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サイエンスプロデューサー 米村でんじろう氏【1/3】 リーダーの流儀

サイエンスプロデューサー 米村でんじろう氏【1/3】 リーダーの流儀

ビジネス誌や書籍をはじめ、アカデミックな場で語られるリーダー論。
理想やビジョンを掲げただけでは、人がついてくる保証はない。
リーダーは自ら行動し続けるからこそ、共鳴が生まれ、仲間が集まる。

今回は、公務員を経て40歳でサイエンスプロデューサーとして独立された
米村でんじろう氏を取材。勝算があったわけではない、手探りからのスタート。
経験を重ねながら見えてきた経営者としての視点を、語っていただいた。

プロフィール
米村でんじろう(サイエンスプロデューサー)
1955年、千葉県生まれ。東京学芸大学大学院理科教育専攻科修了。学校法人自由学園講師、都立高校教諭を務めたのち、科学の楽しさを広く伝える仕事を目指し、96年、サイエンスプロデューサーとして独立。同年、NHK『おれは日本のガリレオだ!!』に出演し、話題となる。98年、米村でんじろうサイエンスプロダクションを設立。科学実験の企画・開発、サイエンスショー、実験教室、研修会の企画・監修・出演、テレビ番組、雑誌の企画・監修・出演など、幅広いフィールドで活躍を続けている。

遊んだ野山と自然が、科学への興味を醸成した

――サイエンスプロデューサーとして活躍される米村さんですが、昔から理科が好きだったのですか。

米村:昭和30年代、僕が少年時代をすごした千葉県・市原市は何もない山奥の農村で、その頃の自宅は藁ぶき屋根、風呂をわかすのは薪でした。しかも、10㎞くらい歩かないと買い物もできない。でも今では道路が整備され、ゴルフ場も増え、小湊鉄道を見学する鉄道ファンが訪れるなど、けっこうにぎやかな場所になっています。

 当時は小川や森林が周りにたくさんあって、魚や虫をとったり、秋は山菜とりをしたり、道に電灯がないから夜空もすごくきれいでね。手先が器用なほうでしたから、遊び道具も自分でつくっていました。天体望遠鏡とか木の枝にゴムを張ったパチンコとか、次第にエスカレートしてケガをすることもありました。その時の傷あとが、今も左手首に残っています(笑)。

 そうやって野山で遊びながら、自然科学、理科にどんどん興味がわいていったんですね。それらについて教えてくれるのは、学校の理科の授業とNHKの実験番組。成績は、理科だけは5段階評価の5か4でしたが、ほかの教科はアヒル(2)ばかりでしたよ。

――大学は3浪の末、東京学芸大学に進学されています。

米村:当時の日本は高度経済成長の波に乗り、大学進学率が急上昇していました。両親からも「国公立なら」と言われて国立の理工系を目指していましたが、3浪(笑)。その間、工場で働くなど紆余曲折を経ながらも一人自宅で勉強を続けていました。結果、教師になる気もないのに、東京学芸大学の理科教育科へ進学。何とか滑り込みで、受かることができました。

 2年までの教養課程はついていけましたが、僕が専攻していた物理学は3年以降、相対性理論や量子学など複雑で専門的になります。得意だった物理が全くわからず、どんどん落ちこぼれていきました。でも、卒業はしたいので研究室に入れてもらって、そこで、80年代初頭にやっと普及し始めたパソコンにはまるのです。

 お金はないけど時間だけはあるから、毎日、朝から晩まで研究室のパソコンをいじっていました。そうすると当然研究室の誰よりも使えるようになって、物理現象のシミュレーションをするプログラムをつくったりするように。次第に先生たちから「これをプログラミングしてほしい」と頼まれるようになって、「自分もやればできるんだ」と思えるようになりました。落ちこぼれの自分が自信を取り戻せたという意味で、パソコンとの出合いは大きかったです。

安定した公務員生活を捨て、40歳でフリーランス独立

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――その後、研究者を目指して、大学院に進学されています。

米村:はい。もうちょっと研究を続けたいという気持ちも多少ありましたけど、動機の半分以上が社会に出るのが嫌だという後ろ向きの理由でした(笑)。そして大学院を修了した後は、ドクターコースのある大学院を受けては落ち、受けては落ちで、あっという間に3年の歳月が流れました。

 この間、自由学園という学校で講師をしていたのですが、生徒といろんな実験を自由に行った経験から、「科学の楽しさを生徒に伝える理科の先生になるのも悪くない」と考えるように。それで一念発起して教員採用試験を受け、都立高校の物理の新人教師に。29歳でやっと新社会人ですよ(笑)。
配属されたのは、郊外の都立高校でした。多感な年ごろゆえ、中には無断の遅刻や早退は当たり前といった生徒もいるわけです。担任していた生徒がちょっとした悪さをして、強面の体育教師から、 「お前の担任は誰だ! 昼休みに体育教官室に来いと言っておけ」って僕のほうが呼び出されることも(笑)。

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 そんな生徒たちにどうやって授業に興味を持ってもらうか考え、とりあえず面白いことをやって興味を引くことにしました。みんなに手をつながせて静電気で軽く感電させてみたり、自然観察で外に連れ出して、野山の草花や椎の実をビーカーで茹でて食べさせてみたり。物理も自然科学ですからね。とにかく思いつくことからやってみました。最初は全然話を聞いていなかった生徒が感電して面白がったり、摘んできた野草が食べられるのか真剣に調べたり、自ら考えた授業に反応があることに、大きなやりがいを感じました。

 その高校で8年、その後、別の進学校に異動して3年。11年も同じことをやっていると、自分の限界が見えてくる。生徒のことを考え、好き勝手をしながらも一生懸命やってきたつもりだったけど、自分は一般的に言う、いい教師にはなれないんじゃないかと。

 その頃、教師として教壇に立つ傍ら、学校側の要請もあって学外の授業研究会に所属し、NHKの実験番組の助手や科学館の手伝いもしていたんです。そうやって外の世界も見ていたこともあって 「教師以外で科学にかかわる仕事ができないものか」という願望が徐々に膨らんでいったのです。
40歳になる前年度、3学期の終業式直後に、思い切って校長先生に「辞めます」と伝えたんです。すると、「東京都は今、教師余りですから。辞めてくれたら万々歳」くらいの調子で受理された(笑)。
新年度の頭に教師の離着任式があったのですが、当時の教え子から僕への贈る言葉が秀逸でした。

「米村先生は教師に向いていないとご自分でおっしゃっていましたが、それは正解です。ご自分の好きな道に進まれるとのこと。そっちのほうが向いていると思います」と。その時、あぁ僕も洞察力のあるいい生徒を育てたなあと思いましたよ(笑)。

━ 次回更新日は、12月20日(火)です。お楽しみに! ━

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