もとべ・えりか / 鹿児島県出身。高校1年で商売を始め、1日のうちに制服とスーツを何度も着替えるスーパーマンのごとく、学校と営業先とを軽やかに行き来する術を身につける。自身の結婚式で「座右の銘は、時は金なり」と語ったことが伝説に。
ウエディングアイテムをトータルで、そして人生最大のサプライズ、感動と涙のあるウエディングを確実に演出すること。それがモットー
自分で商売を始めたのは16歳の時、高校1年生でした。というのも、祖父の代から営んでいた記念品販売会社が傾きかけて、高校の学費捻出すら危ういという事態に陥ってしまったんです。でも親は、「お願いだから高校だけは卒業してくれ」と言うので、「それはつまり自分で学費を稼ぐってことなんだ!」と納得。不思議なくらい悲壮感はなく、「よーし、やってやるぞ」と、手始めにスタートしたのが香典返しのカタログ販売です。
家業は様々な記念品を取り扱っていました。でもなぜ私が香典返しだけに絞ったかというと、街中で○○家告別式という案内板をよく目にしていたことを思い付いて、どこで、いつお葬式があるのかがはっきりわかり、営業がしやすいと判断したからです。当時は、今のように葬儀とトータルでサービスされているような状況でなく、香典返しもお葬式が終わってから個人で手配りする時代でした。営業方法は、制服をスーツに着替えて突撃訪問。葬儀の翌々日くらいに、「そうだ。お香典返しを用意しなければならなかった。来てくれて助かります」と思っていただけるようなタイミングで行くわけです。
東京事務所でのビジネスパートナーとの打ち合わせ。座卓を囲んでゆったり、お互いに忌憚なく、楽しくかつとことん詰めた話し合いを行う
最初の1年で、300万円ほどの利益を残すことができました。それにしても困ったのが学業との両立。でも、校則にアルバイト禁止とはあっても、商売禁止とは書かれていませんでした。見つかって怒られでもしたら、「アルバイトではなく商売です」と言おうと(笑)。お客さんにしても、高校生が営業に来たとわかると躊躇するはずなので、大人っぽいスーツを選んで、化粧も大人というよりオバサン風に工夫しました。また、納品時に宅配便を使うと経費がかさむので、17歳の時、貯めたお金で約100万円の車を購入しました。当然免許はありませんから、運転手は父親に。
業績はかなり順調だったのですが、高校卒業を前にふと、「私が本来やりたかったのは何だったのか」と考えてしまったんです。それで、その商売はきっぱりとやめ、夢の職業のひとつだったバスガイドとして旅行会社に就職しました。毎日仕事が楽しくて仕方がないという日々を送っていたのですが、突然椎間板ヘルニアを患ってしまい……。バスガイドを辞めて、グループ会社の旅行部門で働いた後に退職しました。
その後の2年間は、フライトアテンダント専門学校に通ってビジネスマナーを学び、それを実践するために新幹線パーサーやアメリカへの語学・ビジネス研修ガイド兼講師の仕事を経験。さらに、フリーランスとしてビジネスマナーのセミナーを開催したり、就職面接指導員をしたり、本当に様々な仕事を体験しました。その間、ずっと起業することを考えていたのですが、アメリカに行った時に知ったのがプロのウエディングプランナーの存在。結婚式の会場やアイテムの手配だけでなく、様々な演出まで提案するこの仕事に成功の可能性を感じたんです。そして、ウエディングビジネスを始めようと、まず個人事業としてスタートしたのが21歳の時。23歳で会社を設立しました。
スタートしたての頃は、何もかも自分と自社内でやろうとして苦労しました。というのも、多くの社員や在庫を抱え込んでしまったがために傾いてしまったのが実家の家業。むやみにスタッフを増やすのは危険だということがよくわかっていたからです。今ではフラワーデザインなら花の専門家に、写真撮影はプロのフォトグラファーにと、信頼できるビジネスパートナーとガッチリ組んでやっています。本社は鹿児島ですが、最近は首都圏にもビジネスパートナーが増えたので、念願だった東京支所を開設することができました。
語学やビジネス研修のガイドと講師を兼ねて渡米した際に、まだ日本ではあまり知られていなかったウエディングプランナーのことを知り、「起業するならコレだ!」とピンときたんです。これをビジネスにしたら、少なくともこの先10年は飛躍できそうだという直感です。思い立ったら即行動、それを信念にしていましたので、さっそく個人事業としてスタートしました。
約300万円です。しかし、初めは自分一人で、自宅を事務所にしていましたので、開業直後はほとんど使わずに済みました。
すべて自己資金です。高校時代にやっていた香典返しのカタログ販売、それにバスガイドなど、会社員時代から蓄えていた貯金がありましたので、資金に関しては不安なくスタートできました。そもそも若い女性に金融機関が事業資金を貸してくれるはずはないと考えていたので、借金をして独立するという考えはなかったですね。
若かったせいか、そして、祖父の代から事業をやってきた家の娘というだけで、「あの子は親の七光り、だからあんなことをやってる」と言う人がいたんです。ビジネスプランも自分で考えて、開業資金もすべて自己資金なのに、世間はそういう目で見るんだと。そのことがショックでした。でも、そういう偏見があったからこそ「絶対このビジネスを成長させてやるぞ!」と奮起できたのかも。いや、今ではそういうハンデにさえも感謝してしまおうと(笑)。
中学や高校の同級生は、ちょうど大学生で遊び盛りという時期で、自分の考えていることを相談できる人が身近にいなかったことです。でも、不安なことばかり考えていても前に進めませんので、「とにかくどんどん行動しちゃえ」というスタンスを貫きました。今でもそうですが、「あれもできていない、これもまだだ」と、やろうと思っていたことができないでいると不安になりますから、気がかりに思うことはパッと着手して、毎日気持ちよく寝られるようにしています。これって精神衛生上、とても大事なことですよ。
人生経験が浅いので、まずあらゆるビジネス書を読みあさりました。あっ、アントレは創刊の頃から定期購読していたんです。特に失敗談や苦労話などが励みになりましたね。最近もビジネス書中毒は変わっていなくて、役に立つかどうかわからなくても、とにかくたくさん読みます。本代として、多い時は1カ月で10万円くらい使っています。読んだ本の中で「コレは!」と思ったものは何度も読み返して、自分のものになるようにしています。
最初は誰にも相談する間もなくスタートしました。だから相談相手といえば自分自身。そのために何をしたかというと、実現したい夢を一つひとつ手帳に書き留める、ということです。毎日それをながめて、具体化するにはどうすればいいのかと、あれこれ構想を練っていました。その実現のためにと、異業種交流会などに顔を出すうちに徐々に人脈が広がり、1年間で1万人以上と名刺交換したこともあります。今は、お金のことならこの人、プランニングならあの人と、相談の内容によって頼りにする相手を決めています。とにかく人と会うことは大好きなので、ビジネスパートナーになれるかもしれないと思って会った方で、その後の取り引きがなくても、良き相談相手になってくれている方はたくさんいます。
実は、会社設立の翌年に結婚、その翌年に出産しました。もちろん、仕事と子育てを両立していこうと考えていましたので、臨月まで仕事をしましたし、出産2週間後には現場に出ていました。まあ、それを苦労と思わないのが私ですが、首も据わっていない息子を連れて商工会の講演でセミナーをやったことなど、思い出すと感慨深いですね。
社長になったからこそ会える人が実に多いことです。たとえば私がバスガイドのままだったら、有名なコンサルタントに会っていないでしょうし、経営者人脈が広がるとは考えられません。事業規模や経験年数が違っても社長は社長。交流会などで会う社長たちは、私のような若い社長にも対等な立場で対応していただけます。そして、一度お会いした方にはできる限り、自筆の手紙やハガキをお送りして、「ありがとう」という気持ちを伝えるようにしています。
スタートしたばかりの頃、何もわからないからこそ自分に厳しいノルマを課していました。今日は何件回ってからでないと帰社しないとか、今月はいくらいくらの売り上げを絶対に達成するとか、目標を立てることで、たとえ達成できなくても自分で納得できる行動を取ることを信念にしていました。その継続がけっこう自信につながりましたし、実力にもつながったのだと思います。でも、何もかもギチギチにやろうと思うと行き詰ってしまうので、忙しくて自宅の掃除ができなくてもそれは許すなど、緩急のバランスを取ることも大切です。しかし、掃除で稼げるなら頑張りますよ(笑)。
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