けていた活動ですが、ボランティア活動に始まったものが軌道に乗ってきて、いよいよ本腰を入れてやっていこうと決意したからです。それを決意できたのも、働きながら活動に参加してくれている学生時代からの仲間たちや、千代田区のまちの人たちの絶大な協力があってこそです。
120万円です。移動式子ども基地のトラック購入費が70万円、事務局費用と初回家賃に10万円ほど使い、残りを運転資金にしました。そこを10万円に抑えられたのは、東京・千代田区の共同オフィス「ちよだプラットフォームスクウェア」を利用できたからです。
これまでの活動の貯蓄から20万円、100万円はトヨタ財団の助成プログラムに応募し、審査を通過していただいた助成金です。
活動を8年近く続けていたので、勤務先を退職し、NPOを設立して仕事をこれ1本に絞ることに反対する人はいませんでした。学生時代から協力してくれている仲間たちは、むしろバックアップしてくれる人が大勢。実はNPO法人設立とほぼ同時に結婚したのですが、お互いの両親もこの活動を応援してくれています。
それはなかったですね。「できる」という信念を持ってスタートしましたので、不安を感じることはありませんでした。
NPO法人設立の手続きに関しては社会福祉協議会のボランティアセンターに聞きに行き、いろいろと教えていただきました。また、我々と同じような活動を展開している全国のNPOの実情や、資金づくりに関しては書籍やインターネットで常に調べるようにしていました。行政からの委託事業はどれくらいの比率か、また、企業などによる助成をどのように受けているかなど、つぶさに見ていくだけで参考になります。
常に相談できる相手といえば、やはりスタッフでもある妻ですね。また、まちの人たちとは常日頃からお付き合いをしていますので、何かあるとすぐ相談。イベントのチラシのキッャチコピーひとつにも、おじさんたちが逐一ダメ出ししてくれるんです(笑)。特に、神田の40代〜50代のおじさんたちは熱い人たちばかりで、“呑みニュケーション”によるミーティングもたびたび。活動に対する評価など、いろいろな意見を忌憚なく言ってくれるのでありがたいですね。
これは今後の課題といえるのですが、NPOといえど、継続して活動を進めていくためにはスタッフの報酬もしっかりと確保していかなければなりません。現在は2人の常勤スタッフと1人の非常勤スタッフで何とかやっています。今後、活動を発展させていくに当たって、やはり人員の補強が必要になりますが、どのようにスタッフの報酬を確保していくかは、現在も模索中です。
まず、ボランティア団体からNPO法人になったことで、社会的な信用を得たことです。行政や企業などとの協働がスムーズになり、また、メディアに取り上げられる機会が増えたことで、より大勢の子どもたちと触れ合うことができるのが何より嬉しいですね。学生時代に活動を開始した時に小学生だった子が、今は高校生になって、イベントの手伝いをしてくれるようになるなど、その成長を見ていると感慨深いものがあります。
「できる」、「大丈夫」と、自分自身を信じることが大切だと思います。また、私たちの場合はまちの人たちですが、自分を取り巻いて協力してくれる人たちの評価をきちんと受け止めることも重要。きちんと意見を聞く姿勢でいるからこそ、どんな時にも相談に乗ってくれるのだと感じています。実際、ちょっと自信を失いかけた時でも、「大丈夫だよ」「できるよ」「一緒にやろうよ」など、その一言に救われたことが何度もありますから。
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