かわい・たつひろ/秋田県出身。高校卒業後、就職列車で上京。働きながら夜間大学で電気工学を学び、大手外資系コンピュータメーカーに転職。34年間の会社員生活にピリオドを打ちUターン。自宅と畑を開放し、妻とふたりで田舎暮らし体験塾を運営。
周囲はたらの芽やウルイ、イワナ、カジカなど食材の宝庫。畑と稲田もあり、機械や化学肥料を使わない50年前の手作業農法を実践している
バブル景気の崩壊直後でした。勤めていた会社が早期退職希望者を募った、というか、私にとっては募ってくれた、というほうが正しいかもしれません。というのも、秋田の実家を継いだ長兄が農業の機械化に失敗して、そのために300年受け継がれた家と田畑が人手に渡ってしまっていた。それで、年老いた両親も住み慣れた土地を離れ、寂しい思いをしていたのです。
私自身、年齢と共に故郷への懐かしさが増していたし、妻も幼い頃に田舎暮らしの経験はある。早期退職して故郷へ帰ろう、生家を取り戻そうと、何も迷いはありませんでした。退職金を担保に生家を買い戻し、人手に渡ってから7年間で荒れてしまっていた家を1年がかりで修復しました。そして53歳の時に早期退職し、両親を呼び戻して、私は生家の7代目当主となったのです。
生家は500坪の敷地に本格木造2階建ての100坪の左曲屋。薪割り、郷土料理づくり、川遊び、イワナ捕り、ホタルやヘビ観賞などを体験できる
帰郷してすぐ体験塾は始めませんでした。私にそのつもりはなくても、村人にとっては、田舎を捨てて都会へ出ていった三男坊ですからね。いきなり戻って事業を始めたら、けげんに思われるだろうと考えたのです。それでまず、両親や村人の年寄り衆から、昔から伝わる暮らしの知恵・農法を聞いて回り、テープに録音して、それを絵に描き溜めました。これによって、薄らいでいた子どもの頃の記憶を思い出せたし、地元の人脈も広がりましたね。
それに、これまで都会生活でしたから、生活スタイルも食文化も時間感覚もすべてが違う。いくら田舎暮らしの経験があっても、いきなり変えたら無理があるんです。田舎暮らしに憧れる人って多いですが、仕込みの時間は必要ですよ。まずは地元の人脈を広げる、風習になじむ、行事に参加することです。まぁ、無理して地元の人と親しくなろうとせず、自然にわかってもらえばいい。村への貢献となれば、くらいの気持ちでね。
村の人たちも、徐々に変わっていきました。都会から大勢の人が来て、自分たちの村の暮らしをまるで特別なことのように感激して楽しんでいる姿を目の当たりにしましたから。何度かロケ撮影もあって、テレビでしか見たことのない芸能人が自分たちの村に来ている、田舎暮らしを喜んでいる、これは特に効果がありました。村人が自分らの故郷に誇りを持ち始めてくれたんです。それが何より嬉しかったですね。
それに、ここは私の原風景。その良さが、これまで体験塾に参加してくれた3000人近くの都会人にも、そして村の人にも伝わる喜びは計り知れません。自分の好きなもの、得意なもので生きようと目標を持って帰郷しましたが、好きなものだからパワーが出せて、ここまでできたのだと思います。これからまだまだ現役で頑張りますよ。
きっかけは、生家を取り戻したかったのと、ちょうど会社で早期退職制度募集のタイミングが合ったからです。でも帰郷してから何をするか、退職前に考えておこうと思っていました。スポーツ施設や老人ホームなども検討しましたが、夫婦ふたりでやるには厳しいかと。そんな時に、新聞で農家体験の記事を見つけました。どうせ田舎に戻ったら自給自足の農作業をするのだから、体が思い出すようにと夫婦で参加したのです。そこで驚きました。都会から人がいっぱい来ていて、泥まみれになっているのに喜んでいる。これだと思いました。農作業だけでなく、私の原風景である昔の田舎暮らしの魅力を多くの人に伝えようと決めたのです。
開業資金としてはゼロです。代々生家に残っていたものを利用したし、村の人たちからタダでもらったものも多いです。昔ながらの農具や器具、体験塾の参加者に着てもらって喜ばれている野良着もそう。この野良着は、70年前の手縫いの刺し子で貴重なのに、田舎の人は古いものに興味がないんです。でも使えるもの、いいものが田舎にはたくさんある。蔵に眠ったままでじゃまだからと、むしろ喜んでくれるんです。田舎に移住したら自分でログハウスを建てる、なんて意気込む人がいるけど、家だってそうですよ。朽ち果てるよりタダでも住んでくれたらという古民家が、田舎にはいっぱいある。こういうのを利用するべきですよ。
開業資金はゼロです。生家を買い戻したのはまだ会社員の時でした。早期退職しようと決めて、その退職金を担保に銀行から借りました。周囲にはまだ取り戻していない代々の土地があるので、いつの日か手に入れて、この一帯に昔ながらの温かな“村”をつくりたいです。
都会に出ていた三男が帰ってきた、それだけでも村ではうわさの的です。帰郷してから、まず私は50年前の田舎暮らしを思い出すことに専念して、両親や村の年配の方々に話を聞くことから始めました。村になじんでから開業しましたが、それでも理解してもらうまでは時間がかかりました。会社の元同僚などは、先見の明があると言ってくれました。
Webサイトを自分でつくって、最初の募集をかけた時です。実際に応募があるかなぁと、不安でした。外資系コンピュータメーカーに勤めていましたが、コンピュータは好きじゃなくて(笑)。でも、不思議なパワーが出てくるんですね、嫌いもヘチマもない(笑)。その最初の募集では20名募集して、2名来てくれました。嬉しかったですよ。その後、クチコミなどで広まって、リピーターも増えて、これまでの参加者は3000人近くになります。ただ、冬は寒すぎるという声が多かったので休業にして、今は5?10月のみの開講です。何ごとにも無理はしない、頑張りすぎない。それが大事ですから。
帰郷した当時まだ健在だった両親、そして村の年配の方々です。私が忘れてしまっていたり、知らなかったような昔の暮らしぶり、農法などを教えてもらいました。正月やお盆などの年間行事、風習、隣近所との物々交換などのしきたりなど、昔の暮らし全般を聞き回りました。現代ではもう誰も興味を持たないことを私が興味津々で聞くものですから、喜んで話してくれました。最近は私にも、秋田県主催のフォーラムなどから講演依頼もあり、そういう場に参加するのも有益な情報源です。昔ながらの日本の文化、秋田の文化の良さが見直されつつあると実感しますし、新たな移住者の声を聞くこともできますから。
村の人たち、それと帰郷する前に夫婦で農業体験させてもらった山形県の農家さんです。この農家さんとは今もお付き合いが続いていて、さらに同じように農家体験や田舎暮らし体験を開講・運営している人たちとの交流も広がり、互いに行き来もしています。妻も良き相談相手で、屋号の「自在屋」は妻の発案です。囲炉裏に鉄瓶や鍋をかける“自在鍵”がその名の由来。何でも、誰でも受け入れる寛容さ、たくましさ、団欒の象徴の意味を込めているんですよ。ぴったりでしょう。
最初、村の人たちになかなか理解してもらえなかったことです。なぜ今さら50年前の田舎暮らしをするのかと。特に若い世代は疑問に思っていたようです。そのうち、徐々にわかってくれました。大勢の都会人や芸能人が、自分たちの村に来て、昔の暮らしをまるで特別なことのように感激して楽しんでいる、その姿は何よりも説得力がありました。みんな今ではすっかり理解して、塾の参加者を歓迎してくれるし、塾の手伝いもしてくれますよ。
子どもから大学教授、外国人まで、大勢の人が来てくれること。そして、村人がその光景を見て喜び、自分の故郷に誇りを持ち、村が活性化したことです。それに、何がいいって、ここは私の原風景ですから。友達と川で泳いだり、山や畑を走り回ったり、夜は囲炉裏を囲んで、じっちゃん、ばっちゃん、父ちゃん、母ちゃんがくつろいで、その脇で大人の笑い声を聞きながら、6人きょうだいで遊んだ。もう、どこへも行きたくないほどの幸せな世界……。それが今、ここにある。昔のように夜は村人が集まって、ここで囲炉裏端談義に花が咲くんです。酒好きの私がかなわないほどみんな飲みますが、ストレスがないせいか誰も悪酔いはしません。
第二の人生を田舎でと考えている団塊の世代は、まず都会生活のスタンスを捨てて、イライラしないこと。団塊って逆に読むと“かいだん”でしょ?一歩ずつゆっくり上がれってことですよ(笑)。張り切って、風呂敷を広げすぎてはいけないです。農業もそう。最初の収穫に喜んで、あれこれと栽培する人がいるけど、初めの2年間は土地を知ることに専念しないと。都会で家庭菜園をやっていたとしても、しょせん素人なのですから。でも何より最初に、その場所が本当に好きかどうか、自分で見極めることです。そのためには、地元のいろんな人、私のような移住者にも会って話を聞いて、見て、感じることです。そこに一番時間をかけるべきだと思います。
独立した先輩の体験エピソード&独立支援情報